第26話:至高なる二度寝
重厚な扉が静かに閉まり、シグルドの去り際の溜息が遠ざかっていく。
屋敷の主が朝の鍛錬へと向かったことで、この広大な寝室には、完全な静寂と私だけの時間が訪れた。
(……ふふ。ついに行っちゃったわね)
私は、まだシグルドの体温が微かに残る大きなベッドの上で、大きく伸びをした。
前足をぐーっと突き出し、鋭い爪を鞘から出し入れする。背中を弓なりに反らせてから、再びシーツの上にごろんと転がった。シグルドに洗ってもらって、日々ブラッシングしてもらっている私の毛並みは、驚くほど滑らか、一分の隙もないほどふわふわかつ艶々に整っている。
(あぁ、なんて贅沢なのかしら……)
前世の私なら、今頃はとっくに起きて、満員電車に揺られているか、あるいは既にデスクにかじりついて鳴り止まない電話とメールに追われていたはずだ。
朝日が昇るのを見るのは、いつも決まって徹夜明けのオフィス。コーヒーのカフェインで無理やり意識を繋ぎ止め、肩こりと頭痛に耐えながら「早く帰りたい」とだけ願っていたあの日々。
ーそれが今ではどうだろう。
窓の隙間から差し込む朝日は、私の純白の毛を宝石のように輝かせ、寝室の温度をちょうどよく引き上げている。
私はシグルドが使っていた大きな枕の方へと、じりじりと体を擦り寄せた。そこには彼が使っているサンダルウッドのような、落ち着いた大人の男の香りが染み付いている。
(この匂い、落ち着くのよね……)
私はその枕に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。 死ぬほど働いて、最後は呆気なく尽きてしまった私にとって、この「誰かに守られ、慈しまれている」という実感は、何物にも代えがたい報酬だ。
平日の、しかも朝。世界が慌ただしく動き出し、かつての私のような人々が戦場のような職場へと向かうこの時間に、私はふかふかのベッドを独り占めして二度寝を決め込んでいる。
(あんなに頑張ったんだもの。これくらいの役得、許されるわよね)
ふと、お風呂の時のシグルドの必死な顔を思い出す。
私を「折れてしまいそうだ」と心配し、壊れ物を扱うように洗ってくれた彼。
私の「みぃみぃ」という寝言一つで、この世の終わりのような名残惜しそうな顔をして仕事へ向かった彼。
彼が外で騎士団長として威厳を保っている間、その当の「愛獣」が、彼の枕を抱きしめてダラダラしているなんて知ったら、彼はどんな顔をするかしら。
(きっと、それでも『雪が休めているのなら重畳だ』なんて、真面目な顔で言うんでしょうね)
想像して、私は喉の奥でくくくと小さく笑った。
ユキヒョウとしての体は、驚くほど感覚が鋭い。風に乗って運ばれてくる庭の木々の騒めき、階下でメイドたちが忙しなく立ち働く気配。それらすべてが、今の私にとっては「遠い世界の出来事」のように感じられる。
私は再び「へそ天」の姿勢になり、無防備にお腹を晒して、朝日の温もりを存分に吸い込んだ。
毛の一本一本が太陽の光を蓄え、私の体そのものが一つの温かな塊になっていく。
お猫様のなんと気高く、美しく、そしてこの上なく気怠いことが。
(あと少しだけ……。シグルドが戻ってくるまで、この静寂を楽しませてもらいましょう)
私は再び、心地よい微睡みの海へと沈んでいった。
過労死するまで走り続けた私に訪れた、静かで、温かな、奇跡のような朝。次に目を覚ます時は、鍛錬を終えたシグルドが私を呼ぶ時だ。それまで、この贅沢な時間は私だけのものなのだった。




