3. 水と油 ★
あれから、二人は街の中を散策しているが、今のところ街人には出会えていない。
それどころかアルトには、昨夜とは違って昼光の射し込む街並みや、隠れていた情景がまざまざと見て取れた。
やはり家々の窓、扉は開け放たれたままで、洗濯物が干されっぱなしの家もあれば、厨房に調理途中の鍋がコンロに置き去りにされていたりと、様々ではあったが、住民が昨日の昼から失踪していると言われれば──、それは確かに、と思う光景であった。
そんな中、制服を着た本物JKと二人っきりで、真っ昼間からのデート状態であるものの、アルトは何処か上の空だった。
内心では、さっきから見え隠れしている昼飯のことで頭が一杯で。
未だ朝から、何も食べてはいないのだ。
それどころか、水の一滴すらも飲んでいない。
飽くなき食への探求心が、未知の環境に対する期待と不安で綯い交ぜになっていた。
勿論、観光を楽しんでる余裕なんて、どこにも無いのだ。
「そろそろ昼飯の時間だけど、あいリン、お腹空いてる?」
大体、大人で二人分。
アルトとのパーソナルスペースを広めに取った状態で、横を並んで歩くアイリに顔を向けて語り掛ける。
最早、アルトは顧みる事は無かった。
それは、さながら友達感覚の様な。
あくまでも自然体である。
アルトの視線の奥に映る、商店が建ち並ぶ目抜通りも、市場が軒を連ねる路地も、つい今さっきまでその場所で営みが行われていた状態のまま、人だけが忽然と消えた──、正直そう考える他、見当たらない状況の街中を歩く。
「そうですね。ちょっと、空いてきましたね」
アルトがこちらを向いている事など、まるで素知らぬ顔をして、進路を真っ直ぐ前に見据えたまま、淡々とアイリは答えた。
そして、アイリはもう触れる事も無かった。
距離感としては、顔は知っていて、挨拶をした事はあるクラスメイト位な物か。
表情は、何処かぎこちなく。
アイリの視線の先、どの商店も開け放たれたままの扉に、床には散乱した多様な品々。
先程通り過ぎた市場では、調理済みの料理や、生鮮食品がそのままの状態のまま放置されていた。
この盛夏の時期に、一部は腐敗はすれど、虫一匹集っててはいなかったが。
「あいリンは、好きな料理何かある?」
「──えッ? ありますけど……。篠谷さん、料理なんて出来るんですか?」
唐突に、アイリは最もらしい疑問を呈する。
ここまで、何一つ誉められた点の無いアルトに言われたのだから、どう考慮した所で、まともな料理を作れる様には見えないのは、当然と言えば当然の事だった。
自称料理男子特有の、麺の茹で汁と、オイルベースのソースをただフライパンで混ぜ合わせただけ。
なんちゃって乳化を知ってる俺、料理詳しいんだぜとか言い放つのが関の山だ。
水と油は、そう容易く馴染まない。
この場と一緒だ。
そもそも、初対面の女の子にペペロンチーノを作ってあげちゃう、ニンニク臭い男などモテるものか。
しかし、人は見掛けによらないとはよく言ったものだが、人間何か一つ位は取り柄があるもの。
言い掛けてはいたものの、伝え損なった重要な事実があった。
「俺、昨日まで料理人だったの」
「そうだったんですか」
「そして、明日からも料理人。無職なのは今日だけの筈……、だったんだけどね」
「へー、そうなんですねー」
二人の間に、会話のキャッチボールは成立していない。
アルトが投げたボールは、見向きもされずに地面に落ちた。
アイリは、貴方に興味はありません、と言わんばかりの態度を取り続けて久しい。
これは不味い事になっていると、今更ながら気付かされた。
「では、暑いこともありますし……、『パリ・ソワール』でも頂きたいですね」
想像の遥か斜め上を行くアイリの発言に、冷や汗を掻くとまでは言わないが、僅かにアルトの心が動く。
この少女、中々の遣り手だった。
指定された料理は、フレンチには分類されるが、日本人の偉大なシェフがレシピを考案した逸品だ。
アルトはそのレシピを知ってるし、作る事は可能ではあったが、ブイヨンの仕込みに、コンソメをひく所から始まるこの料理。
作るには、この時間に一から仕込み始めたら、明日の晩餐に出すのが妥当な所だろうか。
今──、食べたいんだよね?
