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3話

自サイトより転載。

未成年の喫煙は禁止されています。

 終業式は滞りなく終わった。HRで成績表が配られたが、たいして興味はない。

 この紙切れのために勉強しているわけじゃないのだから。

「啓介―」

 HRが終了した途端、浩平が教室に入ってきた。

「どうしたの?」

「どうしたもこうしたも、今後のこと決めないと」

「あ、そうか」

 昨日自分で言い出したことだ。すっかり忘れていた。というか、忘れようとしていた。

「須藤さんって、クラスどこか分かる?」

「国文だから――」

「ケースケー」

 言い終わる前に須藤さんも教室に入ってきた。

「どうしたの?」

「どうしたの? って、今後のことだよ」

 さも当然のように答えられた。それもそうか。好きで僕に話しかけてくる人間は浩平くらいなものだし。

「あれ、千陽は?」

「私文はまだHRしてたけど」

 浩平が答える。考えたら浩平は私立理系で私立文系の隣のクラスだ。知っていてもおかしくはない。

「というか、何で僕の教室に来るわけ?」

「「近いから」」

 二人の声が見事に重なった。そういうことか。

「まあ、詳しいのは昼食の後にしたいんだけど」

 僕が提案すると二人は頷いた。

「啓介、今日の昼はどうするんだ?」

「パン――は売ってないんだよね。ちょっと外に出て買ってくるよ」

 最低限の貴重品を持って立ち上がる。すると須藤さんもカバンから財布を取り出した。

「あ、私もー」

「そっか。それじゃ俺はここで待ってるから」

「うん、わかった」

 僕達は浩平に留守番を任せると学校の外へと繰り出した。

 校外には徒歩十分しないところにちょっとした大型食料品店がある。校外で調達するなら大抵はそこだ。

「ね、ケースケ」

 道中、横に並んだ須藤さんから話しかけられた。

「何?」

「千陽に会ったの、久しぶりでしょ」

「……うん」

 やっぱり、彼女は殆どを知っているようだ。

「どう?」

「どうって、何が?」

「久しぶりに会った感想」

「それを聞いて、どうするの?」

「どうもしないよ」

「……なんで、僕等を会わせたの?」

「それはまだ言わないよ」

「酷だよ、全く」

「千陽にとって?」

「……お互いだよ」

「ふーん」

 それきり、須藤さんは口を閉ざしてしまった。僕もさして話すこともないので、気にせずに店へと足を進めた。

 店内には僕達と同じ制服がちらほらと見受けられるが、大多数は近所の主婦であった。昼時ということもあり、混雑した店内を須藤さんと巡る。

「ま、結局パンになるわけか」

「学校で料理できるわけじゃないからね」

「家庭科室があるんですけどー」

「さて、どれにしようかな」

 須藤さんの言葉を軽くスルーしつつ惣菜パンを物色する。焼きそばパン、コロッケパン等のメジャー品は早くも量が少なく、売り切れの品もあった。僕はむしろ、売れ残りするような種類が好きだから関係ないといえば関係ない。パンのチャレンジャー、浩平にそう呼ばれた事もあるくらいだ。

