第2話「乾いた土と微弱な魔法」
重い木製の扉が、ギイと低い音を立てて開いた。
「坊ちゃん、お食事をお持ちしました」
バルトが静かな足取りで部屋に入ってきた。
彼は代々この男爵家に仕える初老の従者だった。
仕立ての古い簡素な服に身を包み、白髪交じりの髪をきっちりと撫でつけている。
その顔には深いシワが刻まれ、隠しきれない疲労の色が色濃く滲んでいた。
バルトは両手で木製の丸いお盆を抱えていた。
「ありがとう、バルト」
レオンは窓辺から振り返り、机の前の椅子に腰を下ろした。
バルトがお盆を机の上に置く。
乗っていたのは、手のひらほどの大きさの黒いパンと、具のほとんど見えない薄茶色のスープだけだった。
パンは石のように硬く、スープからはわずかな塩の匂いしかしない。
これが貴族の、しかも育ち盛りの子供に与えられる食事だった。
レオンは無言で黒いパンに手を伸ばした。
両手で力を込めて割ろうとしたが、表面がわずかに崩れただけで、なかなか二つに割れない。
やっとのことで半分に割り、その欠片をスープに浸した。
パンが水分を吸って少しだけ柔らかくなるのを待ち、ゆっくりと口に運ぶ。
味気ない麦の風味が口の中に広がった。
「申し訳ございません、坊ちゃん。本日はこれだけで……」
バルトが申し訳なさそうに視線を落とした。
「気にしていないよ。今の領地の状況なら、これでも上等な方だろう」
レオンは淡々と答えた。
彼は食事を口に運びながら、食材の質の低さについて思考を巡らせていた。
小麦の育ちが悪く、栄養が不足している証拠だった。
スープに入っているはずの野菜の旨味も全くない。
土壌の栄養分が枯渇し、作物が正常に育たない環境が限界に達していることを、この食事が如実に物語っていた。
「街の様子はどうだ」
レオンはスープの器を両手で包み込みながら尋ねた。
バルトの顔が、さらに暗く沈んだ。
「芳しくありません。下街の方では、熱病で寝込む者がまた数人出たようです。薬草も手に入らず、教会も手一杯で……」
バルトの言葉は重苦しかった。
「そうか」
レオンは短く応じ、残りのパンをスープに浸した。
想像通りの事態だった。
不衛生な環境が病原菌を培養し、栄養失調で抵抗力の落ちた領民たちを次々と蝕んでいる。
根本的な環境改善を行わなければ、医療や魔法による治癒など焼け石に水だった。
「坊ちゃん、あまり窓を開けたままになさらないでください。悪い空気が入ってきます」
バルトが窓の隙間を塞ぐ布を直しに出向いた。
彼もまた、外の悪臭を「悪い空気」という曖昧な概念でしか捉えていない。
それが病気の直接的な原因であることを理解している者は、この世界にはいなかった。
食事を終えたレオンは、立ち上がった。
「少し庭に出る」
「お供いたします。風が冷たいので、上着を」
バルトがクローゼットから古い外套を取り出し、レオンの肩にかけた。
二人は薄暗い廊下を抜け、屋敷の裏手にある庭へと出た。
庭と呼ぶにはあまりにも殺風景な場所だった。
かつては美しい花が咲いていたであろう花壇は石の枠だけが残り、地面には枯れ草すら生えていない。
レオンは歩みを止め、地面にしゃがみ込んだ。
彼は素手で土をすくい取った。
土はサラサラと指の間からこぼれ落ちていった。
全く水分を含んでおらず、粒子が細かい砂のようになっていた。
手のひらに残った土に鼻を近づけてみる。
何の匂いもしなかった。
本来、豊かな土壌というものは、放線菌が作り出す独特の芳醇な土の匂いがするものだ。
しかし、この土には生命の気配が全くなかった。
有機物が完全に失われ、微生物が存在できない死んだ土だった。
これでは、どんな種を蒔いても根を張ることはできない。
レオンは土を払い落とし、立ち上がった。
ふと、庭の隅にある古い石壁の近くに視線が止まった。
そこには、野良犬か何かの動物が残していった排泄物が、干からびた状態で転がっていた。
レオンは迷わずそこへ向かって歩き出した。
「坊ちゃん、そちらは汚いです。お下がりください」
バルトが慌てて声をかけ、止めに入ろうとした。
しかし、レオンはバルトの制止を聞かず、その場に膝をついた。
彼は躊躇することなく、その乾燥した塊の数十センチ上に右手をかざした。
「坊ちゃん」
バルトの悲鳴に近い声が響いた。
レオンは構わず、魔力を練り上げた。
先ほどの水と同じように、対象を明確にイメージする。
今回は「浄化」と「乾燥」の複合だった。
表面に付着しているであろう有害な菌の活動を止め、内部に残っているわずかな水分を完全に飛ばす。
手のひらから微かな熱が放射された。
目に見えない魔力の波が、対象物を包み込む。
数秒後、レオンは手を引いた。
彼は足元にあった木の枝を拾い、その塊を軽くつついた。
塊は脆く崩れ、パラパラとした細かい粒子に変わった。
不快な匂いは全くなく、ただの乾いた繊維質の粉末になっていた。
「バルト、見てみろ」
レオンは崩れた粉末を指差した。
「な、何をなさるのですか……そんな汚らわしいものに」
バルトは顔をしかめ、数歩後ずさりした。
「もう汚らわしくはない。ただの乾いた草のカスだ」
レオンは木の枝でその粉末を周囲の土に混ぜ込んだ。
たったこれだけの量では、この広大な死んだ土を蘇らせることはできない。
しかし、理論が実践で証明された瞬間だった。
自分の微弱な魔法を使えば、有機物の処理を安全かつ瞬時に行うことができる。
それを大量に集め、適切に発酵させれば、良質な堆肥を無限に作り出すことができるのだ。
「坊ちゃん……ご病気ですか。熱があるのでは」
バルトが本気で心配そうな顔をして、レオンの額に手を伸ばそうとした。
レオンは小さく首を横に振った。
「僕は正常だ。それよりバルト、納屋に古い農具があったはずだ。クワやスキが残っていないか」
「クワですか。農作業など、農民のやることです。貴族である坊ちゃんが気になさることではありません」
バルトは諭すような口調で言った。
「いや、僕がやるんだ」
レオンの言葉には、有無を言わせぬ静かな力があった。
彼の瞳の奥に宿る強い光に、バルトは言葉を失った。
今まで無気力に日々を過ごしていた幼い主の顔つきが、劇的に変わっていた。
その変化の理由をバルトは理解できなかったが、背筋が伸びるような奇妙な威圧感を感じていた。
「……納屋の奥に、いくつか錆びたものが残っているはずです」
バルトは諦めたように短く答えた。
「案内してくれ」
レオンは立ち上がり、バルトの目を見据えた。
冷たい風が二人の間を吹き抜けたが、レオンの胸の奥で燃える決意の火は、すでに誰にも消せないほど熱を帯びていた。




