第23話:騎士の献身
爪を切り、足裏の毛を整え、完璧な機動力を手に入れた私は、新雪の上を行くような軽やかな足取りで空中回廊を歩いていた。眼下では、共に屋敷へ帰着したばかりの騎士団長シグルドが、何やら深刻な面持ちで年配の執事と頭を突き合わせている。
「……温度は、これで間違いないのか」
「左様でございます。書物によれば、動物の皮膚は人間よりも薄く、特にユキヒョウのような寒冷地の個体は熱に弱いもの。三十六度から三十八度……この範囲を逸脱すれば、雪様の信頼を永遠に失うことになりますよ、旦那様」
何やら物々しい会話に、私は足を止めて首を傾げた。するとシグルドが意を決したように顔を上げ、私を仰ぎ見た。
「雪。……一つ、提案があるのだが。嫌ならすぐにやめる」
(あら、改まってどうしたのかしら)
「その……お前の毛並みを、より清らかに保ちたい。……風呂、に入ってみないか」
「風呂」という言葉を聞いた瞬間、私の耳がぴくりと動いた。 (お風呂! ええ、喜んで。この体になってから、毛繕いだけでは落としきれない汚れが気になっていたの。ちょうどいいわね)
私が迷わず回廊からシグルドの肩へと飛び降りると、彼は「抵抗されないだと……?」と驚愕で目を見開いた。
執事が「さすが雪様、話がわかる。聡明でいらっしゃる」と感心する中、シグルドは割れ物を運ぶような手つきで、私を屋敷の広大な浴室へと連れて行った。
浴室に入ると、シグルドは重厚な騎士服を脱ぎ捨て、白いシャツの袖とズボンの裾を膝上までたくし上げた。騎士団長らしからぬその姿は、逞しい腕の筋肉が剥き出しになっていて、どこか無防備で新鮮だ。
彼は桶に溜まったぬるま湯に何度も自分の手を浸し、真剣な眼差しで温度を確かめている。
「雪山に住まうお前にとって、熱すぎる湯は毒だ。……よし、この程度のぬるま湯なら問題ないはずだ。温度計を離すなよ」」
「心得ております。常に三十七度をキープしておりますので、ご安心を」
二人がかりの厳重な管理の下、私はまず、足先からじわりとぬるま湯をかけられた。
(ふふ。ちょうどいい温度……。温かくて気持ちいいわね)
私が喉を「みゃん」と鳴らして目を細めると、シグルドは「……受け入れている」と、戦場での勝利報告を聞いた時のような安堵の吐息をもらした。彼は丁寧に私の全身を濡らしていく。
すると、あんなにふさふさと立派だった私の毛並みが、水を含んで肌にぴたりと張り付いた。
「……雪。お前、こんなに細かったのか」
シグルドの瞳に、明らかな動揺と強い庇護欲が宿った。濡れてぺたんとなった私は、普段の気高く堂々とした姿が嘘のように華奢で、どこか頼りなげな小動物のように見えたのだろう。
「折れてしまいそうだ……。これではまるで、産まれたての仔のようではないか」
彼はそう呟きながら、壊れ物を扱うような手つきで、植物性の石鹸を泡立てて私を包み込んでいく。
(ああ、久しぶりの石鹸の香り。シグルド、首の後ろが少しかゆいの。そこをもっと洗ってくれるかしら)
私が首を預けて甘えると、シグルドの指先が優しく地肌を揉みほぐした。至福のひとときだ。仕上げに、絶妙なぬるさに調整された深い湯船に浸かると、全身の力が抜けていくのがわかった。私は湯船の縁に前足をかけ、ゆったりとうとうとし始めた。
「旦那様、雪様がのぼせかけておいでです! お引き上げを!」
「わかっている! ……冷えてはならない、すぐに乾かすぞ!」
シグルドは、用意していた何枚もの厚手のバスタオルで私を包み込むと、そのまま自らの胸に抱き寄せた。濡れて冷えるのを防ぐため、彼の体温がダイレクトに伝わってくる。
タオル越しに私を包む彼の手は温かく、その眼差しは慈愛に満ちていた。
ある程度水分が飛ぶと、彼は仕上げに柔らかな豚毛のブラシを取り出した。湿って束になった毛を、彼は一本一本解きほぐすように、ゆっくりと、けれど魔法をかけるように梳かしていく。
(シグルド、本当に上手ね……。なんだか、体が軽くなっていくわ)
ブラシが通るたび、私の毛並みは再び空気を含んで、以前よりも白く、ふんわりと膨らみ始めた。完全に乾いて「ふかふか」が復活した私の背中をシグルドがそっと撫で、ようやく深い安堵の溜息をついた。
(至れり尽くせりね。お風呂上がりのこの感覚、癖になりそうだわ)
私は十分に整えてもらうと、シグルドの腕の中で満足げに身を伸ばした。そして疲労困憊の彼の額に、心からの感謝を込めて鼻先を「ちょん」とした。
シグルドは一瞬驚いたように固まったが、次の瞬間、誰にも見せたことのないような、とろけるほど穏やかな笑みを浮かべたのだった。




