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史書  作者: 風華
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第六章 噂 7     

「なぁ聞いたか? 灑碧様が生きてるらしい」

「聞いた聞いた。でも、今更生きてるなんて聞いてもなぁ。信じられないよ」

 宵汐は榛仙道を東に向かって歩き、嘉に向かっていた。一日のうちに進めるところまで進み、夜が更けたところで近くの宿場で寝るということを繰り返していた。恵の都、榛柳から数日歩いたある日、宵汐は宿屋の食堂で、あの、灑碧の呪いとは別の噂を聞いた。灑碧が生きているというのだ。灑碧が生きているという噂の声は、嘉に近づくにつれて大きくなっていった。今もまた灑碧の話を耳にし、宵汐は湯のみを置き、灑碧の話をしていた男たちの卓に近づいていった。

 日が沈んでいるためか、食堂には酒の匂いが漂っている。

(いいえ、違うわね)

 夜だからというよりは、この国が妖獣に襲われているという現実から目を逸らそうとして酒を飲んでいるようだと宵汐は思った。聞こえる声は、恵の行く末を案じるものや、現状を不安に思う声ばかりだ。決しておいしい酒ではないだろう。そんなことを想い、ちいさくため息をついたあとで、宵汐は「灑碧が生きている」という声が聞こえた卓の前に立った。

「あの、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

 宵汐の声に、男たちが顔を上げる。宵汐は相手を威圧しないよう意識してやわらかい声色で声をかける。男たちが不思議そうに宵汐の顔を見たが、宵汐は気にせず、言葉を続ける。

「灑碧様が生きているという話はどこで聞いたんですか?」

「斉晏から来たっていう商人から聞いたんだよ」

 宵汐より一回りほど歳が上に見える男が、髭を撫でながら言った。斉晏は嘉との国境に位置する街である。その街の商人は立地から嘉に行くことも多い。男の言葉を聞きながら、宵汐は、またか、と思った。「灑碧が生きている」という話を聞く度に、宵汐はその噂の出所を聞いてきた。挙げられる地名は決まって榛柳より東なのだ。これはきっと誰かが意図的に流した噂だ。それも、噂を広めたのはおそらく最近で、その人物は恵の東にいる。

 噂を広めようとしている人物がごく少数で、その人物が最近になって噂を意図的に広めたとすれば、この状況が説明できる。まず、噂の出所がきまって恵の東側だというのは不自然だ。仮に誰かが意図的に噂を広めようとしたのだとして、それが多数ならば、恵の各地で噂を広めれば良いはずである。恵の東に偏っているということは、噂を広めているのは少ない人数なのだろう。例え少数だとしても噂を広め始めてから時間が立っているのなら、恵の西にもその話は広まっていてもおかしくない。

「ありがとうございます」

 宵汐は考えを巡らせながら男に礼を言った。

「あんたはこの噂本当だと思うか?」

 自分の席に戻ろうとすると男にそう言われた。宵汐は首を小さく振り、正直に言う。

「わかりません。ですが、もし生きているのなら、灑碧様が恵を助けてくれるかもしれない……そう思います」

「……あの噂があったのにか?」

 男の声が僅かに低くなった。男が今言った噂は、「灑碧が生きている」というほうではなく、恵の妖獣の発生が、灑碧の呪いによるものだというほうのことだろう。宵汐が見てきた灑碧の話を男に聞かせることができたら良いのに。そう思いながらも、宵汐は手を握り、話せることを静かに、言葉にする。

「灑碧様が生きている頃から、色々な噂がありましたね。灑碧様の周りで不幸なことが多々起きたという話を聞いたことがあります。でも、噂は噂です。皇位継承の証を持っている灑碧様が自分の国の民をわざわざ苦しめようとしていたなんて、どうしても信じられないんです」

 あの、灑碧が妖獣の発生の原因であるはずがない。灑碧は火事で死ぬ前にも一度、恵の都、榛柳の人々を守ろうとして死にかけたことがあった。その灑碧が妖獣の発生の原因のはずはないのだ。

「姉ちゃんはずいぶんと灑碧様を信じてるんだな」

「はい」

 妥当と思ったものよりも、強い返事になってしまった。それに自分自身で内心呆れながらも、宵汐はもう一度男に静かに笑いかけ、自分の席に戻っていった。宵汐は両手で、すでに冷えてしまった湯のみを持った。湯のみをもったまま、ぼんやりと通りを眺めた。煌々と輝く星を眺めながら思ったのはやはり灑碧のことだった。

