ヨルムンガンド(2)
「よし……!」
神代は唇を引き結ぶと、海岸を疾走した。途中ちらりと背後に視線を向ける。視線の先には、ヨルムンガンドが海岸に上陸したのか、緩慢な動作で神代たちを追いかけてくる姿があった。
神代はしめた、と思う。先程、海中にいたときより明らかにヨルムンガンドの動く速度は低下していた。このままいけば、恐らく――。神代は再び視線を前方に向けると、目的地まで全速力で駆けていく。
到着したのは遊泳禁止を掲げる立て看板だった。神代はそのすぐ前で立ち止まると、看板の裏にそっとフィアの身体を降ろす。この場所は彼女を守るには心許ないが、ないよりは大分マシだ。
まだ身体の自由がきかないのか、フィアは苦しげな呼吸を吐きながら、何か言いたげに神代を見上げた。そんな彼女を安心させるよう、神代は優しげに微笑んで告げる。
「ここで待っていてくれ。すぐにヨルムンガンドをこの場から退散させる」
「神代……さ……」
まだ何か言いたげなフィアの頭を撫でた後、神代は彼女の元を離れ、ある方向に向き直る。視線の先では邪悪なヘビ、ヨルムンガンドが頭上から神代を見据えていた。
「そのようなまなざし、自分には効かぬよ」
神代も厳しいまなざしでヨルムンガンドを睨み返す。
「ここはお前のいるべき場所ではない。疾くと神界へ還れ」
強い口調で神代が告げる。言葉が通じているのかいないのか、眼前のヨルムンガンドは赤い双眸を神代に向け続けた。
それからしばらく、神代とヨルムンガンドは互いを牽制するように相手を視線で捉え続ける。だが、その均衡を破ったのは――。
「…………!」
神代は目を見張った。なぜなら、眼前のヨルムンガンドが巨大な首をもたげ、ある方向を向いたからだ。ヨルムンガンドが視線を向けた先は、先程フィアの身を隠した立て看板だ。
神代の懸念を体現するように、巨大なヘビは長い首を立て看板の方に伸ばし始めた。このままでは、立て看板ごとフィアが巨大なあぎとに飲み込まれてしまうだろう。
「させぬ……っ!」
神代はその場から跳ねるように駆け出した。そして、ヨルムンガンドと立て看板の陰にいるフィアの間に割って入る。ヨルムンガンドは牙を剥いたまま、少し驚いたように赤い双眸を見開いた。
「お前が食らうのは、これだ!」
叫ぶと、神代は巨大なヘビの開かれた口にあるものを投げ入れる。ヨルムンガンドは反射的に投げ入れられたものを飲み込んだ。それからわずかな時間で巨大なヘビの身体に変化が生じ始める。
『グウ……?』
不意にヨルムンガンドが苦しげに巨体をよじらせ始めた。その動きに合わせ、海岸全体が大きく揺れる。神代は急いで立て看板の陰にいるフィアの元に駆け寄った。そして、彼女を庇いながらヨルムンガンドの動向を見守る。
『グ……ガガ……』
苦鳴の声を上げながら、ヨルムンガンドは巨体を揺らし続けた。しばらくの間そうした後、ヨルムンガンドは大きなあぎとからあるものを吐き出す。地面に落ちた「それ」はコロコロと転がり神代のすぐ傍で止まった。
「やはりな……」
神代は転がってきたものを拾う。「それ」は黄金に輝く林檎だった。
「ヨルムンガンド、お前もこの林檎を食べていたのか」
呟いた後、神代は何ともやりきれなくなる。そうしている間に、ヨルムンガンドは人界から跡形もなく姿を消した。
「神代さん……?」
不意に少女の声が聞こえてくる。声のした方を向くと、フィアが神代の顔を見つめていた。
「フィア殿、身体は大事ないのか?」
「はい、何とか動くようになりました」
そう言うと、彼女はしおれた風情になる。
「すみません、ヘビに睨まれたぐらいで身体が動かなくなっちゃって……」
恐縮しきりといったフィアに神代は首を横に振ってみせた。
「ヨルムンガンドは邪眼という能力を持っている。普通の人間なら、睨まれて身体の自由がきかなくなる。フィア殿が気に病むことは何一つない」
「は、はい……」
ここでフィアが思いついたように尋ねてくる。
「あのおっきなヘビ、もしかして神代さんが……?」
「うむ。これをな」
フィアの質問を受け、神代は懐からあるものを取り出した。
「あ、それって……」
差し出されたものを目にしたフィアが驚きの声を上げる。
「左様。先程、石塚殿から託されたオリハルコン。これをヨルムンガンドの口に放り込んだ」
一か八かの賭けだったが、オリハルコンはヨルムンガンドの身体に大きなダメージを与え、人界から神界へ還すことに成功した。
未知の鉱物オリハルコンは、かなりのポテンシャルを秘めているようだ。これを用い、新たな泡沫の神器を創り出せば、今まで以上に喪失神を神界に還すことが容易になるかもしれない。そう期待し、神代が手にしたオリハルコンを握りしめたときだ。
『……ふうん、その石って結構な力があるんだね』
どこからか声が聞こえてくる。その声を聞いた神代は心臓をわしづかみにされるような錯覚を覚えた。自身の耳に届く声が誰のものか、わざわざ思い出すまでもない。声の主が誰なのか、神代は全身で感じ取っていた。
忘れるわけもない。かつて声の主は、神代にとって家族以上に親しく、かけがえのない存在といっても過言ではなかったからだ。そんな人物が今この世界に、自分の近くにいる――そのことを感じ取り、神代はこれ以上ないほど動揺することになった。
「神代さん? どうかしたんですか?」
神代の変化に気付いたのか、フィアが心配そうな顔を向けてくる。どうやら彼女には先程の声は聞こえなかったようだ。そのことを見透かしたように声が再び語りかけてくる。
『ああ、僕は君だけに話しかけてるから、彼女に僕の声は聞こえないよ』
神代は声がどこから聞こえてくるのか把握するため、周囲に視線を走らせた。だが、視認できる範囲には自分とフィアしかいない。
――神力を使い、気配を隠しているのか……?
神代は推論を立てる。そんな彼に声は語りかけ続けた。
『かくれんぼだよ、昔はよくやっただろ? まだゲームは途中だよ、もっと楽しまなきゃ。それにしても厄介な石を手に入れたね。まあ、それくらいのハンディはあげるよ。これからゲームは大きな局面を迎えるんだから』
「大きな局面だと……?」
神代は全身を警戒心で満たす。
『そう。今までは黄金の林檎を食べた神がどうなるか僕は見てただけだけど、君が今いるトーキョーで遊ぶことにしたからね』
「何……っ!?」
神代は全身が総毛立つのを感じた。今、話しかけてくる声の主は神界で黄金の林檎をばらまき、神々を狂わせた元凶なのだ。そんな存在が東京に降り立ったのだとしたら――。
だが、声は嘲笑うように続けた。
『やっぱり観覧してるだけじゃタイクツだからね。これから僕と遊ぼう。ね? トール……』
そう言ったのを最後に、声は神代の耳に届かなくなる。神代は半ば呆然としながら、その場に立ち尽くすことになった。




