決戦
眼を覚ましました。夢は見ませんでした。やたら体が重いです。疲労物質が全身を駆け巡っていたので、解毒呪文で強引に分解してやりました。近くでルーくんが、器用にも片手で武器を研いでいます。もう片方の手は私の右手を握っていました。
「……ルーくん?」
「おはよう、ヒフミ。よく眠れた?」
「……セクハラ?」
「どうしてそうなった。というかこれ離さなかったのはお前のほうだからな?」
ルーくんはあっさりと握ってくれていた手を離しました。む、少し名残惜しい気がします。この子がこんな風に他人を気遣ってくれることなんて滅多にありませんでしたから。
「ああ、オーブの魔法式を進めないと」
「自動書記ならとっくに終わってるみたいだけど他にやることがあるのか?」
「え? 私どれくらい寝てたんですか」
「さあ」
素知らぬ顔で言います。
そういえばオウルウさんに焼かれた腕に使っていた回復呪文も終了していました。完全に再生しています。グー、パーしてみたり、チョキを作ってみたり、ぶんぶん振ってみたり、色々試しました。うん、完治してます。次に自動書記状態にしていたオーブを確認します。
だーっと目を通して、一通り大丈夫。あとは《ラ・ルミアの六つの卵》、私の手元にある五つのオーブの魔法式と適合するかですが。私はオーブの魔法式を連結させてみました。少量の魔法力をそこへ注ぎ込みます。オーブは光の環によって繋がれていき、すべての魔法式に光が灯りました。大丈夫そうです。実際にこれでラ・ルミアを孵化させろ!って言われたら自信がないですが、魔法式を起動させて誤爆して結界を吹っ飛ばすことはできると思います。
「ルーくん、行きましょう」
魔王をぶち殺しに。
「姉ちゃん、最後にもう一回だけ言ってみるけどさ」
「はい?」
「やめないかい? 僕らが魔王と戦わなくたってきっと誰かがなんとかするよ。そもそも“勇者”と僕らだけに、魔王なんてわけのわからない怪物との戦いを押し付けること自体間違ってると思わない? 軍隊を率いて王様が正当に討伐すればいいんだよ」
「でもルーくん、彼らは私たちよりずっと弱いですよ」
「強弱の問題じゃないんだ。ただ僕はそうするべきだと思うんだ」
「そうですね。ルーくんは正しいです。圧倒的に正しいです」
でも私は、勇者さんのいなくなったこの世界で他にやらなければならないことがわかりませんでした。ルーくんは長い息を吐きました。きっと私が魔王を倒したあとのことを何も考えていないことがわかったのでしょう。勇者さんがいなくなったこの世界で、魔王を倒したあと私はどうするんでしょうか。
「姉ちゃん、三つだけ守って欲しいんだけど」
「はい?」
「一つ、作戦が失敗したら直ぐに逃げる」
「はい」
「二つ、僕が死んだら直ぐに逃げる」
「了承はしませんが理解はしました」
「三つ、パニックになっても暴走しない」
「そのときは、えっと、パニックになってるので暴走しない自信はないですね」
「まあ一応心に留めといて」
「はい」
「じゃあ行こうか」
ルーくんが手を差し出してきました。私の瞬間移動呪文で移動させることができるものは、私が触れているものと、私がこの呪文のための目印をつけたものだけだからです。私はルーくんの手を握り、瞬間移動呪文を唱えました。
そうして私たちは魔王城の前まで瞬間移動しました。「相変わらず演算もくそもあったもんじゃないな……」とルーくんがぼやきます。凡庸な魔法使いは緯度とか経度とか色々計算しないとこの呪文が使えないんだとか。みんな不便ですね。
こほん。先のときに私たちを迎え撃った魔物達は、今回はいませんでした。それにあのとき倒した魔物の死骸も消えています。おそらく魔王がそれらの亡骸を分解して魔法力に変えたのでしょう。それにしても。
「静かだね」
ルーくんは私と同じ感想を持ったようです。
あまりにも静かです。あれから少しばかり時間が経っていますから、また魔物達が集まってきていてもおかしくないのに。新たな魔物達は影さえ見当たりません。私とルーくんは静かに城の中に入りましたが、やはり内部も同様でした。そうして私たちは例の扉の前まで戻ってきました。
「開けるよ。準備はいい?」