 須藤さんは女の子らしく菓子パン系を数点見繕い、飲み物を見に行った。僕も面白そうなパンを見つけ、その後を追った。

 僕はパンを二つ、須藤さんは三つ買い店を出た。

「ケースケはどんなの買ったの?」

「ん? これ」

 ビニール袋から買ったばかりのそれらを取り出して見せた。

「えっと、じゃがバタパン?」

「中にじゃがバターが入ってるんだって」

「へ、へぇ」

 それっきりパンについては一切言及してこなかった。

 世間話をしながら教室に帰ると、浩平が僕の机でマンガを読んでいた。一体何処から取り出したのだろうか。

「お帰り」

「ただいま」

 軽く返事をしつつも、僕は容赦なく浩平を椅子から押しのけた。

「なんだよー、椅子くらい、別に良いじゃん」

「そういうなら他にも椅子は余ってよ」

 須藤さんが僕の代わりに切り返す。

「うう、お前ら仲良くない?」

「そりゃ、伊達に二年半同じ部活やってないから」

「あーあー、そういうことかい。俺は仲間はずれって訳だな」

 浩平はいじけたように小さくなってしまった。口調は明るいものなので、わざとやっているのだ。

「はいはい、拗ねない拗ねない」

 須藤さんも分かっているようで、小さな子供をあやすように浩平の頭を撫でていた。

「ちょ、子供扱いかよ」

「まるっきり子供じゃない」

 僕はその様子を見ていた。

「二人とも、仲良いね」

「まさか」

 二人は声をそろえて言った。なんだ、仲が良いじゃないか。そう思ったが口には出さない。二人から突っ込まれたら僕はうろたえるしか出来なさそうだし。

「ところでさー、千陽は?」

「さぁ、俺はここでマンガ読んでたし」

「見に行きなさい」

「はいはい」

 須藤さんに強く言われた浩平は渋々、といった表情をして立ち上がった。

「啓介、行こうぜ」

「え、僕も?」

「なんとなくな」

「ま、いいけど」

 何のつもりか知らないけど、僕に伸ばされた手を取って立ち上がった。

「んじいってくらー」

「はいはい」

 須藤さんはしっしと手を振って浩平を追い出していた。ここは僕の教室なのに。僕は聞こえないように呟いた。

 私文のクラスはすでにHRが終わっていた。浩平が知り合いに声を掛けて直井さんを呼び出してもらう。

「あれー、直井はもういないみたい。鞄もないし帰ったんじゃね?」

「そっか、ごめんな」

 人の良さそうな笑みを浮かべて謝る浩平。いや、実際良い奴なんだ。きっと。

「何処行ったんだ、直井の奴」

「僕に聞かれても」

 知らないものは知らない。

「心当たりとかないのか? 元彼氏」

「違うって」

 僕は彼氏ではない。直井さんは彼女じゃない。ただ、その少しばかり手前の関係だっただけだ。

「ん、まあ、いなかったっつーことで戻るか」

「うん」

 浩平の提案を否定する理由もないので踵をを返して歩き出す。

「あ、ちょっとトイレ」

「はいはい」

 小走りでトイレに向かった浩平を呆れた息で送ってやる。一人で戻るのもどうかと思ったので、トイレ近くの壁に寄りかかって浩平を待つ。

 だけど、あることに思い至った僕は直ぐに背中を離し歩き出した。もしかしたら、というよりは半ば確信的。迷うことなく僕はある場所を目指した。

 階段を登る。何度登ったか分からない階段。昔は一人で、少し前は二人で、でもまた最近は独りになった。その場所。

「やっぱり、いた」

 お気に入りの場所。昔と同じ位置に直井さんは座っていた。

「後藤君」

「……みんな僕の教室で待ってるよ」

 僕は直井さんの顔を見れず、窓の外に向かって言った。

「うん……」

 ゆったりとした動作で立ち上がり、少しだけ悲しそうに僕を見てから階段を降りていった。その直ぐ後を追うことも出来ず、しばらく外を見てから教室に戻った。

「あ、啓介。何処行ってたんだ? 直井来てるぞ」

「ん、ちょっとね」

 クラスの奴は殆ど出払っているようだ。僕達と、もう一つのグループがいるくらい。そのグループもにぎやかに話してるので僕達が騒いだところで別に迷惑じゃないだろう。

「それじゃ、作戦会議。議長、後藤ケースケ」

「はいはい。書記、須藤理」

「はい」

 僕の机の四辺に各一人ずつ座る。

「それじゃ議題を……横井浩平」

「はい。今回提案する議題は『ザ・ウィンターバケーション 受験生達の冬休み勉強編』です」

「タイトルはともかく、この議題で宜しい方は挙手をお願いします」

 全員が手を挙げた。

「それでは今日は冬休み勉強会について話し合います」

 鞄からルーズリーフを一枚取り出す。

「それでは、まず勉強会の日程を決めたいと思います。異議のある人?」

 誰も手を挙げない……と思ったら浩平が手を挙げた。

「横井君」

「はい。私の提案した『ザ・ウィンターバケーション 受験生達の冬休み勉強編』という議題が使われていないのですが」

「……ああ、もう、ここでボケるなよ、浩平」

「そうだぞー」

 僕と須藤さんからブーイング。

「な、なんで?」

「真面目に会議してたというのに、浩平は」

「そうだぞー」

「く、くそ。俺はこういう空気に絶えられないんだよぅ」

「はぁ。ま、気持ちは分かるけどね」

「ケースケ、もういいんじゃない? 普通にやろうよ」

「そうだね」

 それじゃ、とルーズリーフに簡単なカレンダーを書いた。冬休みだけのカレンダー。日付の欄には大きめの空白を残しておく。

「それじゃ、冬休み中で予定の空いている――というか、勉強できる時間を各々書いて」

「はいはい」

 真っ先に浩平が書き始めた。冬休み初めの日から終わりの日まで矢印で繋ぎ、いつでも、と書き加えた。

「ヒマ人なのか、勉強家なのか分からない予定だこと」

 いいながら須藤さんがちょこちょこと書き加えていく。

 ちなみに僕はいつでもいいので、そこは浩平と同じだ。その旨を伝えて直井さんに紙が回る。そして最後に僕が浩平のところに自分の名前を書き足して作業は終了した。

「……あのさ」

 机に広げた紙を見て言う。

「結局、ほぼ毎日僕と浩平がいるんだから、いつ来てもいいってことだよね」

 沈黙。いや、寧ろ時が止まった。賑やかだった他のグループも話題が尽きたか、僕が言った瞬間に無音になった。

「……取り越し苦労?」

「結果的にそうなっただけ、と言いたいところだな」

 須藤さんの漏らした言葉に浩平が返す。何だかんだ言ったところで、やはり二人の仲はいいと思う。相性だろうか。

「あー、じゃ、明日からだな。俺と啓介は基本的に――ここの教室でいいか。ここにいるはずだから。居なかったらメールか何かで啓介に聞きなさい」

 何で僕が、と思ったが、僕が唯一全員のアドレスを知っていることに気付く。上手いこと連絡係にも納まったというわけだ。

「つーわけで、解散」

 浩平の言葉で今日の会議は終わった。

 その後帰り際に喫茶店寄って、マスターと少しばかり話をした。勉強すると言ったら、年末年始は特別に店舗を貸してくれる約束をしてもらった。ただ、掃除は自分達でやる事、大晦日、元旦は開けないと条件を付け加えられたが、借りる身としてはそれくらいはして当然なので快諾した。

 勉強会一日目。

 学校は午前九時から午後五時までの八時間だけ開く事になっている。その時間を逃さないように、と思ってはいたが、僕はいつもの電車に乗っていた。時刻はまだ八時にもなっていない。こんな朝早くからは喫茶店も開いていないのでどうしようか、と悩んでいるうちに見慣れたホームが窓から見えた。

 駅のコンビニで立ち読みして多少時間は潰れたものの、それでもまだ時間が有り余っている。簡単な朝食を買って、なるべくゆっくり歩いて向かうことにした。通学用のバスに乗ろうかと思ったが、時間が有り余っているため歩いて向かうことに。それほど遠いと言うわけでもないのだ。

 そうして歩く事数十分。僕は校門の前に立っていた。

「閉まってる?」

 時間はもう九時だ。閉まっているはずがない。というのに、この有様。試しに門戸を押してはみたが動きはしなかった。良く見ると、南京錠で施錠されていた。

 仕方なく、校門前に座りこみ、買ってきた食事を摂る事に。それほどお腹が減っていると言うわけじゃないが、それでも何か胃に入れておきたい。

 そうして、僕がサンドイッチの三つ目に取りかかった時に、直井さんと会った。

「お、おはよう」

「……おはよう」

 小さな声で挨拶された。つられて僕も挨拶。そして訪れる沈黙。相変わらず僕はもそもそとサンドイッチをエネルギーに変換し続けているし、彼女は彼女で、僕から少し離れたところで校門により掛かっていた。

「今日、早いね」

 サンドイッチが食べ終わるちょっと前くらいに彼女が口を開いた。

「ん、ちょっと待って」

 最後の一欠を口に放り込み、目の前にある自販機に向かう。小銭を出してミルクティーを二つ、購入した。

「はい」

 相変わらず立ち続ける直井さんに片方渡し、僕は再び座りこんだ。

「今日は、間違えていつもの時間出来ちゃったから」

「そ、そうなんだ」

「直井さんは? 随分早いと思うんだけど」

「私、も、そんなところ、かな」

 プシュ、カキ。プルタブを起こして暖かいミルクティーを含む。必要以上に甘ったるいが、これはこれでいいと思う。

「そうなんだ……」

 そこで会話が途切れる。気まずい空気。逃げ出したい衝動に駆られるが、腰は一向に浮く気配はなかった。

 自然消滅で関係抹消された恋人未満の僕達。やっぱり、顔は合わせにくい。どちらかが相手を嫌いになった、と言うのであればまだ気持ちに踏ん切りはついていたのだろうに、そうではないから厄介なのだ。

「……後藤君」

「なに?」

「……私がダメだったのかな……」

「……そんなわけ、ないよ」

 それで終わりにしてしまった。考えれば、それは彼女が精一杯の勇気を振り絞った一言なのだと気付くのには遅すぎた。だから、僕達はすれ違ったままなんだと思う。

 それから会話をするでもなく、ふたりボーっとしていたら鍵が開いた。どうやら、担当の先生が寝坊したらしい。その事に若干肩を落とし、校舎に僕達は消えた。直井さんはいつまでも僕の二歩後ろにいた。

