第18話:魅惑のくん活と、絶望の騎士団長
やかな昼下がり、私はシグルドの膝の上でまどろんでいた。
ふとした拍子に、彼の首筋から漂う香りに鼻が触れた。それは上質な石鹸の香りと、彼自身の少し硬質な、いかにも鍛えられた騎士らしい独特の匂いだった。
(……くんくん。これ、何の匂いかしら。嫌いじゃないけれど、なんだか不思議な……)
私は興味を惹かれ、彼の襟元に鼻を押し付けて深く息を吸い込んだ。その瞬間、私の脳内に未知の刺激が走り抜けた。鼻の奥にある器官が、シグルドという人間の情報を凄まじい密度で解析し始めたのだ。
(……!? な、何これ、すごい情報量……!)
気づけば、私は口を半開きにし、上唇をめくり上げた状態で固まっていた。焦点は合わず、視線は虚空を彷徨う。私の意識は今、匂いの情報を分析するために全神経を集中させており、周囲の状況など完全に意識の外だった。そんな私の「衝撃の顔」を間近で見たシグルドが、悲鳴に近い声を上げた。
「……ゆ、雪!? どうした、そんな、この世の終わりを見たような顔をして……!」
(…………。…………っは!)
数秒後、ようやく正気に戻った私は、口を閉じてシグルドを見上げた。彼は真っ青な顔をして、震える手で自分の襟元を確認している。
「そんなに……そんなに俺は臭かったのか……? 雪に、あんな絶望に満ちた顔をさせるほどに……」
(違うのよシグルド、これはフレーメン反応っていう、匂いをより深く味わうための生理現象で……って、言っても通じないわよね)
シグルドの落ち込みようは凄まじかった。彼はそのままガックリと項垂れると、執務室の片隅で「俺は雪に拒絶された……」と呟きながら、自分の服の匂いを何度も確認し始めた。しかし、一度その感覚を覚えてしまった私の好奇心は止まらなかった。ユキヒョウの身体が得る「匂いという情報」は、元人間の私にとってあまりにも新鮮で刺激的だったのだ。私はシグルドを放置して、執務室の探索を始めた。まずは、いつもエルウィンが座っている椅子だ。
(くんくん……。あ、これは紙の束と、少し疲れたインクの匂い。それに……ほんのりと甘いお菓子の匂いもするわね。エルウィン、隠れて何か食べてるのかしら)
私は椅子の背もたれに鼻を押し付け、再び「あの顔」で固まった。口をポカーンと開け、虚空を見つめるユキヒョウ。そこへちょうど、報告書を手にしたエルウィンが入室してきた。
「失礼します、団長。例の件ですが……。って、雪!? その顔はどうしたのですか、まるで死を振りまく瘴気でも吸い込んだような……」
(……。…………ふぅ。エルウィン、あなたさては休憩中にマドレーヌを食べたわね?)
解析を終えてスッキリした顔の私とは対照的に、シグルドが死んだような目でエルウィンを見上げた。
「……エルウィン。雪が、俺の服を嗅いで絶望し、お前の椅子を嗅いでさらに虚脱している。……俺たちは、そんなに汚れているのか」
「えっ、あ、いえ、私は今朝洗いたての制服を着てきましたが……。雪、お願いですからそんな、不治の病に罹ったような顔で私を見ないでください」
(だから、解析中なだけだってば!)
私は面白くなってしまい、今度は部屋に飾られた花や、重厚なカーテン、果てはシグルドの磨き上げられた軍靴まで、手当たり次第に嗅ぎ回った。そのたびに私の口は「ぱかーっ」と開き、意識は宇宙の真理へと旅立つ。室内には、自分の体臭に絶望する団長と、雪に嗅がれるたびに「変な顔をしないでください」と祈る副団長の、なんとも言えない空気が漂っていた。
「エルウィン、今すぐ予備の服を持ってきてください。……いや、まずは湯殿だ。俺は今、雪に不快感を与えるほど汚れているらしい……。雪の鼻を、これ以上汚すわけにはいかない……」
(だから違うってば! むしろ興味があったから嗅いだのよ!)
私は慌てて彼の足元に駆け寄り、機嫌を直してもらおうと、鼻先を彼の指に「ちょん」とした。シグルドは一瞬、救われたような顔をして私を抱き上げたが、その瞳にはまだ消えない不安が宿っていた。
「……雪。もう一度嗅いでみてくれないか。次は……次は、その、普通の顔をしてくれると助かるんだが」
(無理よ、本能なんだから。……そんなに傷つかれるなら、しばらくあなたの匂いを確認するのは控えてあげるわね)
シグルドはその後、三回も着替えた挙句、高価な香油を全身に振りかけようとしてエルウィンに必死で止められていた。お猫様の「顔芸」が、無敵の騎士団長にこれほど深い傷を負わせるとは。私は彼に同情しつつも、たまに思い出したように半開きになる自分の口元を、前足で慌てて隠すのだった。




