【2】
「――ってことがあったんですよねー」
とある民家の屋根に座って、瑠衣はことの顛末を話してため息をついた。
「それはまあ……怖かったろうね」
聞き手のお兄さんは心底同情するような声音で瑠衣の身を案じてくれる。
この『お兄さん』、瑠衣が幽霊になりたてのころ、困り果てていたところで幽霊のイロハを教えてくれた恩人だった。今でもこうしてたまに話し相手になってくれている。
最初のうちは、『こんなにやさしくしてくれて、もしかしてこのお兄さん私のことが……?』とどきどきしたものの、お兄さんがなぜ幽霊になったのかを聞いてその感情は雲散霧消した。
お兄さんには遺してきた奥さんがいるという。その奥さんのことが気がかりで、未練があって成仏できないのだった。お兄さんは今でも奥さんのことを愛しているらしく、時折やさしい表情で昔語りをしてくれる。
そんなお兄さんが瑠衣に恋心を抱くはずがない。多分、お兄さんは瑠衣のことを妹のように思っていてくれているのだろう。何かと気にかけて心配してくれていて、人間扱いしてくれるお兄さんのことが人間(?)として好きだった。
「まさかこっちのことが見えるなんて……びっくりしましたよ」
「それはアレだね、エクソシストってやつかもしれない」
「エクソシスト?」
「退魔師だよ。僕らみたいな霊を祓う仕事をしてるひとたち」
霊を祓う。漫画の中の風景が頭の中を駆け巡った。電撃に炎、銃で撃たれたり刀で切られたり。どっちにしろ、きっと痛いのだろう。ぞっとした表情で身震いする。
「成仏するのは構わないけど、痛いのは嫌だなあ……」
「はは、悪さしなければ彼らはなにもしないよ。じゃなきゃ、こんな幽霊があふれた世の中だ、きりがない」
「悪さ……」
心当たりがありすぎて頭を抱える。あの王子様は『オイタ』と言っていたが、れっきとした害を正者に与えているのは確かだ。
痛いのは嫌だ。けど、自分には与えられた使命がある。
世の中のリア充カップルを粛清するという使命が。
負けてなるものか。
「お兄さん……私が突然消えたらエクソシストの仕業だと思って」
「えっ、瑠衣ちゃんって怨霊だったの?」
「いや、そういうわけじゃないけど……とにかく、エクソシストには要注意、と」
「変な瑠衣ちゃん」
お兄さんがからりと笑う。それにつられて、瑠衣も陰気な笑みを浮かべて見せた。
ただ人間扱いされるだけでこうもこころが浮き立つとは。生前は『蜷川菌』などと馬鹿にされていた瑠衣にとって、お兄さんは安住の地だった。
そこに恋愛が絡んでいようが絡んでいなかろうが関係ない。
「あ、そろそろ田井中君の登校時間じゃない?」
「あっ、そうだ!」
瑠衣は基本的には田井中君の自宅には侵入しない。プライベートは尊重したいと考えているからだ。本当はお風呂とか覗きたいけど、そこは我慢だった。
民家からちょうど田井中君が出てくる。瑠衣はひゅるりと風のように滑空すると、いつもの定位置、田井中君の首筋に縋りついた。
「おはよ、田井中君。今日も頑張ろうね!」
届かない声を今日もかける。届かないほうがいいのだ、自分なんかが彼みたいな完璧イケメンと話をするなんて出過ぎた真似だ。こうして自己満足でくっついているだけでよしとせねば。
田井中君は相変わらずどこか調子悪そうに大学までの道をたどった。講義前に野球サークルに寄って行くつもりらしく、いつもより早い。まだ人影のまばらな大学構内に入れば、まずは掲示板をチェックする。今日の休講情報などが書いてあるのだ。
ぼやーっと液晶の掲示板を眺めていると、田井中君の背後に誰かが立った。
「あの……」
背の低い、お団子頭の小動物をほうふつとさせる女子だった。といっても薄化粧にネイルもしている。瑠衣の苦手なキラキラ系女子だ。
そのキラキラさんはもじもじと田井中君に向き合っている。
「どうしたの? たしか講義いっしょの子だったよね?」
「はい……法学部の村井といいます」
「何か困ったことでもあった?」
「そうじゃなくて……」
もじもじ。もじもじもじもじ。この空気には覚えがある。できれば思い出したくない覚えだが。
ここから先の展開もだいたい想像がついた。
だからこそ、瑠衣の胸はひどくざわついた。
「あの、この前の新歓コンパで、少し話したと思うんですけど、それで私……」
やめて、それ以上言わないで。
こんなキラキラした女子なら、きっと田井中君ともお似合いだろう。
ふたりともきっとしあわせになれるはずだ。
けど、やめてほしい。
田井中君は私のものだ。
私から田井中君を取り上げないでほしい。
……妬ましい。
きらめく大きな瞳も、白い肌も、華奢なからだも。きっと性格もよいのだろう。
自分にないものをすべて持っている。
妬ましくて、そんな風に思ってしまう自分がみじめで、悲しい。
「私、田井中君のことが……」
やめてよ! それ以上言わないで!!
きゅっと目をつぶって自分の中のどろどろした感情をぶつけてしまう。
とたん、ぼん!と女子の胸の辺りで見えない何かがはじけた。
いつもリア充にやっているのとは威力が違う、明確な悪意による攻撃。
女子はそのままその場に倒れ、ぴくりとも動かなくなった。
「おい、大丈夫か!? 救急室まで……いや、だれか、担架!」
田井中君が叫ぶ。さいわいにも息はしているらしく、ショックで倒れているだけらしかった。
周りがざわざわと集まってくる。
瑠衣は己のしでかしたことに真っ青になっていた。
今までは、単なるうっぷん晴らしだった。
しかし、今度は自分の中の黒い部分をあらわにして、女子に牙をむいた。
今度ばかりは、正義だ粛清だと言っていられない。
女子はなにもしていないのだから。
すべては、田井中君を取られるかもしれない、その可能性を持つ女子への嫉妬から起こったことだ。これほどひどい自己嫌悪は久しぶりだった。
女子はすぐに担架に乗せられて医務室へと運ばれていった。当然ながら田井中君も付き添っていく。朝の大学構内は小さなパニックになっていた。
とてもじゃないが田井中君についていく気にはなれず、瑠衣は肩を落としながらその場を後にした。