普通に考えて、アルトに対する小さな嫌がらせだった。
と言うより、普通はレシピどころか、名前すら知らない方が多数だろう。
「いやー、流石に、昼飯としては間に合わないかなー?」
「──そうでしたね、では、簡単な洋食などでお願いします」
アルトの軽い棒読みには、即時答えが返ってきた。
と言うよりも、アイリの表情筋は、一切動いていなかった。
まるで試されたかの様なやり取りに、思わない事が無いとは言わないが、これまで料理に関して無茶な要求をされるのは慣れたものなので、アルトの思考は自然とメニュー構成へと向かう。
まずはメインとなる食材の確保、米か小麦か、はたまた芋やその他の食材なのか。
この世界の植生が分からないので、自分の目で見て、舌で確かめなければいけなかった。
随分と言ってくれるアイリに対して、やってやろうじゃないか、と気合いを込めて。
「あ、因みになんですが……、この王国は、カシュルートやハラールの様な戒律が定められていない土地柄の様ですので、食材はそれなりに豊富にあると思いますよ」
どうやらこの世界にも、禁じられた食習慣があるらしい──
この世界の主食となる作物は、小麦だった。
作付されている銘柄こそ、アルトには耳慣れない物ではあったが、常用されている小麦粉に関しては、地球の物と質は大きく変わりはしなかった。
そもそも、隣には便利な生き字引がいた訳だから、その都度聞くだけでよかったのだ。
パンにパスタ、初見な形状の物も多少はあるが、おおよそ問題は無いだろう。
肉、魚、野菜、調味料や香辛料類も想像を越えて、かなり豊富に取り揃えられていた。
もしかしたら、胡椒は金と等価値だったりして。
勿論、定番の家畜以外の食肉もあった。
モンスターとか、モンスターとか、モンスターとか。
まあ、まさか異世界で、加工食品や乳製品まで完備されてるなんて、アルトには思いも寄らなかったが。
異世界では、食品添加物が社会問題になっていないのだろうか。
謎の成分が入っていたらと思うと、末恐ろしかった。
いずれにせよ、食文化は地球にかなり近い物があったのは新たな発見だ。
それに何よりも、冷凍、冷蔵庫に調理設備。
この世界では電力ではなく、異世界定番の魔力による技術研究が推進させている様で、魔力の凝縮された魔石を動力としている、とアイリは語っていた。
精肉など、生鮮の多くが、地球の日常の様に、冷蔵ショーケースに入れられている光景は、実際に目の当たりにするとかなり圧倒されるものがある。
五徳やオーブンも、つまみを捻れば火が起きたし、火力の調整まで出来るのだ。
恐らくは、過去の呼応者達の入れ知恵だろうと疑うレベルで、文明は発展している様だった。
そうこうしている内に、大分時間も経ったし、そろそろ始めるとしましょうか。
アルトは拝借してきたサロンを締め、バンダナを頭に巻き、きつく縛ると、「よしッ」と気合いを一入れ、調理に取り掛かった。
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Today's lunch menu
“ スモークサーモンとセミドライトマトの冷製パスタ ”
“ トマトの冷製ミルクポタージュ ”
“ キャロットラペ ”
“ いちじくのコンポート ”
“ アイスハーブティー ”
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提供は、商店さんと行商さん、それと調味料類含む調理スペースまで使用させて頂いた、昨晩お邪魔したところよりも更に豪華な造りの、いかにも歴史を感じさせてますと言った雰囲気のホテルの厨房。
それなりに調理器具も完備で、不思議とこれなら、何をオーダーされても作れる気さえして来たものだ。
このご恩は、決して忘れません──、アルトは胸に誓って。
流石に、この国の通貨に関しては文無しなので、今は支払う事は出来無いが、いつか出会えた際には、必ず相応のお礼をさせて頂こうと。
