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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

作者: 烏籠

昨日わたしはご主人様に捨てられました。


わたしは『お手』も『待て』もできない駄目な犬でした。

ご主人様がよく言うような『賢い犬』には、どんなに頑張ってもなれません。

わたしなりに努力したつもりでした。

でも、やっぱり無理なものは無理なのです。

ご主人様の言うことが利けない、馬鹿なわたしはついに愛想を尽かされました。

だからご主人様に、わざわざ車に乗って遠いところまで連れられて、そしてそのまま置き去りにされたのです。

それはとても悲しいことでした。

けれど、原因は全てわたしにあるのです。

わたしがもっとちゃんと言うことが利ける犬だったら、こんなに馬鹿じゃなかったら、捨てられることはなかったでしょう。


世界は日々めまぐるしい速さで進んでいきます。

わたしはそれに取り残されたのです。

どんなに必死に追いかけても、わたしと、その他周りの世界との差は広がるばかり。

わたしは少し、走り疲れました。



仕方がないのでわたしは何日かかけて、ご主人様に飼われる前に住んでいた家に帰りました。

家ではちょうど夕食時だったらしく、奥さまと旦那さまは仲良く食卓を囲んで楽しげに食事をしていました。

表情は以前より少し草臥れていましたが、それでも二人、仲むつまじく暮らしている様子がうかがえました。

二人はわたしの姿を見つけると、しばらくの間、真ん丸開いた目で呆然としていましたが、次の瞬間には泣き崩れるように駆け寄ってくると、わたしの体を痛いほどぎゅうっと抱き締めました。


「くるしいよ。おとうさん、おかあさん」


わたしは久しぶりに人間の言葉を話しました。

その瞬間、様々な混乱がわたしの中を駆け巡りました。

この家はわたしが生まれ育った場所だということ。

奥さま、旦那さまと思っていた人達はわたしの両親であったこと。

ある日ふらっと家を出て行ったっきり行方不明になっていたわたしを、両親は必死に探し回っていたこと。


わたしは泣きながら何度もごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し言い続けた。

そんなわたしに負けないくらい両親も泣きながら、もっと早く見つけてあげられなくてごめんなさい、と何度も何度も謝り続けた。

こんなにも娘思いの両親を長い間悲しませたこと、そして、いつ帰ってくるのかわからない、それどころか、生死すら不明の娘を忘れることなく待ち続けてくれたこと。

その申し訳なさと、嬉しさ。

両親はずっと信じ続けてくれていた。

こんなにも、わたしを愛してくれている。

そんな両親に、もうこれ以上望むことはない。

わたしは愚かな娘だ。

こんなに素晴らしい両親のいる家を飛び出して行ってしまうなんて。


その日の夜、わたしはわがままを言って母と一緒のベッドで眠った。

父はちょっぴり寂しそうな顔をしていたけれど、ゆっくりお休み、と頭を撫でてくれた。

久しぶりに触れた母の体温はとてもあたたかく、ひどく心地良い気持ちで眠りにつくことができた。


翌朝、わたしは両親を起こさないように、そっと家を抜け出した。

本当は外からこっそり家の中の様子を見ていたかったけど、両親がわたしを必死で呼んだり探し回ったりしているところなんか見ていたら、二人が可哀想に思えてつらくなるから。

