地上に落ちてきた少年
その子は突然空から降ってきた。
孤児院の屋根を突き破って、厨房へと落下してきたのだ。
厨房係によると「危うく熱々のスープ鍋に頭から突っ込むところだった」そうだ。
落ちてきたのは1人の少年。屋根を突き破るほどの衝撃にもかかわらず、その少年は身体にいくつかの打ち身を作っただけで済んだ。これは一種の奇跡といっても差し支えなかろう。
少年は孤児院で丁重に保護され、厳重に個室へと隔離された。
なぜならば、その少年は「特別」だったから。
なにが特別だったかと言うと、なんと少年の背中からは、一対の純白の翼が生えていたからだ。
人々は口々に「天使様だ」と言った。
その事実はすぐに近隣の教会にもたらされた。天使の降臨という奇跡を無視できる教会などあるわけがないだろう。
早速各教会関係者がこぞって孤児院に押し寄せた。奇跡の一端をひとめ見ようと。あわよくば天使として奉りあげて、布教への足掛かりとしようとしたのかもしれない。
しかし、教会関係者が孤児院を訪れ、少年と対面した時、彼らは困惑することになる。
あれほどまでに関係者から聞いていた少年の背中の翼が、跡形もなく無くなっていたからだ。少年の世話をしていた者によると、ある朝目覚めたら突如として翼が消えていたそうだ。
確かに翼があったと主張する孤児院側と、冷めた態度の協会側。
結局、天使騒動は孤児院側の捏造、あるいは勘違いとして急速に収束した。
ところでその孤児院には1人の少女がいた。
好奇心旺盛な彼女――クラリッサは、噂の「天使様」をひとめ見ようと、世話係のいない時間を見計らって、少年が保護されている個室にこっそり忍び込んだ。
ドアの開く音に反応して、少年が不思議そうな視線をこちらに投げかける。
クラリッサは慌てて胸の前で両手を振る。
「あ、怪しいものじゃないよ。わたしはクラリッサ。あなたの名前は?」
「な……え……?」
もしかして言葉がわからないのかな。外国の子?
クラリッサは自分の顔を指差し、再び告げる。
「わたし、クラリッサ」
そのあとで少年を指し示す。
「あなたは?」
一呼吸置いた後で少年は口を開いた。
「……――」
「え? なに? なんて言ったの?」
聞き取れない言葉。やっぱりこの子、外国の子なのかな? クラリッサは目の前の少年をまじまじと見つめる。
ベッドに半身を起こしている少年は、輝く黄金色の髪と白磁のような肌を持ち、澄み渡った空のような瞳に整った鼻梁と薄い唇。翼がなくても天使として通じるくらい美しかった。食事中だったようで、目の前のテーブルにはスープと小さなパンといったシンプルな食べ物が置かれている。しかし、手を付けられた様子はない。
よく見れば、少年の身体は「細い」を通り越してガリガリだった。
そういえば少年の世話係が「あの子、ちっとも食事をとらないのよ」とこぼしていた事がある。
「ごはん、食べないの?」
相変わらず少年は不思議そうにクラリッサを見つめている。
「それなら、わたしが食べちゃうよ?」
孤児院の宿命と言えようか、この施設の食事も例に漏れず質素なもので、育ち盛りの子供たちはいつも空腹感を抱えていた。クラリッサも例外ではない。
早速その手を皿に伸ばすと、パンを取り上げひとくち齧る。少年は何も言わない。
はあ、しあわせ……
このような粗末なものでも、ここでは貴重な栄養源なのだ。
ふたくち目を齧ろうとしたその時、少年の腹部からいささか情けない低音が漏れた。
クラリッサは手を止める。
「なんだ。やっぱりお腹空いてるんじゃない。パン返すから食べなよ……ひとくち齧っちゃったけど……」
クラリッサがお皿へとパンを戻すと、少年はおそるおそる手を伸ばしてパンを両手で持つ。