 勉強会二日目。

 この日は二人の女子が来ない日なので、僕と浩平はお気に入りの場所で勉強していた。何だかんだで日辺りが良いから暖かく、そして何よりも静かな場所だからだ。

「……なぁ、浩平」

 浩平はペンを止めてこちらを見た。けれど、僕はその視線を無視し、問題を解き続けた。

「何?」

「お前と、直井のことだけど」

「うん」

「ちゃんと、話し合ったか?」

「……それが出来たらこうならなかったんだよ」

「……そうか、ごめん」

「いいよ」

 僕達は誤解の積み重ねの上で今生きている。それでも、その積み重なったものを今更崩すのは怖くて、僕には出来なかった。

 僕達が、いや、僕がちゃんと話していれば。そう思ったことは何度もある。けれど、出来なかった。だから、今の状態は自分が招いた。それだけで酷な話だった。

 自分の罪悪が目の前で晒されている状態は、覆いたくても覆えないほどのものだった。

 勉強会は三日、四日と過ぎてゆく。二日に一日程度で僕と浩平の二人きりだったのが救いと言えば救いだった。

 そして年末に入り、いよいよ学校も閉鎖されて追い出された僕達は約束どおり、あの喫茶店で勉強していた。

「いいのかな、こんなにお世話してもらっちゃって」

 ふと須藤さんが漏らした事があった。厚意、と言うには大きすぎる。その証が僕の右手に握られている。

「鍵まで預けちゃって……」

 そう言うことだ。

「それに見合うことをしなくちゃな。プレッシャーのかけ方としては上々だろ」

 冷静に浩介が言う。まあ、そう言うこと。これはマスターなりのプレッシャーを掛けている事になる。

「ま、僕達に出来る事は勉強だけなんだから。やろう」

「そうだな」

「うん」

 そうして日々は過ぎてゆく。大晦日を越え、正月を過ごし、一月二日。少し早めの電車に乗っていたら、携帯が震えた。

 浩平からのメールだった。今日来られない、とそれだけだった。切羽詰っているのだろう、僕もわかった、と四文字だけのメールを送った。

 喫茶店の調理場を使うことは流石に出来ないので、駅を降りると、コンビニで食料を調達し、歩き出した。

 僕が責任を持って鍵を預かっているので、僕が一番早くに到着しなければならない。それは自明だ。ということで、早めに着ているのだけれど。

「あ、お、おはよう」

 先客がいた。直井さん。僕の元彼女らしき人。今は、二人っきりで会いたくない人。

「うん、おは、よう」

 途切れつつも挨拶をしつつ、鍵を開けて店内に入った。誰もいない空間にドアベルが悲しいくらい響いた。

 僕が入ると直井さんも後に続いて入る。それを気配と音だけで探りつつ、暖房のスイッチを入れた。暖房はマスターの了承済み。まったく、いい人過ぎる。

「あの、ね」

 いつもの席に座った直井さんは声をだした。僕しか聞く人がいないから、僕に向けてだろう。

「なに?」

「今日、理ちゃん来れないって」

「そっか。わかった」

 短く返事をして僕もいつもの席に着く。直井さんの斜め前。窓際の端っこ。ここが定位置なっていた。

 今日は、二人。長い時間を二人で過ごすのは怖い。どうしようもないくらいに、怖い。だから勉強に没頭しよう。そう思うことにした。

 無言で参考書とノートを取り出して問題を解きだす。僕を見てか、直井さんも同じように勉強に取りかかった。

 と、思ったところで、直井さんのペンは進まない。僕は自分のノートと参考書しか見ていないが、音で分かる。盗み見ると、ペンは何かを書き出そうとノートの上にあるが、手が一向に動かない。

 何か悩んでいるのだろうか。そう思ったが、分からなければ聞いてくるはず。しばらく様子を見る事にして僕は再び自身の勉強に取りかかった。

 一問、二問、三問.比較的時間が掛かる物理の問題を解き続けていたが、それでも響くのは暖房の音、それに僕の走らせるペンの音だけだった。

「……どうしたの」

 心配になって、つい、話しかける。つい、というのは本当にそう。本当は彼女と話することが怖いくらいなのに。

「……うん、ちょっと」

「どこか分からないところでも?」

「……うん、ちょっと」

 上の空の答え。表情は変わらずに、窓の外にある虚空だけを見つめているようだ。

「……」

 それ以上、何も言えなかった。勉強しようにも、心配で手につかない。どうしようもない。

 仕方なく、気分を入れ替えるためにコンビニの袋を漁った。朝食用に買った、パンと飲み物を取り出して、もそもそと食べだす。

「ねえ」

 サンドイッチの二つ目を手に取ったところで声があった。

「うん?」

「もう、今更だけど、ごめんね」

「……何が?」

「やっぱり、私は重荷だったのかな、って」

「え?」

「ごめん、私帰るね。勉強、できそうもないや」

 悲しそうに笑って、彼女はそそくさと出て行ってしまった。余りに唐突で気を取られていた僕は、喫茶店に一人取り残されてしまった。

「……は、はは」

 自然と笑いが込みあげてくる。悲しくて、悲しくて。どうしようもないくらい情けない自分が悲しくて。そして、彼女が悲しくて。

「はは、当たってる、じゃないか。まったく」

 まったく。僕は自分に怒りを覚えることも出来ず、ただ肩を震わせていた。

 似ている? まったく、そっくりじゃないか。

 どうしようもない自己嫌悪で心を染め、僕も喫茶店を後にした。勉強する気には、どうしてもなれなかった。

 それからは、僕は直井さんに話しかける事はなくなった。直井さんも僕に話しかける事はなかった。ただ、勉強に没頭して話す暇もなかった、といえばいい訳がましいだろうか。

 そうして時は過ぎてゆく。気がつけば冬休みは終わっていた。

「そろそろセンターだな」

「そうだね」

 放課後。いつものように僕と浩平はあの喫茶店にいた。そろそろセンター試験まであと二週というところ。自主学習場所として教室が夜まで開放されているものの、僕達は居心地がよいここを勉強場所として選んでいた。

 店内はいつものように閑散としていて、客は僕達を除けば片手で足りる程度。店の経営状態が心配になったが、どうやら日中に稼いでいるらしい。これはマスターから聞いた話だ。

