プロローグ
君と初めて会ったときの事は今でも昨日のことのように覚えているんだ。
奇跡のような巡り合わせを運命だとさえ思い、神に感謝した。
それなのに、こんな結末になるなんて、あの時の僕は微塵も思っていなかった。
どこで間違ってしまったのだろうか。
もしかすると、違う未来もあったのかもしれない。
そんなことを考えても、もう意味などないのだけれど。
僕は時折、心が踊るような日々を思い出してはどうしようもないことを考えずにはいられなかった。
あれは5年前、王宮で定期的に開かれている舞踏会の時だった。
国王である父上に連れられて多くの貴族の大人達に挨拶をさせられてた僕はやっと解放されたと思って人気のない場所を求めて庭園に移動した。
会場の近くにある庭園は時期によっては色とりどりの花々が咲き乱れる。
でも、今の時期はちょうど入れ替えがあったばかりで何の花も咲いておらず、見に来る人はあまりいない。
少し隠れて休むには最適な場所だと思った。
大人達から解放されたと思っても、同世代の女の子達が話しかけてきたら休む間もないからね。
まあ、この国の王子として交友関係も持たなきゃいけないから適当に時間を見て戻るつもりではあったんだけど。
でも、そこへ行くと思わぬ先客がいた。
それが君だったね。
花なんか咲いてなくて面白みも何もないのに花壇の側で座り込んでじっと何かを見つめていた。
その様子がなんとなく気になって誰にも合わないで休もうと思っていたはずの僕は、君に近づいて声をかけていた。
「何を見ているんだい?」
「あ……」
僕が後ろから声をかけると君は視線を上空へと向けた。
僕もつられて視線を辿る。
するとその先に何か小さな赤い虫が飛び去っていくのが見えた。
僕が急に近づいたことで臆病な小さな虫は警戒して逃げてしまった様だ。
悪いことをしたと思って立ち尽くす僕に、君は向き直るとはにかみながら立ち上がった。
「飛んでいってしまいましたね」
「すまない。僕が近づいたせいで驚いてしまったみたいだ」
「いいえ、虫はそういう臆病な生き物ですから。もしここで逃げないようなら自然界ではすぐに殺されてしまいます。だから、飛び去っていって安心しました。きっとあの子は長生きしますよ」
ドレスの裾を直しながら微笑んだ顔は、汚れを知らない純粋無垢なまるで花が咲いたような笑顔だった。
僕は迂闊にもその顔に少しの間、思考を奪われていた。
そして思考を取り戻して数秒後、君が言ったことにも驚いていた。
僕のせいで逃げてしまったことを非難するでもなく、僕自身に関心が移るでもなく、僕が同世代の子供達と話していて今までに聞いたことの無いような考え方を述べたことに。
面白い子だ。
この子の事がもっと知りたい。
そんなことを他人に対して思ったのは初めてだった。
もっと話そうと口を開こうとすると、打って変わって彼女の表情が曇っていることに気づいた。
「どうかした?」
「……私、何かお気に障るようなことしてしまいましたか?すみません。田舎から出てきてこういったパーティーに参加するのは初めてで、色々と不慣れなものでして。お父様に他の方の無礼になるようなまねだけはするなと重々に注意されていましたのに」
「あはは、ごめんね。君は無礼なことなんてしていないよ。僕が勝手に君にみとれていただけだから」
見たことのない顔だとは思ってたけど、初めての参加だったのか。
僕としたことが変な間を作ってしまったことで君を不安にさせてしまったみたいだ。
こう言っておだてておけば女の子は大抵顔を真っ赤にさせて喜んでくれる、なんて、少しでも僕に興味を持ってもらいたくて打算的な言葉がするりと飛び出した。
まあ、今回は本心であるし事実でもあるんだけど。
しかし、彼女は僕の予想とは反してさらに落ち込んだように目をふせた。
「ありがとうございます。お世辞でもとても嬉しいです」
「全然嬉しそうには見えないんだけどね」
「あっ、すみません。せっかく気を遣って言ってくださったのに失礼でしたよね。不快な思いをさせてしまって……」
「別に僕は不快になんて思ってはいないよ。でも、君にそう言っても信じてもらえそうにないか。じゃあ、お詫びをしてって言うつもりはないけど、その代わりに君が何でそんな浮かない顔をしているのか教えてくれないか?」
「……なんのために私なんかのそんな事を聞くのですか?」
「うーん、後学のためかな?」
「後学?」
「そうそう、だから君も僕のためだと思って話してみなよ」
君が浮かない表情をしてしまうなんて馬鹿なことを言ったと反省しつつも、自分でも驚くほどつらつらと理由にもなっていないような説明が口から出てきた。
お礼を言う君に嫌みの様なことを言うつもりもなかったのに。
僕はどれだけ余裕がなくなっているのだろう。
そんなに君と話そうと、君の事を知ろうとすることに必死になっている自分が信じられなかった。
そして、それまで暗い表情をしていた君は表情を緩めてふっと笑った。
