Act.5 手の甲と傷
龍宮が東京寄りとは言え、千葉県住まいということもあり、指導は電話でのアドバイスのみということになった。上司が帰り、残業の様子を見て椎名の都合が良いという条件が揃ったときに連絡が椎名から来ることを確認する。
今日はまだ指導には移らない。
『今日の仕事自体は終わっているから、あとは来たる定時を待つだけなんだ。残業の引き延ばしがない日は早く帰りたいという俺のわがままだ。すまんな』
龍宮にはとても引き留めることはできなかった。
『同じ境遇の人間がいないか検索したことがあるんだ。そしたら「残業代が出ないのに毎日十二時間労働なんだけど、これって普通のことなんでしょうか?」という質問が挙がっているのを見つけた。その質問に対して「俺は十五時間労働だ。甘えるな」と解答が寄せられていた。俺はこの足の引っ張り合いが社会の縮図なんだと思う。十二時間労働で辛いんだから、十五時間働かされてる自分の待遇は異常なんだなと認識すれば良いのに、あまつさえ「甘えるな」と宣う奴がいたり、子供じみた上司が自分より早く部下が上がろうとすると不機嫌になるから不毛な残業合戦になるのだ。ほんと滅べば良いのに』
椎名がそう電話口で語り、龍宮はその切実さに胸を打たれた。
「お疲れさまです……。本当にお疲れさまです……」
液晶画面を一度拭ってから龍宮はネクサスフォンをケイに返す。ケイは「体に気をつけてな。くれぐれも上司をぶん殴るんじゃないよ」と言って通話を切った。
龍宮とケイは思うところがあって、しばらく無言でテーブルを見つめた。
廻栖野が小さく挙手する。「ケイさん、ちょっと良いかしら」と。見知った相手がブラック企業にこき使われているということを知って意気消沈したケイが頬をひきつらせて、どうしたんだい? と尋ねた。
「今の彼、『原稿待ち』って言ってたけど、たぶん出版関係よね。能力に関係した企業とは思えないのだけど。指導に関して白羽の矢が立つなら、その椎名さんというのはそれなりの実力者なんじゃ」
「能力者の就職先も色々あるからねえ。一般的には軍や警察、レスキュー。NPOで海外ボランティアや紛争地域に行く子も多いけど、みんながみんな貢献や奉仕に目を向けてるわけじゃないから一般企業に就く子もいるよ。一応学園がデータベース化して把握しているけど、中には能力者だって隠して普通に就職する子もいるね。そういう例を除けば、マスターピースの資格をとって民間人を対象にしたボディーガードをやる所謂、『護衛屋』や失せ物や行方不明者を探す『探し屋』も一般企業と言えば一般企業だしね。眉唾物に思うかもしれないけど、日陰者の中には『運び屋』や『殺し屋』だって実在するんだ」
龍宮は妙見院学園のスカウトマンだというドクロのハーフマスクで口元を隠した男のことを思い出す。
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男は国木田釈真と名乗った。彼は龍宮が当時預けられていた長野にある祖父の神社にふらりとやってきた。
『AIは人間の仕事を奪うという危惧が取り沙汰されるのと同様に、業界によってはアルターポーテンスで大打撃を受けます。昔は魔法使いや仙人だとちやほやされましたが、原則的に現代社会は能力者を好みません。持って産まれた頭脳のひらめきで新商品を作り出すのと何が変わらないのか理解しかねますが、とにかくアルターポーテンスで稼ぐことを他人は良しとしません。面白いですよね、金を持ってる人を見ると、どうせ悪いことをして稼いだと影口を叩くんです。楽して稼ぐことが悪なんですよ。金は汗水垂らして苦労して稼がないといけないってね。市場の独占だとか難癖を付けられます。原則的に禁じられていることからもわかるでしょう。市民から受け入れられるのは警察やレスキュー、または資格をとった所謂ヒーロー、マスターピースみたいな奴ばかり。無力な自分たちに奉仕して当たり前くらいの気持ちなんです。それが人間です』
仮面で口元が見えないが、国木田は目元を歪めて笑っていた。この男は人間に悪であって欲しいんだな、と龍宮は思った。
『だからスカウトマンがいるんですよ』
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龍宮は我に帰る。
「まあ椎名は事情が異なるけどね。あの子は今、能力がまともに使えないから」
「能力が使えない? 陰陽師の結界内でもないのに一個人が日常的に? まさか能力を奪われた、とか」
廻栖野が食い付く。
「個人的なことだから教えられないけど、色々あってそういうことになってるの」
日が落ちる前に帰るようケイに促された。敷居を跨いで外に出る。
「色々、ありがとうございました」
「お茶とお菓子ご馳走様でした」
「あんたたち、明日はちゃんと学校に行きなさいよ」
ケイに念を押される。生返事をして、二人はケイの家を後にした。それから廻栖野を駅の改札まで送った。
「悪いな。こんな時間まで付き合わせて」
「別にかまわないわ」
「気をつけて帰れよ。またな」
廻栖野が改札機に入る直前に立ち止まる。振り返った彼女は愉快そうに笑った。
「ハルカ先輩の孤軍奮闘、私楽しみにしているから。じゃあね」
イヤミか、てめー、と龍宮は苦笑いを浮かべる。廻栖野は軽い足取りで駅に入り、人混みに紛れて見えなくなった。
龍宮は今日は鳴らないであろうネクサスフォンの液晶を眺める。電源が落ち、暗い画面は鏡のようになっていて龍宮の顔がそこに映る。情けねえ面だと思った。ズボンにしまうとき、手の甲を擦ってしまい、思わず、声が出た
。龍宮は駅舎の街灯に晒して傷を眺める。
剣の稽古を付けてくれた祖父の言葉を思い出す。報復じゃなく、誰かを守る力に変えられるものが構築できたらな、と考えた。
なんてな、と龍宮も下宿先に向かって踵を返した。