5.5. 奇縁合縁(裏) ★
昼を過ぎて、一人街の中を見て回っている間も、今日の夕食の事が気になり、ソワソワして仕方が無かったアイリ。
アルトに促されるままにトイレで手を洗い、そのままキッチンへと顔を出した。
「あれ? あいリン、こっちに来たの?」
「えへへ──、気になって、来ちゃいました」
提供スペースの上には、アルトが作った数々の品が並べられており、二人仲良く、レストランへと料理を運び出した。
次々にテーブル上へ並べられる、銘々に盛られた互いの料理。
赤に緑に白に黒、彩り鮮やかに野菜とチーズが散りばめられた、レモンとオレガノの香りが爽やかな、コロコロと具沢山なサラダ。
濃い目のオレンジ色がとても鮮やかで、柔らかな湯気を立てているポタージュスープ。
大きく切られた鶏肉が真ん中に並んで、キノコの芳醇な香りが鼻孔をくすぐる、濃厚な白いソースが一面に広がった、鶏肉のクリーム煮。
ふわっふわなオムレツが上に乗せられた、バターと卵の香りが優しく漂う、バターライスのオムライス。
それに、フルートグラスに注がれた、シュワシュワと軽やかな音を立てて泡が弾ける、オレンジ色の甘い香りの飲み物。
まるで、何かの記念日を祝福するかの様に。
アイリからすれば、自宅で普段味わっている夕食の方がより一層豪華な物であっても、ここに並ぶ品々の方が何倍も嬉しく感じていた。
この特別な環境。
それに他でも無い、アイリの為に作られた料理だったからなのかも知れない。
アルトがシルバー、グラスを並べ終えるのを見計らって、二人揃ってテーブルに着いた。
こうして並べられた、数々の料理。
アイリがリクエストしたのは、アルトに取っての家庭料理の様な物だった筈なのに。
一見、どこか見た事がありそうな料理ではあるけれと、ちょっと想像していたのとは違う気もする。
何れにしても、美味しそうな事に変わりは無かったのだけど。
「それじゃあ、頂きますね?」
アルトをじっと見つめ、伺いを立てて。
「どうぞ、召し上がれ」
アルトも、小さく「頂きます」と呟いて。
互いにフルートグラスを持ち上げると、軽くチン、と合わせて乾杯をした。
そのままグラスを傾けて、クイっと一口、喉を潤す。
弾ける炭酸の爽快感と、甘酸っぱい杏が溶け込んだ、こっくりとした味わいが口の中に広がった。
ちょっぴりお酒なのかと疑ったけど、中身はちゃんとジュースだったから、ちょっと安心。
「あいリン、割っちゃって平気?」
アルトは、ナイフ片手に尋ねる。
「お願いしますッ!」
それは、オムライスの事。
さっきからアイリがソワソワして止まなかった、注目の一大イベント。
その光景を想像するだけでも、唾液が口の中に溢れてくるのだ。
そうして、アルトがオムレツの端からナイフを入れると、途端、洪水さながら流れ出るトロットロ半熟の卵の艶々な黄金色。
思わず、アイリの口からは感嘆の声が漏れていて。
あっという間に、バターライスを覆い隠してしまった。
その光景が、とっても眩しかった。
先に食べ出したアルトに倣って、サラダからフォークを伸ばすと口へ運んだ。
深めのガラスの小鉢に、彩りよく散りばめられた野菜とチーズ。
オレガノが爽やかに香り、レモンドレッシングの酸味が舌に触れる。
キュウリとトマトの皮はパリっと、オリーブと赤玉ねぎも合わせてシャキシャキと、野菜の食感がとてもいい。
けど、この強い塩気で、どこか野味を感じるチーズは何なのだろう。
口にすれば、すぐにホロホロと崩れて、食べ進めると癖になりそうな味わいなのだけど。
「ゴメン……、もしかして、このチーズ苦手だった?」