私は頷きました。ルーくんの手がゆっくりと、大きな扉を開きました。私は自分の呼吸が早くなっていくのを感じていました。室内に満ちた黒い魔法力を感じます。私は魔法式を連結させたオーブを用意します。あとは起爆させるだけです。
「来るのがおせーよ」
力のない声が私たちを出迎えました。その大きな部屋の中では、一体の袴のようなゆとりのある衣装を着た巨大な魔物が死んでいて、その前に誰かが疲れ果てて座り込んでいました。端正な顔立ち、黒髪に筋肉質な痩身に光で出来た鎧を身に纏っています。そんな、まさか。
「あんまりにも遅いから帰れないかと思ったぞ」
弱弱しい笑みを浮かべていたのは勇者一行の戦士、フリューさんでした。私もルーくんも言葉が出ませんでした。だって、黒い魔法力はたしかにまだそこにあるのです。魔王から放たれているのです。他でもない、フリューさんから。
「ソウルイーター……」
私は呟きました。死霊系の魔物の中でも、魂に憑依しこれを食らい、肉体を乗っ取る魔物のことをソウルイーターと呼びます。
要するにフリューさんは魔王を倒したようですが、魔王に憑いていたソウルイーターに食われたのです。まだ自我も残っていて肉体の変成も始まっていないようですが、そのうちフリューさんも先の魔王のような怪物へと変化していきます。きっと歴代の魔王の何体かはこのソウルイーターでしょう。魂を食らって自らを強化し続けた神代の怪物です。
「ああくそ、最悪のケースか」
ルーくんが感情の映らない目でフリューさんを見ながら言いました。
「どうした? 疲れてるんだよ。話は宿に戻ってそのあとでゆっくり」
「寄るな」
こちらに向けて歩きだそうとしたフリューさんを、ルーくんが止めました。
「フリュー、お前はいま自分がどういう状態か自覚はないのか」
「……なにを言ってる?」
「お前はいま魔王に憑依されている。進行状況から見てあと200時間前後でお前は新しい魔王になる。その後、何十年か眠りについてから魔王として目覚める。治療法はない。お前は死ぬしかない」
「タチの悪い冗談はやめろ」
フリューさんは笑おうとしました。ですがうまく笑みになりませんでした。声だって震えています。
「戦って死ぬか、戦わずに僕に殺されるかくらいは選ばせてやる」
待ってください、ルーくん。だって、あの、フリューさんですよ?
私、魔王と戦う覚悟は一応してきましたけど、仲間と戦う覚悟なんてしていません。
「本気で言ってるのか」
「冗談でこんなことが言えるかよ」
悲しい声でした。ルーくんが両腕のブレードを固定し、加速呪文を唱えました。万全の体勢に入ったルーくんに向けてフリューさんもまた剣を構えました。
「そうか、仕方ないな」
朦朧とした声でフリューさんが呟きました。
「ヒフミ、やれ」
ルーくんの声が鋭く響きました。ですが私はぐずぐずと迷いを抱えたまま、初動を逃しました。その瞬間、加速呪文を使ったフリューさんが私へと疾走しました。
「悪いな、俺は帰らなきゃいけないんだ」
「ひっ……」
怯えた私はその場に尻餅をつきました。フリューさんの構えた剣が目前に迫ります。
しかしその剣は私には届きませんでした。横合いからものすごい速さで飛び込んだルーくんがフリューさんを蹴り飛ばしたからです。
「ヒフミ、オーブは?」
「あ、え」
オーブの魔法式の連結は、壊れていました。私の動揺と恐怖が魔法力に伝達して魔法式をぶち壊したのです。新しくつむぎ直すには少し時間が掛かりそうです。ゆらりと立ち上がったフリューさんが再度突撃してきます。「あまり長くは持たないから、急いでね」ルーくんは微笑を浮かべながら私の頭をぽんぽんと軽く撫でてフリューさんに向き直りました。突進してくるフリューさんがまっすぐ剣を突き出そうとしたのに対して、同じく前進したルーくんは掻い潜るように姿勢を低く踏み込み、フリューさんの喉元に自分の剣を突き立てました。硬化呪文によって鋼鉄に等しい硬度を得ていたフリューさんの体は貫けませんでしたが、衝撃が貫通して後方に吹っ飛びます。咳き込みながら立ち上がりました。即座に間合いを詰めたルーくんに、フリューさんが横薙ぎに剣を振るいました。しかし低く伏せたルーくんの髪をわずかに薙ぐだけ。逆にルーくんは体重の乗った斬撃を膝関節に向けて繰り出し、フリューさんが大きく体勢を崩しました。「こ、の……」フリューさんは振り払うように下段蹴りを繰り出します。跳躍してかわしたルーくんは、その勢いのままにフリューさんの顎に硬化呪文の乗った膝を叩き込みました。たまらずたたらを踏んだフリューさんの即頭部にさらに剣を一閃。金属を打ったような甲高い音が響きました。怯んだフリューさんが剣を振りますが、引いたルーくんの影を斬っただけ。
