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史書  作者: 風華
守りたかったもの 
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第七章 守りたかったもの 2

 恵国の皇后明汐に連れられ、桃華は長い廊下を歩き、いくつもの扉をくぐり、碧嶺閣の最深部の扉の前の辿り着いた。廊下を進むごとに人は減り、人の気配が感じなくなった。今、この場には桃華の横にいる明汐と、扉の向こうの人物しかいない。桃華は、扉と呼ぶにはあまりに大きな、巨大な石の塊を見つめた。白い石でできた扉には、恵の皇位継承の証と同じ、天に昇る龍が掘られている。今にも動き出しそうな細やかな彫刻に桃華は思わず感嘆の息を洩らした。

「桃華が来ました」

「よく来てくれた」

 分厚い石の扉を挟んでいるはずなのだが、その、低い声ははっきりと桃華の耳に届いた。おそらくは「皇の力」を使ったのだろう。この扉の向こう側――通称、皇の間には、皇位継承者以外は入ることができない。恵の現在の皇、翡稜の声を聞いた桃華はその場で膝をついた。

「お久しぶりです。翡稜様」

「すまないが、今、私はここから動くことができない。……恵を守らなければならないのだ」

「はい」

 ここに来る前に、明汐から事情は聞いていた。証を持った皇には皇を守る力が宿るが、その力には皇によって差がある。その力を少しでも強めようと、政務は明汐に任せて、翡稜はずっと祈りを捧げている。今、恵で確実に安全だと言えるのは、皇がいる榛柳だが、皇の守りの力が強まれば、その範囲を広げることが出来る。

「翡稜様、今、恵に灑碧が来ています」

「そうか。ようやく……。桃華、一つだけ私の願いを聞いてくれないだろうか。翡翠――恵の皇、灑碧をここに連れて来て欲しい」

 放たれた言葉は、翡稜の悲痛な想いであるように感じられた。微かに震えていたその声に、桃華の心臓がずきりと痛んだ。いったいどんな気持ちで翡稜は翡翠の帰還を待っていたのだろう。

「はい、必ずここへ」

「今は嘉国に仕えていると言うのに、このような頼みごとをして申し訳ない」

「いえ……恵を守るということは、嘉国を守ると言うことでもありますから」

「頼みごとついでに、一つ聞いても良いだろうか。嘉国でのあいつはどんな様子だった?」

「……二将軍の翡翠は、嘉国の人々からの信頼が厚いです。私自身も何度も翡翠に助けられました」

 翡稜の気持ちを汲んで桃華は静かに言った。その答えに、フッと、小さな笑い声が聞こえた。その笑い方が、少し翡翠に似ていると桃華は思った。

「本当はあいつが自分の意思で皇になる決意をするのを待ってやるべきなのかもしれない。だが、今の恵にはそんな時間がない。私は、父親としては酷い親なのだろう。だが、私はこれでも恵の皇なのだ。恵のことを第一に考えなければならない。翡翠には悪いが、頼む」

「はい」

 気配が離れていくのを感じる。現在の皇、翡稜が再び、守りの力を強めることに意識を集中させたのだろう。翡稜が祈りをささげている限り、少なくとも榛柳が妖獣に襲われることはない。だが、翡稜が守りたいと思っているものは、榛柳という都市ではなく、恵国そのものだ。その願いを、何としてでも叶えたい。

 桃華は自然と顔を引き締めて、音を立てずに立ち上がった。




「灑碧が生きているって知っていたのなら教えてくれれば良かったのに」

 弟の挺明稜ていめいりょうの名前を短く呼び、宵汐は手に持っていた筆を硯の上に置いた。

「だってそんなこと言ったら、姉上、何としてでも兄上に皇位を継承させようとするでしょう」

「当たり前よ! 灑碧が素直に皇位を継承すれば、今頃皇位継承問題なんて起こってないんだから!」

 宵汐が机に手を打ちつけたため、墨が微かに辺りに飛び散った。挺明稜が布でそれを拭き、散らばった紙の束を整理した。

「正直なところ、俺は、兄上が皇位に就くのが良いことなのか分からなかったんだ。生きているのなら、兄上にとっては、皇位のことなんか忘れて、一般の民として生活する方が幸せかもしれない、と思っていたから」

