第9話:至福のブラッシングと、武骨な敬意
お腹がいっぱいになり、午後の暖かな日差しが部屋に差し込む頃。
シグルドが、銀のブラシを手に私の前に現れた。彼は何も言わず、私の正面に正座し、静かに深く一礼した。それは、これから行うブラッシングが彼にとって単なる手入れではなく、一種の儀式であることを物語っていた。
「……雪。始めても、いいだろうか」
短く、低い声。だが、私の返事を待つその瞳には、私を「一人の同居人」として尊重する、まっすぐな誠実さが宿っている。
(ええ、いいわよ、シグルド。あなたのその真面目なところ、嫌いじゃないわ)
私がクッションの上で横たわると、大きな手が慎重に動き出した。戦場を駆け、重い剣を振るってきたはずのその手は、驚くほど繊細だった。皮膚を傷つけないよう、毛並みに沿って優しく、羽毛で撫でるような手つきでブラシが動く。あまりの心地よさに、私は思わず喉を鳴らした。
すると、シグルドの指先がわずかに震え、ポツリ、ポツリと独白が漏れ出した。
「……実は、これまでにも怪我をした小鳥や、迷子の仔犬を拾ったことはあった。だが、俺が近づくと、彼らは皆おびえて逃げ出してしまう。……俺のこの手は、守るためのものであっても、愛されるためのものではないのだと思っていた」
その声には、武骨で強すぎるがゆえに拒絶され続けてきた男の、深い孤独が滲んでいた。
(シグルド、そんな悲しいこと言わないで。私は逃げたりしないから)
私は励ましを込めて、彼の指先に濡れた鼻先を「ちょん」と寄せた。その瞬間、シグルドは雷に打たれたように固まった。
「……っ、至福。今、自ら……ああ、これは聖域だ……」
震えながら、彼は感極まったように崩れ落ちた。そこまでは、非常に感動的なシーンだった。……のだが。
「雪、この抜け毛も、一筋たりとも無下にはできん。君が生きた証として、瓶に集めて大切に保管させてほしい。……いいだろうか」
彼はそう言うと、ブラシに絡まった白い毛を、まるで金糸でも扱うような手つきで丁寧に取り除き、うっとりと小瓶に詰め始めた。
(……あ、これ、本気で集めるやつだ。家宝とか言い出しかねない勢いね)
一瞬だけ、「この人、ちょっとヤバいかも……」と、ほんのりと引いてしまった。けれど、彼がどれだけ不器用に、けれど真剣に私という存在を慈しんでくれているかも、痛いほど伝わってくる。
(まあ、いいわ。中身が人間だとバレてるわけじゃないし、お猫様を崇め奉るのは家主の特権だものね。居候のお代としては、これくらい安いものよ)
ブラック企業で存在を無視されていた頃に比べれば、抜け毛一本まで大切にされる生活なんて、贅沢すぎる悩みだ。私はふんわりとした気持ちで彼を受け入れ、再び目を閉じた。
(いいわよ、シグルド。好きなだけ集めなさい。その代わり、これからもずっと、私をこうして大切にしてね。……美味しいご飯と、ふかふかの寝床もセットで、末永くよろしく頼むわよ?)
武骨な男の、私にだけ見せる特別な表情。部屋にはブラシが毛を梳く音と、彼が紡ぐ温かな独り言が、いつまでも穏やかに響いていた。