「ふふ、変わった方ですね」
それは君の方だろう。
そんなことを言われるなど全くもって心外だが、また話を振り出しに戻しそうだったので心の中にとどめておいた。
それに、君の笑顔をまた見ることが出来たことだし良しとするか。
僕も表情を緩めながら君を見つめて待っていると、躊躇いがちにぽつりぽつりと話し始めた。
「私、初めての舞踏会だったのでお父様と一緒に色々な方と挨拶をして紹介していただく予定だったんですが、お父様が急におなかが痛くなってしまって出て行ってしまったんです」
「君のお父上は大丈夫なの?食事に変な物が入っていたんだとしたら大問題だ」
「いえ恐らく、お父様も大分緊張していたのでそのせいで腹痛になったのかと。それで、お父様が帰ってくるまではおとなしくしていようと隅にいたのですが、お優しい方が声をかけてくださったんです」
「その人達に何か言われたのか?」
「いえ、その男性方は本当にとても良い方達で田舎者の私とも楽しくお話してくださいました。でも、会話の途中で急に皆さんぎこちない表情をなさるんです。そんなことが何度かあって、ここまで逃げてきてしまいました」
「あー、多分それは君が……」
笑った顔にみとれていたんだよ。
そう言おうとしてやめた。
そう言ったところで君はまた信じないだろう。
それにわざわざ教えてあげる必要もない。
君の魅力に気づいている男に君をわざわざ近づかせる必要もない。
これは早く何か手を打たなければ。
「やっぱり、私が何かしてしまったんでしょうか」
「うーん、もしそうだとしても君は初めてだったんだから仕方がないよ。だから、僕が色々と教えてあげるね」
僕が言いよどんだことで君は良いように誤解したようだ。
自分を責める君に真実を伝えないことに罪悪感がないことはないが、それ以上に僕がこれから君の事を幸せにするから許してはくれないだろうか。
さて、どうやったら君を僕の婚約者にすることができるだろうか。
気持ちを伝えるタイミングも大切だし、父上に認めさせるのも骨が折れるだろう。
でも、まずその前に何よりも知らなきゃいけないことがある。
「これから仲良くしようね。僕はライアン。君の名前は?」
「はい。よろしくお願いします。私の名前は-----------」
***
「クラリス」
僕は目の前の人物をそう呼んだ。
その声は自分でも驚くほどに冷酷で感情のこもっていない声だった。
そして、そんな色のない声音でその人物にそのまま決定事項を告げた。
「君には心底がっかりしたよ。今日、この場をもって君との婚約を破棄する」
ノカルディア王国第一王子である僕、ライアン・マクスウェルと男爵家の令嬢であるクラリス・カルバートは10年前、6歳の時より婚約を結んでいた。
その婚約を今、この場でなかったものとしたのだった。
「嫌よ!!絶対に嫌ですわ!どうしてですの!そんな女、ライアン様にはふさわしくありませんわ!私が一番だというのに!!」
いつもは騒がしい学園の食堂は昼時で大勢の人がいるというのに静まりかえっていた。
そしてそこに甲高い一人の女の声だけが響き渡った。
悲壮な声でそう訴える女を遠巻きに大勢が見つめていたが、その視線を気にとめないほど取り乱しているようだった。
僕は元婚約者だったその人物に、ただ淡々と事実のみを伝えた。
「君は自分を着飾るために国費を無駄に使い、転入生である彼女に嫌がらせのレベルでは済まない犯罪まがいの事をした。証拠はそろっている。ここまでのことをしていたとはね。君は1番王妃になどふさわしくない女だよ」
そして今日、元婚約者が最悪な計画を実行しようとしているという情報が入った。それを阻止するためにこの場で婚約の破棄を告げた。
まあ、それはただのきっかけに過ぎなかったのだけれど。
僕がそう言い放つと、何か分からない言葉を発しながらこちらに飛びかかりそうになったその人物を食堂にいた友人達が取り押さえる。
髪を振り乱しながら醜く顔をゆがめるその姿は、初めて会ったあの日の面影はどこにもない。
いつからだろうか、彼女があの時みたいに笑わなくなったのは。
いつからだろうか、彼女と話していてもあの時みたいに楽しくなくなったのは。
そんなことを思い出したところで意味はないのかもしれない。
いくら注意しても浪費癖は治らず、自分の気に入らない相手への嫌がらせをやめず、言動も行動も日に日に過激になっていく。
彼女の瞳に僕の姿は映らなくなってしまった。
それでも僕は、かつては君の事を本当に愛していたんだよ、クラリス。
花が咲いたように笑う君のことを。
でも、僕の未来に、この国の未来に、必要だった君はもういない。
その君と確かに同一人物である目の前に取り押さえられてひざまずく女を見ても何も感じない。
それどころか、全く関心が持てない。
愛の反対は無関心とはよく言ったものだ。
「待って!お待ちになって!ライアン王子―――!!」
背中にかかるその泣き叫ぶ声に一瞥することもなく僕はその場を立ち去った。