思っていたのだが──
「気にしない方向でいいと思いますよ。本来であれば、国家から色々と支給されたり、支度金があった筈ですから。もし、然るべき人に出会えたら、その旨で報告しますし」
そう、軽くアイリに言われてしまった。
それでも心配なので一応、バッグの底に転がっていたボールペンとメモ帳で、借用書も一筆書いて供えておいた。
残念ながら、文字が通じるかまでは分からないが。
本当ならば、簡単な洋食とか言われたので、見た目重視のタンポポのオムライスにでもしようか、とアルトも思っていた。
だが、街には中粒種に近い物はあったものの、ジャポニカ米だと言い切れる物が見付けられなかったのだ。
炊き上がりが心配だった事もあって、ひとまずは安直にパスタをチョイスして。
昼だし、夏で暑いと言うことで、ポーションは軽めに仕上げた冷製パスタをメインに、スープとサイドにドリンク、食後のデザートまで付いたAセットでの提供だ。
イタリアンかと問われると、他の国の料理が混ざっているので微妙なラインではあるが、そこは洋食。
ご愛嬌で許される範囲内であろう。
「……これ、本当に? 全部、篠谷さんが一人で作った……、んですか?」
出来上がった料理を、二人で使うには似つかわしくない、スタイリッシュで広々と解放感のあるホテルの食堂へとアルトが運び込むと、訝しんだ瞳を浮かべ、アイリは覗き込む様にして窺っていた。
さっきまで、終始アルトの横に張り付いて、見ていた筈なのだが。
むしろ、さっきまでの距離感は何処へ行った、と言う位、近くに寄って。
「色々と勝手が違うから、戸惑ったけどねー」
色鮮やかに盛り付けられた、パスタとスープにサイド、ドリンクは先ほど既にアルトが並べ終えてある。
デザートも、盛り付けまではしてあるので、食べる直前まで冷蔵庫で冷やして。
最後に、藤の様な植物で編まれた籠に入れて持ってきた、シルバー類をテーブルにセットする。
ナプキンやテーブルクロスまでは用意しなかったものの、食事の準備は万端である。
「これ、勝手が違うってレベルでは済まな──」
「まあまあ、せっかく作ったんだから、温くなる前に食べようよ」
さっきまでの無関心が一転、アイリが食い付くように話し掛けている。
表情筋も、フル稼働だ。
椅子を引き、アルトから先にテーブルに着くと、アイリは弓を置き、そそくさと向かいの椅子に腰掛けた。
「では、遠慮無く。いただきます」
「頂きます」
二人揃って手を合わせ、軽く頭を下げる。
まずは一匙、アルトはポタージュを口に運ぶ。
とてもじゃないがブイヨンをひく程の時間が無かったので、ベーコンと香味野菜を炒めて煮出し、そこにじゃがいもで濃度を加え、飴色で艶やかなソテオニで甘味を引き立てて、丹念に裏漉しした後に、生クリームを加え、最後にバターを溶かして艶を出した事でコクをプラスしてある。
やっつけた割には、素材の奥行きもそこそこに出ており、トマトの風味が主張し過ぎない程度に感じられる、ひんやりと夏らしく軽やかながらも、コクのあるスープに仕上がっていた。
ポタージュを口に含み、小さく「おおぉ」と唸っているアイリを横目にして。
続けてアルトはパスタをフォークで小さく巻き取り、スモークサーモンを共に刺して口元へ運ぶ。
ディルが爽やかに香り立つ。
サーモンの塩気と、やや甘さを孕んだ癖の少ない燻味。
少量を刻んで混ぜ込んであるケッパーの、ほんのり苦味もある特徴的な風味。
オーブンで水分を抜き、濃縮されたミニトマトの旨味。
これらがオイルで繋がって、渾然一体とマッチしている。
そこにレモンと粒マスタードが味のアクセントとなって、締まった味わいに仕上がった。
これは、そう悪くはないんじゃないだろうか。
アイリに目を向けると、小さな口を開きつつ、時折何かを考え込む様にして、黙々と料理を喫していた。
時折、口元を綻ばせ、破壊力抜群の笑顔を垣間見せながら。
