8. 青竜の守護者
音を聞き、ばっ、とアルトは先行する形で屋外に出てみたが、その周囲には何も見当たら無かった。
あの鳴き声、流石に聞き間違えとは考え難い。
徐に、目線を上方に動かすと──
上空には、普通の鳥類よりも明らかに巨躯を誇る黒い影が、円を描く様にして飛翔していた。
「何なんだよ……、あれッ!」
目を細めて見上げながら、予想だにしない事態に声を荒らげる。
唐突に巻き起こる、異世界との邂逅。
後ろから付いて来たアイリが横に並び、思慮深い面持ちでぽつり、と呟いた。
「あれは……。多分、小型の成竜……、こんな場所に、何で──」
暫く上空を旋回していた黒い影は、こちらに焦点を絞ったのか、翼を大きくはためかせながら、少し離れた地点へとゆっくり地上に降下し始めた。
次第に見えてきたそれは、まさに物語の中に登場するドラゴンそのもの。
瑠璃色よりもなお冴える様な青い鱗を持った、爬虫類の、それもヤモリに似た愛らしい顔付きだが、巨大なイグアナに皮膜の張った翼を足した様な見た目の生物。
それが、目算でも三メートルに至ろうかと言う程の体躯を誇っていた。
加えて、ドラゴンに跨がる形で騎竜している、煤けた薄茶色の外套のフードを目深く被った謎の人物が、そこにはいた。
立ち竦む、二人から発される言葉は無かった。
ただ静かに、目の前の状況に流されている。
それは、畏怖、驚嘆など、様々な感情が綯い交ぜになっているせいであり、こんな状況にも関わらず、突然として進行するこの世界との接触に、僅かな好奇を抱いた為でもあった。
やがて完全に地に足を着けた一人と一匹は離れ、外套を羽織った謎の人物だけが、二人の元へと歩み寄る。
そして、間近まで迫って来た所で、徐にそのフードを脱ぎ放った。
──現れたのは、青年期を終えたであろう風貌の男。
身を包む外套もあって容姿の全貌は図れないが、余り手入れの行き届いていないであろう金髪を、後ろで一本に結わえていた。
「אתם יודעים משהו על המצב הזה?」
「えッ? 何てッ!?」
唐突に男が発したそれは、恐らくこの世界の物であろう言語だった。
勿論、アルトに理解出来る筈も無く。
折角の第一異世界人との出会いも、意思の疎通が図れない事を悟り、怪訝そうな面持ちをしていると、続けてアイリから、余りにも耳慣れない言葉が発された。
「לא מבין」
「あいリンの口からも、何か変な言葉が出たしッ!?」
アルトの口からは、率直な感想が溢れる。
失礼極まりない発言ではあるものの、どう贔屓目に聞き取っても、それは日本語では無い言語。
その怪訝そうな顔のまま、アルトは首から上を隣に向けると、同じく横向くアイリのつぶらな瞳と目が合った。
「そうそうアルトさん、忘れてました。ごめんなさい。分からないですよね……、このネックレスを着けてみて下さい」
そう言って、アイリは自らの首元に掛けられた、チェーンと琥珀色の石がトップに嵌められただけのシンプルなネックレスを外し、そのまま当惑するアルトの首に手を回してフックを留めた。
「お、おぅ……。これ、何ッ!?」
ふわり、と風に乗っていい匂いがした。
その突然の行動に、流石のアルトの鼓動も早まりを見せる。
当然、顔も若干紅潮して。
昨日から一緒にいて、こんなにもアイリを間近に感じたのは初めてだったのだから。
「これで……、そちらも、会話が出来るのかな?」
傍らから聞こえた声にアルトは振り向くと、すぐ目の前には男が歩み寄って来ていた。
近寄る男をよくよく見れば、最初の野卑な印象と違って、中々端正な顔立ちをしている。
その吸い込まれる様に澄んだ碧眼が印象的で、垂れた目と緩やかな口元が相俟って、所謂、甘いマスクと言う奴だろう。
「それでは、再度問おう。君達は、この状況について何か知っているのかい?」
「答えは変わりません。さっきと一緒です」
そのアイリの変わらない最初の答えとは、恐らく『わからない』であったのだろう。
それは昨日、アイリ自身が確かに発言していた。
そして、それは分かっているとばかりに、男はアルトの方を見やり──
「そこの、隣の彼もかい?」
「お、俺ッ!?」
突然の指名に、アルトは思わず自分の顔に指を向け、男に確認を取ってしまう。
と言うよりも何故──、明らかにこの状況はおかしくは無いだろうか。
「あのー、まず、全然分からないんだけど……。何で俺、この人と言葉が通じてる!?」
それは、当然の疑問。
アルトは隣のアイリに再度目を向けて、明らかな違和感を指摘する。
さっきまでの意味不明な言語が一転、アルトは普通に日本語で男の言葉を理解しているのだ。
さっきまでの言葉は、発音をまともに聞き取る事すら出来なかったと言うのに。
