【11】
「……瑠衣ちゃん?」
「……はい」
久々に会ったお兄さんは、民家の屋根に腰かけながらこれでもかとばかりに目をまん丸にしていた。幽霊のくせにお化けにでも会ったような顔だ。
別人のようになった瑠衣を見れば、まあ当然の反応とも言える。
しばらくの間ぽかんと口を開けていたお兄さんだったが、やがて満面の笑みを浮かべて、
「しばらく見ない間にきれいになっちゃったねえ。すっかり素敵な女の子だ」
「や、鬼教官には『まだまだだね』とか某天才中学生テニスプレイヤーみたいなこと言われましたけどね……」
「いやいや、見違えたよ。よっぽどいい教官なんだろうね」
「それはその、そうですけど……」
密が褒められたのを、我がことのように照れてよろこぶ。えへえへと笑う瑠衣を見て、おにいさんは、ふぅん、と意味ありげに鼻を鳴らして笑った。
「……もしかして、好きになっちゃった?」
「…………いやいやいやいやいやいやいやいや!! まっさかぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
かなりの間を置いてから、瑠衣はぶんぶんと両手と首を横に振って全否定した。
「いや、だって、その、鬼教官ですよ!? 王子様だし! そりゃあ、ちょっとやさしいところもあるし、厳しいのは私を思ってのことだろうけど……けど、私みたいなもんがおこがましいっていうか、釣り合わないっていうか……いや、これはどうこうなったときのことを想定してのことではなくてですね!? いっつも自信満々で、かっこよくて、強くて、なんかこう、憧れ? みたいなのはありますけど……」
瑠衣の言い訳じみた言葉を、おにいさんはうんうんと聞いていた。
「それに、きっとあのひとはみんなに優しいんですよ……私ひとりじゃない、他のみんなに同じようにやさしくするんです。私は特別にはなれないんですよ……だいたい、付き合ってるっぽいひといるみたいだし……」
デス子さんのことだ。長い付き合い、仕事仲間、美男美女。これが付き合ってないはずがない。
ひとしきり瑠衣の言葉を聞いていたおにいさんは、ふぅん、と息をついて頬杖をついた。
「それって、全部瑠衣ちゃんがそのひとのこと好きになっちゃいけない理由?」
好きになっちゃいけない理由……ではない。そもそも、ひとがひとを好きになっちゃいけない理由なんてないのだから。
おにいさんは続けて言った。
「瑠衣ちゃんはね、『好きになっちゃいけない理由』を探しすぎなんだと思う。そうやって保険をかけて、自分を守ろうとしてるんだね。だって、あとから『やっぱり好きにならなくてよかった』って自己完結できるもん。けど、本当にそれでいいのかな? 僕は、『ああ、このひとを好きになって本当によかったな』って思いながら当たって砕ける方がすっきりできると思うんだけど」
おにいさんの言葉は至極もっともだった。あれやこれや理由をつけて好きにならないように自分を必死にセーブしているなんて、不健全だ。『好き』というのはもっとポジティブな感情なはずなのに、どうしても怖い。思いが大きくなるにつれて、それが叶わなかったときのダメージは大きくなる。そうならないために、予防線を張る。
ナンセンスだ。臆病者だ。弱虫だ。
しかし、これまでさんざん傷ついてきたのだ、ナンセンスで臆病者で弱虫にならざるを得ない。
「……やっぱり、怖いよ」
ぽつり、つぶやいた。
「そりゃあ、密のことは好きだよ。けど、それとこれとは別。私は好きだって伝えるつもり、ない。きっと密に嫌な思いさせるから……私だって傷つく。誰もしあわせにならない。そんなの、いやだよ。私はただ黙って『ああ、好きだなあ』って気持ちを噛みしめていれば、それで充分なの」
「……さみしくない?」
「大丈夫、慣れてる」