あ、ありえません……。
戦士であるフリューさんと盗賊のルーくん、たしかに敏捷性では若干ルーくんに分がありましたが、剣腕に置いては圧倒的にフリューさんが優れていました。加えていまのフリューさんの肉体は、ソウルイーターの持っている膨大な魔法力によってブーストが掛かっています。フリューさんがルーくんを圧倒するならばともかく、ルーくんがフリューさんを圧倒するなんて。
こんなことが可能なのは、禁呪法しかありません。
そしてこんなことが可能な禁呪法は……。
「時の砂の呪文……?」
「ご明察、時間加速呪文、とでも名づけようかな」
ようやくわかりました。ルーくんの周りだけ時間の流れが違うんです。
ルーくんの皮膚が薄赤く染まっています。早すぎる筋肉の運動と、加速された血流に耐えられない血管がぶち切れて内出血を起こしているのです。強引すぎる呪文でした。臓器や心臓、脳にも多大な負担がかかっているはずです。あんなのを続けたらすぐに死んじゃいます。
「急いでね」
ルーくんは立ち上がったフリューさんに向かっていきます。深呼吸した私は壊れた魔法式オーブの魔法式を再度連結させ、そこへ魔法力を注ぎ込みます。
「速さに速さで対抗しようってのが大きな間違いだったな。お前に対しては、こうか」
フリューさんが硬化呪文を強化しました。ルーくんが踏み込みます。胸に向けて真っ直ぐに突きこんだルーくんの右の剣が。べきん。折れました。「!」剣の強度が硬化呪文を使ったフリューさんの硬度に負けたのです。反撃に手を伸ばしかけたフリューさんに対して、ルーくんは一旦間合いを取りました。フリューさんの反応は鈍いです。あまりにも硬度を上げたために、フリューさんの全身の関節が柔軟さを失って動きが極端に鈍くなっているのです。フリューさんはルーくんを放置して私に向かってきました。
「ちっ」
ルーくんが舌打ちしながら割って入ります。足を狙って下段に左の剣を繰り出しますが、硬化に任せたフリューさんは意に介しません。重心を低く安定した足取りで私との間合いを詰めます。痺れを切らしたルーくんが、膝を伸ばしフリューさんの頭部や胸部に狙いをつけました。瞬間、ルーくんのわき腹にフリューさんの掌底が突き刺さりました。ルーくんはこれまで常に小刻みに移動しながら的を絞らせずに攻撃していましたが、上体に攻撃するために膝を伸ばした一瞬の隙をあざやかに突かれてしまいました。
「下がダメなら上、策を弄するやつは読みやすくていいな」
軽量のルーくんは風に吹かれた木の葉のように吹き飛んで壁に激突しました。多分骨の一本か二本くらいは持っていかれているでしょう。障害物のなくなったフリューさんが私に向けて剣を振り上げ、そのままの姿勢で停止しました。
「?!」
巻きついた鋼線がフリューさんの腕を絡めとっていました。鋼線は壁際のルーくんの手元に繋がっています。掌底を食らった一瞬で仕掛けたのでしょう。本当にどこまでも器用な子です。一瞬だけ動きの止まったフリューさんに向けて天屠閃を連打します。フリューさんは力任せに糸を引きました。引きずられたルーくんは体勢を崩して、フリューさんが拘束から逃れます。
それはほんの一瞬の足止めでしたが、きっちり功を奏しました。六つのオーブが光を放ちます。魔法式の連結、それから魔法力の充填が完了し、卵を私自身に設定。魔法力は六つのオーブを介して増幅され、闇刻結界に触れて片端から無効化されていきます。べきり。硬い何かが潰れるような音がしました。無力化の容量を超えた魔法力をぶつけられ結界が崩壊していきます。
「弾ぜました。これで――」
「これで、どうするんだ?」
フリューさんが鋼線を断ち切り、私に向きます。
私は瞬間移動呪文を使い、フリューさんの後方二十メルトルほどのところへ跳躍。
「お前は対峙した相手の攻撃をかわす際、必ず相手の視界の外、かつ呪文の届くギリギリの距離を取る」
「え」