それからクラリッサと手の中のパンを交互に見やるものの、いつまでも食べようとしない。
「ほらほら、遠慮しないで。食べないと倒れちゃうよ」
いつまでもパンと自分とを交互する視線に若干の苛つきを感じながら、クラリッサは少年のパンを強引に彼の口元に寄せる。
「ほら、口を開けて。あーんして。あーん」
なかば無理やり少年の口内にパンを押し込むと、一瞬むせそうになったが、なんとか齧ることができたらしい。
しばらく咀嚼した後、一瞬の間。直後、少年はまるで何日かぶりに食事にありついたかのように、パンに勢いよく噛り付き始め、あっという間に平らげてしまった。
「そんなにお腹減ってたんだ。ごめんね。ひとくち貰っちゃって」
空腹の苦しさは自分だってよく知っている。罪悪感に駆られたクラリッサは、スープ皿を少年の前に移動させると、スプーンを握らせる。
要するに、この少年は何も知らない子犬と同じなのだ。パンの食べ方もわからないほどの。
けれど、ちゃんと教えればできるはず。
自分の手を少年の手に重ねると、スープをスプーンですくい、少年の口元まで持ってゆく。
先ほどと違い、少年はあっさりとスープを口にした。
が、その後が良くなかった。クラリッサからスープ皿とスプーンを奪い取るようにして、がつがつと食べ始めたのだ。
これはお行儀も教えないと駄目かな……。
なんてことを思っていた時、不意に部屋のドアが開いた。
「まあ! クラリッサ! あなたどうしてこんなところにいるの!?」
しまった。世話係の先生に見つかった。
叱られる……! と首をすくめたその時
「なんてこと……! 天使様が食事を採ってらっしゃる……! だれか! だれか来てちょうだい!」
にわかに騒がしくなったかと思うと、職員や院長先生が部屋に入ってきた。
相変わらずスープをかき込む少年を見やりながらも驚愕の表情をしている。
「クラリッサ。あなたがこの子に食べさせたの?」
院長先生の問いに
「ええ、まあ、はい……」
と頷く事しかできないクラリッサだった。
それからほどなくして、クラリッサは少年の付添いに任命された。初めて少年に食事をさせた人物として、適切だと判断されたのかもしれない。それに、翼もなく、ろくに話もできない少年を、孤児院側も持て余していたのであろう。要は体よくお世話係を押し付けられたのだ。
どこへでも一緒にいられるようにと、就寝時以外はお互いの手首に細い毛糸の輪を結び付けて。
「ああっ、だめだよアンジュ、そっちには棘のある植物がたくさん生えてるんだから!」
「……ごめん」
毛糸を引っ張って少年を制御する。これではまるでペットと飼い主だ。
そして、いつのまにか少年は「アンジュ」と呼ばれていた。いつまでも「天使様」ではやりづらいと、クラリッサがつけた名が定着したのだ。
また、その頃にはアンジュも簡単な会話くらいはできるようになっていて、周囲との意思疎通もなんとかできるレベルに達していた。
「おい、クラリッサとアンジュ。かくれんぼするから来るか?」
同じ孤児院の男の子が声を掛けてきたので、アンジュを見やると、彼は何ともわかりやすく瞳を輝かせていた。
とはいえ、お互い毛糸でつながれた身。二人一緒に隠れられるような場所はおのずと限られてくる。
「どこに隠れようか?」
「……あそこ」
アンジュが近くの茂みを指差す。ぎりぎり二人隠れられそうな茂み。
早速ふたりでがさごそと茂みの中へと這う。
「クラリッサ、もっと奥」
「ええ? これ以上は無理だよ」
おかしいな。この程度の茂みなら何とか二人で隠れられるはずなのに。
もしかして、アンジュってば成長した……?
