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史書  作者: 風華
守りたかったもの 
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第七章 守りたかったもの 9  

「俺は、碧嶺閣に行って、父上……皇に会う」

「俺も一度碧嶺閣に戻る」

 翡翠の言葉の後で、挺明稜の言葉が続いた。

「碧嶺閣は大丈夫なの?」

「見たところ、碧嶺閣はまだ大丈夫みたい。翡翠のお父さんがなんとか妖獣の侵入を拒んでいるみたいだね」

 瑠璃の問いに、桃華が普段よりも僅かに堅い声で答え、口笛を吹いた。すると、桃華の愛馬である白い馬が隣にやってきた。桃華は軽い身のこなしで天馬に飛び乗った。

「桃華、どこに行くんだ?」

「ちょっと行きたいところがあるの」

 紅貴にそう言い、桃華の顔が翡翠に向けられる。

「良いでしょう? 翡翠」

 できれば、榛柳を襲う妖獣をできるだけ多く倒しいと、翡翠は思っていた。だが、こうして桃華が言うからには何か考えがあるのだろうと、これまでの経験上分かっていた。

「あぁ」

 翡翠が、そう短く返せば、桃華は天馬と共に空に舞い上がった。夜の闇にあって、天馬と共に飛翔する様子は、まるで一筋の雲が描かれていくようだ。あっというまに白い筋は消えた。

 その速さに誰もが呆然とする中で、翡翠だけは微かに苦笑する。

 昔から桃華は天馬の扱いに長けていた。翡翠自身も天馬の扱いは得意なほうであったが、桃華には敵わなかった。天馬だけではない。剣もだ。「天才」だという存在が実際にいるということは、桃華がいたから信じられたようなものだった。

「兄上、女の子を一人で行かせて大丈夫なの?」

「平気だろ、あいつなら」

 桃華に直接言ったことはないが、桃華の剣の腕は無条件で信頼できる。どこにいこうとも、みすみす妖獣にやられるようなことはないと、確信していた。

「翡翠様、碧嶺閣が無事だと言うことは、榛柳にいるみなさん碧嶺閣に逃げるのですよね?」

「あぁ。兵が碧嶺閣に誘導するはずだ」

「でしたら私も碧嶺閣に連れていってくれませんか? 癒しの力が役に立つはずです」

 一瞬、断ろうかと翡翠は思った。――妖獣皇族の血を好むから、間違いなく自分を狙ってくる。そんな自分といれば、白琳も危険に晒すことになる。だが、本当にそうだろうか。白琳を守れないのだろうか。

(……白琳に妖獣を近づけないでくれ)

 心の内で、恵を吹く風に願った。すると、指の先で空気が微かに震えるのが分かる。幼い頃、ずっと望んでいた力が今、確かにこの手にある。『証』を持った皇位継承者であることを自覚すれば、その力は簡単に翡翠の手に宿った。

 これまでずっと皇になることから逃れていたから手に入らなかった。だが、もう失うつもりはなかった。身を滅ぼす力を使わずとも、この力を使えば白琳を守ることができる。

「翡翠さま……」

 翡翠は、自身の黒い天馬を呼びよせ、天馬を一瞥する。そして、白琳に右手を差し出した。戸惑いがちに載せられた手を引き寄せ、抱き上げた。そのまま天馬の背に乗せ、そのほっっそりとした手に手綱を持たせた。

「翡翠さま?」

「掴待ってろ」

 白琳の後ろに翡翠も乗り、その細い腰を左手で支えた。手綱を持つ白琳の手に自身の手を重ねた。

「翡翠、俺も碧嶺閣に行って良いかな? ……子供の頃、何かと怪我の手当てをすることが多かったし、最近は白琳を手伝うことも多かったから、役にたてると思うんだ」

「紅貴、行くってどうやって? 桃華みたいに、妖獣を斬り伏せながら前に進むことはできないでしょう?天馬にも乗れないんだし」

「それなら俺が送っていくよ。一人でも多くの力が必要だ」

「ありがとう」

 紅貴が頷き、挺明稜が呼んだ馬に飛び乗った。天馬の首に捕まった紅貴の後ろに挺明稜が座る。腰で支えるようなことはしなかったが、挺明稜の両手がしっかりと手綱を握った。

「そろそろ行く」

 翡翠がそう、一言声をかけると、口を開きかけた瑠璃が頭を俯かせた。そして、再び顔を上げた瑠璃は、僅かに泣きそうな表情になっていた。なんて声をかけるべきか。そう迷っているうちに、紅貴が口の端を釣り上げ、瑠璃に笑いかけた。

