後編
「お嬢様……」
ノックをして扉を開けると既にお嬢様はベットへ横たわり物語の世界へと旅立っていた。
物語の世界に潜ると物語が終わるまで彼女は目覚めない。
目を閉じる彼女のすぐ側にある表紙が開かれた本に目を遣る。本の厚さはあまりないので戻るのは早いだろう。そう結論付けると私はお嬢様が好きな紅茶を淹れるために準備を始めた。
何時からだろうか、物語から帰ってくるお嬢様を側で見守るようになったのは。疲れているであろうお嬢様に好きだと言ってくれた紅茶を淹れてやらねばならないと自分に言い訳をしながらベットの隣にある椅子に腰掛けお嬢様の目が開くのを待ち続けるようになったのは。
お嬢様は記憶を全て失くした。いや、全てを奪われた。
罪を侵したお嬢様の罰として。
果たしてあれはお嬢様の罪だったのであろうか。今となっては分からない。
記憶を失くされるまでのお嬢様はどこにでもいる貴族の令嬢であった。傲慢で我儘な。
貴族というのはどんな聖人でさえ何処かしら傲慢だ。清廉潔白な騎士だろうと聖女の様だと持て囃される令嬢であろうともだ。自分達が飢えることなど考えたことも無いだろう。彼らはいつだって安全な所から民草を見下ろしているのだ。
それは構わない。歯車は噛み合わなくとも世界はそうやって回り続けている。
お嬢様もそうやって生きていくはずであった。しかし、状況が平凡な貴族令嬢としての人生を送ることを許さなかったのだ。
お嬢様は別に全てを見下すような傲慢さも全ての願いを叶えなければ当たり散らすような我儘さも持ってはいなかった。
ただ、思考が少し偏っていただけだ。貴族令嬢としての考え方が染み付いていただけ。そしてそこに少女特有の潔癖さが合わさった。それを無邪気に振り翳したのだ。きっとそれがあの方を追い詰めてしまったのだろう。
元々亀裂が入り続けた仲に決定的な事件が起こり瞬く間にその絆は瓦解した。あの方はたいそうお怒りになった。罪を侵した貴族の令嬢が行き着く先の修道院へ入ることさえ禁ずる程に。
あの方がお怒りになりお嬢様の父親は直ぐ様お嬢様を切り捨てた。住む家も家族もお嬢様は失ってしまったのだ。しかし、それでもあの方の怒りは治まらなかった。あの方は魔法をかけてお嬢様の全ての記憶を奪い去った。
そして、お嬢様はただ一人この広い世界に放り出されてしまったのだ。
私がお嬢様に着いてきたのは別にお嬢様をお慕いしていたからではない。私の勤め先がお嬢様の家だった。そこの当主である彼女の父親が彼女が追放された際に変な気を起こさないようにと見張りを付けることにしたのだ。そこで選ばれたのが私だったというだけだ。
私はその決定に不満しか感じなかった。追放される貴族ではなくなった少女を監視する仕事になど何の意味も見いだせなかった。それに全てが足りている豪奢な屋敷を出てただ一人お嬢様の癇癪に付き合わなければならないのだ。考えるだけでうんざりだった。
しかし、予想に反して追放されたお嬢様は静かだった。
声を荒らげたのは意識を取り戻し記憶が全て抜け落ちていることに混乱して私を問いつめた時くらいだ。何も分からず知らない男ただひとりしかいない空間はさぞかし不安だっただろう。それでもお嬢様はその男に縋り付く他なかった。
「ここはどこですか? 何故私はここにいるですか? 私は一体誰なのですか? あなたは私を知っているますか!? 分からないんです。何も。どうか教えてください!」
「申し訳ございません。私はこれまでの経緯も貴女様がどなたであるかも説明することを禁じられております」
「そんな……」
私は経緯を説明する事を禁じられている。記憶が戻るのを防ぐためだ。記憶を奪う魔法は万能ではない。少しの情報でも何かのきっかけで記憶が戻ることがあるため用心して何も伝えてはならぬと命じられたのだ。
私は何も伝えられるぬことを詫びた。お嬢様の癇癪をこの身に受けることを覚悟したが予想に反して彼女は冷静だった。
きっと彼女は賢い。私の様子に自身がどのような状況にあるのかを察したのだろう。
「私は使用人です。貴女に仕えるために参りました。不安かとは思いますがお嬢様が危惧することは一切致しません。どうぞよろしくお願い致します」
「……はい、……よろしく、お願いします」
それからの彼女はとても従順であった。
以前のお嬢様を知っている身としては薄ら寒くなるほど穏やかに日々を過ごしていった。
もしかしたら、これが本来の彼女だったのかもしれない。