もうこの家には戻らない。そう決めたから、だから心残りになるようなことはしたくない。

二人はじゅうぶんにわたしを愛してくれていた。

だからもういい。

あの二人からはこれ以上の愛情は得られない。

だからわたしは出ていく。数年後ぶりに帰ってきて、それを確かめられてよかった。



わたしはまたひとり、さ迷い歩いた。

何日もかけて、もといた街から遠く離れた別の街までやってくると、そこでまた、以前と同じようにあてもなく、ただひたすらまだ見ぬ『誰か』を待ち続けた。

そこが駄目なら、また次の街へ。

ずっと探し続けた。

どこかに居るのかのわからない。名前も、顔も、どんな人なのかも知らない、『誰か』を。





その人はちょうど飼っていた犬を無くしたばかりでした。

新しい犬がほしい、だから探していた。その人は震える声でそう答えました。

わたしは偶然、その場に居合わせたのです。

出来過ぎた話だと思われるかもしれませんが、全てが完璧に思い通りというわけではなかったのです。

わたしはただ暗がりを歩いて回っていただけです。

ここは人生に歩き疲れた人が、ふとその歩みを止める場所です。そういう人たちが、吸い寄せられるように落ちていく場所。

おやすみなさい。眠りに落ちた人のなかで一番新しいそれ(見たところ、かろうじて若い女性とわかるものでした)を引きずって、車に乗せようとしているところで、わたしは彼に声をかけました。

彼はわかり易く取り乱し、慌てふためいていましたが、すぐにしゅん、と肩を落とし、自首します…と項垂れました。

そこで何故このようなことをしたのか問いただしたところ、彼はおずおずと、新しい犬を探すためだと答えました。

わたしはすぐに、たった今引きずってきたものを捨てるよう言いました。

彼はびっくりしていました。

わたしはあなたの犯行の目撃者で、このまま逃がしてはあなたの不利になると言えば、彼は黙ってわたしを車に乗せ、そのまま彼の家へと走り出しました。

彼は車の中でも無言でした。

わたしが横目で様子をうかがうと、何か言いたそうに何度か口を開きかけましたが、結局黙り込んだまま、車は彼の家に着きました。



想像していたよりも、少し広い印象の家でした。

彼の話によれば、数年前まで祖母と二人で暮らしていましたが、祖母を病気で亡くしてからは、度々外で拾ってきた犬を運び込んでは、その寂しさを紛らわせていたようです。


「君のように話ができる状態で連れてきた子は初めてなんだ。もちろん、自分から連れていけなんて子も」


だから一体どうしたものか、全くわからないよ……と、わたしと目もあわせずに、彼は頭を掻きました。

きっと余計な口を利かないほうが彼も落ち着けるだろうと、わたしは黙って彼に目だけで「あなたの好きにすればいい」と伝えました。

彼の手が恐る恐る、わたしの頭を撫でました。

わたしはされるがまま、多分そのほうがいいだろうと、そっと目を閉じました。

彼の肩の力がほんの少し抜けて“ホッ”としたのが、周りの空気から感じられました。


真っ黒に閉ざされた世界で、わたしは彼のすべてを受け止めました。


わたしの身体に触れる手のひらの感触……いつの間にか部屋の中にひっそりと響く彼のすすり泣く声……。彼の心の中の悲鳴すら聞こえてきそうでした。


おそらく今まで拾ってきた犬たちも同じようにされていたのでしょう……彼はわたしの頭から爪先に至るまで、全身を余すところなく、滑らかにその手を滑らせていました。

彼の手からは、愛しい人にするような愛情や慈しみ……それとは違うものを感じました。

まるで“何かを確認している”ように思えました。


「きみは、怖くないの?知らない男に、他人に、こんなふうに触れられて」


それはきっと、途轍もない勇気を振り絞って出した言葉なのだろうと想像できました。

彼は震えていました。

わたしは怖くない、と答えようと、うしろを振り返りました。

こっちを見ないで。彼が慌てて言いました。

どうやらわたしの目が怖いようです。

わたしは彼の言葉に従い、黙ってもと通り、真っ白な枕に顔を埋めました。ゆっくりと、また彼の体温がわたしの背中に降りてきました。

わたしの首から、ようやく彼の手が離れました。

彼はただ、怯えていただけなのです。



わたしはしばらく、彼の家で生活するようになりました。

彼が朝に仕事へ出掛けてから帰ってくるまでの間は、家の中にさえ居てくれれば、あとは自由にしてくれて構わないと言われていました。

わたしは彼の部屋にある本を借りて読んだり、テレビを観たりして過ごしました。

そして夕方になると食事の支度をして、彼の帰りを待ちました。

わたしは食事を作ることには慣れていましたが、料理はそれほど上手くありません。

それでも、彼は美味しい、美味しいよと、食事の度に褒めてくれました。



彼との生活にも慣れ始めてきた頃です。

わたしは彼の『家の中にさえ居てくれれば自由にしてもいい』という言葉通り、自由に家の中を歩き回っていたので、“それ”についてはこの家で生活するようになってからすぐに気がついていました。


