渋谷スクランブル交差点大量昏睡事件(3)
「神代さん、どうかし……。きゃっ!」
神代に強い力で抱き寄せられ、フィアは小さな悲鳴を上げてしまった。
「か、神代さん……?」
急に距離を詰められたフィアは、こんなときだというのに心臓が早鐘を打つのを感じる。なぜなら、すぐ傍の神代が初めて目にする険しい表情を浮かべていたからだ。
「……何者かが自分たちを見つめている」
「え?」
神代の言葉を聞き、フィアは周囲をキョロキョロと見回す。
「あ、あれ……?」
フィアは呆けた声を上げる。なぜなら、自分たちの周囲からいつのまにか誰一人としていなくなっていたからだ。これはおかしい。広い公園だが、絶え間なく人の行き交いがあったというのに。
「……フィア殿、くれぐれも自分から離れぬよう」
警鐘の声をかけると、神代は上空を見上げる。つられてフィアも神代の視線を追った。それから我が目を疑うことになる。
「な、に……?」
上空に何かが浮かんでいた。
「神代さん、あれって、もしかしてスクランブル交差点で……」
フィアが顔を向けると、神代が小さく首肯してみせた。
「左様。あれが恐らく今回の……、そして十年前の第二級神災の原因である喪失神」
「あれが……」
フィアは再び上空を見上げる。目を凝らしてみると、宙に浮かんでいる何かは半身が青く、もう半身は人肌の色をしていた。
「まさか自分から姿を現すとはな、女神ヘルよ。人払いをしたのはお前の仕業か」
「ヘル……?」
神代が口にした言葉をフィアがおうむ返しに呟いた。そんな彼女に神代が説明する。
「ヘルとは北欧の女神で、主に死者の国を支配するとされている。あの肌の色は、ヘルが半分は生きていて半分は死んでいることを表している」
『……シイ』
不意にヘルが声を上げた。
『タリ……ナイ、ホシイ……』
「足りない? 欲しい?」
フィアは怪訝に思う。一体何が足りなくて、欲しいというのか? すると次の瞬間、上空に浮かんでいたヘルがフィアたち目がけて急降下してくる。
「危ない!」
神代が抱き寄せていたフィアの身体を突き飛ばした。
「きゃ……っ」
突然のことに対応できず、フィアはかけていたベンチから地面に転がり落ちる。
「いたた……」
しこたまお尻を強打したフィアは、痛むお尻をさすりながら起き上がろうとした。その途中、あるものが視界に映り込む。
「神代さん……!」
フィアは悲鳴にも似た声を上げた。なぜなら神代がヘルに地面に引き倒され、四肢を拘束されていたからだ。自由ままならないながらも、神代がフィアに視線を向けてきた。
「フィア殿、用意していた神器を……」
その言葉にフィアはハッとする。渋谷に向かう前、神代はある泡沫の神器を神災対策本部から持ち出していたのだ。
フィアはある方向に目を向ける。視線の先は、つい先程まで神代と腰掛けていたベンチだ。そこに布に包まれた泡沫の神器が置いてある。神代に突き飛ばされ、フィアは今ベンチから数メートル離れた場所にいた。
「神代さん、待っててください!」
フィアはベンチまで向かうべく、急いで駆け出す。その途中だった。
『オマエ……、イイ匂いガスル』
ヘルの声が聞こえてきて、フィアは思わず声のした方を向いてしまう。視線の先では、未だヘルに拘束された神代の姿があった。
「……なるほど。人界に長く存在し過ぎて、『足りなく』なったか」
神代が言うと、それに答えるようにヘルが呟く。
『ソウダ、タリナイ……。十年マエ、コノ世界ニ降リ、多クノ者ノ命ヲ食ラッテ以来、妾ノ神気ハ著シク枯渇シテイルノダ。ダカラ……』
そして、次の瞬間――。
「きゃあっ!」
フィアが悲鳴を上げた。視線の先で、ヘルが神代の首元に食らいついていたからだ。当然、神代の首から鮮血があふれ出す。
「く……っ」
神代が苦鳴の声を上げた。鮮血を目にし、フィアは足が竦んでしまう。
――早く、早く神代さんを助けなきゃいけないのに……!
