夏の終わり、「優しい君が。」
夕暮れの、柔らかな日差しを浴びながら彼女は立っていた。
校舎の中はあかね色に染まり、彼女を優しく包みこむ。
初秋に近い、まだ少し蒸し暑い、夏の空気を含んだ風が窓から入り、彼女の少し短い柔らかそうな髪をなびかせていた。
その髪に触れてみたいと、
ふと思い、理由がわからず戸惑った。
校庭からは運動部のかけ声や、吹奏楽部の鳴らす管楽器の音色が響いてくる。だけどそんな喧噪も俺の耳にはほとんど入って来なかった。
窓からは北校舎が見える。
その景色を見つめる彼女は幸せそうで。
――どこか淋しそうに微笑んでいたから。
◇◇◇
~夏の終わり、「優しい君が。」~
「何見てるの?」
「あ…れ、春馬くん……」
声をかけると、彼女、幸田咲が振り向いた。
俺がこの場所にいるとは思ってもいなかったみたいだ。
きょとんとした顔でこちらを見ていた。
正直なところ、俺自身も彼女に声をかけるかどうかは、ギリギリまで迷った。
――ねえ。なんでそんなに淋しそうなの?
…なんて言えるわけもなく。
不自然なぐらい明るい声を出して、廊下の片隅にいる彼女のそばに行く。
そうだ、楽しい話をしよう。彼女が笑ってくれるように。
そう、彼女の視線の先にあるものをきっかけに、そこからなにか彼女と共通の話題が見つけて。
俺は話し上手な方だと思うし、会話が盛り上がればきっと彼女も楽しんでくれる。きっと笑顔になるはずだ。
彼女が抱える淋しさは、こんな事ぐらいじゃあどうにもならないだろうけれど。少しでも笑顔になってくれたら。
「なになに?なにか気になるものでも・・・」
「えっと、あ…っ」
なのに、彼女の。
その視線の先にいたのは。
「中村さんと、トオル…」
――今、一番そうであって欲しくない人物の名前を、俺は呟いた。
◇◇◇
彼女、幸田咲と出会ったのは半年ほど前の事だった。
全く接点のなかった彼女に、声をかけたのは俺の方からだった。
理由は、簡単に言うと“親友の恋の橋渡し”。
ただし、俺の親友であるトオルが恋をした相手は、彼女ではなく、彼女の親友の中村さんだった。つまり俺たちは互いに、その恋の当事者ではなく、彼らの親友という立場だったのだ。
高校一年の終わり。
俺はトオルから好きになった子がいると告白された。
出会いは何かの委員会だったと言っていたと思う。
人望もあり任されたらイヤと言えない性格のあいつは、「俺で良ければ」と役を引き受けたようだったけれど、まさかそこで出会った彼女と恋愛に発展するとは、思ってもいなかったみたいだ。
初めはただの委員会仲間。
だけど親しくしているうちに、次第に別の思いが芽生えていったようで。
友達以上だが恋人未満という、心地良いけれど悩ましい関係に、あいつはだいぶ参っていた。
ぐだぐだぐだぐだ、悩み落ち込んでは、相談と称して人に絡んでくるので、正直若干うっとうしいと思いながらも、それでも十年来の親友だ。
優しくて実直で、だけどとても不器用な友人が初めて恋をした。せっかくだから一肌脱いでやるかと思っていた時に、偶然に彼女、幸田咲と一緒になったのだ。
確か登下校中か何かだったと思う。
『幸田さん?中村さんの友達だよね。ちょっといい?』
『あ…、トオル君の友達の…』
『そう。青木春馬です。』
それまでは“トオルの好きな女と、よく一緒にいる女子”という認識しか俺にはなく、トオルは中村さんと一緒にいる彼女とよく話していたようだけれど、俺自身はほとんど接点がなかった。
だから少々強引だということはわかってはいたのだけれども、ほぼ初対面の彼女に声をかけた理由はただ一点、
――彼女は協力者としてうってつけだ、と。
そう思ったからだ。
