第32話:揺れる心
丸くなって動かない私を置いて、シグルドが珍しく部屋を出て行った。いつもなら私が寝ていても、書類を抱えてでも傍を離れない彼なのに。
(……嫌われちゃったかしら。しかたがない……でも胸の奥がちくりと痛むわね)
寂しさを紛らわせるように、私はさらに鼻先を自分の尻尾に埋めた。けれどしばらくして、部屋の扉が静かに開く音がした。そこからは、これまでの軍人気質な彼からは想像もつかないような、香ばしくて優しい匂いが漂ってきた。
「……雪。……少しだけでいい。食べてくれ」
見れば、シグルドの手には小さな深皿が握られていた。中には、最高級の肉を細かく刻んで、トロトロになるまで煮込んだスープが入っている。彼の大きな指先をふと見ると、慣れない作業をしたのか、小さな切り傷がついていた。
(シグルド……。まさか、あなたが自分で作ったの……?)
彼は床に膝をつき、スプーンですくったスープを、私の口元へそっと差し出した。
その手は、数多の戦場で剣を振るう時よりもずっと、細かく震えているように見えた。
「毒など入っていない。……俺が、毒見もした。お前の好きな部位を、一番柔らかいところだけ選んだんだ。だから……頼む」
必死な声だった。軍の最高責任者である彼が、たかが一匹のユキヒョウの食事のために、厨房で格闘していたのだ。その姿を想像するだけで私の心にも、さざなみのような申し訳なさが広がっていく。
(……なんて、不器用で、優しいのかしら)
「人間(社畜)に戻りたくない」という不安で胸がいっぱいで、お腹が空いていることさえ忘れていたけれど。目の前のこの人は、私の沈黙さえも自分のせいだと思い詰め、こんなにも尽くしてくれている。
(こんなに愛されているのに、逃げてばかりでいいのかしら。飼い主のシグルドをこんなに悲しませるなんて……お猫様失格だわ)
「……嫌なら、無理にとは言わん。だが……お前が死んでしまったら、俺は……」
シグルドが言い淀み、苦しそうに視線を彷徨わせた。その瞳に浮かぶ深い悲しみを見て、私はハッとした。私がぼんやりと自分の殻に閉じこもっている間に、彼はこんなにもボロボロになっていたのだ。
(あら……。私、いつの間にこんなにお腹を空かせていたのかしら。いい匂い……シグルドが、私のために……)
差し出されたスプーンの香りに誘われるように、私は自然と顔を上げた。
そのまま、ゆっくりと舌を伸ばす。
温かなスープが喉を通ると、冷え切っていたお腹の奥が、じんわりと解けていくのがわかった。
「……っ、食べたか。そうか……。……よかった……」
シグルドの顔に、言葉では言い表せないほどの安堵が広がった。そのあまりに情けないほど嬉しそうな顔を見て、私はたまらず、彼の大きな鼻先に自分の鼻先を「ちょん」と寄せた。
(シグルド、ありがとう。……でも、そんなに泣きそうな顔をしないで。私は、どこにも行かないわ……ここにずっといたいの、本当は)
私のささやかな感謝に、シグルドは驚いたように目を見開き、それから愛おしそうに私を抱き寄せた。久しぶりに感じる彼の腕の強さと体温。
心地よさと、得体の知れない「むずむず」が背中合わせに忍び寄るのを、私は目を閉じてじっと受け止めていた。