「アルトさんが今着けたネックレス、それのせいですね。マジックアイテム? みたいな物らしいんですけど、『融和の首飾り』って言うんですって」
「そんな都合のいいもんがあるんかいッ!!」
アイリの説明に対し、アルトの口からは、思い掛けずに綺麗なツッコミが飛び出た。
取って付けた様なご都合主義な展開ではあるが、英語すら話せないのに海外留学しているのと同じ様な現状、ありがたい事には違いない。
と言うよりも、そのマジックアイテムの仕組みが偉く気になるのだが。
どう考えたって、アルトの方が異世界語を話しているのだろう。
一体あれは、どうやって発音するのだろうか。
「召喚された人達は、込められた魔力量の関係で、全員が全員、完全な形で知識がトレースされない場合があるそうなんですよ。その対策が、その首飾りみたいで……」
そう言われてしまうと、アルトも納得せざるを得ない。
それでも、やや腑に落ちない表情を浮かべていると、
「そう言う事らしいんだけど、こっちからもいいかな?」
律儀にも発言の許可を取った男が、続けざまに口を開いた。
「自己紹介もまだだったねぇ。僕はアロン。しがないハンターさ。よろしく、可憐な『呼応者』様──」
そう言ってにこやかな笑みを浮かべたアロンは、その右手をアイリへと差し伸べた。
「私は橘 愛莉です。アロンさん……、『青竜の守護者』でありエベイジア王国所属、Aランクの凄腕のハンターさん、ですよね?」
二つ名に、Aランク。
それはこの世界において、指折りの実力者であることを示していた。
否応無しに厨二心をくすぐられる、と言うものだろう。
惜しむらくは、後一歩、Sじゃあ無い事位か。
しかし、アルトも頭で理解している事ではあるのだが、アイリの持つその『知識』の便利さには頭が上がらない。
アロンは小さく「ああ」と返すと、アイリから差し伸べられた手を取り、握手を交わす。
しかしそれだけには留まらず、一歩前へ踏み出て事も無げに手を引き寄せ、そのアイリの手の甲へ軽くキスをした。
「んぎゃぁッ!?」
漏れ出たのは、脇に置かれて見せ付けられた、アルトの心からの悲嘆の叫びであろう。
アイリは声も無く手を振り解き、素早く手を身体に引き寄せると、その甲を左手で包み、身をよじらせる。
思わずアルトは二人の間に割り入り、背にアイリを庇う様な形で、アロンの前に立ち塞がった。
「な、何してんだ、お前ッ!?」
更には大きく手を広げ、うめき声をあげる番犬さながら、アロンを威嚇する様にしてアイリを防守せんとする。
幾らイケメンだからと言っても、やっていい事といけない事はあるだろう。
「何してるって? 敬愛の表現を取ったまでさ。そもそも君には関係の無いことだろう?」
「だ、大丈夫ですよ、アルトさん。ちょっとビックリしただけですから」
「いや、大丈夫って──、大丈夫なのッ!?」
後ろから聞こえたアイリの声に、アルトは思わず振り返る。
しかし、大丈夫とはどういう意味だろうか。
無粋だとは分かってはいても、余計な勘繰りを入れてしまうのは仕方の無い事。
アルトだって生粋の平たい顔族なのだ、目鼻立ちのはっきりとした顔立ちに憧れが無い訳では無い。
「それはいいとして、君……、アルト君と言うのかな? 君は一体、何者なんだい?」
「いや、何者だと言われても、どこからどう見ても、どこにでもいる普通の日本人でしょうが」
黒目黒髪、中肉中背、猫背鈍足、空気が読めない。
得意なのは料理だけ。
こんな奴が至って普通の日本人と言われると、大勢の日本人は腑に落ちないだろう。
どう見ても、マイノリティグループだった。
「全く以て、普通では無いかな? ……日本人? それは分からないけど、元来、この世界において異世界からの『呼応者』は、百年に一度。一時代には一人しか現れないと言い伝えられているからねぇ」
それはアルトも既に、アイリから聞いて知っていた。
やはり、この世界の常識において、アルトは普通の存在では無かったらしい。
「そもそも、さっきから、その『呼応者』って何のこっちゃ?」
「アルトさん、『呼応者』って言うのは、この世界にある『聖器』──私の場合は、聖弓に導かれて召喚された、人達の事を指すんです」
さっきから、アルトの前後での入れ代わり立ち代わりの会話がやけに忙しい。
言われて見れば、アイリは昨日から常にその燦爛たる装飾の弓を携えていた。
その聖器に導かれて、事前の承諾も無く強制的に召喚されるとは、何とも自分達には都合のいい異世界もあったものだが。
「はぁ……。で、俺は二人目だし、そもそも何に導かれたのかが分かってない、って訳だ」
そんなもん、こっちが聞きたいわぁッ!