おにいさんは自分のことのように悲しそうに眉尻を下げた。見ていられなくて、空元気を振り絞って笑顔を作る。
「恋なんて、私なんかには贅沢品なんだよ。分不相応っていうか、性に合わないっていうか。遠くから眺めてて、たまに言葉を交わしたときには『うれしいな』って思うくらいでいいの。恋してる自分なんてもう想像したくない。恋って、きれいなだけじゃないんだし、だったら私は自分からゲームを降りるよ」
田井中君に声をかけてきた女の子へ向けた、黒い感情。どろどろした激流に流されて、傷つけてしまった。あんなひどい自己嫌悪に陥るくらいなら、最初から恋なんてしない方がいい。あきらめはついている。
もし密に恋心を向けたら、その醜い感情の行く先はデス子さんになるだろう。それだけは避けなければならなかった。密も好きだが、デス子さんだって大事なひとなのだから。
甘い糖衣で包まれた、苦い苦い毒薬。恋とはそういうものなのだろう。
「……そっか。瑠衣ちゃんがそこまで言うなら、僕はもう何も言わないよ」
まだ悲しい成分を残したままの笑みで、おにいさんは否定も肯定もしなかった。
「せっかく素敵な女の子になれたのにもったいないな、とは思うけど……それ以上は言わないでおく」
「ありがとう、おにいさん」
お礼を言って微笑むと、おにいさんはひとつだけうなずいた。
瑠衣はうーんと伸びをして、
「あー、すっきりした。やっぱり、私はどこまで行っても私なんだなぁ……見た目がいくら変わっても、そこは変わらないんだよね。恋とか愛とか、そういうの苦手なんだ……あ、ごめん、おにいさんには奥さんいたよね……」
「構わないよ。そうだなあ、僕もね、そういうの苦手だった。けど、妻に出会ってからそんなのなりふり構ってられなくなってね、押しの一手だったよ。プライドも保険もかなぐり捨ててさ、そうしたら、妻も心を開いてくれた。うれしかったなあ……もっとずっと、年老いていくまでいっしょにいて、この恋は続いていくんだと思ってたんだけど、残念ながら僕が死んじゃったからね」
そう、恋には別れもあるのだ。望む望まざるに関わらず、始まった恋はいつか必ず終わる。そんなのは悲しすぎるから、やっぱり恋なんてしない方がいいのだ。
「けど僕は、妻に恋してよかったと思ってる。たとえこうして未練という鎖で現世に縛られようとも、僕の恋は終わってない。いつか年老いた妻が息を引き取るまで見守って、そのときは笑顔で迎えに行こうと思ってる」
「……それがおにいさんの未練なんだね」
「ふふ、女々しいでしょ?」
「そ、そんなことは……」
「いいんだよ。自覚してる」
おにいさんは自嘲気味に笑って瑠衣の頭をなでた。
「けど、そんな形の恋もあることは覚えておいてほしい。きれいなだけじゃないけど、汚いだけのものでも悲しいだけのものでもない。ひとの数だけ、いろんな形があるんだ」
頭を撫でられながら、瑠衣は複雑な胸中で考えていた。
ハッピーエンドは望まない。
望むのもおこがましい。
……けど、ずっとこのまま、と願うことくらいは許されるのではないか?
それが現状維持のぬるま湯だということくらいはわかっていたが、今のずるくて臆病な瑠衣にはそれが精いっぱいだった。
「さあ、明日もレッスンでしょう? そろそろ僕は行くね」
ふわ、と空気中に漂って、おにいさんは夜空の方へと飛んで行ってしまった。
ひとり残された瑠衣は民家の屋根に座ったまま、ひざを抱えてため息をつく。
「……私は、密が好き」
声に出してみる。込み上げてきたのは、胸をかきむしりたくなるような、名前のない激情だった。きれいなものと汚いものが混じり合った、正体不明の感情。それがなんだか息苦しくて、瑠衣はその思いにふたをした。
「……それだけで、いいんだ。それ以上は何も望まない……」
ただ、変わりない日々が続いていけばいい。
そう願って、瑠衣はそのまま屋根の上で眠りについた。