 宵汐の推察通り、誰かが意図的に「灑碧が生きている」という噂を流したのなら、その目的はなんだろう。やはり、この「地」に悪い影響が広まらないようにするためだろうか。宵汐が子供の頃、各国の「証」を持った皇位継承者は、その地に最も愛された存在だと聞いたことがある。「証」を持った者がどんな形であれ穢されてしまえば、理論上、悪い影響が出ると考えられる。噂を広めた人物はそれを食い止めようとしたのだろうか。

(灑碧が本当に生きていれば良いのに……)

 そう願いながらも、それはない、と宵汐は思った。もしも、灑碧が生きているなら、妖獣が恵を襲っている状況を見て、そのままにしておくはずはないのだ。何らかの形で恵を救おうとし、人々の前に姿を現すはずである。

――生きているのに現状が続いているとすれば、灑碧が恵のためになにもしていないということになってしまう。そちらの方が、宵汐にとっては、灑碧の呪い以上に恐ろしかった。

 宵汐は温い茶を口に含んだ後で湯のみを卓に置いた。

(嘉に行く途中で噂を広めた張本人を見つけることができたら、事情を聞いてみましょう)

 宵汐はそう考え、深くため息をついた。




 翡翠は恵の都、榛柳にやってきていた。人が多いところに行けば、周りに迷惑をかけてしまうかもしれない。それは分かっていたが、どうしても気がかりなことがあったのだ。

 翡翠は恵に来てから、翡翠を狙っている刺客を避けながら、妖獣の気配を感じれば、妖獣を倒していた。その度に、榛柳に逃げるように言ってきた。妖獣の出現に法則性は見当たらない。妖獣が発生すると、恵内部であればそれを感じることができるが、予測することはできないのだ。翡翠にできることはせいぜい、できるだけ早く街にかけつけ、妖獣を倒すことだけだった。榛柳には皇が住む、碧嶺閣がある。皇位を継承した者には力が宿るが、その力の強さはその時代の皇により異なる。初代恵の皇は恵全土を一人で守れるほどの力を持っていたらしいが、それほどの力を持った皇の誕生はまれだと言う。だが、それでも、都を守る力ぐらいはあるのが普通だった。皇に近づけば近づくほどに、その力は強くなっていく。つまり、今一番なのは榛柳なのだ。

 妖獣に襲われた村、街の人間が榛柳にやってくることができたか。それを榛柳は受け入れているのか。それが気がかりだった。

 翡翠は、榛柳に入ってすぐのところで辺りを見回した。白い石が敷き詰められた碧嶺閣まで続く大きな通りは、通りだと言うのに、嘉国の都、李京にある煌李宮前の広場程の大きさがある。道の両端には同じような形状の建物が立ち並んでいる。日が沈んですぐの時刻だからか、青い夜の闇に、白い壁が浮かんでいるように見える。星が浮かぶ夜の空に、紺色の屋根は同化してしまいそうだった。均一に並べられた白い灯りが道行く人々の顔を照らし出している。

 人々は帰路を急ぐかのように、足早に歩いている。元々この時刻の大通りはそんな多くの人がいるわけではないだろうが、それにしても妙な感じだと翡翠は思った。妖獣への恐れがそうさせているようにも感じられる。基本的に榛柳にいるのは碧嶺閣にで働く者と、榛柳の東側の屋敷に住む者とそれに仕える者。西側の商業街で商売をする者。双龍国でも有数のその商業街と、碧嶺閣に付属している世界最大の書庫に用がある者だ。今、大通りを歩く者はまるで夜の闇から逃れようとするかのように、早足で通りを抜けていく。

 少し視線を上げれば、碧嶺閣の一角が見えた。だが、翡翠はすぐに視線を逸らし、榛柳の西側に向かった。大通りから、西側の通りに通じてる門を抜けると、道の石の色はそのままに。しかし、あたりの雰囲気はがらりと変わった。灯りの色が橙になっている。翡翠は門の内側に入ってすぐのところにあった馬舎に天馬を預けた。

 灯りに照らされた通りを歩いていると、李京ほど派手なものではないが、藍染の暖簾を出している店が並んでいる。翡翠は通りを奥に進んでいく。いくつもの通りを抜け、何度か門を通り、やがて、辺りから酒の匂いが漂ってくる場所に辿りついた。酒を出す店に入れればどこでも良かった。翡翠自身が酒を飲みたいというよりは、そういった店のほうが情報を集めやすいのだ。

