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史書  作者: 風華
守りたかったもの 
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第七章 守りたかったもの 8

 数日ぶりに出た外は少し肌寒く感じられた。翡翠はため息をつき、腕を組んだ。

 前に目覚めた日から3日。その前の数日間もほとんど眠っていたという。時折、意識を取り戻したこともあったらしいが、その辺りの記憶は曖昧だ。あの男を倒すことができず、自分は死んだのだ、と思った後の記憶で覚えているのは、3日前に自分の過去を話したことと、今日、目が覚めて以降の記憶だけだった。

「兄上」

「挺……」

 静かに呼ばれ、翡翠は振り返る。そこには記憶にある姿よりも成長した弟がいた。年下とはいえ、一歳しか変わらないせいか、子供の頃は翡翠よりも低かった身長は、翡翠を追い抜いていた。少し焼けた肌と、大きな瞳――かつては日の光を浴びると茶に変わっていた瞳は、今は夜の闇を映していた。浮かべる表情こそ優しい笑みであったが、穏やかな印象というよりは、快活そうというものであった。浮かべる表情が笑みでなければ、剣の腕が立つ剣士といった雰囲気だった。

 父親にそっくりだ。

 煌李宮にいたら、女官たちに騒がれそうな容姿だとも思った。そんなことを考えてしまい、翡翠は、小さく苦笑した。すっかり煌李宮に毒されているようだ。

「兄上?」

「なんでもない」

 挺明稜に不思議そうに尋ねられ、翡翠は静かに言った。

「姉上、この14年間ずっと頑張ってたよ」

 挺明稜が翡翠の横に並び、ぽつりと言った。

「……そうか」

 なんとかそれだけ答えた。今更ながら悪いことをしたと思った。14年間の間、宵汐の姿を見ていたわけではないが、根が変わらないとするならば、恵を支えようと、必死だったのだろうと、想像できる。それなのに自分は――

 罪悪感を覚える権利すらない気がした。

「挺が皇位に就こうと考えたことはなかったのか?」

「ないよ」

 なんて無責任な言葉だ、と思いながらも問うとすぐに言葉が返ってきた。

「兄上が生きていることは分かっていたから」

「どういうことだ?」

「この世界の仕組みを考えれば分かることだよ。兄上が死んだら、兄上に従う恵の地が、悲しむはずなんだ。だけど、兄上が死んだとされるあの日、風は冷たくならなかったし、雨も降らなかった。だから、俺は父上に問い詰めたんだ。そしたら、生きてるはずだって教えてくれて。兄上が嘉にいることも知っていた。正直、兄上が、嘉の武官として生きると決めたのなら、その方が幸せかもしれないと思ってたんだ。皇という立場は、責任ばかり重くて、少なくとも一般的な幸せは手に入らない。……だから、最近まで、兄上を皇にするのが本当に正しいのか分からなかった」

「挺、お前は甘いな。前にも言ったが、俺の選択肢は、皇位を継ぐか、継ぐ気がないのなら、次の皇位継承者を誕生させるために、命を絶つかのどちらかだ。そうしなきゃ、恵に何が起こるか分からないからな」

「うん。甘いから、俺には皇は向かないんだ」

 挺明稜が可笑しそうに笑ったあとで言葉を続けた。

「ねぇ兄上、兄上は今でも命を絶つ気なの?」

「それは……」

 翡翠は挺明稜から視線を逸らし、この位置から一望できる榛柳を眺めた。恵の民、全員というわけではないが、多くの民が、恵の皇の守りが及ぶ榛柳にやってきている。一際大きな建物は碧嶺閣だ。その建物に、恵の現在の皇がいる。

――自分に父親と同じことができるのだろうか。

 皇になる、という意志を持った時は、いつだって、恵に悲劇が襲った。自分が皇になれば、恵の民は苦しむばかりなのではないか。――皇位を継ぐことが怖い。

だが、自分がかつて修で経験したようなことを恵の者に遭わせたくはない。やはり、命を絶つしかないのだろうか。けれど、紅貴の言葉が耳から離れない。

『俺はもう妖獣使いの力を恐れない』

 そう、はっきりと宣言した紅貴の姿が、翡翠には眩しく映った。その姿を見て、今更ながら、このままで良いのだろうかと思った。あの、碌に戦う手段を持たなかった子供――子供だと思っていた紅貴が一歩進もうとしている。なのに、自分は。翡翠は、手に力を込めた。

 先程、瑠璃にも叱られたのだ。やはり、自分が死を選ぶのは間違っているのではないか。そう、気持ちが揺らぐ。「皇の器じゃない」そう言い訳して逃げるばかりで良いのだろうか。

「兄上、紅貴と賭けをしているんだってね」

「紅貴から聞いたのか?」

「うん。俺、紅貴に賭けようと思ってるんだ」

「……お前、しばらく見ないうちに、中々良い性格になったな」

「そうかな?」

 そう、おどけて見せた挺明稜にため息をつくと、静かな足音が聞こえた。

「翡翠さま」

 その声に、落ち着いていた鼓動が、一瞬不自然に跳ねた。

「……白琳」

「じゃあ兄上、俺、部屋戻るよ」

 そう、静かに言うと、挺明稜はその場から去って行った。



「こうして二人で話すのは、嘉の慶以来ですね」

「あぁ」

 あの時も白琳は綺麗だった。自分はこんなにも何も出来ない人間だというのに、無条件に優しい笑みを向けてくれた。その笑みを守りたいと、その資格もないのに、願ってしまった。二人で祭りにでかけた時間、翡翠は、自分の命を絶つべきだということを忘れていた。


