3.5. 油と水(裏) ★
ほんの軽い気持ちで、ちょっぴり当て付けの様にお願いしただけのはずなのに。
アイリの目の前では、一体、何が起こっているのだろう。
目まぐるしく繰り広げられている、その動きを目で追う事は出来ても、アルトが何を作る為に、今何をしているのか、さっぱり分からなかった。
今、人参を鮮やかな手付きで細切りにしていたかと思えば、次の瞬間には、蓋がしてあったフライパンの玉ねぎを炒めて、今度は無花果の皮を剥き、少し甘めのいい香りが漂っている鍋の中に放り込んだ。
そのスピードは、余りにも卓越し過ぎていて。
想像していたものと、余りにも違い過ぎて。
「……凄い」
ちょっとでも目を離せば、途端に訳が分からなくなりそうで。
気付けば、視線はアルトに釘付けになっていた──
いつの間にか、料理は全て出来上がったみたいだった。
盛り付け終わった料理を手に取り運ぶ、そのアルトの後ろにぴったりと着いて、アイリは広々とした解放感のあるレストランへとやって来た。
次々と、アルトの手で並べられて行くお皿。
ピンクと赤を基調として、鮮やかに、そしてとっても綺麗に器に盛り付けられた、サーモンのパスタ。
ほんのり赤い、真ん中に刻んだパセリが浮かんだ、涼しげな冷製のポタージュスープ。
オレンジの爽やかな香りのドレッシングと和えてあった、艶々していて綺麗な、蜂蜜の甘くていい匂いがする人参のラペ。
ほんのりとリンゴのような甘い、けど少し爽やかな香りがする冷たいハーブティー。
それに、さっき冷蔵庫に仕舞われていた、無花果のコンポートも、きっと後で出てくるのだろう。
半分呆然とした状態で、何回も往復して、ちょっとづつアルトを手伝って。
最後に、シルバーの準備を横目にして、再びレストランに戻って来た。
「……これ、本当に? 全部、篠谷さんが一人で作った──、んですか?」
ずっと近くで見ていたし、分かっている筈なのに──、分からなかった。
「色々と勝手が違うから、戸惑ったけどねー」
本当にさらっと、どうって事無い風を気取って、アルトは言った。
一体どの辺りが、戸惑っていたと言うのだろう。
アイリが見ていた限り、どう考えても、初めての場所で四苦八苦していた様には見えなかった。
それどころか、戸惑っているのはアイリの方。
プロの料理人の動きなんて、確かにこれまでに見た事は無かった。
それでも──
「これ、勝手が違うってレベルでは済まな──」
「まあまあ、せっかく作ったんだから、温くなる前に食べようよ」
アイリの言葉を遮って、先に椅子へと腰掛けるアルト。
テーブルの上はアルトの手によって綺麗に整えられ、お昼の仕度はその全てが終了していた。
その姿を見て、アイリも弓を置くと、そそくさと反対側の席に着いた。
アルトからの声は無く、微笑みを湛えながら、アイリからの言葉を待っている様な。
「では、遠慮無く。いただきます」
「頂きます」
二人揃って手を合わせ、軽く頭を下げる。
アイリはまず最初に、涼しげなガラスの器に入れられたポタージュスープを掬って、口に運んだ。
ひんやりと冷たくて、けど、濃厚な旨味が、口の中一杯に広がって来る。
それは、ベーコンだったり、玉ねぎだったり。
優しい味の相乗効果に、追い掛けて来るように、バターがふんわりと香って。
そして、どこかほんのりと感じる、トマトの存在感。
最初の期待値なんて、一瞬でどこかに、本当に軽く吹き飛んでしまった。
思わず、驚きの声が口から漏れ出てしまう位に、すっごく美味しくて。
もう一度、掬っては飲み込む。
ごくごくと、喉を鳴らしながら。
じゃがいものお蔭でトロリとした、ひんやり濃厚でクリーミーな喉越し。
しつこくなく、優しく感じる玉ねぎの甘み。
それは飲めば飲む程に、味わい深かった。
気が付けば、たった何口かのポタージュスープだけで、もう、アルトの料理の虜になってしまっていた。
自然と、口元は綻んで。
一息で、半分近く減らしたポタージュスープに軽く後ろ髪を引かれながら、アイリは次に、サーモンのパスタに手を伸ばす。