アイリが思い耽っていると、アルトは訝しげな表情を浮かべて問い掛けてきた。
「あ、いえ。全然、そんな事無いですよ。いえ、初めて食べたので……、これは、何のチーズですか?」
「恐らくは、山羊のチーズでね。向こうなら、フェタチーズ……、みたいな感じかな」
癖があるとは思ったが、山羊のチーズと聞けばアイリも納得の物だった。
未知の味との遭遇に心動かされ、それを知るアルトの料理に心惹かれ。
高級食材を始め、これまで色々な物を食べてきた筈なのに、まだ知らない世界がある事への高揚感が嬉しかった。
「へえー。何だか、すっごい癖になる味ですね」
そう言って、アイリは再び自分の皿へと戻り、フェタチーズを摘まんでは、口へと運んだ。
自然と、笑顔が溢れてくる。
もっと色々な景色を見てみたい、と。
次にアイリは、白い陶器のスープカップの中で柔らかな湯気が立つ、ポタージュスープを掬って口に運んだ。
甘い──。
それは、自然な優しい甘さ。
その濃い目のオレンジ色から人参を想像していたのに、その斜め上を行く、これはきっとパプリカのポタージュスープ。
その中に、野菜と鶏とバターの旨味が溶け込んでいて、思わずほっこりとする美味しさをしていた。
昼の冷製ポタージュスープもとても美味しかったけど、これは甲乙付け難くて悩ましい。
強いて言うのなら、パプリカのポタージュスープの方が、一層旨味が強くて濃厚。
一掬い、また一掬いと、スプーンを動かす手は止まってくれなかった。
やっとアイリも辿り着いた、メインディッシュの鶏肉のクリーム煮。
ずっと待っていたと言うか、入念に下準備をしていたと言うか。
白く縁の付いたお皿の真ん中に大きく二つの鶏肉と、周りを彩る様にソースが広がり、浮かぶキノコと玉ねぎ。
その立ち上る匂いだけでも、本当に堪らなかった。
この匂いの正体は、セップ茸。
予想もしなかった食材を使った料理の登場に、胸踊るのは仕方の無い事。
逸る気持ちを押さえつつ、鶏肉にナイフを入れると、かちりと骨に当たったけれど、思いの外簡単にするっと肉が外れて、一口サイズに切り分ける。
口に入れた瞬間、濃厚なソースの旨味が口の中一杯に広がって、肉を噛むと、今度は肉汁がじゅわっと溢れ出て、幸せの波が一気に押し寄せて来た。
噛めば噛む程に、口の中で混ざり合ったエキスが味覚を刺激して堪らない。
よくあるクリーム煮とは違う、これは鶏肉のフリカッセだった。
ソースを堪能すると言うよりも、鶏肉にソースの旨味を足して食べるこの感じ。
幸せだった。
申し訳無い位に。
「なんか──」
「ん?」
気付けば、自然とアイリの口からは言葉が漏れていて。
愛おしく、フリカッセのソースを掬っては、戻し、また掬っては戻す。
「こんなに、贅沢しちゃってて……、本当にいいんでしょうか?」
その胸の内を、包み隠さずアルトにさらけ出す。
辿り着いた異世界で、街の中に存在するのはアルトとアイリ、たったの二人だけ。
さも当たり前の様にして、アルトの作った美味しい夕食に有り付いている現状に、アイリが自責の念に駆られるのも致し方無い事だった。
「いやいや、全然贅沢なんかじゃあ無いよ、コレ。至って普通に作っただけだし」
その普通が、全く普通では無い事に気付かないのは、アルトだけ。
「まあ、アルトさんにとっては、そうなのかも知れませんけど、今の状況が状況ですからね……」
それは、作る側と、作られる側の感性の違いもあって。
昨日なんて、昼食はおろか、夕食だってまともに食べてはいなかった。
今後についても、半ば諦めていた。
それが一転、今日の昼食に始まり、今の夕食に至るのだから。