「啓介はどこ受けるんだ?」

「うーん、センター次第かなぁ」

「第一志望は?」

「それはね……」

 僕が二の句を接ごうとした時、新たな来客を知らせるドアベルが鳴り響いた。

「やっぱりここにいた」

 そんな声とともに。

「あれ、須藤?」

「よ、不良」

 相変わらず須藤さんは浩平を不良と呼んでいた。須藤さんは人を見る目はある方だと思うから……親しみを込めた渾名として彼女の中で定着しているのだろう。

 浩平も気を悪くするような事もなく、須藤さんと接しているし。まあ、浩平は普段から不良呼ばわりされているから、気にしないだけかもしれないけど。

「ケースケも一緒だね。よかった」

 何がよかったのだろうか。

「あのさ、勉強見てくれない?」

「見るって、僕が?」

「うん、そう。他に頼る人いなくてさ」

「おいおい、俺は無視か?」

「そう言うわけなんだけど、大丈夫?」

 須藤さんは徹底的に浩平を無視している。いつもの事だけど、なんだか浩平が可愛そうだ。

「僕は大丈夫だけど」

「俺も邪魔さえしなければ」

「ありがとー。あ、マスター、アメリカン一つ」

 注文しつつ僕の横に座る。いつもの四人席のいつもの配置そのままだ。

 いつもの、そう、いつもの。冬休みで培った僕達のいつものだ。いつも浩平と僕が先に来ていて、対面で座る。そして須藤さんと、直井さんがきて、それぞれ僕と浩平の横に座る。それがいつもの配置。

「……」

 須藤さんが勉強道具を出していると、マスターが無言で注文の品を伝票とともに置きに来る。

「ありがと、マスター」

 マスターは軽く会釈して再びカウンターの奥へと引っ込んで行った。

「いや、最初ね。ケースケの教室行ったらいなくてさ。友達に聞いたら不良と帰ったって聞いてね。もしかしたらここじゃないかな、って来たらドンピシャ」

「マシンガントークだな、おい」

「うるさいわね」

「うるさいのはお前だ、須藤」

 浩平は見せ付けるように店内をぐるりと見渡す。須藤さんはそれを見て、初めて自分が大きな声でしゃべり過ぎていた事に気付いた。

「あ、ごめん」

「ちゃんとTPOを弁えろよな」

「アンタが言える台詞じゃないでしょ」

「なんだと」

「二人とも、声、大きい」

 参考書から目を離さずに注意を促す。それで二人とも静かになって、勉強をはじめた。

 と思ったら、須藤さんは直ぐに口を開く。それでも声量は抑えていた。

「ね、千陽来なかった?」

「直井? 見てないけど……啓介は?」

「僕も見てないよ」

「そっか」

 会話はそれきりで、再び僕達は勉強をはじめた。私語も少なく、出てくる言葉は勉強のやり取りのそれくらいなものだった。

 一時間、二時間と時間は過ぎて、夜の八時を回った頃、マスターから閉店を告げられ、僕達は外に出た。

「あー、疲れた」

「まだ数時間しか勉強してないだろうが」

「いいのよ、私はそれでも」

「あー、そうかい」

 二人の軽口を右から左に流しながら駅へと向かう。

「えっと、時間はっと……うわ、俺先に帰るわ。じゃーなー」

 言うが先か、浩平は走って行ってしまった。電車の時刻が迫っていたようだ。

「うーん、二人になっちゃったね」

「そうだね」

 僕達の乗る電車はまだまだ時間がたっぷりあった。だから取り立てて急ぐわけも鳴く、ゆったりと歩いていた。

「ね、ケースケ」

「何?」

「どうして千陽と別れたの?」

「……さあ」

 直井さんと別れた理由、か。別れたわけではないのだから上手く言えない。

「さあ、って、何か理由でもないと」

 まして、須藤さんはあっち側の人だ。おいそれと言うわけにもいかないだろうな。

「うーん、そもそも付き合っていたわけじゃないと思うんだけど」

「いやいや、話聞く限りじゃ、付き合っているとしか理解できなかったけど?」

「そもそもさ、付き合うってどういうこと?」

「そりゃ、好き者同士が――」

「そういうこと」

「……簡単に言うね」

「そうとしか、言えないからね」

「なんかムカツクなぁ」

「うん、そうだろうね」

「……否定も自己弁護もないの?」

「言った所でいい訳にしかならないと思わない?」

「聞いてみなくちゃ分からない。これは私の持論」

「そう」

 それっきり僕は黙った。言う気はない。その事を態度で伝えるためだ。それでも須藤さんはしつこく聞いてきた。

「嫌いになったの?」

「嫌いになったわけじゃない。というか、最初の方の話聞いたでしょ?」

「好きでも嫌いでもないけど、これから好きになるかもしれない、ってやつ?」

 自分で言っておいてなんだけど、凄い恥ずかしい台詞をよくもまあ吐いたものだ。自分の顔が紅潮して行くのが分かった。

「そういうこと」

「……好きになれなかった、というわけ?」

「……」

 それ以上は言わない。僕の気持ちを知っているのは僕。そして浩平だけだ。

「だんまりしてるのは、否定? 肯定?」

「さあ」

「はぐらかせないでよ」

「正直言えば、言いたくないんだけど」

「どうして?」

 どうして。僕が聞きたいくらいだ。どうしてそんなにも僕に語らせたいのか。

「はあ、千陽も難儀だったんだね。こんなのが好きだなんて」

「そう」

「……ね、反応ないの?」

「何が?」

「気付いていないならいいよ。あ、私コンビニ寄ってくね。先、駅行ってて」

「うん」

 駅前で一旦須藤さんと別れた。どうせホームで会って、また根掘り葉掘り聞かれると思うと、少しだけ辟易してしまう。

 改札を抜け、いつものホームのいつもの場所。電車が来るまで、まだ十分ちょっとあり、人影もまばらだった。

 ベンチに座って荷物を降ろすと、ため息が自然と漏れた。いきなりあんな事を聞かれるとは思いも寄らなかったからだ。自分の弱さが、時を刻む毎に身体を締め上げる。苦痛がため息として出たというところだ。

「なんでかね」

 ぽつりと呟く。幸い、回りを見ても誰もいなかったので聞かれていないだろう。それなら、いい。

 何も考えないように。瞼を閉じて見たが、それが過去を思い返すものばかりがフラッシュバックしてしまう。

 始めに会った頃。話をするようになった頃。急に告白された日の事。不器用なデートを重ねていた頃。お互いの距離が分からずにどぎまぎしていた頃。そして、次第に離れていった頃。