多分あの時の彼女は、突然、親しくもない同級生に声をかけられて、戸惑っていたように思う。あの大きくて黒めがちの目を見開いて、驚きで固まっていた。
彼女の様子を見てようやく少し冷静になり、「我ながら強引すぎだろう!」とあせったけれど後の祭りだ。彼女からしたら、親しくもない同級生の突然の提案だ。戸惑うなという方が無理だったと思う。
ただ、言い訳をさせてもらえるとすれば、トオルのめめしさと行動力のなさにあきれてもいて、だけど逆になんとかしてやらなければという使命感にも似た何かに俺自身が突き動かされていた事か。だからこそあんな風に、勢いだけで彼女に声をかけたのだと思う。さすがにあの時は急すぎたな、と俺も後になって反省をした。
ただ、俺からしたら、トオルも相手の女子も両片思いでお互い惹かれ合っているように思えたし、「はやくくっつけば?」とあからさまに背中を押したりもしたのだけれどあまり効果はなく。
それならばと周りから外堀を作って埋めてしまえば手っ取り早いだろうという、安直な考えからだった。
けれども彼女は、急な事に訳もわからず面食らっている筈なのに、真剣に俺の話を聞いてくれた。
――あ、こいつ絶対良いやつだ。
この時の俺は直感でそう感じた。
だからこそ俺は、俺の気持ちを正直に彼女に話そうと思った。そうしないとフェアじゃない気がしたからだ。
『いや…ほんと。マジでトオルには余計なことすんなって怒られそうなんだけど。でもあの二人見ててイライラするっていうか。……幸田さんも同じ気持ちなんじゃないかって。つまり何が言いたいかっていうと…、俺たち協力しないかって事。…あいつらがうまくいくようにさ』
思っていること、感じていること、俺のありのままの本心を伝えた。あまりに唐突な提案だけに、引かれることも覚悟していたのだけれど。
『…いいよ!やる!わたしやる!協力するよ!青木くん!』
驚いたことに彼女の返事は、まさかの了承で。
しかも驚くほど乗り気の彼女に、頼んだ俺の方が戸惑ったぐらいだった。
顔には出さなかったが、ほとんど初対面の男を信頼してこいつは警戒心はないのかと心配になるくらいに。
だけど、後から聞いたところによると、彼女も親友のために何かしたいと考えていたらしい。
そんな時に、トオルの親友の俺が声をかけてきたことは、彼女にとっても願ってもないことだったようだ。
とりあえず俺のこともトオルから聞いて知っていたらしく、全く知らない相手ではない、むしろトオルが俺のことはかなり持ち上げて話していたようで、彼女の中で俺は『親友思いのすごくいい男』だった。
……まあ悪い気はしなかった。むず痒い思いはあったけれど。
結局トオルのそういうところが俺も憎めないんだよな。だから十年も友達をやっているし、こうやってこっちから何かできないかと思えるのだから。
そうして不思議な縁で、俺、青木春馬と、彼女、幸田咲との関係がここから始まったのだった。
◇◇◇
そこからはトントン拍子に話は進んだ。
俺はトオルの親友。幸田は中村の親友。俺たちは互いに相手の親友という立ち位置にいて、協力すればいくらでも仲立ちできた。
一緒に出かけるきっかけをつくったり。
さりげなく二人きりにしたり。
あからさまに恋人扱いしたり。
その成果か、あの二人の距離はどんどん縮まっていった。
俺はことあるたびに幸田に感謝された。
――この前4人で行った港公園のヴィンテージバザー、ともちんすっごく楽しかったって!青木くんが誘ってくれたおかげだよ!
――この前4人で出かけた時にね、二人でおそろいのストラップ買ったんだって!青木くん、さりげなくトオルくんに勧めてたでしょ?ありがとう!