フリューさんは顔と左手だけで振り返り、後方の私に向けて伸ばしていました。発生の速い閃熱呪文が放たれます。「そして瞬間移動呪文の連続発動には二秒から三秒程度のラグがある」かわせませんでした。フリューさんは元々攻撃呪文を使えなかったので、意表をつかれたのです。直撃、死ぬ、勇者さんみたいに。いろんなことが浮かんで消えていきます。ですが閃熱呪文は私に命中はしませんでした。ルーくんが私の服を掴んでそのまま閃熱呪文の軌道から逸らすように引っ張りました。
すぐに反応したフリューさんが地面を蹴って突っ込んできます。「ヒフミ、瞬間移動呪文を」ルーくんがわき腹を抑えています。傷を負った状態で時間加速すれば痛覚神経が凄まじい速さで痛みを放つためです。私を助けるために無理をして呪文を使ったのです。
しかし私はそれどころではありませんでした。本気で私を殺そうとしているフリューさんが恐ろしくて、堪らなくて、おしっこを漏らしそうでした。勝手に体がガタガタ震えだして考えが纏まらなくて、「肝心なところで役に立たないなお前は」と苦笑交じりに言うルーくんの声だけがやけに大きく聞こえました。
伸長呪文を使って長く伸びたフリューさんの剣が私とルーくんに襲い掛かり――、空を切りました。
瞬間移動呪文、です。私がやったのではありません。ルーくんが唱えたものです。
「おい、ルイ。お前ついにヒフミの真似事まで出来るようになったのか」
「そんなわけないだろう。単に時間加速呪文を使って三倍の早さで次元演算と魔法式の構築を終わらせただけだ。こいつみたいな雑なやり方を真似できるかよ」
「いや、十分お前のやり方も変だって……。ほんと化け物だなお前は」
「そうだよ。だって僕は勇者を殺すために作られた人間兵器なんだから」
「は?」
……なんかいまさらっとすごいこと言いませんでした?
「立って、姉ちゃん。くるよ」
ルーくんが時間加速呪文を解きました。これ以上続ければ負傷が急激に悪化してまずかったのでしょう。構え直したフリューさんが疾走してきます。「戦える?」辛うじて私は頷きました。
硬化呪文を使うフリューさんには物理攻撃がほとんど効きません。そしてルーくんは攻撃呪文がそれほど得意ではないです。私がぶち殺すべきなのです。大丈夫、できます。
「フリューさん、ごめんなさい。死んでください」
私は瞬間移動呪文を使いました。事前に用意した大量の魔法陣を、フリューさんを包囲するように瞬間移動させました。
何かする暇は与えません。いつもの私ならばフリューさんに向けて呪文を撃つことを躊躇ったでしょう。ですがフリューさんはルーくんを傷つけました。殺そうとしました。
だったら、
殺されても文句は言いませんよね?
二十七の魔法陣が一斉に輝きを放ちます。そこから射出された二十七個の極大爆裂呪文が、フリューさんがいた空間を爆砕しました。一つでも人間を粉々にする威力を持つ極大爆裂呪文が二十七発ですから、例え魔王であってもこれを受けて無事ではいられないはずです。どうでもいいですが私の異名である「瞬獄殺」はこの技を見てどこかの吟遊詩人がつけたそうです
「どうですか……?」
私は爆炎の内部を注意深く観察していました。相手は魔王ですから、この瞬獄殺でも倒せているとは限りません。案の定、爆炎の中で影が揺れました。魔法力を全解放して爆撃を受けきったようです。全身がぼろぼろになりながらフリューさんが突撃してきます。私は魔法力の大半をさきほどの爆裂呪文に費やしたのですぐには動けませんでした。
ですが。
もう一つの影がフリューさんの背後を取りました。背中あわせのような状態から、影に気づき振り返ろうとしたフリューさんの背中に肘を叩き込みます。裏側から肺を強打。苦悶の表情を浮かべながらフリューさんは後ろ蹴りを繰り出しましたが、ひらりとかわしたルーくんはそのまま背中に剣を突きこみました。「硬化呪文」フリューさんが呪文を唱え、「軟化呪文」ルーくんが反対の効果を持つ呪文を唱えました。呪文の効果が拮抗します。ほとんどの魔法力を放出して先の爆裂呪文を凌いだフリューさんの呪文は、ルーくんの呪文に敗れました。背中側から心臓が貫かれ、ルーくんが刃先を抉るように動かします。一際大きく痙攣したあと、フリューさんが力なく倒れました。
血が流れていきます。