まるいスリムな鉢の様なお皿に、綺麗な円錐形に高さを出して盛られているその端の方から、くるくると、小さく纏めて、フォークの先にサーモンとプチトマトを刺して。
口に入れた瞬間、少し癖のある、爽やかなディルの香りが鼻から抜けた。
噛めば、サーモンの塩気がねっとりと舌に触れ、プチトマトの濃縮した甘みと混ざり合う。
さらに噛む程に、レモンの酸味と、粒マスタードのピリッとした軽い刺激の相乗効果で、味が引き締まりつつ、より一層美味しく感じられるのだ。
時折、ケッパーを噛んでホロリとした苦味のアクセントが混じって、なおフォークが止まらなくなる。
それは食べ進める程に、後を引いてしまう魔法のパスタ。
正直、目の前のアルトの事を、甘く見過ぎていた。
本当に、申し訳無い位に。
何でこんな人が無職なんだろう、と。
今まで食べてきたパスタの中でも、指折りに入る位に、アルトが作ってくれたこのパスタは美味しかった。
夢中になって食べ進めて、どうやら気付かない内に、物凄く緩んだ顔をしていたみたいだった。
向かい合うアルトの視線に気付き、慌てて真顔に戻ってみる。
別に──、もう普通に接してもいいかな、なんて思いながら。
ここでやっと、アイリは人参のラペにも手を付ける。
小さな可愛らしいお皿にちょこんと盛られた、艶やかなオレンジ色。
そこから仄かに香る、爽やかな、オレンジのいい匂い。
お酢の効いたドレッシングが、口の中をさっぱりと、けど、ここにも隠れていた粒マスタードがピリリと刺激して、ただ酸っぱいだけじゃなく、味をしっかりと引き締めてくれている。
次に口に運ぶと、カリっ、と胡桃が歯に当たった。
溶け出てくる蜂蜜の甘さと、しっかりローストされた胡桃の、カリコリとした食感。
酸っぱい中に甘さが広がり、まろやかな口当たりに変化した。
楽しかった。
食べると言う事が、こんなにも。
アイリは、またパスタに戻って、ポタージュスープを一気に飲み干して、人参のラペをつつきながら、ハーブティーに口を付けた。
カモミールの様な爽やかな香りが口に広がり、後からほんのりと、少しだけ蜂蜜の甘さを感じる。
心安らぐ、自然な香り。
そうやって食べ進めていると、見る見る内にお皿の上の料理は胃の中に消えていって、無くなってしまって。
何だかとっても、切なくて。
とっても綺麗になった、アイリの前にある食べ終えて空いたお皿を儚げに見つめていると、いつの間にか席を立っていたアルトは、無花果のコンポートが盛られたお皿を両手に持ち、アイリの前へと並べて置いた。
そして、ティーポットに入れられたお茶のお代わりを、両方のグラスに静かに注ぎ入れていく。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
交わす言葉は短く、ただそれだけ。
今は、それだけで十分だった。
それは、下皿の上に乗せられた、少しだけしっとりと汗をかいたガラスボウルの器。
ひんやりと、涼しげに。
ほんのりと、無花果は内側から赤い色が滲み出て、艶のある色合いをしていた。
フォークでその果肉を割ると、鮮やかな赤い色が現れて。
口に入れるとトロリと蕩けて、ちょっぴり甘いジュースが、口の中一杯に広がった。
甘過ぎず、自然な味わいの中に、ふわっとシナモンが香る、大人な味。
冷たさが心地好くて、口当たりが優しくて、さっき食べた料理を、ゆっくりと思い返して心に刻んでいく。
最後の余韻まで、余す事無く楽しんていると、とうとう器は空っぽになってしまった。
もっともっと、この料理達を味わいたい。
心の底からの、切なる願いだった。
この時間が永遠に続けばと──
けど、そんな事は叶うはずも無くて、時間は残酷に過ぎてしまう。
まずは、さっきまでの非礼をアルトに謝らなくてはいけなかった。
顔を上げ、アルトを見つめながら。
ちょっぴり、恥ずかしいけど──
「「あのー」」
二人の言葉は、綺麗に重なった──