第29話:不穏な足音
翌朝、シグルドが執務室に持ち込んできたのは、二枚の小さな厚紙だった。そこには無骨な筆致で、はっきりと『はい』『いいえ』と書かれている。
「雪。……昨日のお前を見て、考えた。これを使えば、もっと俺に教えられるだろう」
シグルドは真剣な顔で、私の前にカードを並べた。
(……シグルド、これ、私がやりやすいように用意してくれたのね!)
私は嬉しくなって、すぐに『はい』のカードに肉球をトントンと乗せた。シグルドの瞳がぱっと輝く。
「……そうか。喜んでくれるか」
(ええ、もちろんよ! これで「吸いすぎ!」とか「ブラッシング足りない!」とか伝えられるものね!)
私たちはそれから、簡単な質問で意思疎通を試した。「腹は減っているか」「この部屋は暑くないか」——。シグルドが問いかけるたび、私は迷わずカードを選び、彼はそのたびに、不器用ながらも嬉しそうに私の頭を撫でた。私はその温もりに目を細め、この穏やかな時間がずっと続くのだと信じて疑わなかった。
けれど、その夜からだった。シグルドの腕の中で眠っていると、妙な感覚で目が覚めるようになった。
(……何かしら、この感覚。なんだか、体がむずむずする……)
手足の先までじわじわと何かが駆け巡る感覚。最初は、栄養をたっぷり摂っているから体力が余っているだけだと思っていた。私はその「むずむず」を発散させるため、深夜に一人、運動に励むことにした。
(よし、走って跳んで、このエネルギーを使い切ってやるわ!)
夜な夜なシグルドが私のために用意してくれた、丈夫な革紐の玩具を前足で器用に放り投げる。空中で翻る紐を、野生の勘を呼び覚まして鋭い爪でキャッチする。さらに、壁際に設置されたキャットウォークを、目にも止まらぬ速さで駆け上がった。
(ふんっ、これならどう!? ……はぁ、はぁ。まだ……まだ足りないわ!)
柱を駆け上がり、梁から梁へと音もなく跳躍する。本来のユキヒョウなら岩場を駆けるその脚力で、私は何度も部屋中を跳び回った。息が上がるほど動けば、この落ち着かない熱も冷めるはずだと信じて。けれど、どれだけ運動しても、心臓の奥から湧き上がる「むずむず」は収まるどころか、より深く、重く、私の四肢に沈殿していくようだった。
(やっぱりおかしいわ。体力が余っているどころの騒ぎじゃない。なんだか、皮膚の内側が熱くて、じっとしていられない……)
数日が過ぎる頃には、その熱はさらに強まっていた。暗闇の中で自分の体を見つめるたび、得体の知れない不安が胸をよぎる。シグルドの腕の中にいても、その違和感は消えることなく、私の四肢を内側から激しく揺さぶり続けていた。