勝手に呼び出しておいて、何しに来たと言われる。
一体、この世界は何様だと言うのか。
それでも既出の事実として、現時点でアルトは完全なる不審者でしか無い様で。
「そう言う事になりますね。でも安心して、アルトさんが私と同じ国からやって来たって事は、私が保証してあげますから」
突然アイリの口から衝いて出た、アルトを擁護する言葉。
担保としてはこの上無いが、それだけで納得するには至れない。
出会ったのは昨日、アルトがした事と言えば、四食程飯を作った位で。
「本当ッ!? え、でも、俺もあいリンも、言う程お互いの事は、そんなに知らないよね?」
「──まあ、そうなんですけどね。なんと言うか……、悪い人じゃ無いかな? って、直感的な感じです」
「何それッ!? 俺、運命の人じゃん!?」
うひょーっ、と声をあげそうな程に、アルトの浮かれた顔がにやけている。
残念ながら、さっきまでの料理をしていた時とは、まるで別人。
しかも、揚げ足取り甚だしい。
これでは、ビビっとくる要素など皆無だった。
「もぉ、そうやって、すぐ調子に乗るんだから! ……そのふざけたのが無かったら、いい人なんですけどね」
「あいすいません」
こいつ、そう言えば調子に乗せてはいけない人であった。
願わくば、ずっと料理だけしていればいいのに。
「そろそろいいかな? 『呼応者』たるアイリちゃんが保証するのであれば、恐らく、彼は何とでもなるだろうねぇ。……そう言えば、城壁の外に待ってる人達もいるから、ちょっと開門しに行こうか。ここはその人達がそのまま調査に入るだろうから、アイリちゃん達は僕に付いてきて」
アロンはそう告げると、右手でピィーー、と指笛を鳴らし、着陸した地点でそのまま猫の様に丸くなっていた竜へ合図を送る。
返事の様に一鳴きして舞い上がり、こちらへと飛翔して来た竜は、アロンの側で羽ばたき、再び着陸した。
「その前に……、私達も街を出ようとしていたので、荷詰めした物があるんですよ。少し待ってて欲しいんですが、取りに……、行かせて貰えませんか?」
「あー、そう言えば昼飯食いっぱなしじゃん。皿とか片して無いし、って言うか、俺の魂が!」
それぞれに、大切な物があった。
特に、アルトにとってあの包丁の価値はエクレアな、絶対に譲れない装備品だ。
親父との思い出の品でもあった。
みすみす手放すなんて、あり得ない。
「そうかい。じゃあ、最後に一つだけ確認するけど、アイリちゃん達以外、この王都にいた人達がどうなったのか、知ってるかい?」
その問いに、アイリは大きく頭を振った。
この二日間、探せども探せども、遂には見付けられなかったその答え。
表情に微かな懊悩を浮かべるアイリを横目に、アルトも答える。
「分からないね。俺は一昨日の夜からいるけど、そもそも一人も見ていないし、あいリンは一昨日の昼過ぎから誰も見ていないそうだ」
「……そうかい、分かったよ」
そして会話は終わりを告げ、一行は一路ホテルへと、踵を返すのだった。