「そんな事言ってると、後でデザート、あげないよ?」
「──それだけは、絶ぇッ対に、ダメですぅ!」
それは、言葉の暴力。
余りにも非道な仕打ち。
それだけは絶対に受け入れまいと、アイリは必死に首を振る。
「じゃあ、食べた食べた。温度も、料理には重要な要素の一つだからね」
最悪の事態は避けられた様で、安心したアイリは明るく「はーい」と答えると、再び自分のお皿達に戻った。
そして、アイリの目の前には、艶々で燦々と煌めくオムライス。
まるで宝石の様な眩しさで、思わず息を呑んでしまう程に。
まずはそのまま、楕円のお皿の端の方からスプーンを入れ、一口分を持ち上げる。
口に入れると、卵とバターの濃厚な味わいが、折り重なる様に広がった。
そして、鼻から抜ける、芳醇なバターの香り。
これだけでも、十分に美味しい。
けど、目の前のアルトを見て、アレを試さずにはいられなかった。
それはまるで、シチューオムライス。
フリカッセの濃厚なソースと、オムライスの競演。
余りにも悪魔的な、その組み合わせ。
高揚する気持ちを押さえながら、アイリは恐る恐るフリカッセのソースを掬い、オムライスの上から掛けて、その場所を掬い取る。
口に入れ、咀嚼する度に溢れる幸せ。
ずっとこの余韻に浸って居たかった。
何度も、何度も味わい、ポタージュスープを啜って、また味わう。
でも、やがて見えてきた終わりの時。
悲壮感に苛まれながら、アイリは最後の一口を口にした。
じっくりと、消えて無くなるその瞬間まで、噛んで、噛んで、味わう、と──
「はいよ、あいリン。お待ちかね」
アイリの目の前に、新しい一皿が置かれた。
席を立っていたアルトが、いつの間にか運んで来た物で。
ホカホカと湯気を立てているそれは、芳ばしいバターの香り漂う、まあるいドーナツ形のホットビスケット。
しかも、そのシンプルな白くて四角いお皿に、アルトがこの場でトッピングをし出したのだ。
その彩りは、赤、黄、橙。
暖色系の三色のソースを使って、皿を煌びやかに飾ると、トッピングにはブルーベリーとホイップクリーム、それにミントを添えて完成した。
「温かい内に、どうぞ召し上がれ」
「ありがとうございます!」
アイリは嬉々として、ざっくりとナイフでホットビスケットを割りながら、まずは赤いソースを掬い、ホイップを乗せて口へと運ぶ。
表面の層は、ザクザクと音を立てて崩れ、中の生地はしっとりとして温かい。
そこに絡まる、この赤くて優しい甘さのソースの正体は、恐らくトマトの様で。
その意外性にアイリは驚きつつも、次が気になり、続けて黄、橙と順番に試みる。
それは、オレンジに杏。
ほろ苦さと、濃厚な甘さのそれぞれのソース。
一口毎に変化する味わいが、波状となって押し寄せて来て止まなかった。
食後にアルトが淹れた、濃い目のアールグレイの様なフレーバーティーをゆっくりと啜り、アイリは食後の一時を迎えた。
「ごちそう様でした! すっごーーく美味しかったです!」
幸せだった。
この上無い、至福の時。
食事は終わってしまったけれど、今はこの余韻だけで安息を保てる。
そう思うだけで、自然と頬は緩み、心が清らかになる。
「お粗末様でした。いやー、超絶お腹一杯。俺、しばらく動けないわー」
行儀は悪いが、アルトは手足を投げ出す形で椅子に腰掛けて、ふぅ、と一息をついている。
「満腹、満腹ー」
姿勢を戻したアルトが呟いているのを見て、その可愛らしい仕草にアイリは笑みを浮かべた。
そして、眦の下がった双眸でアルトをじっと捉えて──
「アルトさん、……ちょっとお話しませんか?」