「瑠璃、俺たち絶対ここに戻ってくるから。だから大丈夫だ」

 紅貴の言葉に、何か言いかけた瑠璃の口元が笑顔の形に変わった。

「わかった。気をつけてね」

 浮かべた笑みはきっと作り笑顔だったのだろう。だが、それはきっと、これから碧嶺閣に向かう仲間を勇気づけようとして見せたものだろう。それが分かり、翡翠はあえて何も言わなかった。翡翠は静かに頷き、天馬を飛翔させた。あっという間に、萩と瑠璃の姿は遠のき、眼下に、赤い炎が渦巻く榛柳が広がる。

「……翡翠さま、もう、死ぬなんて言わないですよね?」

「あぁ」

 白琳が言った言葉に、翡翠は短く言葉を返した。恵という国も、かけがえのない存在も守ると決めた。もう、皇位継承者であることからは逃げない。




 桃華は軽く目を閉じ、意識を妖力に集中させていた。たとえ目を閉じていようとも、この天馬は、かならず自分も目的地まで乗せてくれる。だからこそ、自分のやるべきことの集中できる。桃華はかつて感じた不気味な気配を思い起こし、その気配を探る。――今、妖獣を呼びよせているのがあの男なら分かるはずだ。

 じわりと額に汗が滲む。無数の妖獣の気配に、恵に生きる幾多の人々の恐怖に駆られた気配。あらゆるものが桃華の脳裏をかすめたが、その中で一つ、桃華が探していた気配があった。

(いた!)

 桃華は目を見開き、手綱を引いた。その男は榛柳北、そう離れていない位置にいた。桃華は軽やかに降り立ち、腰から剣を引き抜いた。普段は、脇差を使う桃華だったが、この時ばかりは、紐で堅く結んでいる刀の先を前に付き出した。

「瑛達」

 桃華はその忌まわしい名前を呼んだ。赤い髪の男がゆっくりとこちらを振り返ると同時に、桃華は刃を向けたまま、駆けだす。辺りに鋭い金属音が響き渡る。目の前に現れた銀の刃に、桃華は目を見開いた。

 桃華の刃を遮った剣を持つ者は、瑛達ではなかったのだ。

「瑛達様、お先にどうぞ。この娘の相手は私がしましょう」

 聞きなれた声がそう言った。桃華の視界の端で、瑛達が黒い羽が生えた龍のようなものに乗るのが見えた。ざわざわと木々が揺れ、風が起こったかと思えば、瑛達は消えていた。

 桃華は奥歯をぐっと噛んだあとで、自身の剣を受けた男を睨みつける。

「そういうことするなら、最初から瑠璃と付き合わなければ良かったのに」

「……それはもっともだね」

 駿が静かに言った後で、桃華は剣を下ろし、刀をしまった。

「かかってこないの?」

 駿が小首を傾げて言ったのを聞き、桃華は腕を組む。

「勝敗がわかっている勝負をしたって楽しくないもん」

「随分と余裕なんだね」

「私が駿に負けたことあった?」

 桃華がそう言うと、駿は、やれやれと言うように、手に腰を当てた。

「どういうつもりか、聞かないの?」

「……駿の狙いが分かる自分に腹が立ってるところ」

 あの、忌まわしい存在瑛達を庇い、桃華に剣を向けた。どうしてそんなことをするのか、だいたい分かる。分かったところで、それをどうにかする方法が思いつかず、桃華はため息をついた。

 翡翠の件がなんとかなりそうだと思えば、次は駿。どうしてこうも面倒な男ばかりなのだろう。駿を倒すことなど簡単だったが、手を引いたのは、駿が意図することを察してしまったからだ。

「私が、本気で駿を倒したらどうするつもりだったの?」

「桃華ちゃんならこちらの意図を察してくれるとわかっていたからね」

 そう言い、駿はこの場に似つかわしくない、優しい笑みを浮かべた。

「嫌な性格」

「お互い様だろう?」

 吐き捨てるように桃華が言えば、静かにそんな言葉が返ってきた。

「桃華ちゃんは強いと思うよ。俺なんかじゃ敵わないしね。だけど、まだ勝てないよ」

 言いながら、駿が天馬に乗り、空に舞い上がった。桃華は髪を押さえ、その様子をじっと眺める。どっと、疲れが押し寄せてきて、桃華は重くため息をつく。

 誰かが、あの男は倒さなければならない。少なくとも、一緒に旅をした仲間の中で剣が一番強いのは自分だという自覚があった。逆に言えば、剣ぐらいしか取り柄がないということだが、それでもそれでできることがあるのなら、自分があの男を倒すと決めた。

 なのに――

『だけど、まだ勝てないよ』

 先程言われた駿の言葉が蘇り、桃華は拳を握る。

「なんなのよ!」

 自分が勝てないのなら、いったい誰があの男を倒すのだろう。誰かがあの男を倒すしかないのに。悲しいと思ったことはあった。だけど、こんなにも悔しいと思ったのは初めてかもしれない。桃華は、血が沸騰するような苛立ちを感じながら荒く、天馬に飛び乗った。