 暖簾をくぐり、店の中に入るとすぐに、席に案内された。履物を脱ぎ、翡翠は案内された席に胡坐をかき、一番安い酒を注文した。嘉と恵の貨幣は共通であるため、嘉で武官をやっている翡翠はお金には困っていない。だが、酒を飲む気分にはなれなかったのだ。ここにきたのはあくまで情報収集のためだ。

 すぐに酒瓶が運ばれてきた。手酌で飲もうとすると、伸びてくる手があった。横を見ると、隣の席に座っていた男が翡翠の前に置かれた徳利を手に持ち、猪口に注いでくれた。

「兄さんこんな安い酒飲んでいるのか」

 男は翡翠より少し年上に見えるがそう離れた年齢でもなさそうだった。

「酔えればなんでも良いからな」

 思ってもいないことを言い、男からの杯を受け取った。

「…兄さんもしかして、最近榛柳に来たのか? 妖獣の脅威から逃れるために」

 思いがけず、都合が良い方に話が転がった、と思いながらも翡翠は静かに首を振る。

「いや。榛柳に来るやつ、最近多いのか?」

「あぁ。最近は妖獣に襲われた村から榛柳に来る奴が多いんだ。こんなところで一人で酒なんか飲んでるから兄さんもそうだと思ったけど違うんだな」

「あぁ。俺は嘉国から来たんだ。ここの書庫に用があってな」

「そりゃまた随分と大変な時に来ちまったな。兄さんよく、無事にここまで来れたな」

 翡翠は微かに苦笑いを浮かべる。

「運だけは良いみたいだからな。ここに来る途中、妖獣に襲われた村もいくつか見たんだが、榛柳に逃れて来てるんだな」

 男は酒を口に含んだ。

「そうなんだ。今日も妖獣に襲われた榛柳の近くの村の奴が、集団でやってきたさ。檜悠様が、榛柳に避難してきた人間には住む場所を用意しているからな」

「檜悠……様が?」

 男は頷き、口元で笑みを浮かべた。

「檜悠様は恵国の希望さ。あの、灑碧様と違って」

 言った後で、男から笑みが消えた。これまで何度も見てきた反応だ。檜悠が、避難してきた者たちに住む場所を提供しているという話は初耳だったが、灑碧への恨みの声は何度も聞いてきた。――妖獣の問題が解決しない限り、恵の人間はそれで苦しむことになる。それに思うこともないわけではないが、それを表情には出さず、翡翠は男の声に耳を傾けた。

「なんで灑碧様が皇位継承者なんだ……こんなに恵の民に良くしてくださる檜悠様が皇位継承者だったら……!」

 男が手を卓に打ちつけた。恵の人間が求めているのは、恵を守ってくれる皇だ。妖獣の発生の原因が灑碧だというのは噂でしかないが、例えそうであっても、恵の人間はそんな皇位継承者を望んでいない。――檜悠が皇位継承者だったら妖獣はこの国を襲わなかったのだろうか。そう思いかけて、翡翠は小さくため息をついた。

 そんなことは関係ない。皇位継承者が灑碧だろうと、檜悠だろうとそれと妖獣の発生は論理的には関係ない、はずだ。皇位継承者が誰であるかによって、妖獣が発生するかどうかが決まるなどという話は聞いたことがない。そもそも妖獣が発生している事態が異常なのだ。ならば、妖獣の発生の原因はなんだろう。考えれば考えるほどに「あの男」の顔が浮かんでしまう。あの男はもう死んだはずなのに。

「兄さん……?」

「すまない。嘉から来た俺が言うのもなんだが、恵の奴は大変な思いをしてるんだと思ってな。灑碧様が皇位継承者じゃなかったら良かったのかもな」

「ちょっとお兄さん! なんてことを言うの! 灑碧様なら生きているらしいわよ」

 この店で働いているらしい髪をお団子にした女が、男の前に酒瓶を置きながら言った。

「灑碧様が生きてるって、そりゃどういうことだ?」

 女が口元を釣り上げる。

「ここに来たお客さんから聞いたのよ。灑碧様が生きてるって」

「そりゃ本当か?何かの間違いじゃないのか?」

「間違いなんかじゃないわ。この酒場で色々な人から聞いたもの。灑碧様が生きているなら、もしかしたら灑碧様が助けてくれるかもしれないわ。たしかに灑碧様は昔から妙な噂が多かったけど……灑碧様って「証」を持った方なんでしょう? だったら、恵を助けてくださるかもしれない。「証」をもった皇位継承者が自分の国を助けないなんて話聞いたことないもの」