だが、恐怖心から思うように身体が動きそうになかった。そうしている間にも、ヘルは神代を食らいつくそうとする。
『オマエ、ナゼ「モッテ」イル?』
あふれ出た神代の血を長い舌で舐めながら、ヘルが不思議そうに言った。
『「コレ」ハ、ヒトガモッテイルモノデハ、ナイハズ』
相当な量の出血からか、神代の顔が青ざめていく。それでも何とか顔をフィアに向けてきた。
「……フィア殿、早く泡沫の神器でヘルを……」
「あ……」
フィアはまだ恐怖心で身体が竦んでいる。
「早くせぬと……、ヘルが力を取り戻してしまう。さすれば、また多くの人が……」
ヘルに襲われ自身が一番苦しいだろうに、神代は再び人間が犠牲になることを気にかけている。そのことに気付き、フィアは先程までの恐怖が嘘のように霧散していくのを感じた。
――しっかりしろ、わたし。多くの人を……、神代さんを助けるんだ!
フィアは自身を奮い立たせると、ベンチに駆け寄り、布に包まれた泡沫の神器を手に取った。それから急いで布をはぎ取り、現れたものを握る。フィアは渋谷へ向かう車中での神代との会話を思い出す。
「もし神災の根源たる喪失神が現れたら、その泡沫の神器を使ってほしい」
「これはどういう武器なんですか?」
「これはクラウ・ソラス。別名、光の剣を模した神器だ」
「光の剣……」
「うむ。神災に関係しているであろう喪失神は死に属し、闇にも通じるもの。ならば、光の属性で叩けば大ダメージを与えられるはず」
神代の助言を思い出したフィアは、泡沫の神器クラウ・ソラスを構えた。
「やああああああっ!」
そして、神器を構えたまま、倒すべき存在に向かって疾走する。ヘルはといえば、自身の欲を満たすのに夢中なのか、未だ神代の血を執拗に舌で舐め取っていた。
「神代さんから離れろっ!」
ヘルの元に辿り着いたフィアは、その背中に構えていた神器クラウ・ソラスを振り下ろす。すると、何の抵抗もなく刃がヘルの身体を切り裂いた。
『ア……?』
背中を大きく切り裂かれたヘルは、自身に何が起こったのかわからないといったように呆けた声を上げる。徐々にダメージが広がっていくのか、ヘルは苦しげな声音になった。
『……イタイ、クルシイ』
ヘルは組み敷いていた神代から離れると、苦悶するように身体を震わせる。そんな女神に神代が告げた。
「……ここはお前のいるべき場所ではない。神界に還れ、哀れな女神よ」
『アア……』
次の瞬間、ヘルは実体を保てなくなったのか、人界から姿を消す。そして、彼女がいた場所に黄金の林檎が転がり落ちた。
「神代さん!」
フィアは手にしていた泡沫の神器を投げ捨て、神代に駆け寄る。
「大丈夫ですか!? ああっ、こんなに血がたくさん……っ」
フィアは出血を何とか止めようと、持っていたタオルハンカチで神代の傷口を押さえた。
「……フィア殿、よくぞヘルを神界に送ってくれた」
「そんなことより、早くお医者さん……、救急車呼ばないと!」
焦燥するフィアとは対照的に、神代はどこか冷静だ。
「自分なら大丈夫……。こんな傷程度、放っておけば治る」
「何バカなこと言ってるんですか! 放っておいたら死んじゃいますよ!」
思わず怒声を上げるフィア。すると、神代は目を丸くした。
「人間なんて、ちょっとしたことですぐ死んじゃうんです! こんなときまで強がらないでください!」
「いや、自分は……」
「とにかく、神代さんはおとなしくしててください。すぐ救急車呼びますから!」
フィアが大真面目に言うと、神代はなぜか小さな笑みを浮かべる。
「……貴殿は、他人のために必死になれるのだな。初めて会ったときも、見ず知らずの人間のため危険を冒していた」
「だって……、誰かが目の前で困ったり苦しんだりしてたら、放っておけないじゃないですか。わたしがもしそういう場にいたら、できる限り何とかしたいんです!」
「……そうか。貴殿は矮小な自分などとは、まったく違う。崇高な心の持ち主だな……」
そこまで言うと、神代はゆっくりと目を閉じた。
「神代さん……?」
異変に気付き、フィアは神代の両肩をそっと揺する。だが、反応は返ってこなかった。
「やだ……、ウソでしょ?」
フィアは愕然とする。そして、何とか神代の意識を取り戻そうと、必死に呼かけ続ける。
「神代さん、しっかりして神代さん!」
代々木公園にフィアの悲痛な叫び声が響き渡った。
本日分、そして今週分の投稿は以上になります。次の投稿は来週月曜、午後六時過ぎの予定です。
お付き合いいただき、ありがとうございます!