合間にはキャロットラペを挟んで、箸休め替わりとする。
こちらも隠し味はマスタードだが、擂り下ろしたオレンジピールと、砕いた胡桃を蜂蜜でカラメリゼした物を混ぜ込んだ。
ただ酸味が効いているだけでは無く、風味と食感も楽しめ、味にも幅を持たせている。
ここまで来ると、アイリは黙々と自分の皿に向かい合い、無言でただその余韻を味わっていた。
やがて、アイリの料理が無くなったタイミングを見計らって、アルトは食後にキンキンに冷やされたコンポートと、お茶のお代わりを供する。
時間的にも色が綺麗に入る所まで持っていけなかったので、今回は熟れ切っていない物を選んで、皮はしっかりと剥いてある。
その艶やかな果実をフォークで割ると、トロりとした色鮮やかな果肉が現れ、糖類を控えめに炊いた蜜が、素材の味を十分に引き立たせていた。
アルトは全ての料理を完食し、カモミールの様な爽やかな香りのするハーブティーで口の中を洗い流した後、ふぅ、と息を整えて前を向く。
暫くするとアイリも食事を終えた様で、やがて軽く息を整えた後、こちらへと視線を向けた。
束の間ではあるが、無音が流れ、二人は見つめ合う形となっていた。
「「あのー」」
やがて、どちらともなく口を開くと、二人の言葉は綺麗に重なり、辺りに気恥ずかしい空気が流れ出た。
どうにか取り繕おうとしているのか、オロオロと狼狽えていたアイリを尻目に、アルトは先に口を開いた。
「ごめんごめん、口には合った、かな?」
「──あ、ごちそう様でした。とても美味しかったですよ。本当です! 疑ってしまって、本当にごめんなさい」
アイリはにこやかな表情を浮かべるも、先ほどまでの自身の態度に思う所があったのか、謝辞を告げると頭を下げた。
「いやいやいや、お粗末様です。全然気にしてないし、この位なら──」
やはり味は、賄いが妥当なレベル。
間に合わせで作られた割には、悪くない仕上がりに纏まってはいた。
だが残念ながら、まだ洗練さが足りていない。
まあ、賄いとしては中々あり得ない時間と労力、それに食材量を掛けられてはいたが。
「これだけ作れて、無職って……、自分のお店でも出す所だったんですか?」
アイリには、本当に美味しいと思えたのだろう。
とても素朴な疑問を、アルトに対して投げ掛けた。
だが、当のアルトは慌てふためく様に、否定の言葉を口に出す。
「無理無理、絶ぇーッ対に無理! そんな事したら親父にどんだけどやされるか。それに、俺はまだまだ修行中の身だし、本当は明日から他所の店、修行に行かされる予定だったんだから──」
──そう言えば、『今、異世界にいるから店に行けません』と言う連絡すらもアルトは出来ない。
一体、どうしたものだろうか。
例え無事に元の世界に戻った所で、地味に気の短い親父に大目玉を食らうのは間違いない事だろう。
問答無用で拳骨が飛んでくる。
連絡の一つも寄越さずに消えやがって、と。
その光景を思い浮かべて、思わず頭を抱え込んでしまった。
「えッ!? でも、凄く美味しかったですよ? 特に、パスタなんて。他のもレストランで出てきても、全然おかしくない位には──」
アイリは、段々と、声高に言い募ってくる。
むしろ、テーブルに両手を付き、身を乗り出さんばかりに身体を近寄せて。
アルトはそれに驚き、下げていた頭を戻すと、オーバーに両手を前に出して、それ以上は口に出してはいけないと、猛アピールする。
だがやはり、パスタは大当たりしていたようだった。
「ありがとう。ホントすーッんごく嬉しいんだけど、それ、本職の人に聞かれたら、マジで怒られる奴だから」
「本職って、アルトさん──、シェフじゃ、ないんですか?」
それは、大いなる勘違い。
誉められた事は、素直に嬉しかったが。
だが、小難しいもの事でも考えるかの様にアルトは腕を組み、「うーん」と、小さく唸る。
「残念ながら、俺の専門は和食なんだよねー」
そこには、開いた口が塞がらないとばかりに、呆然とした表情のアイリがいた──