 全てが懐かしく、全てが苦しい。今の僕には、苦しい。

「お待たせ」

 僕が苦痛で耐え切れなくなりそうになったとき、タイミングが良いのか悪いのか、須藤さんが合流した。

「ん」

 僕は目もくれず、ただ短く返しただけだった。

「機嫌、悪い?」

「そりゃ、な」

「そっか」

 彼女も彼女で、言葉短く会話をした。顔は見てないが、声のトーンが多少落ちていることもあるし、複雑な顔をしていることだろう。

「……ケースケ」

 しばらくしてから、再び須藤さんは口を開いた。

「聞いてる?」

 聞いてるが、返事をする気分ではない。

「ん、目が開いているなら大丈夫かな」

 勝手に話し始めた。

「やっぱり、聞いておきたいよ。どうしてこうなったのか。もちろん、私は千陽から聞いているけど、でもそれはやっぱり一面的でしょ? ケースケの面も聞いておきたいの」

「……話せないよ。今は何も。そして、多分、これからも」

 いい終わらないうちに電車がホームに滑り込む。荷物をもって立ち上がり、ドアが開放されるのを待って、車内に乗り込んだ。

「ねえ」

 隣に座った須藤さんは更に口撃を繰り出すが、僕はひたすら目を瞑って耐え続けた。須藤さんとはあと五分も一緒に居ない。無視し続ける事にした。

「……じゃあね」

 悲しそうな声色。扉が開くと同時に隣の友人は去っていった。

「……く」

 小さくうめき声を漏らして、僕は早く電車が目的の駅に着かないかと祈っていた。


「ねぇ、後藤君」

 二学期の中間テストが近くに迫っていたある日、僕は呼びとめられた。確かに呼び止められたのだけれども、それが自分だと気付くのに時間が掛かった。

 僕は良く浩平と一緒に居たので、声を掛けられること自体が少なかったのもある。実際、僕と会話するくらいの人物は片手で足りるか、といった具合だったのだ。

「僕?」

「え、と、うん。このクラスに後藤っていう苗字は後藤君だけだと思ってたけど」

「あ、ああ、そうだっけ」

 そんなこんなだから、僕はクラスメイトの顔と名前が一致しないくらい、そこから浮いていた。

「何?」

 平静を保つが、内心、顔が引きつっていないかと心配だった。

「その、テスト範囲教えて欲しい、けど」

「あ、ああ。それくらいなら」

 それが彼女と交わした、最初の会話だった。他の人に聞けばいいものを、と思ったりもしたが、単なる気まぐれということで済ました。

 それから、僕は度々彼女と会話するようになった。


 どうして思い出すのだろう。

 明かりを消した部屋の中。布団の中で懐かしい光景を思い出して気持ち悪さが蜘蛛の様に這い上がってくる。自己嫌悪でどうしようもなくなって、いっそその足で八つに切り裂いて欲しいと思うくらいだ。

 起き上がるのも億劫で、掛け布団を頭まで被り、何も思い出さないように、夢を見ないようにと祈りつつ僕は眠った。

 結果、夢を見なかったが、熟睡し過ぎて遅刻ギリギリになってしまった。

 放課後、いつものように浩平と喫茶店へ行こうとしたら須藤さんに呼び止められた。昨日で味をしめたのか知らないけど、僕は顔を合わせたくはなかった。須藤さんはそんな僕の様子に構いもせず、直井さんを弾き連れ、四人でいつもの店に向かった。

「いらっしゃい」

 マスターのローテンションな声を聞きつつ店内のいつもの場所へ。すると、テーブルに予約席の札が置いてあった。

「予約されてる?」

 ポツリと漏らすと、マスターが音もなくその札を持って行った。一言、「キミたちのために」とだけ残して。

 ありがとう、と心の中でお礼を言って、僕達はいつもの席へと収まった。

 センターまで残り二週間。誰かが言い出したわけではないけれども、皆私語はなく黙々と己の勉強に勤しんでいた。その事に、少しだけほっとして、心がチクリと痛んだ。

「何も聞かないんだね」

 浩平と直井さんは同じ電車で乗って行ってしまい、ホームには僕と須藤さんが取り残されていた。

 僕は再び須藤さんからの詰問があるかと覚悟していたが、須藤さんは一言も声を発さなかった。

「センター近いし、ケースケには重荷になりそうだからね」

「そっか」

 たったそれだけの会話。それきり、電車が来ても、須藤さんが降りる駅に着いても、一言も声を交わすことはなかった。

 それから、ほぼ毎日僕達は集まって勉強をするけど、それ以上のことは何もなかった。時期が時期だけに、遊びに行こうとも言える訳がないし、僕と直井さんが気まずい関係だと浩平も須藤さんも分かっていたからだと思う。

 そして、センター試験が終わった。

 今度は私立大学の受験が始まる。と言っても、僕には殆ど関係ない。

 世の中は楽に出来ているようで、センター利用受験というものがある。センター試験の結果だけで合否を問うというもので、予想以上の点数の取れた僕はそのセンター利用受験しか受けていないからだ。

 おかげで気が楽と言うか、一ヶ月近い時間を国公立受験にのみ使えるのだ。

「本当、羨ましいな」

 浩平がそう漏らした。

「俺はセンター利用も一般受験もダブルで受けるっていうのにな」

「ご苦労様です」

 僕が頭を恭しく下げると、浩平は苦笑していた。

「まあ、これからも勉強見てくれよ」

「うん、そのつもりだし」

「ありがてぇな、まったく」

 ぶっきらぼうに答えるが、それは照れ隠しだと僕は知っていた。だから何も言わず、ただ微笑んだだけだった。

 私立の受験が近くなったこともあり、学校は自由登校になっていた。そういうことで、再び僕と浩平はあの喫茶店に通い詰めていた。朝から席を占領するわりに、この店で席が足りないという状況を未だ見ていない。不思議だ。

 だが、忍びない事には変わりない。それに、あの人たちにも場所が丸分かりだ。僕はそろそろ、他の場所に移りたいと思っていた。そんな矢先だ。

「おはよー、マスター」

 軽快な声が店内を駆け巡る。そして僕と浩平はほぼ同時に頭を抑えた。

「おはよ、二人とも。今日も元気に勉強しよっか」

「元気なのはお前だけだ、須藤」

「なんでよー。ケースケは同意してくれるよね?」

「……僕は、静かに勉強したい」

 最近毎日のように須藤さんが来る。それもハイテンションでだ。

「えー。そんなぁ、連れないなぁ」

「連れなくて結構だから」

「コーヘイはどうなのさ?」

「俺も、お前に構っている余裕はない」

「えー」

「というか、須藤さん。静かにして」

「む、ケースケが言うなら仕方ないか」

「俺の言うことは聞けないと言う裏返しだな」

「そうだよ」

 しゅんとなったと思ったら、すぐに切り返す。毎日の日課になりかけている騒々しさ。それが、少しだけ窮屈だった。

 一番の理由は、そう。

「というか、須藤。お前推薦で決まってるだろ?」

「……バレてた?」

 驚いたような顔で僕を見る。

「……うん」

 そう、須藤さんは推薦で進学先が決まっている。つまり、これ以上勉強する理由がないのだ。それなのに、ここに来て騒いだり勉強したりする。一体何の得が有るのか。

「ま、いいじゃん。私は私のやりたい事をやっているわけだし」

「それが迷惑とか考えないのか?」

「そう思ってるの?」

「ああ」

 浩平は即答した。そろそろ本番という時期で、すでに進学が決定している人が目の前にいるのは迷惑以外何者でもない。ハッキリ言って、邪魔物なのだ。

「ケースケも?」

「言わずもがな」

 僕は余裕で合格するラインの大学しか受けないから、僕だけなら大丈夫。だけど、浩平はギリギリの本命が残っているのだ。浩平のためにも、ここは首を振るしかなかった。

「はぁ、そうですか。みんな冷たいね」

「受験だからな」

 もはや、浩平はテキストから顔を上げることなく言い放つ。

「じゃ、受験間近な人ならいいってわけだよね」

「お前以外なら誰でもいい」

 またもや浩平は冷たくあしらう。が、それを聞いて須藤さんは唇を怪しく歪めた。

「そっか、うんうん。面白くなってきた」

 一人で納得したと思い気や、携帯を引っつかんで外に飛び出して行った。

「……なんなんだ、あいつ」

「さあ。それよりも勉強しようか」

「そうだな」

 再び自分の勉強に取りかかる。

 さっきは、分からないような振りをしていたけど、内心分かってる。須藤さんが何をしようとしているのか。だから僕は、落ち着かなさを誤魔化しながらノートに数式を書き付けていた。