私たちは小高い丘にある小さな屋敷で静かな時を過ごした。
「お嬢様、お茶が入りました」
「ありがとうございます。あなたが淹れる紅茶はとても美味しいので大好きです」
うふふとにこやかに笑う彼女にふと今まで気になっていることを尋ねた。
「お嬢様、私はお嬢様に仕える者です。私相手に丁寧な口調など使わずとも良いのですよ。敬語などいりません」
「うーん、ですが私は何も分からずお世話になっている身ですし。本当に自分がお嬢様なのかも分からないのですよ。それにこの方が落ち着く気がするのです」
普段は従順ではあるがこうと決めたことには梃子でも動かない頑固さもあった。
以前の彼女もそうであったのだろうか。以前はあまり関わることがなかったのでよく分からなかった。
このまま何もなくこの少女のお守りのお役御免となるといい。この静かな二人の世界に浸りつつもそのようなことを私は考えていた。
しかし、彼女は違ったようだ。
「……お嬢様? どこかご気分でも悪いのでしょうか」
「いいえ、大丈夫ですよ。いつもと同じく元気です」
にっこりと笑ったがその笑みは無理をしているように感じた。
彼女は日を経るにつれ少しずつ元気を失っていった。元より心配させないための空元気だったのであろう。自分より年下の少女に気を使わせそれを気づかなかった自分を恥じた。
きっと自分が何者であるのかが分からなく不安なのであろう。自らの名前さえも知らないのだから。
新しく自分を作ってしまえばいいと思えるほど豪胆な性格はしていないのだ。さぞかし辛いであろう。しかし私はその問題を解決してやることは許されていなかった。
そしてついに彼女はふらりと屋敷から居なくなった。私は心配して近辺を探したが見つからなかった。
「お嬢様! お嬢様いらっしゃいませんか! ……くそっ、どこいったんだ」
早く見つけなければまずいと焦る気持ちのどこかでこのままお嬢様が帰らなければ元の生活に戻ることができるのではと期待する自分がいた。
しかし、お嬢様の行動は私の予想する斜め上を行っていた。
「ただいま戻りました。すみません、何も言わずに出ていって」
「お嬢様! 心配したのですよ。よかった無事に戻ってきてくださって。どこにも怪我などはありませんか?」
見つかったことに大きく息を吐いた。怪我がないか全身をくまなく見る私をお嬢様はじっと見つめると照れくさそうに笑った。
「はい、怪我はしていません。ご心配おかけしてすいませんでした」
「いえ、とにかくご無事でよかった。ですが今度屋敷を出るときは私もご一緒いたしますからね」
「はい」
「おやおや、とんだ過保護がいるね」
出ていった時と同じようにお嬢様はふらりと戻ってきた。けれども一人で出かけた時とは違って人を伴って帰ってきたのだ。
お嬢様の隣にいたのは頭の先からつま先まですっぽりと薄汚いローブに身を包んだ腰の曲がった老婆だった。元令嬢と汚い老婆の取り合わせに自然と眉が寄った。
老婆は目が合うとニヤリと笑った。
「なぁに、そこのお嬢さんは怪我の一つも負ってはおらんよ。なにせあたしが拾ってやったんだからね」
「あなたは……?」
「あたしゃ魔女さね。あんたんとこのお嬢さんがどうしてもと言うから着いてきたんだよ」
「……どういう事ですか? お嬢様」
「すいません……」
お嬢様は気まずそうに目線を逸らした。
どうやら彼女はふらりと出歩いた先で魔女に出会ったそうだ。
魔女と知ったお嬢様は記憶を戻して貰えるように懇願したらしい。私は困惑した。記憶を戻すことを許されてはいない。きっと彼女も記憶を取り戻すことを誰も歓迎しないと分かっているのだろうに。
「自分が何者であるか分からないのは相当不安であるのは分かります。ですが……」
「分かっています! 誰も記憶を取り戻すのことを喜んでくれないのは知っています。きっと禁止もされているのでしょう。ですが、もう限界なのです! 私は知りたいのです。一体自分が何者なのか。分からないことが辛いのです!」
「お嬢様……」
困った私は魔女の方へ話を向けることにした。
「魔女殿。貴女がお嬢様を無事に戻していただいたことは感謝しております。しかし、お嬢様の記憶を取り戻すことは許されていないのです。ですので今回の話はなかったことに……」
「そんな人間共の事情なんぞ知ったことじゃないよ。あたしには関係ないからね。したいことをするだけさ。あたしがこの哀れなお嬢さんを助けてやることに決めたのさ」