 人の波が押し寄せる碧嶺閣に辿り着き、翡翠は白琳を下ろしたあとで、自身も馬から降りた。碧嶺閣に向かう途中、兵が人々を庇い、なんとか碧嶺閣に導こうとするのが見えた。妖獣と戦うことは容易ではない。できることなら、剣を振るい、力を貸したかった。だが、今自分がやるべきことは別にある。

「灑碧様がやったんだろう! どうして私たちがこんな目に」

「でも灑碧様は生きているって聞いたわ!もしかしたら違うかもしれない!」

「だったらどうして!どうして助けてくれないんだ!やっぱり灑碧が!」

 人々が集まる碧嶺閣の広間を縫うように歩けば『灑碧』に対する恨みと、それを否定する声が聞こえた。医者が走り回り、けが人を手当てし、悲鳴な声とともに、家族の名を呼ぶ者。『灑碧』という名――正確にはあざなは、それと同じくらい多く聞こえた。

「翡翠様……」

 白琳の手が、翡翠の手に重なった。翡翠はその手をそっと握り返す。

「大丈夫だ」

 自分がこんなにも恨まれていることはさほど気にしていなかった。慣れていたし、それに、恨まれて当然だと思っていた。長い間、やるべきことから逃げ、恵を離れていたのだ。戻ろうともしていなかった。そんな自分を認めてくれと、簡単に言うつもりはなかった。だが、ずっとそれで良いとは思っていなかった。

 きっと、皇位継承者として認めてもらうのには時間がかかるのだろう。だが、もう逃げるつもりはない。

「翡翠様、私と紅貴は怪我人の手当てをします。どうかご無事で」

「剣を振るうわけではないから心配しなくて良い。……また、あとで、必ず」

 翡翠は白琳から手を離し、碧嶺閣を挺明稜と共に奥へと進む。いくつもの扉を抜け、徐々に、恵の民の数が少なくなっていく。碧嶺閣の女官は、避難してきた者の世話をしているのだろう。翡翠が子供の頃にはたくさんいた女官は今はその姿をほとんどみかけない。

「この先は一般の方の通行は禁じられています。どうかお引き取りを……って、挺明稜様?」

 ある程度の位がなければ通り抜けることが出来ない位置まで辿り着き、武官に足を止められた。だが、挺明稜の姿に武官が声を裏返した。

「ご無礼を…大変失礼致しました。殿下はどうぞ、お入りください。ですが、その横にいる者は入れるわけにはいきません。どうかお引き取りください」

「私の横におられるのは……」

 挺明稜の言葉を遮り翡翠は一歩前に出た。顔を上げ、まっすぐに武官を見つめる。そして、一度は捨てようとした字を口にする。

わたくしは、第一皇子 恵 灑碧。そこを通してもらおう」

 その瞬間、目の前の武官の顔がみるみる青ざめていく。目が見開かれ、剣の柄に手が掛けられた。

「あなたが……!あなたが妖獣を呼んだから!」

「違う!兄上ではない!」

 周囲の武官が騒ぎを聞きつけ、集まってくる。灑碧に剣を向ける者、それを止めようとするもの。恐れを口にする者。助けを求める者。あらゆる声が重なり、騒ぎが大きくなっていく。

「何事ですか!」

 騒ぎの中で一際大きな女の声が響き渡った。その声に武官は、呆然とした様子で剣を下ろす。

「母上!」

 挺明稜の母親の明汐がやってきて、騒がしかった辺りが一気に静かになった。武官をじっと見まわし、剣がしまわれるのを静かに待つ。そして、翡翠の顔をじっと見つめた後で、目の前にやってくる。

「陛下が待っています。こちらへ」

 翡翠はこくりと頷き、明汐の後を着いていく。その場には挺明稜が残り、その姿を横眼でちらりと見た翡翠に、明汐が微かに笑みを浮かべた。

「あの子、あなたがここにいた頃より逞しくなったわ。だからあの場は挺明稜に任せて大丈夫よ」

「……そのようですね」

 翡翠は静かに答え、顔を正面に向けた。誰もが、自分のやるべきことをなそうとしている。そんな中で、逃げるわけにはいかない――そう思い、また一歩足を踏み出そうとした時だった。急に明汐の足が止まった。

 いったい何が、と口にしようとしたが、それより先に、血の匂いが翡翠の鼻をついた。白い石の床に赤い血が広がり、武官が倒れている。翡翠は、武官の横に膝をつき、息を確かめた。

(遅かったか)

 武官はすでに絶命していた。

 翡翠は開いたままになっていた武官の瞳を閉じ、剣の柄に手をかけ、立ちあがる。

「俺から離れないでください。そこそこ剣は扱えるので、守ります」

 翡翠の横で、明汐が頷く。いったい誰がこんなことをやったのか。浮かんだ顔は、どれも厄介な存在だった。だが、それが倒さなければならない存在ならば、斬るまでだ。

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