【3】
ひゅるひゅると大学構内を漂いながら、大きくため息をついて両手で顔を覆う。
……汚い。
もちろん外見がよろしくないのは自覚していたが、その分少しでも清く正しく生きて、死んでいるつもりだったのに。
自分の中にあるどろどろした黒い感情が心底気持ち悪くて、お腹の中を全部吐き出してしまいたくなった。
明確な悪意。持たざる者の嫉妬。ルサンチマン。
どうあがいたって手に入らないものを当然のように全部持っているあの子が、妬ましくて気が狂いそうだった。手が届かな過ぎて近づこうと努力すらしないくせに、嫉妬だけは一丁前。
――自己嫌悪で泣きそうになる。
「……やめよう。泣いたらもっとブスになる……」
つぶやいて、ずずっと鼻をすすった。かといって、それで気分が晴れるかどうかは別問題だ。ある意味幽霊らしいどんよりしたオーラをまとって、瑠衣は風に流されるまま空気中に漂っていた。
……ふいに、周囲の空気に圧がかかった気がした。
覚えのある感覚に身震いして振り返ると、その圧力の発生源がこちらに向かって歩いてくるのが見えた。
金髪碧眼、眉目秀麗、歩けば足元に花が咲き乱れそうな圧倒的王子様オーラ。
先日瑠衣を見とがめた美しすぎる少年だ。
「今回は、少しオイタが過ぎたようだな」
つぶやきながら、手にした特殊警棒らしきものを、じゃこん!と伸ばして足早に歩み寄ってくる。
退魔師。お兄さんの言葉が脳裏によみがえった。
「ひっ……!」
恐怖に駆られた瑠衣は、王子様に背を向けて一目散に上空へと逃げ出した。相手は生きている人間、空を飛べはしないだろう。
しかし、その目論見はあっけなくついえてしまった。
「そっち行ったぞ、デス子!」
王子様の呼びかけに応じて、ふっと視界に真っ黒な影が差した。
「ふふ、任せて」
それは、真っ黒なローブに身を包んだ銀髪の女だった。きっちりと化粧が施されたあでやかな美貌よりも先に目に入ったのは……身の丈ほどもある、巨大な鎌。研ぎ澄まされた刃がぎらりと光っている。
「ちょっ……なんで浮けるの!?」
女は幽霊同様に重力の鎖を断ち切っていた。巨大な鎌を携えて、まっすぐこっちに飛んでくる。
空に逃げれば大鎌で細切れ、地に逃げれば特殊警棒で滅多打ち。
どっちが痛そうかなんて、考えたくもなかった。
立ち往生した瑠衣は、おろおろと両者を見比べて完全に混乱した。
そうしているうちに、地上の王子様がしめ縄のようなものをカウボーイの投げ縄の要領で投げてくる。それは蛇のようにまっすぐに瑠衣を捕らえ、がんじがらめにした。そのままぐいっと引っ張られて、瑠衣はいとも簡単に地面にたたきつけられる。
「ぐえっ!?」
「手間かけさせるんじゃねえよ」
巧みに縄を操る王子様は、暴れ馬を手懐けるように縄を引き、芋虫のように無様に地面に這いつくばる瑠衣を足蹴にした。
「ったく、大目に見てりゃ大事にしやがって……」
「ご、ごべんだざい!!」
「あ? なんだって?」
「ごべんだざいごべんだざいごべんだざい! ほんの出来心だったんですぅ! お願いだから痛くしないでぇ!」
自分はこのまま悪霊として祓われるのだろう。命乞い……するいのちは持ち合わせていなかったが、せめて痛いとか苦しいとか、そういうのはなしにしてもらいたくてみっともなく半泣きで懇願した。
「反省してます! 抵抗もしません! だから、痛いのだけは……」
「お前……ちょっと落ち着け」
「痛いとおしっこ漏らしちゃうんです! 中学の時も予防接種でやっちゃって、それでますますいじめられて……!」
「いいから落ち着けって言ってんだろ」
ぎゅっと縄を引っ張ってますます拘束をきつくする王子様。その隣に、あの鎌女が降り立った。
「あらあら、ダメじゃない。女の子足蹴にして言うセリフじゃないわよ?」
改めて見ると、浮世離れした美しさだ。口紅を引いたくちびるが白い肌に驚くほど映えている。美男美女、こんな状況でなければとても絵になる光景。
それでも鎌の鋭い輝きは目に痛い。ひ、とからだを縮こまらせてがたがた震える。
王子様はといえば、舌打ちひとつしてようやく足をどけてくれた。ただし縄はそのままだ。
「だからこういうのは向いてないんだ……デス子、パス」
「りょーかい」
笑顔でバトンを受け取った鎌女――デス子さんは、とりあえず縄打たれた瑠衣をその場に座らせてくれた。顔を覗き込んで、嫣然とした表情で笑いかけてくれる。
「安心して。今のところ、あなたを祓うつもりはないから」
「やべてくだざいお願いしますから……ぶへ?」
祓うつもりは、ない……?
