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史書  作者: 風華
北の青い空
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第一章 北の青い空 6

 李京の東、商業区と呼ばれる一角はいくつもの店が並んでいる。石畳の路地の両端には桜の木。その横には歩道があり、歩道に沿うようにして、店がたち並んでいた。商業区の目覚めは早い。

 日が完全には上りきっておらず、朝靄がかかる早朝、店の中から一人、二人と人が姿を現す。日がすっかり登る頃には、店を開けなければならないのだ。 

 そんな商業区の中ほどに位置する『福屋』と呼ばれる、都一の呉服屋から、一人の女が現れる。箒を片手の持った綺麗な女の瞳は蒼い色をしている。


「瑠璃ちゃんおはよう」

呉服屋の隣のお香屋の店主の女に声をかけられた瑠璃は、にこやかな笑顔を向けた。

「明喜おばさんおはよう。今日も早いですね」

「瑠璃ちゃんこそ。若いのによく働くって評判だよ。瑠璃ちゃんなら、嫁にって声は多いんだろうね」

 瑠璃はこれには答えず、微笑みを返しただけだった。

「顔も綺麗だし、元気でよく働く。商人の鏡だって評判だよ。家に来てほしいくらいさ」

 

 実際、瑠璃を嫁にという声は多かった。歳も18。この国ではそれくらいで嫁ぐのは普通だった。幼いころから、よく働き、利発。しかも顔が綺麗とあっては、嫁に欲しがる声が多いのは当然だった。

 しかし、瑠璃は結婚する気はなかった。その前にまだやらなければならないことがあるのだ。


「やだねぇ瑠璃ちゃん。冗談だよ。家のバカ息子に瑠璃ちゃんはもったいないさ。瑠璃ちゃんにはもっといい男がいるってもんさ」

「おばさんったら」

 そう言ってほほ笑む瑠璃は、ふと、見慣れた人こちらに向かってくるのを見つけ目を見開く。

「馬鹿兄翡翠!?」

「誰が馬鹿兄だ」

 翡翠の実家がここだとはいえ、めったに帰ってくることはない。突然の兄の帰還に、瑠璃は声を上げる。


「どうしたの?首にでもなったの?」

「なわけないだろう。用があって戻ってきたんだ」

「珍しいね」

「俺、昨日寝てないから今から寝る。起こすんじゃねぇぞ」

 翡翠はそう言うと、店の中に入っていった。

「まったく……」

 瑠璃は腰に手をあてて、呆れたとばかりにため息をついた。

「ハハハハ」

「おばさんったら、急に笑ってどうしたんですか?」

「いやねぇ」

 笑いが少し治まったらしい明喜は翡翠が入って行った呉服屋の入り口を見たまま言う。

「麒翠様……翡翠は、子供のころは、この辺近所じゃ悪ガキって評判だったろう?それが、国立学校に入って、禁軍に入って、今じゃ二将軍になったって言うんだ。立派になったもんだと思ってたんだよ。あの小さな悪がきが二将軍っていうんだからさ。でも、今の翡翠の口ぶり聞いてたら、性格は変わっちゃいないんだな、と思ってね」

「そりゃそうですよ。あの性格の悪さはそう簡単には治りませんよ」

 明喜は何がおかしいのか、もう一度笑った。




 店の前の掃除を終えた瑠璃は、呉服屋の二階の住居部分に向かった。居間では、ちょうど朝食を作り終えたらしい、母親の珊瑚が、食卓に茶碗を運んでいることろだった。瑠璃同様に美人だと、また、よく働くと評判の母親だ。

 

「瑠璃、ご苦労だったね」

 瑠璃と同じく、早朝の仕事を終えた父親の銀がいつもの穏やかな声で言った。

「ありがとう、お父さん。そういえば、翡翠が戻ってきたけどいったいどうしたのかしら」

「あぁ、それなんだけどね、実は夜が明ける少し前に、康亀様がいらしゃってね、私に巻物を預けていったんだ」

「康亀様……って、あの康亀様!?大物じゃない!」

「そうだね。でね、その巻物というのが、王からの手紙でね」

「王!?」

 次から次へと出てくる大物の名に瑠璃は驚きを隠せなかった。

「なんでも、翡翠が私たち家族に話があるだろうから、実家に戻らせた。話をきいてやってほしい。そんなようなことが書いてあったんだ」

「実際翡翠が戻ってきて、いったん寝て起きたら話があるから聞いてほしいっていってたわ。まったく困った子だわ。寝るなら、せめて朝ごはんを食べてからにしたらっていったのに、それより寝るんだって言ってきかないんだから」


