第六章 噂 2
桃華についていった紅貴らは食事処に向かった。路の横に並ぶ建物はどれも同じに見えたが、かろうじて、『食事処』と白い字でと書かれた紺色の暖簾がかかっていたため、桃華の目の前にあるその店が、食事する場所だと分かった。内容までは分からないが、店の中からはがやがやと話し声が聞こえてくる。中が見えているわけではないが、にぎわっているようだ。
「ここに入ろうっ」
にこりと笑って桃華が食事処を指差す。瑠璃と白琳が呆れたように笑い、紅貴もつられて笑おうとすると、ぐ~、と気が抜けた音が聞こえた。その音が、自らの腹から出たものだと気づいたのは、瑠璃と白琳に小さく笑われてからだった。
「紅貴もお腹すいてたのね」
「そうみたいだ」
紅貴が肩を落として言うと、白琳が小さく首を傾け、口を開いた。
「入りましょうか」
「うん」
暖簾をくぐると、酒の臭いが紅貴の鼻をついた。外はまだ日が高く登っている。だというのに、店の中は酒の臭いで充満し、酔った客がいるせいなのか、明らかに地声ではないような、調子外れの声が聞こえてくる。
「まだ昼間なのに酒?」
「なんだか変な感じね」
紅貴が少々驚きながら言うと、瑠璃の声が続いた。昼間から酒を飲むような店があってもおかしくはない、と思う。けれど、紅貴たちがやってきた恵の国境の街斉晏はそんな雰囲気の街には見えなかった。建物も街も、統一感がある。実際、紅貴が入った店も内装は、綺麗に整えられていた。白い壁はよく磨かれているのか、埃ひとつなく、花が飾られてる。並べられた木の食卓には綺麗な翠色の布がかけられ、とても昼間から酒を飲むような店には見えない。
「お客様何名様ですか?」
「えっと、四人です」
入口にやってきた女にに瑠璃が答えると、紅貴の視線に気づいたのか、女は、紅貴同様に店を見回した後で、こちらに向き直った。
「……みなさん、妖獣が恵を襲っているという現実から目を逸らしたいんですよ」
発した女の声は、静かで淡々としたものだった。
「本当は、昼間からのお酒なんて止めるべきなんでしょうけど、お客様の気持ちも分かりますから……」
そう言い、女は再び店を眺めた。紅貴は、店内の声に耳を傾ける。「灑碧」や「妖獣」という単語が聞こえる。浴びるように酒を飲む者たちは、みな例の噂話をしているようだった。
(やっぱり灑碧の噂をしている人を怒鳴ったのは間違えだったのかな……)
何もかも灑碧の呪いが原因とされている間違っていると思うことには変わりないが、感情のままに叫んでしまったことを後悔した。あの言葉は、他国から来たよそ者である紅貴が言うべき言葉ではなかったのかもしれない。感情をぶつける場所が見つからず、紅貴族はそっと手を握り俯く。
「妖獣が恵を襲っている原因なんて誰にもわからない」
ぽつりと女が言葉を続ける。
「けれど、それだったらあの灑碧様のせいにした方が少しは気が楽だと私たちは思っているのかもしれません。本当は……。あ、すみません変なことを言ってしまって。いまお席にご案内しますね」
女が困ったように笑い、紅貴たちを案内した。紅貴たちが案内されたのは、角の席だった。となりの食卓では、紅貴よりも少し年上の、夫婦らしき人物が、酒を飲んでいた。
「う~ん……何食べよう」
店の光景など目に入っていないかのように桃華が言い、壁に掛けられた木の品書きを見つめた。
「わたし、汁蕎麦」
「私もそれにします」
いち早く決めた瑠璃と白琳が言った。とくに食事にこだわりがない紅貴も、瑠璃と白琳と同じものを頼み、桃華は汁蕎麦にさらに餡蜜も頼んでいた。
「妖獣が襲うなんてやってられないな。俺たちが何をしたと言うんだ」
「本当にそうよね……私たちが何をしたと言うの? 灑碧のせいでどうして私たちが……!」
隣の席に座る夫婦の会話が聞こえてくる。酒を飲み、やり場のない怒りを無理やり吐き出す様に、机に手を叩きつけている。
――俺にできることはなんだろう