――灑碧さままで死なないでください


 不意に懐かしい声が聞こえた気がした。どうしてだろう。皇となり恵を守るということは、白琳を守ることをも意味しているような気がする。

「お食事召し上がれましたか?」

「あぁ。さっき、瑠璃が持ってきたからな」

 正直、あまり食欲はなかったのだが、翡翠が食事を終えるのを見届けるまで、部屋を出る様子がない瑠璃を前に、持ってきた食事を下げさせようという気は起らなかった。

「昔から、瑠璃が持ってくると、断れないって言ってましたもんね」

 子供の頃もそうだった。まだ嘉にきて数年しか経ってない頃、恵にいる時ほど力を押さえられないわけではなかったが、それでも時々力を暴走させていた。恵にいる頃のように、周囲に大きな被害をもたらすことはなかったが、それでも子供の身に、その負担は大きく、恵にいた頃程ではないにしても、その代償を払っていた。

 事情を知らない瑠璃は、翡翠が風邪を拗らせたと勘違いしていた。代償を払うことになると、翡翠の育ての親の銀と珊瑚は、決まて瑠璃に食事を持ってこさせていた。

 初めて持ってきた時は、いらない、と断りそうになった。だが、そう答えようとすると、瑠璃は泣きそうな顔になった。育ての親はわざと翡翠の元に瑠璃を寄こしたのだと、察したが、不安そうにこちらを見る瑠璃を前に断ることはできなかった。

 素直に言ってしまえば、育て親と瑠璃の気持ちが嬉しかった。

 ――自分が命を絶てば、そんな風にして翡翠を育ててくれた銀と珊瑚も悲しむのだろうか。

 分かり切っていたはずなのに、今更ながらそう思った。

「泣いていませんでしたか? 瑠璃」

「……泣きそうにはなってたな」

 先程、瑠璃が作ったであろう粥を食べ終えると、瑠璃は微かに潤んだ瞳をこちらに向けた。

「瑠璃はなんて」

「……死ぬのは許さないって言われた」

「そうですね。みなさんそう思ってます。もちろん私も。もう、翡翠さまも分かっていると思いますが。あの、翡翠さま」

 僅かに声色が変わる。明るく柔らかいものから、静かでありながら、堅い意思を感じさせるものへと。

「私にできることは少ないです。剣を扱えるわけでも、文官としての知識があるわけではありません。ですが、私は私にできる方法で翡翠様をできる限り支えようと思うんです。ですから翡翠様」

 翡翠の横に並んでいた白琳が、前にやってきた。夜の闇の色をした黒い髪――今は束ねられているその髪には、翡翠が嘉で渡した簪が飾られている。黒髪とは対象的な白い肌は夜の闇に映え、今はまっすぐな瞳を翡翠に向けている。

 真剣な様子だった白琳の口元に優しく弧が描かれた。

「翡翠さま、恵の皇になってください。翡翠さまなら大丈夫です」

「白……」

「それから一つ、お願いです。……皇になって私を守ってくれませんか?」

 気づけば、白琳を抱きしめていた。どれだけ望んでいただろう。この愛しい女性の笑顔を守ることを。その資格はないのだと、自分に言い聞かせようとした。だが、やはり、守りたい。

 幾度となく自分を救ってくれたかけがえのない存在を、この手で。

 腕のなかにある、暖かい存在にどれだけ助けられただろう。今までは与えられるばかりだった。けれど、許されるならば、今度は――

「白琳、俺からも頼みがある。この先ずっと」

――隣にいてほしい。そう、続けようとした時だった。突如、不気味な声が空に轟いた。翡翠はそっと白琳から身体を離し、その前に立った。そして、視線を、声がした方へと向ける。夜の空炎の赤に染まっている。

 夜の静けさが包んでいた榛柳に次々と、炎の赤が広がっていく。

「皇の守りが破られた……?」

 一瞬の内に、榛柳に妖獣の群れが押し寄せている。さすがに、碧嶺閣の守りは破られていないのか、碧嶺閣だけはその姿を保っている。目を細めて、良く見れば、青い光が覆っているのが見えた。恵の今の皇がなんとか保たせているのだろう。

「翡翠さま……」

 白林が不安そうに名前を呼んだ。萩の家にいた他の仲間も外に出てくる。それぞれが茫然と榛柳を見つめ、息を呑んでいる。翡翠は、不安そうに声を漏らした白琳の肩にそっと手を当てた後で、一歩前に進んだ。

 もう一度守るべき恵の姿を見つめ、翡翠は紐を取り出し、普段より少し高い位置で、髪を括った。髪を伸ばしたままにしていたのは、首の後ろにある証を隠す為だった。少し低い位置で結んでいたのも同じ理由だ。だが、もう、隠す必要はない。

 自分は間違いなく、『証』を持った皇位継承者なのだ。


 翡翠は、榛柳の姿をしっかと目に焼き付け、振り返る。紅貴に桃華に瑠璃に挺明稜に、萩。そして白琳。皆の視線が自分に集まるを感じる。

「俺はもう、恵の皇位継承者であることから逃げない」

 声に共鳴し、恵を吹く風が強く吹いた。恵を吹く風も、水も、恵の地にある全てが自分に従うのが分かる。ならば、利用するまでだ。


 大切なものは守ると決めたのだ。生まれ故郷であるこの国も、そして――かけがえのない人も。

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