 珊瑚はそう言って瑠璃と銀の湯のみにお茶を入れた。銀が好きな嘉緑茶だ。嘉緑茶特有の香ばしい香りが居間に広がった。銀は、珊瑚が入れたお茶を一口飲み、湯呑を置いて言う。

「それから、王からの手紙には瑠璃のことについても書いてあったんだよ。瑠璃も私たちに話さなければならないことがあるはずだとね。もし、瑠璃が話さないのだとしたら、勅命という形で後押しをしなければならないかもしれないって。……瑠璃、それは本当かい?」

 父親の銀の口調は責めるようなものではなかった。いつもの温かい、諭すような柔らかい口調だ。まるで、銀の性格そのもののような。

 瑠璃は昨日の港での白琳との会話を思い出す。もう、自分がどうするかは決めてあるのだ。だとしたら、やるべきことは両親にその決意を話すことだけだ。

「そうね。私、お父さんとお母さんに話さなきゃいけないことがあるわ。……翡翠が起きたらお話しします」


「こんな朝から押しかけてしまって申し訳ありません」

 煌李宮の一角の武官のための鍛錬場。本来誰もいないはずの早朝、この場所には白琳と、駿が居た。

「かまわないよ」

 駿はにこやかに笑ってそう言う。

「……実は、翡翠様にお願いしようと思っていたことがあるんですけど、状況が変わりましてので、あなたにお願いすることにしました」

「俺に?」

「えぇ。あなた位の地位でしたらもう知っていると思いますが、翡翠様と、桃華様、瑠璃と私は洸国の民と共に、洸に赴き、洸国を救うことになりました。でも、実は私、その命が下る前は、所用がありまして、桃華様と瑠璃、私で、洸に行こうとしていたんです」

「随分と大胆なことをするんだね」

「最初、桃華様がいなくなる分の仕事を翡翠様にお願いしようとしていました。でも、翡翠様も一緒に行くことになったので、翡翠様と桃華様の分、よろしくお願いします」

「大丈夫。それは、いつも俺がやっていることだから。翡翠も桃華ちゃんも数学が大の苦手でね……計算が入ると、いつもやらされるのは俺だったから、今まで通りだよ。それより白琳、本題はこれじゃないだろう」

白琳は微かに笑んだ。


「あなたに隠しても無駄ですし、隠すようなことでもないので、そのまま言わせていただきます。瑠璃……あなたにとって大切な瑠璃はいざとなったら私が守りますのでご安心ください」

「知ってたんだね」

 駿は微笑む。翡翠の親友、駿は、翡翠の妹の瑠璃に密かに想いを寄せていた。しかし、その思いを瑠璃に伝える気はなかった。駿には駿の思惑があるのだ。

「それにしても、知られていたなんて驚きだよ。完璧に隠していたつもりだったんだけどね」

「多分、他の方は気づいていないと思うのでご安心ください。ただ、私が翡翠様を見る目と、あなたが瑠璃を見つめる目が似ていたものですから。…… 瑠璃はいざとなったら私が守ります。翡翠様や桃華様はもしかしたら、やらなければならないことがあって、瑠璃の事までは回らないかもしれません。その時は私がどんな手を使っても……」


 駿は白琳を見た。白い肌も、艶やかな黒髪も、桃色の唇も、どこをとっても美しく、それは総じてきつい印象ではなく、柔らかい印象を与えるものだった。しかし、今、彼女の中には強い意志で溢れているように感じられた。だが、それは、ある一面では儚い。駿は、少し低い声で言う。

「あんまり、桃華ちゃんと、瑠璃ちゃん、それから翡翠が悲しむようなことを言うもんじゃないよ」

「え……?」

 駿は、今度は笑顔を作る。そして静かな温かい声で言った。

「麒翠と鳳華……嘉の二将軍は強いって言ったんだ」


 努力で補えるものではないほどに、麒翠と、鳳華は強い。それを駿は良く分かっていた。自分の武術の腕が上がれば上がるほど、その実感は強くなっていった。諦めではなく、あの二人に追いつくことは、天地が引っくりかえっても無理だろうと漠然と感じていた。


「洸国のお土産を持って、全員で戻ってくるのを、俺は待ってるよ」

「……あなたは性格が良いんだか、悪いんだか、いまだによく分りませんわ」

「それは、君も似たようなものだろう」

「ところで、その洸の民は、今どこにいるんだろうね」

 駿は、いつものように考えをめぐらしていた。





 翡翠が実家の呉服屋に帰ってきた夕方、呉服屋の芳家は、卓を囲んでいた。


「私、洸でやることがあるから洸に行きます」

瑠璃は静まった居間ではっきりとそう宣言した。

「瑠璃、洸がどういう国か分かっているのかい?」

 銀が優しく言い、瑠璃は静かにうなずく。

「噂程度しか知らないけど、酷いってことは間違いないみたいね」

「それがわかっていて、どうしても行きたいというなら止めはしない……ただ、一つ約束してくれないか」

「約束?」

「絶対に生きて帰るという約束だ」

 銀にしては珍しく、強い口ぶりだった。

「……約束する」

「銀、珊瑚」

 翡翠が瑠璃に続いた。

「俺も、洸に行くことになった」

 驚いたのは瑠璃だった。

「ちょっと翡翠!それ、どういうこと?なんで、翡翠まで行くことになってるの?」

 