死にました。
魔王が死にました。戦士さんが死にました。フリューさんが死にました。
勝った。勝ちましたよ、勇者さん。フリューさんをぶち殺しましたよ。これで褒めてくれますかね。頭撫でてくれますかね。あ、もういないんでしたね。あはははは。
なんで私、フリューさんのことぶち殺さないといけなかったんでしょう。どうして仲間と殺しあってるんでしょう。褒めて欲しかったなー。頭撫でて欲しかったなー。よくがんばったな、って言って欲しかったなぁ。
そんなバカなことばっかり考えていた私は黒い影が自分めがけて飛んできたことにまったく気づいていませんでした。ソウルイーター。魂を食らって肉体を作り変える魔物。それが自分に憑依しようとしているなんて考えもしませんでした。
ルーくんが私の前に立ちました。黒い影を私の代わりに食らいました。ルーくんが魔王に取り憑かれました。
「よかった。僕を無視してヒフミに憑いたらどうしようかと思ってたんだよ」
「ルー、くん?」
「ごめんね、姉ちゃん。姉ちゃんのこと利用してたんだ。僕の目的はこいつを手に入れることだったんだよ」
「どういう、ことですか」
「こういうことだよ」
ルーくんが私に腕を向けました。ものすごい魔法力がそこへ集中し、そして放たれました。
「ル、イィィィぃぃぃ……」
放たれた魔法力は私の背後の影を捉えていました。
「馬鹿だなぁ、ゾルア。首枷呪文なんて魔法力に差がなければ通用しない呪文が、魔王と同格になったいまの僕に効くはずがないだろう」
ぐちゅり。ぐちゅり。と音を立ててゾルアといわれた魔族が噛み砕かれていきます。ちょっと待ってください。展開が速すぎて理解が追いつきません。
「それに魂食いの魔王と同化してる僕の前に魂一つで現れるなんて、食ってくれって言ってるようなもんじゃないか」
フリューさんには攻撃呪文の素養がほとんどありませんでしたが、ルーくんは違います。多種多様な呪文を操ることができるルーくんならば、ソウルイーターとしても十全の性能を発揮できるようです。
「キサマァァァァッ」
凄まじい咆哮を残して、その魔族はルーくんに魂を食われました。
「あ、あの、なにがなんだか」
「察しが悪い姉ちゃんだなぁ。いまのやつは七武衆のゾルア。さっきも言ったけど僕はあいつに勇者を殺す兵器として育てられた。首枷呪文っていう呪いの呪文をかけられていて、それを解消するためにソウルイーターが必要だった。だから姉ちゃんに協力して魔王を倒した。他になにか気になることは?」
「……つまりルーくんは、新しい魔王になりたいんですか」
「そうじゃないよ。ちゃんとこいつを封じる方法は考えてある。時間加速呪文はその副産物なんだ」
ルーくんが圧縮していた馬鹿長い魔法式を解凍していきます。
辺り一面に広がるほど長大な魔法式です。
時の砂の呪文。「時間停止呪文」の術式です。三十四代勇者の仲間がこの呪文を使って魔王を封印しようとして失敗する様が伝承の中に登場します。ルーくんは自分ごとこの魔物の時間を止めて封印するつもりだった、のでしょうか。
「どうしてそんなことを」
「だって魔王と戦わせたらきっと姉ちゃんは死んじゃうだろ。だから必死に考えてたんだよ。どうやったら姉ちゃんが死なないか。姉ちゃんのことを執拗に狙ってたゾルアだってどうにかしないといけなかったし」
「なんで」
「あ、ひどいなぁ。本気にしてなかったんだ?」
ルーくんは微笑みました。
「僕は姉ちゃんのことが大好きだって言ったじゃないか」
言いました。言ってました。
「さて、ルイ=ライズの生涯最後の呪文、とくとみよ」
時間停止呪文の術式に魔力が伝導していきます。本来人間の一個人が使えるような呪文ではなく三十四代の勇者は魔法力の欠如が原因で失敗するのですが、魔王と同化しているルーくんは魔王自身に蓄積された莫大な魔法力を使って呪文を成していきます。あれが成立すれば魔王の時間はルーくんごと凍りつき、二度と目覚めることはないでしょう。
それはさておき私はよかったなーと思っていました。もしルーくんの目的が新しい魔王になることだったら、私はルーくんとも戦わなければいけなかったかもしれません。ただルーくんが自身の身を犠牲にして、私を守ろうとしてくれていただけなら。
別に助けても構いませんよね?