初めはトオルのためという大義名分があったが、そのうちに俺自身も4人でいることが楽しんでいた。
なにより幸田の醸し出す空気感は俺たち3人にとって、安心できてとても居心地の良いものだった。
いつも笑顔を絶やさず一生懸命な彼女に、俺自身も友人として好感を抱くようになるのも遅くはなかった。初めに感じた俺の直感は大当たりだ。実際、関わっていく中で知った彼女は全くその通りの人物で。
彼女は本当に“信じられないほど良いやつ”だったのだ。
そう。
彼女は本当に打算も欲も、見返りを期待する事もなく、本心から親友のために心を傾けていた。時間を作り、動き、自分にできることは何でもしていた。
だけどそれがどれだけ残酷なことだったのか。俺はこの時、何も気づいていなかった。
みんなの前では笑いながら。
だけど誰もいないところで、彼女はこっそり泣いていたのかもしれないのに。
◇◇◇
気づいたのはいつだっただろう。
何か違和感を感じたのは。
いつも笑っている彼女の表情に混じったほんの少しの違和感。
笑っているのに、淋しそうな悲しそうな、どこか矛盾した感情。
それからは注意深く彼女のことを見るようになり、ある日、唐突に理解した。
――ああ、そうか。彼女はトオルが好きなんだ。
彼女のトオルを見る瞳。
話す言葉。
その態度。
全てがトオルに向かっていた。とても気をつけて見ていないとわからないぐらいに、そっと。柔らかく静かに。
そう。彼女は本心をとてもうまく隠して、ずっと笑っていたのだ。
きっと彼女自身、どうしようとも思っていなかった感情だ。伝えることもなく、誰かに知ってもらいたいとも思ってさえいない気持ち。
けれども、彼女自身がそう望んでいたのだとしても。それは俺の言い訳でしかない。
俺があの時声をかけなければ。
彼女を巻き込まなければ。
彼女がこんなにも傷つくことはなかったかもしれないのだから。
俺はひとかけらも考えはしなかった。
彼女が本当は、トオルのことが好きだったなんて。考えもしなかったんだ。
◇◇◇
考えなしだった過去の自分を振り返りながら、今目の前にいる彼女を見つめた。
トオルが数日前、俺に言った言葉を思い出す。
――いろいろありがとな、ハル。
『俺…、中村に言うわ。幸田とハルと、二人にはずっと支えてもらって、すっげー感謝してる。けじめだよな!しっかり気持ち伝えてくるわ!』
そう言って吹っ切れたように笑う親友に、頑張って欲しい気持ちと、幸田のことを思うと複雑な気持ちが、俺の中でぐるぐる回る。出口は見つからず、どこに向かうのか俺自身もわからない感情が積もっていく。
きっと聡い彼女の事だ。
今日、あの場所で、あの二人が何をしようとしているのか、もうわかっている。
わかっていて、きっとこの場所にいる。
多分、不安になった中村さんに泣きつかれでもしたんだろう。優しい彼女は友達のことが心配で、そして自分の気持ちを完全に終わらせるためにも、最後まで見届けようとでも思ったのかもしれない。
……だからこそ、あえて俺は言葉にするよ。
もうこれ以上君が傷つかなくてもすむように。
――彼女が一番傷つく言葉を。
「今日……、中村さんに告白ってさ。トオルのやつ」
彼女が息をのんだのがわかった。
だけどもう君がそんな事する必要はないんだと。
あいつらの事はもう心配しなくていい。
辛いなら見なくてもいいんだ。
自分の気持ちをもう偽らなくてもいいんだ。
――そう思ったのに。
「そっかあ!」
彼女の表情が崩れたのは一瞬で。
彼女はすぐにいつもの彼女になり、明るい声で俺に応える。
「よかったあ!ともちんぜったい喜ぶよ!春馬くんと二人でお膳立てしてきた甲斐があったねー!」
そう、確かにこの日のために俺たちは、あいつらの仲を取り持ってきた。
「そっかあ今日かあっ、うんうん」
だけどそれは、君を傷つけていい理由にはならない。君に辛い思いをさせてもいいという言い訳にもならない。
「…幸田さん」
「でもともちん、ちゃんと返事できるかな?けっこう恥ずかしがり屋だからなあ。見た目はあんなにしっかりしてるのにね!本当はとっても繊細なんだよ。それにね…」
君が本当に心から喜んでいるのがわかる。うまく二人が思いを伝えられるか少し心配しているのも、ちゃんとうまくいけばいいと思っていることも。その笑顔が嘘じゃないのもわかってる。
「幸田さん」
だからもう。
笑わないで。
もう。笑わないでくれよ。泣けばいい。そうすれば、全力で慰められる。謝ることだってできるのに。
そんな俺の言い訳ともいえる願いなんて、彼女に伝わる事は当然無くて。はしゃいだ様子を見せる彼女に、また無理をさせてしまっていると感じてしまって。
「そこがかわいいんだよねー。トオル君もきっと…」
「幸田さん!!」
耐えきれなくて、彼女の言葉を遮るように、俺は叫んだ。
一瞬、辺りは静まりかえり、俺たち二人の間に静寂が流れ落ちる。
その後、静かに、ゆるゆると。部活の喧噪や吹奏楽の音色、学校内のざわめき。どこか遠かった喧噪が戻ってくる。
彼女はほんの一瞬、息を止め。
そして校舎の向こう、遠くを見つめながら、一言呟いた。
「……ありがとね。春馬くん」
それはまた感謝の言葉で。
「ともちんとトオルくんって、すごく仲良かったけど、今の距離をどうしたらいいかわからないって、ともちんずっと悩んでた…。そんな時だったんだよ。春馬君が声をかけてくれたのは」
……もういい。
「今みたいに二人が想いあうようになったのも、全部全部春馬くんのおかげだよ。だから」
……もうやめろよ。
「ありがとう、なんだよっ」
……なんでありがとうなんだ。もう、もう無理に笑うなよ!