 それから何分経った事だろうか。十分か、一時間か、それとも数分か。とりあえず、しばらくしてから、再び彼女は現れたのだ。

 そして、予想通り。彼女は直井さんを連れてきた。

「これなら文句ないでしょ?」

「まあ、勉強するなら断る理由はないが、啓介は?」

「僕も……同じだよ」

「りょーかいっ」

 須藤さんは軽快に返事をして、いつもの場所に収まった。直井さんもそれに習っていつもの場所へ。

「って、なんで須藤が座るんだ?」

「いいじゃん、邪魔しないし」

「いるだけで邪魔なんだよ」

「あらそう」

「あらそう、ってそれだけなのか?」

「だって、アンタからして邪魔なだけで、私は他二人から邪険にされてないわけで」

「……二人とも、うるさい」

 僕が言うと、二人とも肩を竦めるように大人しくなった。

「須藤さんも、いてもいいけど邪魔しないこと。浩平もあまり突っかからないこと。いい?」

「ああ」

「うん」

 二人が頷くのを見て、僕は再び勉強に没頭した。斜め向かいの直井さんが気になる事は気になるが、それを忘れるように、ひたすら問題を解き漁った。

 須藤さんの言いたい事は分かる。やりたい事も。だけど、まだまだそれに対峙するには時期が悪い。そう思うことにした。

 つまりは、この気まずい空間を作り出したのは僕自身に他ならない。簡単な事を言えば、僕に恋愛経験と自分に対する自信がなかったのが原因だろう。つまりは、そう言うことだ。


 夏の終わり頃に浩平に相談した事が思い浮かぶ。

「はあ、つまり自分の気持ちが全然分かっていない、と言うことだろ?」

 僕の疑問をぶつけた浩平は、そうやって一つの答えをくれた。

「……そう言うこと、なのかな」

「そう言うこった。というか、お前の初恋の時期は今なのか?」

「だから、それが分からないわけで」

「……はーはー、よーく分かりました。啓介が人並みに育っていないということだな」

「そんな言い方はないと思うけど、まあ、そうかなぁ」

「……人間ってのはな、難儀な生き物だ。考えて、それを表すことが出来る。理性と本能を分かち、その住み分けをした。人間は動物にあって動物にあらざるべき点だよな」

「?」

「つまり、他の動物は簡単なんだよ。子供を作りたいか否か。違うか?」

「違わない」

「だろ。例えそこに気持ちとか感情とかあったとしてもだ、そいつらは自身を明確に表すことが出来ないわけだな」

「うん」

「それじゃあ、人間は?」

「……言葉がある?」

「それはちょっと曖昧な答えだなぁ。奴らにゃ奴らの言語がある。外国人の言葉を何も知らずに理解するようなもんだ。そりゃ、出来ないだろ?」

「うん」

「俺達にあるのはな、文字なんだよ、文字。こいつのお陰で俺達は全てを記録する事が出来る。記録してるのは、人間だけだ」

「……どうだろ。記録を残すと言う点では、蟻だって記録はしている」

「それが様々な用途に使えてか?」

「いや」

「まあ、そういう談義は置いといてだな。俺が振ったのも悪かったが。要は、お前はそいつと子供作りたいと思うかだ」

「極端すぎると思うけど」

「いいんだよ。結局する事は同じなんだから」

「んー」

「手を繋ぐのだって、キスだって、抱きしめるのだって、結局そこまでの通過点でしかない。もしそこまでいけなければ、そりゃただの勘違いだ」

「う、ん」

「まあ、俺から言えるのはそこまでか。それ以上は自分で考えろ、な」

「わかった」

「手前のケツは手前で拭けって、誰かが言ったわけだが、俺は尻拭き紙を渡しただけだ。あとどう使おうが啓介次第なわけだ」

「うん、ありがとう」

「ああ、あと」

「うん?」

「絶対後悔するなよ。それだけはみっともねぇから」

「……わかった」


 そこで僕は頷いたわけだ。

 答えはまだ、出てない。いや、逃げているのだからそれはそれで僕の答えなのかもしれない。

 ノートに書き付けるペンを止めた。

 それは、それで。

 ……許せるわけじゃない。

 どうしてそう思ったのか。どうしてそう思えたのか。それはやっぱり、僕の中で明確に答えが出せるものではない。

 だからと言って、それを数式のように強引に出すこともない。

 だから、そう。ただなんとなくだ。

「……直井さんはさ」

「へっ?」

「直井さんは、さ。どこ受けるの?」

「え、えっと」

 慌てふためく。急に話が振られたこともあるだろう。けど、僕から離しかけられた事が一番大きいはずだ。

「その、T大なんだけど」

「……ああ、なるほど」

 僕が受ける国立とは割と近かい。というか、T大学ということは。

「あれ、俺と一緒か」

「はぁ? コーヘイと一緒、なの?」

「そこで僕を見られても返答に困るけど、そうだよ」

「まあ、俺の第一志望が受かればの話だけどな」

「あ、千陽もそうだったよね」

「う、うん。私も第一なんだ」

 そこで浩平が気を回したのか知らないが、こんな事を言い出した。

「啓介の第一も結構近いしな。下手したらみんなで近くに住むことが出来そうだ」

「ちょっと、私のこと置いてない?」

「だって、お前んとこはちょっと遠いわな」

「そんなことないでしょ」

「隣の県なんて、遠い内に入るもんだろ」

「だけど、県境だから、かなり近いはずなんだけど」

「……ってことは、なんだ。みんな同じ場所に住むこともあり得るのか」

「これはこれで面白いかもね」

 最後に一言言って、僕は再び勉強に移った。心なしか、ペンが軽く思えた。

 結局その後は話が盛り上がったり、勉強したりで日が沈んだ。駅で浩平と直井さんに別れを告げて帰宅。電車の中で須藤さんとちょっとした問答があった。

「また、どういう風の吹き回し?」

「なんとなくだよ」

「あら、そう」

 たったそれだけだった。それだけでも通じる。だから僕も須藤さんも、詳しい事は何一つ口にしなかった。

 それを皮切りに、僕等は以前のようにほぼ毎日あの店に通い詰めた。僕はと言うと、本当にどう言う風の吹き回しか、直井さんとの関係を徐々に修復していた。それこそ、昔のように、とは行かなくても、ちょっとした会話をするくらいだった。まるで、僕らが初めて会話をした時のような、そんな感じだった。