恐慌状態の瑠衣はそれだけを理解して、ようやく警戒を緩めた。
デス子さんは赤いくちびるにネイルの乗った細長い指を添えて、うーんと空を眺める。
「けど、霊法上立派な違反だから、私たちも動かざるを得ないのよねえ……あ、言っとくけど、私死神ってやつなの。霊界の法律家みたいなものだと思ってもらって構わないわ」
「そ、その法律家さんが、なんで……?」
「だから言ってんだろ、お前の存在は霊法違反なんだよ。祓わないっつってもなんもしねえわけにはいかねえだろうが」
いらいらした口調で王子様が付け加える。瑠衣はまた息をのんで縮こまってしまった。
「こらこら、いけないわよヒソカ? 『穏便に片をつける』って言いだしたのはあなたなんだから、もっと優しくしてあげて。女の子なんだし」
「だーかーらー! 俺はこういうの向いてねえんだよ! 完全に怨霊化してりゃ問答無用でシバけたのに……・!」
腹いせとばかりにまた瑠衣を足蹴にする王子様。どうやらヒソカという名前らしい。
王子様はがしがしと乱暴な手つきできれいな金髪をかいて、それからうんざりしたようなため息をひとつ。
「……言ったとおりだ。お前を強制的に祓うつもりはない。かといって、放置もできない」
「ほら、私も仕事だから。見過ごすわけにはいかないのよねえ」
ぷう、とどこかかわいらしく頬を膨らませたデス子さんが付け加えた。
「俺も、大した悪さもしてない幽霊をボコって祓うほどイイ趣味してねえし。見たところ反省してるみたいだし、若い女ならなおさらだ。エクソシストにも仁義ってもんがあるからな」
やっぱりエクソシストだったんだ……と、見上げると、王子様の碧眼と目が合った。鋭く、まっすぐで、澄んだ大きな瞳。女の子みたいにまつげが長い。なんだかまぶしすぎて、瑠衣は光から逃げる虫のように目をそらした。
「なにも祓うばかりがエクソシストじゃない。死者の声を聴いて未練から解き放ってやるのも仕事のひとつだ。そうすりゃお前も痛い思いしなくていい、俺たちも霊法を守れる。誰も嫌な思いをしない……お前の未練は明らかにあの男だろ?」
田井中君。きっと、今も医務室であの女子のそばにいるのだろう。言い当てられて、瑠衣の目が泳いだ。
「ほら、素直に話して? あなたの未練をなくす手助けをしたいの。あなただって、ずっと幽霊のままじゃいやでしょ? 成仏したくない? 成仏したら生まれ変わりだってあるのよ?」
デス子さんが後押しする。縛られて地面に座らされたままの瑠衣は、ほんのわずかに、こくん、とうなずいた。ずっとこのまま宙ぶらりんの幽霊のままというのも違う気がしたからだ。生まれ変わるのならば今度は人並みの女の子になりたい。
「だったら話して。あなたの未練を」
デス子さんに微笑みかけられて、ついに瑠衣は陥落した。
――五分後。
えうえうとみっともなく鼻水を垂らして泣きながらことの顛末を話した瑠衣に、王子様はあきれたようなため息を漏らした。
「……しょーもねえ」
「しょうもなく、ないです! 私にとっては、もう、死んでもなお大事なこと、なんです……えうえう!」
「恋煩いねえ……いいじゃない、女の子って感じで。今でもその子のこと好きなの?」
「うう……違うんです……・もう好きとか嫌いとかおこがましいっていうのはわかってます……ただ、きちんと告白すらできなかったのが、悔しくて……おおおおおおおおおん!!」
