第20話:木登りの代償
この屋敷に来たばかりの頃の、あの消えてしまいそうな倦怠感はもうどこにもない。
心身ともに癒えた私の日課は、朝の冷たい空気を吸いながら行う庭の散歩だ。シグルドは毎朝早くから、庭の隅で一人、重厚な剣を振るい、あるいは黙々と筋トレに励んでいる。無駄な声は一切発さず、ただ鋼のような筋肉が躍る音と、鋭い風切り音だけが響く。私はその規則正しい剣筋や彼の吐息を遠巻きに眺めながら、しなやかさを取り戻した四肢の感触を楽しんでいた。
(……うん、今日は一段と体が軽い気がするわね)
ふと、庭の大きな樫の木が目に留まった。元人間としての理性が止める間もなく、私の本能が「あの上はどうなっているのか」と問いかけてくる。私は吸い寄せられるように幹へ近づくと、鋭い爪を立て、弾むような動作でするすると上へと登り始めた。
(あら、意外と簡単。……わあ、高い! 景色が全然違うわ!)
見下ろすと、そこにはまだ一心不乱に剣を振るっているシグルドの頭頂部が見えた。私はすっかり樹の上が気に入り、太い枝に腹ばいになって尾を揺らす。しばらくして、ようやく剣を収めたシグルドが、私の姿が見当たらないことに気づいた。彼は周囲を一瞥し、眉間に深い皺を刻んだ。
「……雪? どこだ」
(ここよ、シグルド。……あら、そんなに青い顔をして。ふふ、まだ気づかないかしら)
最強の騎士団長が、言葉にならない焦燥を滲ませ、まるで迷子を探す親のように庭中を右往左往している。私はいたずら心が湧き、上から小さく「みゃ」と鳴いてみた。シグルドが弾かれたように顔を上げ、ようやく枝の間に挟まっている私を見つけると、その瞳が大きく揺れた。彼は木の下に立ち尽くし、無言のまま大きく腕を広げた。
「……降りろ。危ない。俺が受け止める」
(嫌よ。ここは風が気持ちいいし、眺めも最高なんだから。まだ降りたくないわ)
彼がどれほど無言で腕を差し出し、じっと待ち続けても、私は「みゃご」と一蹴してさらに高い枝へと移動した。シグルドは伸ばした手を持て余し、ただ黙って、食い入るように私を見上げている。その寡黙な男の瞳には、かつてないほどの狼狽と、何らかの決意が静かに燃え上がっていた。
「……そうか。俺の目が節穴だった。雪を、この狭い地上だけに閉じ込めていたとは」
(え、何? その恐ろしく真剣な顔……。嫌な予感がするわね)
「エルウィン。腕利きの工匠を呼べ。自室、リビング、城。すべてだ。雪が駆け回れる道を、空中に作らせる。滑り止めには最高級の絨毯を敷き詰めろ」
(ちょっと待ちなさいシグルド。それはやりすぎよ!)
私の抗議の鳴き声も虚しく、彼はすでに無言で手帳を取り出し、凄まじい筆圧で「壁一面の回廊」の設計図を描き始めていた。翌週から、屋敷と城の至る所で金槌の音が響き渡ることになるのを、私はまだ知らない。