 それから浩平と直井さんは早くも第一志望が受かり、僕も国立の入試が終えていて、後期がある人より少しだけ長い春休みに入った。

 みんな入試が終わったこともあり、僕と浩平はいつものように会って遊んだり、たまに四人でどこか行く事も多くなっていた。

「ん?」

 僕は何もする事がないけど、いつもの習慣で早く目を覚まし、手持ちぶたさな時間を過ごしていた。そんな折、携帯が鳴った。流れるメロディーはメールの到着を告げていた。

「こんな時間ってことは、浩平かな?」

 朝早くのメールは大抵浩平からだったので、そう思い込んで充電器に嵌め込んでいた携帯を手に取る。

 送信者は、須藤理。訝りつつも本文を表示させる。

「おはろー。朝早くからゴメンね。ちょっと話したい事があるので、いつもの店に、十時ね」

 人の予定を完全無視した内容。それも彼女らしいのだが、一番の問題があった。

「間に合うかな」

 時刻はそろそろ九時になる。須藤さんの使う駅は始発が多く出るからいいのだけれど、僕のも寄り駅はそうは行かない。慌てて準備をすると、携帯と財布だけをポケットに突っ込んで家を出た。

 駅で電車に乗り込むと、すでに九時から十時に変わる所だった。遅れる旨のメールを須藤さんに送った。生憎、座席は全部埋まっていたので、ドアの前に立つことにした。

「遅い」

 第一声がそれだった。

「え、でも遅れるってメールしたよ」

 喫茶店に着くと、そこには怒った表情の須藤さんがいた。

「男の子が女の子待たせてどうするの?」

「いや、だから事前にメールしたよ」

「そんなこと関係ないのです。私は怒っているのです」

「……だから、僕におごれ、と言いたいの?」

「いやいや、分かっているじゃない」

 急に満面の笑みになる。

 何を、とは言うのも馬鹿らしくなったので、僕は渋々彼女の分のコーヒー代を持つことに。

「で、話ってなに?」

 大方予想がつくのだけれど、一応聞いて見る。

「いやぁ、結局千陽との関係をだね」

「聞きたいってこと?」

「そゆこと」

 須藤さんは、こういう時は包み隠すことなく話してくれるので有り難い。

「別に、何でもないと思うけど」

「いやいや、だって、最近になってまた話すようになったわけでしょ」

「うん、それは否定しないけど」

「仲直りしたってこと?」

「仲直りって、元から喧嘩もしてないよ」

 僕から離れて行っただけなのだし。

「ふぅん。それじゃ、何で疎遠だったわけ?」

「それは……」

 言うべきかどうか迷う。正直、前は言うのが嫌だったわけだが、こうして何度も聞いてくると根負けしそうだ。

「まだ、言えない?」

「そんなわけじゃないよ」

「じゃあ、どうして言ってくれないの?」

「……笑わない?」

「笑い話しようとして?」

 今度は真剣な顔になる。

「いや、ごめん」

 萎縮した鼠のように、僕はあっさりと謝ってしまった。

「それじゃ、話してよ」

「う……ん」

 ぽつりぽつりと僕は自分自身の事を話しだした。いや、話し出したら、それこそ芋蔓のようにどんどん言葉が出てくる。

 僕がどんな気持ちか、自分自身で分からない事。

 そんな状態であの関係を続けていくのは嫌になった事。

 結局、離れてもなにも分からなかったこと。

「……なるほどねぇ。なるほど」

 うんうんと頷く須藤さん。

「……それで、今に至るわけ」

「ははーん。よーく分かったわ」

「まあ、簡単に言えば、馬鹿なのね」

「酷いなぁ」

「だって、そうでしょうが。それを言わずに千陽から遠ざかったわけでしょ?」

「うん」

「だったら馬鹿。大馬鹿。理由もなく離れなれたら、誰だって気まずくなるわよ」

「そう、かな」

「例えば、コーヘイがさ、ケースケに何も言わずに離れて行ったらどう思う?」

「別に。だって、それは浩平の自由だし」

「……あー、もう! 本当に馬鹿なんだから」

「馬鹿馬鹿言わないでよ」

「救いようないくらい馬鹿なんだからしかたないでしょうが。ちょっと、ケースケ。あんた今どれくらい友達いるわけ?」

「須藤さんが知る限りの人だよ」

 僕には友達が殆どいない。それはいずれの時代もそうだ。

「えっと、コーヘイ、私、千陽?」

「当たり」

「当たりって、他にいないの? 確かにコーヘイとずっと一緒にいるから高校では出来ないのは分かるけど、中学時代の人とか」

「それはないなぁ」

「悲しいね」

「そうでもないけど」

「馬鹿」

「だから、そう何度も馬鹿馬鹿言わないでよ」

「あー、ケースケってさ、友達いらないと思ってる?」

「いらないとは思わないけど、それほど必要とは思わない、かな」

「あーあー、はいはい。なるほどね。よーく分かったわ。ケースケ、アンタ人付き合いしてなさ過ぎ」

「うん」

「だから、人の心とか分からないんだわ」

 須藤さんはがっくりと肩を落とした。

「言うは易し、行うは難し。百聞は一見にしかず」

 ぶつぶつと呟きながら須藤さんは立ち上がった。

「さ、外出るよ」

「いいけど、どこへ?」

「教えなーい」

 明るく言って、彼女は外に出て行ってしまった。僕は勘定を手早く済ませて彼女の後を追った。

「それじゃ、着いてきて」

「うん」

 先頭に立った須藤さんは迷いなく進む。どうやら駅前に向かっているみたいだ。

「はぁ、なんでこんなことしなくちゃいけないのかなぁ」

「? 須藤さん、何か言った?」

「独り言」

「そう」

 駅前かと思っていたが、駅に入り、そのまま電車に。いつもの、僕達が帰りに使う電車だ。

「あ、ここね」

「うん」

 言われた駅で降りる。良く見れば、それはいつも須藤さんが降りる駅だった。

「どこに向かうの?」

「黙って着いて来ればいいの」

「わかった」

 言われたとおり、改札を抜け、住宅地に。そのまま進み、一軒の家の前で止まった。

「ここは?」

 表札に須藤と刻まれていた。

「私の家。さ、入って」

 須藤さんは鍵を開けてさっさと家の中に消えてしまった。慌てて後に続く。

「お邪魔しまーす」

「はいはい、いらっしゃい」

 おざなりに須藤さんが返事をして玄関から見える階段を登って行った。

「はい、ここね」

 一つの部屋に入る。

「……須藤さんの部屋?」

「それ以外の部屋に入れるとでも?」

「そ、そうだね」

「ということで、ちょいと待ってね」

「う、うん」

 僕は、床に置かれていたクッションに勝手に座る。須藤さんはというと、昼前の明るい日差しが入り込むこの時間帯に関わらず、部屋のカーテンを閉め切ってしまった。