「……もっと奥」
アンジュが身体をぐいぐいと押し付けてくる。
「ちょ、暑っ……! 暑いからアンジュ!」
「……もっと奥」
クラリッサの制止もむなしく、アンジュは抱き着くように身体を寄せてくる。
季節は夏。茂みの中と言えど、陽光は容赦なく降り注ぐ。かといって今から別の隠れ場所を探すのも難しい。
暫く我慢していたが、とうとうクラリッサの額を汗が伝う。
も、もうだめ……。
「暑っ! あつーーーーーい!!」
がさりと勢いよく茂みから立ち上がるクラリッサを鬼が見逃すはずもなく。
「クラリッサとアンジュみっけー」
と、どんなに身を寄せ合って隠れても、早々に鬼に見つかってしまうのだった。
そうしているうちに二年の歳月が流れた。
相変わらず二人の手首は毛糸で繋がれたままだったが、それはアンジュを制御するためではなく、なんとなくそのままになってしまっていたのだ。むしろ手首に毛糸の感触が無いと落ち着かないくらいに。
けれど、クラリッサは不安だった。
あれから二年。自分はともかく、アンジュはそろそろ孤児院を出て働きに出る時期だ。そうなれば、わたしの手首の先に彼はいなくなってしまう。それがなんとなく怖かった。
「――ッサ、クラリッサってば」
「え? なに?」
「ぬかるみがあるから気を付けてって言ったの」
手をひっぱられ、無事にぬかるみを回避するクラリッサ。
「ぼうっとしてどうしたの? 僕の話聞いてた?」
隣のアンジュが顔を覗き込んでくる。二年を経て、彼はすっかりこの孤児院になじんでいた。言葉も流暢に話すし、時にはこうしてクラリッサを逆に助けてくれたりする。
「ごめん。何の話だっけ?」
「だから、今日の夜、こっそり中庭まで来られないかな?」
「え? そんなところで何するの?」
「話をするんだよ。僕と君で」
「話だったら今ここですればいいじゃない」
「そういうわけにもいかないんだ。できれば誰にも見られたくない」
はて、どういう事だろう。クラリッサが一人思い悩んでいる間に、孤児院の鐘が鳴った。
「あ、夕食の時間だね。それじゃあ皆が寝静まった頃に中庭で。約束だよ」
そう言うと、アンジュはクラリッサの手を取り引っ張ると、そのまま食堂へと向かったのだった。
そして時刻は真夜中を過ぎた頃、クラリッサはこっそりと自分のベッドを抜け出して、鍵の壊れた窓から建物の外へと出る。
中庭の片隅には、月明かりに照らされ、まるで輝いているような見慣れた金髪の少年の姿。
「アンジュ」
小声で呼びかけると、アンジュはこちらへ来るようにと手招きする。
暗がりに足を取られないように近づくと、アンジュが小声で話し出した。
「ごめんねクラリッサ。こんな時間に呼び出して。でも、どうしても君に見せたいものがあって」
「見せたいもの……?」
「そう」
頷いた途端、アンジュの背後が一瞬輝いたような気がした。思わず瞬きすると、そこに現れたのは、一対の白くて大きな翼。
「え……? なに、それ……」
困惑するクラリッサに対し、アンジュは微笑みを返す。
「見てのとおり翼だよ。天使のね」
「え……それじゃあ、アンジュはほんとに天使様だったの……!?」
「しっ、声が大きい」
クラリッサは慌てて自分の口を手で押さえる。
「どうして今まで隠してたの?」
「それは、人間に利用されないために。まさかあんな騒ぎになるとは思わなくて、慌てて隠したんだよね」
だからある日突然翼が消えたのか。
「さ、それはともかく、少し一緒に空を飛んでみない? 夜間飛行も悪くないよ」
「え?」
返事をする間もなく、アンジュはクラリッサを抱き上げると、翼をはためかせ急浮上。
「ひゃあ……!」
思わず目を閉じてアンジュの肩にしがみつくクラリッサ。
それからしばらくして、動きは止まった。浮遊感は変わらないが。
「クラリッサ、目を開けてみて」
言われた通り、おそるおそる目を開けると、眼下にはぽつりぽつりと灯りのついた街並みが広がる。それは弱々しいけれど、地上に瞬く星のようだった。
「わあ、きれい」
「上も見てごらんよ」
上を見上げるとそこには本物の星空。
「すごい。まるで星空の中心にいるみたい」
ぐるりぐるりと周囲を見回していると、不意に冷たい風が吹き、クラリッサはくしゃみをしてしまった。
「あはは。大丈夫? 夜は冷えるからね。そろそろ戻ろうか」
空変から戻った二人は、孤児院の屋根に着地する。
てっぺんに腰掛けながら、クラリッサは問う。
「ねえアンジュ、アンジュはどうして空から落ちてきたの?」
アンジュは気まずそうに指で頬をかく。
「それはね、僕が地上を見すぎていたから」
「どういう意味?」
「僕はずっと地上の人々に興味があって、暇さえあれば天界から地上を覗いてた。そんな僕を見た主が『そんなに人間に興味があるのなら一度落ちてこい』って。なかば無理やり追い出されちゃったんだよね」
「天界? それって天国の事?」
「うーん、まあ、似たようなものかな。それより驚いたのは、あのパンとスープだよ。天界には『食べる』と『話す』という概念が無かったからね。空腹感ってああいう事をいうんだって、クラリッサがパンを食べさせてくれるまで知らなかったよ」
「え? それじゃあ天界ではどうやってものを食べたり、人と話したりするの?」
「天界には空腹感は存在しないんだ。話す時は口に出して言葉にするわけじゃない。思念で会話するんだ」
へえ。それはまた便利な仕組みだ。
「何も知らなかった僕に色々と教えてくれた君には感謝してる。だから君にだけは最後にお礼を言っておこうと思って」
その言葉が胸に引っかかった。
最後? 最後って何?