ケダモノのように泣き叫ぶ瑠衣を指さして、王子様は半目でデス子さんに問いかけた。
「……こいつ、ホントに怨霊じゃないのか?」
「恋に狂った乙女はみんなこうなるのよ。男にはわかんないわ」
肩をすくめたデス子さんがフォローしてくれる。いまだにえうえう涙を引きずりながら、瑠衣は小さな声でつぶやいた。
「……田井中君にちゃんと告白したい……」
「あ? 聞こえねえよ、もっとでかい声で言え」
「田井中君に、ちゃんと、告白したいです……・」
「まだ聞こえねえぞ。ぼそぼそしゃべってねえで腹から声出して言え!」
「おおおおおおん!! 田井中君に!! ちゃんと!! 告白!! したいですおおおおおん!!」
からだじゅうから振り絞った声で叫ぶと、瑠衣はまた泣き伏してしまった。
「よしよし、よく言えたわね。あなたの未練、きっちり受け止めたわ」
デス子さんが頭をなでて慰めてくれた。対して、王子様は腕を組んで、ふん、と鼻を鳴らしている。
「未練はわかった。でも、今のお前じゃどうせまた同じことの繰り返しだ。いいか、幽霊にだって女を磨くことはできる。俺たちがサポートしてやるから、とにかく今よりマシな女になれ。見た目も中身もいい女になって、その田井中とかいうやつの夢枕に立って、告白。返事がどうであれ、お前の未練はそれで消えて成仏。それでいいな?」
なかなかの言われっぷりに瑠衣はようやく泣き止んで、
「……女を磨く?」
「そうだ。俺たちの手助けがあれば、幽霊でもできる。身もこころもいい女になって、特攻してみろ。そうすりゃお前もすっきり成仏できんだろ」
「……けど、私なんかにできるんですかね……?」
「うるせえ、やるっつったらやるんだよ! 悔しくねえのか!」
「うう、悔しいです……!」
「だったら四の五の言わずに女を磨け! まずはそこからだ!」
「……わかりました……・」
「聞こえねえ! もっとでかい声でしゃべれ!」
「わかりました!」
「お前は女を磨いてあの男に今度こそ告白する!」
「私は女を磨いて今度こそ田井中君に告白するんだ!」
「よし、その意気だ! つべこべ言い訳する暇あるんならいい女になれ!」
「うおおおおおおお!! やるぞ!!」
すっかり焚きつけられて、瑠衣は握りこぶしで吠えた。
「ふふ、すっかりやる気ね。私たちも協力しがいがあるってもんだわ。早速明日からでもレッスンスタートよ。あ、私のことはデス子とでも呼んでね。真名は知られちゃいけないのよ」
秘密、とばかりに人差し指をくちびるに当てて、デス子さんはあでやかに微笑んだ。続いて、何か言いたげにその笑顔を王子様に向ける。
王子様はぶすくれた顔でそっぽを向いて、ぽそり、つぶやいた。
「……冴島密、だ」
名前、らしい。子供みたいな態度に、なぜか笑いが込み上げてきた。それを見とがめた密が顔を赤くして縄を締め上げてくる。ついでに足蹴。
「何笑ってやがる!?」
「ひぎいいいいい! ごめんなさいごめんなさい! 笑わないからこれ解いて痛い痛い痛い!」
じたばた暴れる瑠衣と縄を締め上げる密を見て、デス子さんはふふっと笑った。
「仲良しじゃない。これならうまくいきそうね」
『どこが!?』
瑠衣と密の声がハモった。そういうところよ、とデス子さんはさらに愉快そうにからからと笑う。
……こうして、前途多難な脱喪レッスンの日々が幕を開けた。