魔女はこの世の理から外れた存在だ。あの方の決定を聞く義務もない。そんな存在に出会えたお嬢様の運の強さに感嘆したと同時に面倒なことをしてくれたと不快な気分を味わった。
魔女はお嬢様の依頼を受けた。これを覆すのは難しいだろう。魔女の機嫌を損なうのは得策ではない。私は二人に隠れひっそりとため息を吐いた。
「しかし助けてやるには対価が必要だの。タダじゃ依頼は受けんからねぇ」
「対価ですか……。私、あまりお金は持っていないのですが……」
「金なぞいらんわ。あたしが欲しいのはあんたのその艶やかな髪さね」
「髪なんかでいいのですか? 分かりました。そんなのお安い御用です」
「お嬢様っ!?」
言うや否や私が止める暇もなくお嬢様はハサミを持つと腰まであった絹のようになめらかな闇色の髪を肩ほどまでばさりと切り落とした。
「お嬢様! 何をなさっておいでですか! 貴女の美しい髪が!」
「あら髪なんてまた伸びますよ。それにこの方が軽くなって楽でいいです。それにしても、ふふ、貴方もそうして焦ることがあるのですね」
「当然です! 修道女でもないのにこんなに短くしてしまわれるなんて」
私の様子にクスクスと笑いながら手に持った髪を魔女へ渡した。
「どうぞ。依頼を受けていただけるのであれば安いものです」
「あんたは勢いがいいねぇ、気に入ったよ。じゃ、行くかい」
魔女はそう言うとまるで屋敷内のことを全て知り尽くしているかのように迷いなく進んだ。辿り着いた先はお嬢様の私室であった。魔女は躊躇なく扉を開くと魔法をかけた。
部屋の四方から板が出てきて棚のようなものを作り出す。それが出来上がるとどこから出てきたのか大量の本がその棚を埋めつくした。気がつけば本に囲まれた部屋が出来上がっていた。
「こ、これはなんでしょうか……」
「見てわからんのかい、本さ。大量のね。あんたの物語はこの中にある。本に潜り自分の物語を探すがいい」
魔女は言った。ここにある本は表紙を開くと本に描かれた物語の世界へ潜ることができる魔法の書だと。
お嬢様が記憶を取り戻すにはこのいくつもある魔法の書に入り込んで自分の物語を探し出す必要があるのだと。
物語に潜ったら筋書き通りに役を演じなくてはならないそうだ。物語が終わらないと自分では帰る事が出来ない。物語は楽しい話ばかりではない。苦しい話もあるだろう。辛い話もあるだろう。役によっては責め苦を受けることもあるだろう。夢のように意識だけが物語に入るが、感覚があるから怪我をすれば当然痛い。それでも自分を探すのなら相応の覚悟をしなければならない。
それを聞いたお嬢様は硬い表情なれども迷いなく頷いた。
「全て覚悟の上です」
「そうかい、ならあたしはあんたが望み通り全てを取り戻すことを祈ってやるさね」
それからのお嬢様は魔女の言った通り本を開くと物語に潜り自分を探すようになった。
「とは、言ってもなかなか私の物語は見つからないのですね。あんなにたくさん本があるのですもの。がんばらなければ。あ、クッキーが焼けたのですがよろしければいかがですか?」
「……何をなさっておいでですか、お嬢様?」
今までお嬢様が入ることのなかった炊事場で彼女を見つけた私は思わず問いかけてしまった。料理など以前も現在もしている所は見たことがない。オープンの前で綺麗に焼かれたクッキーを皿に移していたお嬢様は照れた表情で微笑んだ。
「うふふ、今回潜った物語で覚えたのです。自分でもびっくりするくらい上手く作れたのですよ」
どうぞと言って私の口にクッキーを入れてきた。ほんのりと甘くサクッとした食感のクッキーはとても初めて調理場に立った人間が作ったと思えないくらい上出来だった。
「いかがですか?」
「ええ、とてもおいしいです」
そう答えるとお嬢様は嬉しそうに満面の笑みを浮かべた。
お嬢様は物語に潜る度に色々な事を覚えて帰ってきた。たくさんの事を経験しているのだろう。全てを奪われ空っぽだったお嬢様の中に知識や経験が注がれていく。物語によって新しくお嬢様が形作られていくようなそんな気がした。
「毎度聞いていますが、お嬢様、今日は何をしておいでですか」
「掃除です! 今回の物語は働き者のお嬢さんが王子様に見初められる話だったのですよ。」
「そうでしたか。ですがお嬢様、これは使用人の仕事です。使用人の仕事を奪ってはなりませんよ」
「はい、すいません……」