私は六つのオーブの魔法式を解放しました。私自身を卵に設定してラ・ルミアを擬似孵化させます。ルミアの力は魔族にとっては毒と同じです。歴代の勇者やその仲間がソウルイーターに憑依されなかったのも、勇者がア・ルミアの加護を受けていて仲間たちはその恩恵に与っていたからでしょう。同じ理屈でラ・ルミアの力ならば、憑依されて少ししか経っていないルーくんをソウルイーターから助けることができるはずです。
「ちょっと待て、お前なに考えて――」
孵化に成功したラ・ルミアの翼が私の背中に生えました。虹色に輝く綺麗な羽です。天使みたい。翼は私とルーくんを包み込みます。ルミアの翼に触れたルーくんから黒い影が弾き出されました。影は光に呑まれて消え去ります。だけど消滅したわけではなくて、きっとすごく時間が経ったあとに蘇るんでしょう。パキパキと、音を立てて私の仕立てた黒いオーブが砕けました。魔法式が崩壊し、ルミアの翼が砕けていきます。
ありがとう、と私は呟きました。私から抜け落ちたラ・ルミアは最後に一瞬だけ微笑んで、消え去って行きました。
呆然とした表情のルーくんがふと我に返り、つかつかと私に歩み寄り。ぺちん。びんたしました。痛っ。
「馬鹿なの?お前馬鹿なの?あれはここ数百年くらいずーっと魔王やって人間世界を脅かしてる怪物だぞ?それを僕一人の犠牲で倒せたんだぞ。せっかくかっこつけたのをどうしてくれるんだよ。なんで僕を助けたんだよ。あいつ逃げたじゃねーか。お前馬鹿だろ?いーや疑問系じゃないな。お前は馬鹿だ!」
「ひ、ひどっ。た、叩くことないじゃないですか」
「あーもー、やる気なくしたーくそがーくそヒフミがー、馬鹿、死ね」
「だって、だって勇者さんが死んで、フリューさんも死んで、ルーくんまでいなくなったらわたし、わたし……」
あ、我慢してたのに、ダメです。泣きました。
「そーだそーだ。フリューさんを犠牲にするとかなに考えてるんだよ、ルイ」
……ん? これ誰の台詞ですか。顔を上げると、フリューさんが立ってました。顔色が非常に悪いですが、血は止まっています。……幽霊?
「しょ、昇天呪文!」
効きませんでした。「昇天呪文、昇天呪文、昇天呪文、昇天呪文!」半ばパニックになりながら連打しますがやっぱり効きません。
「る、ルーくん。お、お化け」
「落ち着いて姉ちゃん。なんか知らないけどこいつ生きてるらしい」
「やっほー。なんか知らないけど生きてるフリューさんだよー」
え、ほ、ほんとに? 私は恐る恐るフリューさんに触れました。触れます。実体があります。ほんとに生きてるみたいです。
「しかし心臓抉ってやったのになんで生きてるんだ?」
「俺は心臓が二つあるんだよ。戦士みたいな前衛職は重要な臓器についてそういう小細工をしてるんだわ。ちょっと作動するまで時間かかったからほんとに死ぬかと思ったが。まあそのおかげであの魔物は俺が死んだと判断してくれて俺の体から出てったわけだから、結果オーライだけどな」
「わー……」
あまりのことに私はとても驚きました。
「とにかく、疲れた。話は帰ってからにしようよ」
「そ、そうですね。えっと、じゃあ私に掴まってください」
フリューさんが私の手を握りました。ルーくんがその場から一歩も動こうとしません。
「ルーくん、どうしたんです?」
「……動けないんだよ。時間加速呪文の使いすぎで筋肉とか血管とかいろいろぶち切れてて」
ルーくんは内出血で全身が赤く染まっていて、腕とか足とかパンパンに膨らんでいます。フリューさんと顔を見合わせました。無言で、わるい顔をして二人で頷きます。あとで悪戯しましょうという意思表示です。私はとりあえずルーくんをおんぶしました。「待って、ヒフミ、この運び方にはちょっと文句つけたいんだが」問答無用です。
「瞬間移動呪文」
私たちは魔王城をあとにしました。