「だが、あんたの言う通り、灑碧様は昔から妙な噂が多い。歴代の皇位継承者とは違うかもしれないだろう」

「そうだけど、妖獣のことで落ち込んでばかりいてもしかたないでしょう。それだったら、灑碧様を恨むより、信じた方が良いと思わない?」

 ことりと音がした。それが、手に持っていた猪口が落ちてしまった音だと気づいたのは、男と女に見つめられてからだった。

「……悪かった」

 翡翠は慌てて謝罪し、卓に零れてしまった酒を拭こうとする。だが、女がそれより先に、卓に零れた酒を手に持っていた布で拭いた。

「兄さん、なんだか顔色悪いが大丈夫か?」

「……ああ平気だ」

 そうは言ったものの、男に聞かれるぐらいだから、今自分は相当酷い顔色をしているのかもしれない。翡翠は、懐から金を取りだす。酒代を卓の上に置き、軽く会釈をして、店を出て言った。

 店を出て、翡翠は長く息を吐く。灑碧が生きているという話は噂にすぎない。灑碧はもういないのだ。それを翡翠はよく知っている。だが、その噂を現に耳にしたということは、誰かが意図的に広めたことになる。翡翠には幾人か心当たりがあった。嘉国の王、龍孫か、皇子の龍清。そして覇玄か、駿か。

「……桃華か」

 いったい何のためだろう。そう思おうとしたが、翡翠にはその狙いが分かる気がした。だが、それに気づかない振りをしたかった。そんなことを思っていると、ふいに、背が冷たくなる感覚があった。翡翠は、腰に差した刀の上に手を置き、静かに足を早める。できるだけ、人がいないところへと向かい、翡翠は刀を抜いた。

「気配には気づいている。出てきたららどうだ」

 正直、自分の命が狙われようが、そんなことはどうでもよかった。だが、こんな街中で剣を振りまわすような者たちを放っておくわけにはいかない。面倒なことはさっさと済まそうと、翡翠は言った。ゆらりと気配が動く。おそらく翡翠を囲んでいるのは三人。正面に一人と、左右に一人ずつ。翡翠はすばやく駆ける。すると、建物の陰から、黒い着物を纏った男たちが飛び出て来た。正面からやってきた男の剣を受け止め、辺りに高い金属音が響く。

 物音を聞きつけ、人が集まる前に済ませなければと、翡翠は舌うちをし、左からやってきた男の鳩尾に肘鉄を喰らわせた。いつまでも力が拮抗している剣をいつまでも合わせていることはせず、すぐに正面からやってきた男の後ろに回り、首に峰打ちを叩きつけた。翡翠の右側にいる男を睨みつけると、男の肩がびくりと震えるのが見えた。こちらに切っ先は向いているが、狙いが定まっていない。

「まさか……ここまで剣を扱えるとは……」

「俺が嘉国の武官だということは知っているはずだが」

 男がごくりと息を飲んだ。翡翠は刀を下ろしたままそれを眺める。

「おい! 撤収しろ! 檜悠様が、もうその男を殺さなくて良いとおっしゃった!」

 突然聞こえてきた声に、男は剣を腰に納め、逃げるように去っていく。その後ろ姿を眺め、翡翠もその場を後にした。早足で、その場から距離を取り、気づけば先程までいた酒場近くまで戻っていた。視線を上げれば、ここでも碧嶺閣の一角が見えた。嘉国の慶、白琳と祭りに行き、初めて翡翠が襲われた日、翡翠を襲った男は、挺明稜だと言っていた。だが、やはり違ったのだ。自分を狙っていたのは檜悠だと分かり、翡翠は、驚くよりも納得してしまった。

(だが、なんで急に俺を狙うのやめたんだ……?)

 自分の存在は邪魔なはずである。

(やり方を変えるだけか?)

 檜悠が完全に翡翠の命を奪うのを諦めるということは考えにくい。なにか別の手段を使うのだろうか。だが、いずれにせよ、街で襲うのは遠慮して欲しいと翡翠は思った。自分の命はともかく、こんなことにまで恵の民を巻き込んでしまうのは避けたかった。ただでさえ妖獣の件で恵の民は苦しんでいるというのに、榛柳にやってきてまで、戦いに巻き込まれれば、恵の人間はどう思うだろう。

(さっさと出るか)

 情報を得るために、榛柳にやってきたが、得たい情報はもう手に入れた。長居する必要はない。翡翠は預けた天馬を再び連れ、閉門の時刻は過ぎているにもかかわらず、榛柳から出ていった。


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