この国を妖獣が襲っている以上、妖獣使いの紅貴が無関係でいられるはずがない。けれど、自分にいったい何ができるのか。それがわからない。自分に出来ることが見つけられないのが歯がゆい。証拠もないのに妖獣が発生している原因が、皇位継承の証を持っていた「灑碧」のせいとされるのは嫌だと思う。そんなことはありえない。だけれど、自分にできることが思いつかない。妖獣で人々が苦しむのも、妙な噂があるのも嫌なのに、自分がどうするべきか分からない。
「この国はもうおしまいだ!」
ひと際大きな声で、隣の席の男が言い、先程紅貴たちを席に案内した女がやってくる。
「お客さま、お気持ちは分かりますが飲みすぎですよ。どうぞお水を」
女が食卓に湯のみに入れた水を置いたが、男は湯のみを倒してしまう。
「俺達の村は妖獣に破壊されたんだ!」
「そうよ! みんな妖獣に奪われてしまったのよ!」
「飲まないとやってられねぇんだよ! お前たちもそう思うだろう?」
男に突然話を振られ、紅貴はただ目を瞬かせることしかできない。「そうは思わない」と否定することは簡単だ。だが、その先の言葉を紅貴は知らない。感情のままに男のことを否定したところで、紅貴に何ができるわけではないのだ。また、あの商人のように傷つけてしまうかもしれない。そう思うと、何も言うことができなかった。
「……とても辛かったんですね……」
静かに瑠璃が言った。
「初めて会った方にこんなことを言うべきではないのかもしれません。でも、聞いてください。私たちが住んでいた村が妖獣に襲われたんです。妖獣の存在なんて信じていませんでした。でも、あれは……」
隣の席の女の顔がみるみる青白くなっていく。口元を右手で抑え、左手は小さく震えていた。
「あれは間違いなく妖獣だったんだ! 巨大な鳥が空を埋め尽くすほどやってきて俺達の村を焼きはらったんだ!家なんかぼろぼろのなっちまって……!」
「俺達の村もだ!」
「私の村もそうよ!」
他の席からもそうだそうだと声が上がる。巨大な鳥が火を放ち、狼にしては大きすぎる獣が田畑を荒らしたという。妖獣の巨大な牙で噛まれた者、それだけには留まらず、妖獣に喰われた者もいたという。聞きながら、紅貴は違和感を感じた。話に登場する妖獣は、話の特徴から、おそらく上位の妖獣ではない。けれど、その下位の妖獣でも、暴れまわれば、ここにいる人々が口々にそう言うように、甚大な被害をもたらす。だが、もしも、妖獣が自然に表れたとして、そんな動きをするだろうか。そもそも妖獣は秩序の世界の内側には入れないはずだ。だとすれば、湖北村のように、秩序の境界が消え去ったか、だれかが人為的に妖獣を操っているとしか考えられない。
紅貴以外の妖獣使いが妖獣を操っている。脳裏に浮かんだのは黄金の瞳を持つ男。――あの男しかいない。本能的にそう思ったが、紅貴はそれをぎりぎりのところで否定する。「あいつ」はもうこの世にはいないはずなのだ。いる、わけがない。
「ところで、お兄さんたちはどうやって助かったの?」
場違いな桃華の声に、、紅貴は脳裏に浮かんだ「あの男の」顔を振り払う。「ない可能性」のものを考えても仕方がないのだ。紅貴はそっと息を吐いて意識を店の客たちの会話に移す。
「……私たち、若い男の方に助けられたんです」
「もしかして、それ、翡翠!?」
瑠璃が、目を大きく見開き、驚いた様子で言った。
「翡翠……?」
「いえ、あの……なんでもありません。あの、その若い男の方、どんな人だったか聞いても良いですか? 髪の色は? 瞳の色は?」
瑠璃が発した名前を不思議そうに、女が繰り返し、瑠璃が顔を赤らめて謝罪した。だがその人物が翡翠かもしれないという期待からだろう。瑠璃は矢継ぎ早に隣の卓の女に尋ねた。
「えっと……黒く長い髪の男の方でした。瞳の色も黒だったと思います」
瑠璃の様子に驚きながらも、女が答える。黒い髪に黒い瞳。それは、翡翠の特徴にあてはまらない。期待に、光が差していた瑠璃の青い瞳が翳った。
「……そうですか。わかりました。教えてくださってありがとうございます」
「もしかして、その男の人、黒い天馬持ってなかった?」
瑠璃に続き、いつもの無邪気な様子で桃華が尋ねた。
「はい。持ってました。黒い天馬に乗って、その方は現れ……」
「翡翠様です!」
全てを言いきる前に、白琳が言った。
「でも、黒い髪と黒い瞳だって……」
紅貴が言うと、横で桃華がゆっくりと首を振った。
