第16話:夢にみた音
帰宅したシグルドがまた、何やら熱心に分厚い本を読み耽っている。戦術書か何かかと思いきや、表紙には『稀少獣の生態と懐柔』という、およそ騎士団長には似つかわしくない文字が躍っていた。
(本当に熱心ね。そんなに勉強しなくても、私は十分ここでの生活に満足しているのだけれど)
ふと、シグルドが本を閉じ、戦場に向かう時のような決意を秘めた顔で私を見た。彼は音もなく近づくと、私の目の前で膝をつき、低く、期待に震える声で呟いた。
「……雪。一つ、試させてもらえないだろうか」
(何かしら。また新しいお肉の交渉? それとも新しいブラッシング?)
彼は大きな掌をゆっくりと伸ばし、私の「あごの下」へと慎重に指を滑り込ませた。騎士の、節くれだった大きな指。その指先が、私の喉元の特に柔らかな白い毛に触れた瞬間、シグルドが微かに息を呑むのが分かった。
「……ここを、こうして……円を描くように解すと、良いと書いてあった」
(あ、そこ……。あら、意外と上手じゃない……)
シグルドは本で得た知識を忠実に実践しているらしい。力加減は驚くほど繊細で、指の腹が私のあごのラインを優しく、くしくしと刺激する。前世では、誰かにこんな風に優しく触れられることなんて一度もなかった。朝から晩まで数字と責任に追われ、自分の体を労わる余裕すら忘れていた日々。溜まりに溜まっていた心の凝りが、彼の指先から溶け出していくような感覚に襲われる。
(ふあぁ……。気持ちいい……。……これ、反則だわ……)
あまりの心地よさに、私は抗うことをやめた。瞳を閉じ、あごを少し突き出して、彼の大きな手に身を委ねる。すると、自分の体の奥底から、自分でも制御できない不思議な振動が沸き上がってきた。
「……っ、ぐる、ぐるる……。ぐるるる……」
自分でも驚いた。喉の奥から、深く、重厚で、それでいて温かい音が漏れ出したのだ。その音を聞いた瞬間、シグルドが弾かれたように目を見開いた。
「…………っ!! 鳴った……。これが、伝説の……『喉鳴らし』か」
(伝説って、大げさね。……でも、そんなに嬉しそうな顔をされたら、やめられないじゃない)
シグルドの瞳には、長年の悲願を達成したかのような、純粋で深い感動が宿っていた。彼は震える指先で、まるで壊れ物を扱うように、より一層丁寧に私を撫で続ける。あごの下から耳の付け根へ、そしてまた喉元へ。指が動くたびに、私の喉からは「ぐるぐるる」という幸せな音が零れ落ちた。
「……至高だ。この音、この振動。……俺の魂まで、浄化されるようだ」
(大げさだと言いたいけれど……あなたの指、本当に気持ちいいわ)
シグルドは、もはや恍惚とした表情で私の喉鳴らしに聞き入っていた。最強の騎士団長が、たった一頭のユキヒョウの喉を鳴らすためだけに、全ての時間を捧げている。その滑稽で、けれど限りなく愛おしい光景に、私は呆れながらも深い安らぎを感じていた。
「雪。……一生、こうしていたい。お前のこの音が、俺の生きていく糧になる」
結局、彼が満足するまで……というより、私がとろけて寝落ちしてしまうまで、その優しい「くしくし」は延々と続いた。翌朝になっても、シグルドの指先には雪の柔らかな毛並みの感触がいつまでも残っており、彼はその奇跡のような余韻を慈しむように、何度も自分の手を眺めていた。