それをクラリッサの雰囲気から感じ取ったのか、アンジュは続ける。
「実は僕、もう天界に帰らなきゃいけないんだ。主が戻って来いって。ここの自室のベッドにも適当な理由を書いた書置きを残しておいたから、明日僕がいなくてもたいした騒ぎにもならないと思うよ」
「え……」
突然の告白に、思考が停止してしまいそうになる。
帰る? 天界に? アンジュが?
「そんな……そんなの嫌……」
思わず口をついて出た言葉。自分自身でもそんな言葉を口走ったことに驚いていた。けれど、そういう時の言葉こそ真実だともわかっていた。
「どこにも行かないでよ、アンジュ」
しがみつくクラリッサをなだめる様に、アンジュは髪を撫でる。
「ごめんね。そういうわけにはいかないんだ」
「それじゃあ、それじゃあ私も天界に連れてって!」
「それもできない。ごめん」
「それじゃあ、わたしはどうしたら良いの? アンジュの居ない世界で生きていく自信が無いよ……」
「大丈夫、僕はずっと君を見てるから。君はひとりぼっちじゃないよ」
アンジュはクラリッサの額に口づけると「愛してるよ。クラリッサ」と囁いた。
けれど、天使からのその言葉こそ美しく、そして残酷なものは無い。
アンジュはクラリッサを抱き上げると、翼を静かにはばたかせ、地面へと下ろす。
いつの間にか涙にぬれていた頬を少年の指が拭う。
「大丈夫。またいつか会えるよ」
アンジュはクラリッサを一瞬強く抱きしめると、すぐに離れてふわりと浮き上がる。手の届かないところに。
「またね。クラリッサ」
クラリッサからの別れの言葉も待たずに、アンジュは羽ばたいて空へと消えてしまった。
クラリッサはそれをずっと見ていた。彼の姿が見えなくなっても。
翌日、孤児院はちょっとした騒ぎになった。アンジュが突如としていなくなってしまったのだから当然だろう。けれど、彼のベットの枕の下から「叔父の家へ行きます。今までありがとうございました」という趣旨の書置きが見つかった事で、一応の解決を見せた。
クラリッサも、彼が本当に天使だった事は誰にも打ち明けなかった。
「院長先生」
「あら、どうかしたの? クラリッサ」
院長室に神妙な顔で入ってきたクラリッサに、院長は軽い驚きを見せた。
クラリッサがこの部屋に来るときは、いつも決まって何か悪戯がばれて叱られる時くらいだ。さては、悪戯が露見する前に、自首しに来たか。
などと考えていると、クラリッサが口を開いた。
「先生。わたし、行きたいところがあります」
孤児院の併設された修道院。そこの光あふれる庭で、子供たちが遊んでいる。
一人の若い修道女がベンチに腰掛けて、その様子を微笑ましそうに眺めている。
そのうち、一人の幼い女の子が修道女の近寄ってくると、隣に腰掛けて修道女の袖を引っ張る。
「ねえ、シスタークラリッサ。またあのおはなしをして」
「あのお話って、地上に落ちてきたおっちょこちょいな天使のお話?」
「そう、それ」
「まったく、あなたはそのお話が好きね」
「だって、面白いんだもん」
「わかったわ。それじゃあ始めましょうか。むかしむかしあるところに、おっちょこちょいな天使がいて――」
『おっちょこちょいとはひどいなあ』
「え?」
突然の声に、戸惑うクラリッサ。けれど、いくら見回しても声の持ち主は見当たらない。
「どうしたの? シスタークラリッサ」
「ええと……今、何か声が聞こえなかった?」
「ううん。なんにも? それよりおはなしの続きをはやくはやく!」
「そ、そうね。むかしむかしあるところに――」
幼い女の子に語り掛けるクラリッサの背後には、純白の羽が一枚落ちていた。