 驚いている様子の瑠璃を余所に、翡翠は淡々とした口調で言う。

「俺は、王に勅命を下された。……洸国に赴き、洸を救へという命だ。向こうの軍と戦うことになるだろう。洸国に行くということは、もしかしたら死ぬ可能性もある」

 瑠璃は目を見開く。目の前でなんでもないことのように言い、呑気にお茶を飲む兄に対して、これまでにない怒りを感じる。

「翡翠!何、馬鹿なこと言ってるのよ!」

「瑠璃、落ち着きなさい」

「これが落ち着けるわけないでしょう?なんで私は絶対に生きてかえってくるって約束をさせられて、翡翠は死ぬかもしれないっていう宣言なの!?そんなのおかしいわ!翡翠も洸に行くって言うなら、私と同じように絶対に生きて帰ってくるって父さんと母さんに約束するのが筋ってもんじゃないの?」

「瑠璃、そういうことじゃないんだよ。翡翠と瑠璃は違う」

「違う?何が違うの!?私たち二人とも父さんと母さんの子供でしょう?父さんと母さんは翡翠のことなんてどうでも良いの?」

「そんなことはない。二人とも大事な私たちの子供だ」

「じゃあ、どういうこと……?」

瑠璃の声は震えていた。

「……俺が説明する。俺は一応……「翡翠……私が説明するから、部屋に戻っていなさい」」

翡翠の言葉を、銀が遮った。

「私が説明したほうが良いと思うんだ」

銀は囁くように翡翠に言う。翡翠はため息をつくと、瑠璃の方を見た。

「瑠璃、安心しろ。俺は死ぬ可能性はあるとはいえ、死ぬ気はない上に、そこまで弱くない。多分生きて帰れる」

翡翠はそういうと、自室に戻っていった。

「瑠璃、話をつづけようか」

「うん……」


「翡翠はね、武官なんだよ。武官であれ、文官であれ、官は国のために働くものなんだ。それはわかるね?」

「うん」

「武官の場合、国のために働くその職務に、命の危険が伴うものがあるんだよ。それが今回のような命だ。王は、国のために、時に勅命を出すことがある。国のための王の勅命に、官は逆らうことができない。そして、基本的に、いかなる時も優先されるべきものは、国のための命を遂行することなんだよ。たとえ、それが命を失う可能性があるものでもね。その見返りに官はたくさんのお給料をもらっているだろう?」

「そうね……」

「翡翠は、それをわかった上で、武官になったんだ。しかも、わたしたちも翡翠が武官になることを受け入れた。翡翠は官だけど、瑠璃は官じゃない。そこが二人の違いだよ。そしたら、私たちがやれることは、翡翠の実力を信じて、それを受け入れることじゃないかな」

「うん……」

「瑠璃、大丈夫よ。翡翠があんな性格でも二将軍になれたのは、実力あってのことなんだから。強いんだからきっと大丈夫。今日は久しぶりに家族4人、全員がそろったんだし、おいしいご飯でも食べましょう」


「銀悪かったな。あんなことを説明させて」

すっかり夜も更けた夜中、翡翠は、居間で酒を飲む銀にそう言った。

「良いんだよ。……それが翡翠が逃げずに選んだ道ならね」

翡翠は何も言わずに、銀の笑顔を見た。その優しい笑顔を見ると不思議と、申し訳なく思えてしまう。心の中でもう一度謝罪をして、立ち去ろうとすると、銀が声をかけた。

「たまには、男同士で親子水入らず、一杯どうだ?」

 銀はそういうと、翡翠にお猪口をさし出した。

「悪くないな」

 翡翠は銀から酒を受け、一気に飲み干した。




 その夜瑠璃は月を見ていた。あの、ただの馬鹿兄だと思っていた翡翠が実はそんな覚悟で官になったというのは意外な気がしていた。

(でも、あの馬鹿兄ばかりが見せばあるなんてなっとく行かないわ。私だって、同じくらいの覚悟はあるんだから)

 ただ、翡翠や桃華とは違う。自分がする覚悟は違う種類のものだ。

「絶対に生きて帰る……!」

 瑠璃は、自分が洸へ旅立った後に、嘉で待っているであろう人々の顔を思い浮かべ、誓った。


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