 挺明稜の言葉に、宵汐はわざとため息をつく。

「まったく、挺は灑碧に甘いんだから。そんなこと言ったって、恵家に生まれた以上、どうしようもないことでしょう。恵家に生まれて、ましてや「証」を持っていたのなら、なおさら恵を守る責任があるでしょう。あの子には。もちろん、私たちにもね」

「昔、兄上もそんなこと言ってたな。子供だったから、もっと簡単な言葉だったけれど」

「そうなのよね……少なくとも、子供の頃の灑碧は、皇位を継ぐ意思があったのよね。いったいどうしてああなったのか……」

 旅の途中、助けてくれた黒髪の男。実際には、あれは見た目を変えた灑碧だったが、灑碧に、「皇女が死ぬな」と言われた。だと言うのに、それを言った当の本人は何を考えているのか。灑碧から直接話を聞いたわけではないが、桃華からは命を断つつもりだったのではないかと聞いている。

(人には死ぬなって言っておいて、自分は白琳にも、仲間にも、恵の私たちにも心配かけて……いったい何考えてるのよ)

 そういった所は昔から本当に馬鹿だ、と宵汐は胸の内で吐き出した。だが、子供の頃の方が、皇位を継承しようという意思はあっただけマシだ。

「挺、私、腹が立ってきた。桃華ちゃんがお父様のところから戻ってきたら、灑碧のところに行きましょう」

「お待たせしました」

 宵汐がそう、挺明稜に言った時だった。戸の向こう側から桃華の声が聞こえてきた。宵汐は立ち上がり、戸を引く。静かに桃華が上がってきたところで、言う。

「桃華ちゃん、お父様には会えた?」

「はい。翡稜様、翡翠の帰りをずっと待ってたんですね」

「そうね。さて、挺、桃華ちゃんも戻ってきたことだしだし、さっそくだけど灑碧のところに行くわよ」




(また会えて良かった……)

 白琳が翡翠に笑いかけると、翡翠が、罰を悪そうに視線を逸らした。

 翡翠と離れている間、大丈夫だと自分に言い聞かせていたものの、不安でたまらなかった。自分は翡翠のような武官ではないし、元々の翡翠の姿である皇族でもない、一介の医者だ。だから、翡翠が何か考えてした行動に口を挟むべきではないと、これまでは思っていた。

 けれど、旅が進むにつれて、今回ばかりはそんな行動を後悔した。翡翠に再び会えるはずだ。そう信じてはいても、また子供の頃のように会えなくなるのではないかと不安だった。翡翠に対する、様々な想いを伝えるべきだった、と強く思っていた。言いたいことはいっぱいあったのだ。

 だが、ようやく再開した翡翠は命を落としかけており、なんとか助け、ようやく翡翠が起きた時には、それが全部吹っ飛んでしまった。

 どれだけ、周りが心配しと思っているのか。いい加減翡翠の事情を周りに話すべきではないか。そう、言おうと思っていたのに、気づけば翡翠の胸元に顔を埋めていた。

 白琳は顔を上げ、翡翠の横顔を見つめる。お世辞にも顔色は良いとは言えなかったが、確かに翡翠は生きている。まだ、油断はできないが、翡翠は死なせない。

「翡翠様、今はお休みください。聞きたいことがたくさんあります。でも、今は……」

 翡翠の胸元から身体を離し、静かに言う。

「いや、そんな場合じゃない」

「翡翠様……?」

 翡翠の手が、鞘に入った剣に伸びる。突然の出来ごとに、白琳は動くことが出来ない。

「今、この国は妖獣に襲われている。寝てる場合じゃないだろう」

「駄目です……!翡翠様!」

 剣に伸びた翡翠の腕を、白琳は掴む。だが、その翡翠は剣から手を離さない。

「……言ってなかったな、白琳」

 掴んだ翡翠の腕から、翡翠の脈が伝わってくる。不自然に揺れ、発する声は、いつもより弱々しく感じられる。きっと、翡翠が言おうとしているのは、翡翠の意志とは違う言葉だ。