「あなたは、誰?どうして、そんなところにいるの?」


その男の子は思った以上に恥ずかしがり屋なようで、真っ赤な顔をうつ向かせたまま、ぼそぼそとなにか喋っていますが、とても小さな声で聞き取れません。


「ねえ、ぼく、聞こえないから、もう少し大きな声で話してくれる?」


すると、男の子は弾かれたように顔をあげると、真っ赤な顔をさらに赤くさせながら口を開きかけましたが、またすぐに俯き黙り込んでしまいました。

わたしは彼が帰宅してから、男の子のことについて尋ねました。


「ねえ、あの男の子は誰?どうして裏返した本棚の中で隠れているの?」


「ああ……見つけてしまったんだね。あの子は僕の弟で……とびきり人見知りで恥ずかしがり屋だから、ああして家族の僕の前にすら、滅多に顔を出さないんだ」


なるほど。あの恥ずかしがり様に既視感を覚えたのは、そのためだったのかと納得しました。

本棚の男の子の、あのもの言いたげな様子は、彼にとってもよく似ていました。


「弟は……何か言ってた?ここ数週間くらい顔を合わせていないから、会話もないし、どうしているのかと思ってて……」


私はふるりと首を横に振りました。


「そっか……。ありがとう。もしよかったら、僕が出掛けている間、また弟の話相手になってあげてほしいんだ。弟はちょうど君と同じくらいの年だったから、きっといい話相手になれるはずだよ」


よろしくね。彼がそぉっと私の頭に手をのせて、少しぎこちない動きで撫でてくれました。

私は彼の手から頭が離れないよう気にしながら、こくりと頷きました。



「こんにちは」

「今日はとってもいい天気よ」

「あなたはいつからここにいるの?」

「お兄さんのことは好き?」

「おばあさんはどんな人だったの?」

「雨の日って少し気持ちが落ち着かないわね」

「そう言えばまだあなたのお名前聞いてないわ」

「お兄さんの名前も」

「本棚の中にいるのにあなたはちっとも本を読まないのね」

「退屈にならない?」


男の子は恥ずかしそうに俯いたまま、やはりわたしの問いかけに答えることはありませんでした。

それでもわたしは、そんな男の子との“会話”を楽しんでいました。

彼が家にいない間、わたしはずっと男の子と過ごすようになりました。



彼の家で暮らすようになってひと月ほど経った頃のことです。

いつものようにわたしは彼の帰宅に合わせて食事の支度をして、彼と一緒に晩ご飯を食べて、そしてここ最近すっかり習慣になった男の子との会話を彼に話してから、こちらに背を向けて寝ている彼におやすみなさいと声をかけて、その隣に横になろうとしました。


「最近随分楽しそうにしてるんだね」


わたしは横になりかけた体を起こして、暗闇に溶け込んだ彼の横顔を見下ろしました。

彼がゆっくりと起き上がる気配がしたので、わたしはくるりと体の向きを変えて俯せになりました。

体から一切の力を抜いて、より深くベッドに沈み込みながら、わたしは彼のすべてを受け止めました。

彼の思うままに。彼が望むままに。


「なぜ、嘘をついた」


わたしは彼に嘘などついていません。

けれど彼はとても怒っていて、わたしの言葉にまったく耳を傾けてはくれませんでした。


「君は、毎日毎日弟の話ばかりだ。弟は本棚に隠れて出て来ない。僕が何度呼びかけても……まったく返事をしないんだ。それなのに君は……君が一方的に話しかけているだけに過ぎないが……弟とおしゃべりしてるなんて馬鹿みたいなことを言うから。僕は弟の姿すらまともに見れていないのに」