お嬢様の手から箒を取り上げると彼女はしゅんと眉を下げた。その顔を見て申し訳ない気持ちが胸を過ったが箒を返すことはなかった。
ひとつずつ知識が増え、お嬢様が成長していくうちになんとも言えない焦燥感が胸に去来した。
物語から戻りお嬢様の出来ることがひとつ増える度に私からお嬢様が離れていくような。少し前まで早くお守りから解放されたいと思っていたのにお嬢様が一人で立ってそのまま歩き出してしまうと思うと焦りばかりが募った。
もしかしたら、魔女は全てを取り戻したお嬢様が前を向いて歩いて行けるように物語を通してたくさんの事を教えているのかもしれない。
(余計な事を)
お嬢様は何も出来ないままでいいのだ。私がいるのだから。全てを頼って何も分からないままこの静かな二人だけの時を過ごせばいいのだ。
しょんぼりと肩を落としたお嬢様を見つめ私は困った顔を作って優しく微笑んだ。
「掃除は私がいたしますが……。そうですね、ではお嬢様が潜った物語のお話を聞かせていただけますか?」
「はい!」
「……っ! ……ぅぅ」
「お嬢様……」
物語の配役は自分では決められないらしい。主役であることも脇役であることも時には悪役になることもあるそうだ。そうなれば悪役として断罪されてしまう事も当然ある。
剣で切りつけられ討伐されることも雷に撃たれて死ぬこともあるそうだ。お嬢様自体は死ぬことはないので役の体から抜け出て血を流し続けながら物語を見届けねばならないらしい。
相当に辛いのだろう、痛いのだろう。いつもは安らかに目を閉じているが今は苦しそうに魘され顔を顰めていた。
それでもお嬢様はその苦しさに耐えながらも自分の物語を探すのを止めることはなかった。側で見ているだけしかできないのが酷くもどかしかった。
「起きてください! お嬢様! お目覚めください!」
「……っ!!」
乱暴ではあるが体を揺すり耳元で呼びかけるとお嬢様は大きく目を見開いて物語から脱出した。
物語はお嬢様自らが途中で出ることは叶わないが外的要因が加わると途中で抜け出ることができるようだった。
それに気づいた私はお嬢様が魘される度にこうして揺すり起こす様になった。少しでも辛いことから助けてやりたかった。
私はお嬢様にそっと頬に手を添えた。
「大丈夫でしたか? 随分と苦しそうに魘されておいででした」
「ええ、大丈夫です。貴方が連れ戻してくれましたから。ですが、今回もまた分からないままでした……」
先程までの光景を思い出しているのだろう。少し青ざめた顔で隣にあった本を見つめた。そして私に顔を向けると少し悪戯めいた笑顔を見せた。
「ふふ、今回の私は主人公の女の子と王子様の仲を引き裂くいじわるな悪い女の子の役でしたよ」
「そうでしたか、それはお嬢様には似合わない役でございますね」
「あら、とっても上手に演じられたのですよ。とてもしっくりきちゃうくらい。私は舞台女優顔負けの演技力があるのです」
「それは、ぜひ拝見させていただきたいものでした。さあ、お嬢様お疲れでしょう。お好きな紅茶を入れましたのでお飲みください」
「ありがとうございます」
そう。似合わない。貴女がそんな意地の悪い女の役なんて。
そんな物語の内容なんて忘れてしまえとばかりに仕度していた紅茶を差し出した。微笑んで受け取ったお嬢様は少しずつ紅茶を口に含んで飲み込んだ。
「そう、とってもしっくりしたのです。今までにないような感覚でした。」
話を続けるお嬢様に私は僅かに身を固くした。
「私は……。私はこの物語の悪役令嬢と呼ばれる主人公の恋敵と同じだったのでしょうか……。あの断罪される光景に既視感を覚えるのです。王太子を想うととても切なく胸が痛むのです。……胸が張り裂けそう……」
「お嬢様……」
胸に遣ったお嬢様の手は力が入って白くなる。一筋の涙に私は絶望を感じた。
(取り戻してしまわれるのか……)
お嬢様が潜る本はお嬢様がひとりで決める。私に妨害されないようにする為だ。それでも私は真実に近しい物語は出来る限り見つからない場所へ置いてきたつもりだった。手に取りやすい場所には児童書に近いものばかり。少しでも真実から離し、優しい世界に浸っていてほしかった。
それでもお嬢様は見つけてしまった。
きっともうすぐ真実へ辿り着いてしまうのだろう。
――でも、それでも。
「お嬢様、もうよいのではないですか? 苦しみながら探さずとも。貴女は分かっておいででしょう」
貴女には辿り着いてほしくないのだ。あの絶望の物語など。