 薄暗くなる空間。急な変化で、目がついていけない。

「それで、どうしてここに?」

「簡単な事なのよね。分からないなら知るしかないわけ。これは分かる?」

「うん、分かるけど、暗いよ」

「それでいいのよ」

 薄ぼんやりと霞む視界の中で、須藤さんが動く。

「それでいいって、どうして?」

「どうして? こうするから、としか答えられないわ」

 がばっと音がしそうな勢いで須藤さんが自身の衣服を脱ぎ去った。

「え、ちょ、な、何?」

 思わず背を向けて視界から彼女を外す。いきなり脱ぎだして、部屋が暗くて……って、まさか。

「ん? どうしたの? 背を向けちゃったりして」

「えっと、どうしてって、そりゃ……恥ずかしいし」

「あら、そう」

 言いながら、再び衣擦れの音が耳に届く。

「ほらほら、こっち向いて」

「や、やだって」

「恥ずかしがることじゃないしさ」

「恥ずかしいって。それに、その、須藤さんは平気なの?」

「平気かって、そりゃ平気なわけじゃないよ。伊達や酔狂で脱いでいるわけじゃないんだからさ」

「じゃじゃ、なんで脱ぐのかな」

「それは……こうするために?」

 不可解な疑問符の後、ふわっと甘い香りが鼻腔を通り抜ける。そして、背中に伝わる人肌のぬくもり。右肩には彼女の顎が乗ってるのが分かる。両腕を拘束するかのように回された両腕。

 どくりどくりと心臓が強く鼓動を刻む。何も音がないこの部屋では、煩い位に。

「え、え、え」

 ただただ慌てることしか出来ない。なにがどうなってこうなったのか、一切合切分からない。

「ねぇ、こういうの初めて?」

「そそ、そういう問題じゃないから、離れてよ」

「なんでさ?」

「なんでって、なんでも。なんでもいいから離れてっ」

「甲斐性ないわねぇ。据え膳食わぬは、って言うでしょ」

「言うけど、僕にはいらないから。毒を食らわば皿までと言っても、まずは毒を食べないことが第一だから」

 もう、何を言ってるのか分からない。慌てすぎて動けないくらいだ。

「毒って、私毒なわけ?」

「とと、とにかく、離れて」

「いーやーだー。というか、ケースケも脱いじゃいなよ」

「脱ぐって、うわっ」

 僕の答えを聞かずに、須藤さんは僕の服を脱がしにかかる。シャツのボタンを外され、袖から腕を抜かれ、Tシャツも脱がされてしまった。

「うーん、肉付きが悪いなぁ。もうちょっと筋肉付けたほうがいいよ」

「そ、そんな問題じゃないでしょ。服返してよ」

「い、や、だ。さてさて、下半身に行きましょうか」

「ちょ、それだけは……」

 彼女の腕を掴もうとするが、それをするりと抜けてベルトのバックルに手が掛かる。

「うわ、それだけは」

「残念」

 するりとベルトが引き抜かれた。

「うわぁ!」

 ズボンに手が掛かったところでやっと彼女の腕を捕らえた。

「痛っ」

「……ねえ、どうしてこんな事を?」

「ふむふむ、まず力緩めてくれないかなぁ」

「それは、無理。まず話してくれないと」

「簡単じゃない。ただ、男と女がする事をしようとしているだけでしょ」

「だ、だから、なんで?」

「なんでって、するのに理由が必要?」

「必要だよ」

「そうだねぇ、強いて言えば、ケースケとしたくなったから、かな」

「そ、それだけ?」

「それだけって、するのにしたいという理由はもっともじゃない?」

「それはそう、だけど」

「だったら問題ないじゃない」

「それじゃ、僕に拒否権はないの?」

「拒否権って、私が嫌いなの?」

「そりゃ、嫌いなわけじゃないけど」

「だったら、問題ないじゃない」

 再度掴んだ両手に力が掛かる。

「だから、ちょっと待ってって」

「なにさ」

「それと、これとは、別問題、でしょ」

「別も何もないでしょ。要はするかしないかなわけだし、するか出来ないかで、するかそれとも拒絶するしかでしかないんだよ」

「だ、だから、まず待ってって」

「待ったら何が出来るの?」

「出来るとか、そんなんじゃないでしょ」

「なに?」

「だから、その……」

 言葉に詰まる。確かに彼女のいい分は分からないものでもない。結局物事はやるかやらないかで動き、やりたいかやりたくないかがその動機となる。その上に理由と言うものが乗っかるわけだ。

 ということは、僕がやりたくないという動機にもなにか理由があるはずだ。

「ん? 言えることないって事はするってことだよね」

「いやいや、ちょっと待って。五分、いや、三分でいいから」

「だめ、待てない」

 ぎゅっと力が篭る。僕はそれが動かないようにするので精一杯だ。

「……なんというかさ」

「うん」

「やっぱり、ダメ。須藤さんとは、無理」

「どうして」

「どうしてって、そりゃ何でか分からないけど、でも、ダメ」

「拒絶するの?」

「……うん、そうだね。これは拒絶だよ」

「どうして、さ」

「どうしても、こうしてもなくて、多分、僕は、須藤さんを友達だと思ってるから」

 僕が言うと、言い知れぬ沈黙が訪れた。でも、それはしばらくすると変わってしまった。僕の背中で須藤さんが小刻みに震えているのが分かる。

「……く、うっく……ぷ」

「す、須藤さん?」

「ぷ、ははははははは、あっはっはっはっはっはっはー」

 何事かと思いきや、彼女は大きな声で笑った。

「いや、うん、そうだわな。あはははは。うん、ありがとう。それだけで十分だわ」

「な、どうしたの?」

「いや、アンタは自分で分かったわけよ。それこそマンガやドラマみたいな台詞だけどね」

「?」

「『友達だから』その言葉だけでいいわ。あ、ちょっとそのままでいてくれる?」

「う、うん」

 頷くと背中から須藤さんが離れた。するすると再び衣擦れが耳に響く。

「ん、もうこっち向いていいよ」

「う、ん」

 なんとなく気まずくて、僕は身体は向けたものの視線だけは須藤さんを捕らえることができない。

「なーにしゅんとしてるの?」

「え、いや、だって」

「ほんと、ケースケって良く分からないなぁ」

 僕は須藤さんが分からないよ、とは口にしなかった。

「まあ、これで私の言いたい事は終了。何か質問感想は?」

「なんで、こんな事を?」

「雉も鳴かずば撃たれまい、と昔の人は言ったわけよ」

「……良く、分からないよ」

「ま、追々気付くでしょ。ああ、そうそう。それとケースケに渡したい物があってね……」

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