彼女の言葉を聞きながら、八つ当たりにも似た、ぐちゃぐちゃになったやるせない胸の中をなんとか押しとどめながら。
吐き出すように、俺は言った。
「…俺は。すごく、後悔してる」
その一言で何かを察したのか、彼女も話すのを止める。沈黙が流れ、俺たち二人は視線を合わさないように、窓の外を眺めた。
だけどそれは最悪のタイミングで。
俺たちの目の前にはトオルと中村さんが、思いが通じ合った二人がいた。
トオルはどうやらうまく告白できたようだ。
だけど。だけど、そんな二人の姿をこのタイミングで俺たちに見せつけなくてもいいだろう!
そんな身勝手な八つ当たりを俺が心の中でトオル達にぶつけていた時、沈黙を破るように彼女が声をあげる。
「……よし!それじゃあ、あたしも帰るね!バイバイ春馬くん!」
「え…、あ…」
親友の恋が成就したことを見届け、彼女は最後まで笑顔のままで、振り向くことなく駆けていった。
「幸田さん!」
彼女の足音が遠ざかっていく。
きっと彼女は一人になって心を整理して、その後はいつもの彼女に戻って、俺たちの側で何事もなかったようにまた笑うんだろう、…心に蓋をして。
自分の気持ちをなかったことにして。
だから俺もあいつの気持ちに知らないふりをする。そして今までと変わらず4人で一緒にいて笑っていればいい。それが彼女の望む世界だからだ。
きっとそれが彼女にとっての最善で。
俺たちにとっての最適で。
きっと正しい判断だと思う。
なのに何で俺は走ってるんだ?
なんで俺は彼女を追いかけてるんだ。
そんなの決まっている。
俺が納得できないからだ。
彼女にとっては迷惑だろうけれど。
俺の独りよがりでも、このままあいつだけが我慢して終わるなんて嫌だ。
わかってるよ!彼女はそっとしておいて欲しいはずだ。一人になって泣きたいはずだ。
だけど俺が放っておけないんだよ!
俺一人くらい、覚えていたって良いじゃないか。なかったことにしようとしている彼女の気持ちを、受けとめてやりたい。
もう、あいつにひとりで泣いて欲しくないんだ!!
「幸田!」
「春馬…くん?」
掴んだ彼女の腕は、とても小さかった。俺が追いかけてくるなんて思ってもいなかったんだろう。彼女はとても驚いた顔をして俺を見つめていた。
そして俺は全てをぶちまけた。
俺が、彼女の気持ちを気づいていたことも、それに気づかないふりをして彼女を利用し続けていたことも。謝って謝って、許してもらえなくても仕方がないと思っていたのに。彼女はやっぱり彼女だった。わかってたよ、俺を責めたりしないんだろ。悪いのは親友の好きな相手を好きになった自分だと、そういうんだろう?
だから俺が伝えるんだ。
友情も、恋心も、その後悔も。
君は全然間違っていなかった。ただただ優しくて、温かだった。
だって、優しい君が側にいてくれて、
俺もトオルも中村も、本当に、心から良かったと思っているのだから。
「…ああ、知ってる。幸田さんがあの二人を。すごく大切に思っていたこと。俺は知ってるから。大丈夫。大丈夫だよ」
彼女の瞳から次から次に涙がこぼれる。
それを見てほっとした俺は、ひどいやつなのかもしれない。座り込んでしまった彼女の側に寄り、そっと頭を撫ぜた。
柔らかな彼女の髪に触れて、そして『ああ、俺はこうしたかったんだ』と気づいた。
子ども扱いだと君は怒るかもしれない。でもごめんな。だって俺はずっと、泣かない君を慰めたかったんだ。
見上げれば、校舎の上に広がる夏の夕空。
何かが始まり、何かが終わった夏。だけど夏も終わりだ。もう蝉の鳴き声もどこか遠い。
澄み切った空はどこまでも高く、周りの景色は次の季節へと移り変わってゆく。
残暑の空気に火照った頬に、秋の風が心地よい。
夏の空気に混じる秋の気配を感じながら、俺たちの間を、柔らかな涼しい風が吹き抜けていった。
このおはなしと対になる、女の子視点の物語もあります。
よかったらご覧くださいね。
https://yukimicho.com/artwork①-アオハルデイズ-夏/