ヨルムンガンド(1)
それから神代はフィアを連れ、今いたホテルを出て急いで東京湾へ向かう。幸い、石塚と対面したホテルは東京湾沿いにあったため、労せず目的地に到着することができた。
すると、東京湾の海岸には突如現れた巨大なヘビを見学するためか、大勢の群衆の姿があった。その様子を目にした神代は歯噛みする。つい先程フィアに推論を語ったとおり、あの巨大なヘビの化け物は人間を一撃で殺せる毒を持つ。だが、好奇心旺盛な人々は何も知らず、呑気に見物をしているのだ。
フィアが神代の内心に気付いたのか、気遣わしげな声をかけてきた。
「神代さん、どうしましょう? あのおっきなヘビをどうにかしようにも、こんなにたくさん人がいたら……」
こうしている間にも、ヨルムンガンドと思われるヘビは沖合から海岸に向かっていた。このままでは陸に上がるのも時間の問題だろう。一体どうするのが最善なのか、神代は頭をフル回転させて考える。
あの巨大なヘビは神ではないが、喪失神に比肩するほどの危険性を持つ。このままヨルムンガンドが上陸すれば、神災レベルとはいかないまでも、人界における甚大な災害レベルに匹敵する被害が生じてしまうだろう。
災害――神代は、はた、と気付く。
「……一か八か、やってみるか」
そう呟くと、神代は上着の内ポケットに入れていた携帯を手に取った。その様子をフィアが目を瞬かせつつ、見つめている。
「神代さん、どこに電話してたんですか?」
通話を終えた神代にフィアが尋ねてきた。
「本部の三鶴殿だ」
「三鶴さん? どうしてですか?」
「うむ、これから人払いをしてもらう故」
「え……?」
フィアはわけがわからないとばかりに小首を傾げる。そんな彼女に神代は告げた。
「まあ、このまましばし待たれよ」
「は、はい……」
それから三分ほど経過したときだ。不意に東京湾周辺に無線放送が流れ出した。
『こちら東京都災害対策本部です。お知らせいたします。先程、東京湾深海で大規模な地震が観測されました』
女性の声のアナウンスが淡々と告げる。それを聞いた見物客たちが、「一体何だ?」「地震だってよ」とざわつき始める。
『これから十分以内に、東京湾で巨大な津波が発生する可能性があります。周辺にいる方は直ちにその場から避難してください。繰り返します。こちら東京都災害対策本部……』
無線放送を聞いた見物客たちが当惑する様子を見せた。
「つ、津波……?」
「た、大変、早く逃げなくちゃ!」
そして、まるで蜘蛛の子を散らすように海岸にいた見物客たちがこの場から逃げ始める。無線情報を聞いて慌てたのはフィアも例外ではなかった。
「か、神代さん、大変です! わたしたちも早くここから……」
慌てるフィアに神代が目配せをしてみせる。
「安心なされよ。今のは自分が三鶴殿に頼み、東京都の名を借りて放送したもの故」
「へ……?」
キョトンとした顔を浮かべるフィアに神代が説明を始めた。
「我々がヨルムンガンドに対処するためには、部外者は大いに邪魔だ。ならば、この場から疾く去ってもらうのが最善。故に不謹慎とは思ったが、災害を利用させてもらった」
今、自身で語ったとおり、災害の名を借りるのはいささか不謹慎だ。だが、このまま大勢の人々を東京湾近辺に留めておけば、災害以上の大きな被害が生まれるのは必至なのだ。四の五の言っていられる状況ではなかった。
「そ、そうだったんですね。ああ、びっくりしたあ……」
ホッと胸を撫で下ろすフィアに神代が警鐘の声をかける。
「まだ安心召されるな。これから我らであの巨大なヘビを退散させなければならぬのだから」
すると、フィアは一瞬緊張の面持ちを見せるが、すぐに気迫がこもったものへと変化した。そんな彼女を目にし、神代は思わず問いかける。
「その……、自分が焚きつけてしまって何なのだが、怖くはないのか? フィア殿」
「あ、最初はちょっと怯んじゃいましたけど、大丈夫です。だって、神代さんが一緒ですから!」
明るい笑顔を浮かべるフィアを目にし、神代は面食らってしまった。フィアは自分などに全幅の信頼を向けてくれているのだ。そう感じ、神代はうれしいような、それでいてどこか気後れするような気持ちになってしまう。
とにかく今はヨルムンガンドを東京湾から退散させ、フィアの身も守らねば――そう気合いを入れ直し、神代は東京湾に再び目を向ける。
すると巨大なヘビ、ヨルムンガンドは先程より海岸に距離を詰めていた。海岸の神代たちに気付いたのか、ヨルムンガンドが巨大な首をもたげる。そして、赤く光る双眸を向けてきた。
その視線は鋭く、普通の人間が目にすれば身体が竦んでしまうようなものだ。だが、この程度の睨みは神代には通用しない。
「あ、あ……っ」
不意にフィアが当惑の声を上げた。すぐ隣の少女の異変に気付き、神代はフィアに声をかける。
「いかがされた!? フィア殿」
すると、彼女は視線だけをこちらに向けてきた。
「す、すみません。な、なんか身体が動かなくなっちゃって……」
よく見れば、フィアの身体は小刻みに震えている。
――しまった、ヨルムンガンドの邪眼の力か……!
邪悪なヘビの怪物ヨルムンガンドは、毒霧のほかに邪眼という特殊能力を持つ。それは睨みつけた者を怯ませ、その間に身体を食らいつくすというものだ。
――フィア殿はプロテクト保持者だからと安心しきっていたが、邪眼に対する抵抗力はまた別のものか。
神代が推論を立てている間に事態は悪化しようとしていた。いつのまに海岸まで到着したのか、気付けばヨルムンガンドが頭上から神代とフィアを見下ろしていた。
巨大なヘビの視線は、自らの能力で自由を奪ったフィアに向けられている。神代は本能で悟った。この邪悪なヘビは、フィアを巨大なあぎとで飲み込もうとしていることを。
「フィア殿!」
神代はフィアの名を叫ぶと、すぐ隣の彼女の身体を抱き上げた。
「か、神代さ……」
フィアはまだ身体が硬直しているのか、為すがままになっている。神代はフィアを抱いたまま、その場から駆け出した。直後、たった今いた場所にヨルムンガンドが猛スピードで頭を突っ込ませる。あと一歩飛び出すのが遅ければ、フィアはヨルムンガンドにむさぼり食われていただろう。
なるべくヨルムンガンドから距離をとるため、フィアを抱いた神代は全速力で海岸を駆け抜けた。その間、思案する。
――これからどうする? フィア殿を抱えたままヨルムンガンドから逃げ回るのは、悪手過ぎる……!
だからといって、神代の頭にはフィアを置いて逃げるなどという考えは毛頭ない。だが、フィアは――。
「神代さ、ん。わたしを置いて……」
不意に腕の中のフィアがたどたどしい声音を上げた。こんなときだというのに、フィアは自身よりも神代を優先させようとしている。そのことに気付いた神代は、胸の奥がキリで刺されたように痛むのを感じた。
神代はフィアに向け、首を大きく横に振ってみせる。
「……案ずるな、何とかする故」
とはいえ、一体これからどうすればいい? 神代は海岸中に視線を走らせた。すると、少し離れた場所にあるものを見つける。
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