わたしは誤解を解こうと口を開きかけました。

けれどそれよりも先に、彼の手がわたしの口を塞ぎました。

その手にこもる力の強さが、わたしに『喋るな』と強く命令しています。


「やっぱり生きている人間は信用ならない。平気で嘘をつく。他人を簡単に傷付ける。裏切る……。

君は不思議な子だ。でも所詮人間。他のヤツらと変わらない。信じられるのは家族だけ……祖母が亡くなってから、もう僕には弟しかいなかったんだ……それなのに……たった一人の家族なのに、どうして……なんで弟は黙ったまま、僕と口をきいてくれないんだ……」


彼はひたすら孤独でした。

誰にも必要とされず、どこにも居場所がない。

たった一人の家族でさえ、もう彼の心に寄り添えない。


「今日は一人で寝るから。朝まで部屋の外に出ていてくれ」



翌朝――――いつも出掛けるはずの時間になっても起きてこない彼の様子が気になり、部屋に入ると(鍵は掛かっていなかった)――――彼は窓を背に宙吊りになっていました。





久しぶりに外の空気を胸いっぱいに吸い込み、わたしは空を見上げました。

季節はもうすぐ夏になります。

たちまち身体中から汗が滲み、普段まったくといっていいほど運動をしていないわたしはすぐに疲れてしまい、何度も休憩を必要としました。

おかげですっかり日が暮れて夜になってしまいましたが、なんとか納得のいく深さまで到達することができました。

そこから見上げた空には、大きな月が浮かんでいました。

ひょろりと頼りなさげに見えた彼も、やはり男性の身体というものはとても重たいものでした。

2階の寝室から階段を使い、それから家中を引きずるように移動することを考えると、なんだか申し訳なく思えて、仕方なくわたしは彼の首から戒めを解くと、そのまま窓から落としました。

本棚から彼の弟を連れ出し(棚に並んだ端から端まで一つ残らずに)、一緒に穴に埋めました。

生前のことは知りませんが、あの男の子はとても優しい子です。

きっと彼のことも許してくれるでしょう。

だから二人一緒の場所で眠るのがいいと、わたしは思ったのです。

この家とも、もうお別れです。



わたしはまた、一人ぼっちになりました。

どこにも居場所がなく、誰にも必要とされないこと――――わたしは死んだも同然でした。

心臓が動きを止めるのとは違う死に方をしているのです。

わたしは人間の生活から落ちこぼれました。

人々が“当たり前”とする営みの中にどうしようもなく染まりきれずに弾き飛ばされた存在……そう、どうしようもなく……ただ疲れてしまいました。

“人間”の殻を少しずつ、削り取られていく気分です。

人々は囁きます。『普通と違うこと』、『何故当たり前のことが出来ないのか』――――。

そうすると、“人間”としての自信が揺らぎます。

“人間”としての価値を疑います。

どうしようもなく…………疲れてしまいました。


飼い主と犬。わたしはそこに安らぎを見出しました。

人間の殻が崩れて壊れたわたしの頭を撫でて褒めてくれるひと。

それだけが生きている気持ちになれるのです。



ふと一瞬だけ、両親のいる家に帰ろうかという考えが過ぎったが、わたしはそれをすぐに諦めた。

あの家はもうわたしの家じゃない。あの家の人間の娘はもう死んだのだから。



今度の飼い主はどんな人だろう。そうぼんやりと考えながら、またあてもなく夜の街をさ迷い歩く為、もう誰もいない家を後にした。






気付けば書き始めてから5年経ってました。

久しぶりの投稿で誤字脱字その他見落とし等あるかも知れませんがご容赦ください…。


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