「多分翡翠のことだから、見た目を変えてる。黒い天馬をもっていたなら、それは翡翠だよ」
「あの……その方とお知合いなんですか?」
女が動揺した様子で言うと、桃華は頷く。
「うん。ちょっとね。そうだ!お姉さんたちに伝えたいことがあるの!」
「桃華……?」
突然の話題転換に、紅貴は首をかしげる。いったい桃華の口から何が発せられるのだろう。瑠璃と白琳も、桃華の突然の話題の転換を不思議に思っているのか、顔を見合わせている。そんな中で桃華はにこりと笑う。
「灑碧様が生きてるって話聞いたわ」
「桃華!?」
「どういうこと?」
紅貴と瑠璃の声が重なった。紅貴も瑠璃もずっと桃華と一緒に旅をしてきたが、そんな話は聞いたことがない。桃華の思惑が分からず、瑠璃と紅貴は同時に叫んだが、当の桃華はにこりと笑んでいる。
「灑碧が生きているってどういうことだ?」
男も桃華に尋ねるが、桃華はただ笑うばかりだ。「いい加減なことを言うな」そう言うべきなのに、不思議とわらっている桃華を見ていると何も言えなくなってしまう。
「灑碧様が生きてるって話聞いたの。だから、妖獣の発生は灑碧様のせいじゃないと思うの」
「だったらいったい何が原因でこんな……」
別の男が言うが、桃華は笑みを携えたまま小首をかしげた。
「そこまではわからない。でも、灑碧様が生きていたら、灑碧様がこの国を助けてくれるかもしれない。仮にも皇位継承者なんだから」
そう、桃華は自信たっぷりな様子で言った。桃華の言葉にはなんの根拠もない。だというのに、桃華の雰囲気に圧倒されたのか、場が、徐々に桃華の言葉を受け入れる空気に支配され始めた。
相変わらず紅貴には桃華の思惑は分からなかったが、桃華はそんな紅貴の気持ちを知ってかしらずか、卓に置かれた汁蕎麦を美味しそうに頬張るのだった。
食事を終え、店を出た紅貴は恵の都、榛柳に続く道を歩むことになった。嘉の主要な都市をつないできた「李仙道」。それは、嘉に入っても途切れることがない。名称こそ「榛仙道」に変わるが、「榛仙道」と呼ばれる道は、恵の主要な街をつなぎ、左右を石の壁で囲み、榛仙道を旅する者の身を守っている。紅貴たちが今いる嘉との国境の街、斉晏から都の榛柳までは数日かかるが、進めるところまで進むことになった。
「なぁ桃華、どうしてあんなこと言ったんだ? ずっと桃華と一緒に旅してきたけど、灑碧様が生きてたなんて話聞いたことないのに」
「灑碧様の恨みが、妖獣の発生を引き起こした。多分それって、誰かが意図的に流した噂だと思うの。だって、噂って普通は人によって内容が変わってくると思うんだけど、誰の話聞いても同じだなんて変でしょう? もしも誰かが意図的に灑碧様の噂を流したとして、その人にとってはその逆の噂が広まることは都合が悪いことだと思うの」
「なるほどな」
「それに……」
桃華の声色が変わる。僅かに低く落ちついたものに。これまでの桃華と一緒にいた中で、桃華がこんな風に声を変える時は何か大事なことを言う時だと、紅貴は気づいていた。
「うまい言葉がみつからないけど、この地……恵国に置いて「この地」に最も愛されている存在って、証を持った皇位継承者でしょう?」
「……そっか!」
その話ならば、紅貴が幼い頃に、別の人物に聞いたことがあった。証を持った皇位継承者はそれぞれの国の地においてもっともその地の祝福を受けた存在だと。その地の風も水もあらゆるものが、証を持った者に従うと聞いた。それぞれの国の民は、そういった存在である証を持った者に守られるのが普通だという。
「証を持った者の悪い話が広がったら、地に悪い影響があるけど、皇位継承者に対する良い噂ならその逆もあるってことか」
「そういうこと。良い噂なら良い影響があるけど、悪い噂が広まれば、この地に穢れが溜まる可能性があるわ。そっちの方がよっぽど恵に災いを引き起こしちゃうと思うの。だから灑碧様に対する良い噂を広めたいの。手伝ってくれる?」
「うん。手伝わせてくれ」
紅貴は力を込めて頷く。恵に対してできることは何もないと思っていた。だが、ほんのささいなことではあるが、できることがあった。紅貴はそれを嬉しく思っていた。