 すまなかった、と静かに言われ、翡翠に、自分の想いが伝わったと思っていた。だが、それと受け入れられるかどうかは別問題だったのかもしれない。何を言おうとしているのだろう。翡翠は。そんな翳った瞳で、どんな偽りの気持ちを発するのか。こんな翡翠の顔を見たかったわけではないのに。

 右手で剣に触れ、左手で着物の袷を緩めた。白琳に背を向け、髪を横にずらした。目の前に現れたのは龍の紋章。 月と竹をを背景に天に昇る龍が翡翠の首元に刻まれていた。

「俺はかつて『灑碧』と呼ばれていた。――恵が妖獣に襲われる原因そのものの存在だ。だからその責任は取らなきゃいけない。……命に代えても」

「死んでも良いって言うのですか……?」

「それで恵が助かるならな」

 右手が布団の上に投げ出される。そのまま破れてしまうのではないかと言うくらいに堅く掴まれ、微かに震えている。翡翠は嘘をついている。それが翡翠の気持ちなわけがない。

「いい加減にしろよ。翡翠」

 一瞬誰が言ったのか分からなかった。それが、怒気を孕んだ紅貴の声だと気づいたのは、紅貴が白琳のすぐ横、翡翠と向き合う形でやってきてからだった。

「その言葉で、白琳がどんな気持ちになるか分からないわけじゃないだろう?」

 紅貴が翡翠の胸元を掴み、まっすぐに翡翠を見つめて言う。

「翡翠が死んだら、周りにいる奴らがどれだけ傷つくか、分かるだろう! 恵を助けるためだって言うなら、生きて、できることを考えろよ! 大馬鹿翡翠!」

「本当ね。そういう馬鹿なところだけは変わらないのね、灑碧」 

 戸が引かれ、部屋に、桃華と、挺明稜と、宵汐が入ってきた。

「昔から、無茶ばかりして、周りに心配ばかりかけて……でも、今度は、死ぬ、ですって? 元々馬鹿だと思ってたけど、こんなにも落ちぶれるなんてね、灑碧」

 宵汐の言葉に、翡翠が顔を俯かせた。白琳は、自身の胸元に手を当て、じっと翡翠を見つめる。翡翠に、自分たちの想いが伝わっていないはずがない。なのに、どうしてこんなにも頑なになるのだろう。そんな中で、静寂を切り裂くように、宵汐が言葉を続けた。

「昔のあなたも馬鹿だったけど、少なくとも、死ぬなんて、口には出さなかった。妹も、大切な人も泣かせていったい、何がしたいのかしら」

 宵汐の言葉に、白琳は瑠璃の方に顔を向けた。嗚咽こそ漏れていなかったが、頬にはうっすらと筋が描かれていた。

「ご……めん。翡翠が、死ぬなんて言うから」

 布団を握る、翡翠の手が一層力が籠った。やっぱりそうだ。本当は翡翠は――

 白琳は剣の柄を握る翡翠の手に、自分の手をそっと重ねた。

「翡翠様、恵を救うというのなら、別の方法で救いませんか?」

「……白琳、俺がいる限り、恵に次の皇が誕生することはない。だから俺は……」

 俯いたままで翡翠が言った。

「でしたら、翡翠様が皇位を継げば良いのではないでしょうか」

「……いや、できない。嘉で、龍清様から灑碧の話をきいただろう? あれは事実だ」

 静かに、淡々と、翡翠が、皇位を継承できない理由を語り始めた。その場にいる者はみな息を飲み、じっと翡翠の言葉に耳を傾けた。


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