第22話:雪山の遺産
空中回廊の上で、私は先日もらった魚のぬいぐるみとまったり戯れていた。しかし、ふとした拍子に鋭い爪がぬいぐるみの頑丈な縫い目に深く食い込み、取れなくなってしまった。
(あら……。外れないわね。困ったわ)
私が「みゃん……」と小さく鳴きながら、宙ぶらりんになった足をもがかせていると、異変に気づいたシグルドがすぐに駆け寄ってきた。彼は無言で私の足を支え、彫刻を扱うような手つきで慎重に爪を外してくれる。
「……雪。爪が伸びすぎている。……それに、この足裏の毛もだ」
シグルドは私の大きな肉球をそっと開き、そこを覆い隠すように生え揃った真っ白でふさふさの毛を見つめた。本来、雪山で凍土から足を守るための大切な装備だが、この屋敷の磨き上げられた床や回廊では、これが滑る原因になってしまう。傍らで控えていた副団長のエルウィンが、眼鏡の奥の目を光らせて頷いた。
「左様ですね。先ほども回廊のカーブで、雪の足元がわずかに流れていました。もし転落でもしたら、団長は城を半分ほど壊しかねません。今すぐ手入れをしましょう」
エルウィンがどこからか恭しく運んできたのは、特製の爪切りと、先端が丸く加工された細工用のハサミ。さらには、万が一のための消毒薬や止血剤まで揃っている。シグルドは私を膝の間に抱え込むと、まるで爆発物を解体するかのような、見たこともないほど険しい表情で私の右足を取った。
(シグルド、そんなに震えなくてもいいのよ。私は逃げたりしないわ)
私は彼の広い胸板に背中を預け、まったりと身を委ねることにした。パチン、パチンと静かな室内に爪を切る音が響く。そのたびにシグルドが「っ……」と短く息を呑み、額には大粒の汗が浮かんでいた。エルウィンは横から身を乗り出し、まるで戦況を見守る参謀のような緊迫感で口を出す。
「団長、角度が甘い。もう少し深く……いえ、深追いは禁物です。血管を傷つければ雪の信頼を失いますよ」
「……わかっている。黙っていろ、集中が乱れる」
最強の騎士団長が、戦場でも見せないような集中力で、私の爪先数ミリの世界と戦っている。次は、足裏の毛のカットだ。シグルドはハサミを握り直すと、肉球の間から溢れるふさふさの毛を少しずつ切り揃え始めた。
「団長、ハサミの先が肉球に近すぎます。雪が動いたらどうするのですか」
「動かないと信じている。……雪、頼む。あと少しだ」
ハサミの冷たい先が肉球に触れるたび、シグルドの指先がわずかに震える。エルウィンは「ああ、見ていられない」とこぼしながらも、身を乗り出して手元を凝視している。二人揃って私の足元を必死に覗き込む姿は、端から見れば奇妙な儀式のようだろう。
(ふふ。二人とも、そんなに必死にならなくても。……でも、足の裏がすっきりして、なんだか気持ちいいわね)
ようやく全ての作業が終わったが、シグルドは私の手を離さなかった。それどころか、ハサミを置いたあとも、私の大きな前足を自分の掌の上に乗せ、まじまじと見つめている。
「……雪の手は、驚くほど厚く、柔らかいな。この指の間の毛も、整えると絹のような手触りだ」
彼は無骨な指先で、整えられたばかりの私の肉球の周りを、名残惜しそうに何度も優しく撫で上げた。指の間を広げ、そのもふもふとした毛並みの弾力を確かめる手つきは、もはや点検というよりは、心ゆくまでその感触を独占しようとしているかのようだ。
「団長。もう十分でしょう。雪もそろそろ動きたがっていますよ」
「……あと少し。……ここが、まだ少し乱れている気がする」
シグルドはもっともらしい理由を並べながら、いつまでも私の手を愛おしそうに揉み解している。その真剣すぎる瞳に、私は抗議する気も失せ、彼の好きなようにさせてあげた。
(本当に、シグルドは私の毛並みが好きね。……まあ、気が済むまで触ってもいいけれど)
ようやく解放された私は、シグルドの膝から降りて床に座り込んだ。そして、少し乱れてしまった自分の身なりを整えるべく、ゆったりとした動作で前足をなめ始めた。
ザリ、ザリと丁寧な音を立てて、シグルドが執着していたその毛並みを、自分の舌で完璧に整えていく。その優雅なグルーミングの様子を、シグルドとエルウィンは、一仕事終えた充実感と、少しの寂しさを湛えた瞳で見守っていた。
「……終わった。これほどまでに精神を摩耗する任務は初めてだ」
「同感です。騎士団の遠征計画を練る方が、よほど気楽ですね」
私は身なりを整え終えると、立ち上がり、疲労困憊のシグルドの額に、労いを込めて鼻先を「ちょん」とした。シグルドは力なく微笑み、その後ろでエルウィンもどこか満足げに、眼鏡を拭き直しているのだった。




