間話:求む肉球スタンプ
「失礼します、団長。訓練の進捗について報告――」
執務室の重厚な扉を開けた副官エルウィンは、一歩足を踏み入れた瞬間に、言葉を飲み込んだ。彼の視線の先には、真っ白な高級絨毯の上に、点々と、しかし力強く刻まれた黒い「肉球スタンプ」の列がある。そしてその列の終着点であるシグルドの膝の上には、瑠璃色のリボンを揺らし、まだ少しおひげをピンとさせたままの雪が収まっていた。
「……団長。戻られていたんですね。それと、その……部屋の惨状については、あえて触れない方がよろしいですか?」
エルウィンは眼鏡を押し上げながら、呆れたような、それでいてどこか悟ったような溜息をついた。シグルドはペンを動かす手を止めず、顔を上げることすらしない。
「惨状ではない。これは、この部屋に欠けていた最後の彩りだ。清掃の必要はないと、使用人たちにも伝えておけ」
「……本気で言っているのですか。この国の最高戦力が集う執務室ですよ、ここ。……はぁ、まあいいでしょう。閣下がそれで仕事の効率を上げるなら、私は何も言いません」
エルウィンは苦笑しながら歩み寄り、シグルドの膝の上で居心地が良さそうに座っている雪を見つめた。その眼鏡の奥の瞳が、ふと真剣な熱を帯びる。
「それにしても、雪。君の足跡は、こうして見るとなかなか壮観だね」
エルウィンは雪の前に屈み込み、その真っ白な毛並みを愛おしげに見つめた。そして、意を決したようにシグルドを見上げた。
「団長。これだけ素晴らしい『芸術』なら……私の管理する重要書類にも、いくつか雪にスタンプを頂けませんか? いや、書類が無理なら、私の私物の手帳でも構いません。それがあれば、どれほど辛い徹夜仕事も乗り切れる自信があるのですが」
その言葉は、もはや冗談の域を超えていた。エルウィンの声には、切実な願いと本気が滲んでいる。その瞬間、室内が凍りつくような冷気……シグルドの殺気に包まれた。
「ならん」
シグルドはペンを置き、ようやく顔を上げた。その青い瞳には、部下に対するいつもの厳格さではなく、明確な「拒絶」と、剥き出しの「独占欲」が宿っている。
「雪の肉球は、誰にでも貸し出すようなものではない。……ましてや、他人の私物にその跡を残すなど、許容できるはずがなかろう。お前の部屋には、お前の足跡でもつけておけ」
「……。手厳しいですね、団長。……いえ、冗談ですよ。あはは」
エルウィンは肩をすくめて立ち上がったが、その表情には隠しきれない未練が漂っていた。彼は去り際、もう一度だけ雪の方を振り返り、小さく溜息をつく。
(……エルウィン、冗談って言ったけど、目が本気だったわね。でも、しかたがないわよね。人間っていうのは、どうしてこうも『肉球』というものに抗えない生き物なのかしら)
副団長が肩を落として退室した後も、シグルドはしばらくの間、自分の膝の上の「宝物」と、床に残された「聖域」を、守護者のような眼差しで見つめ続けていた。
そしてその夜。屋敷に戻り、ようやく二人きりの時間が訪れた時のことだ。シグルドは、いつもよりどこか緊張した面持ちで、机の上に一枚の上質な和紙と、白く柔らかなハンカチを広げた。そして、傍らでくつろいでいた私をじっと見つめ、意を決したように口を開く。
「……雪。昼間、エルウィンには『ならん』と言ったが……。その、俺の分も、頂けないだろうか」
(……。シグルド、あなたもなの?)
彼は無骨な手で丁寧にインクを用意すると、懇願するように私を見つめている。昼間、部下にあれほど厳しく説教していた威厳はどこへやら。今の彼は、ただひたむきに「自分だけのスタンプ」を欲しがる一人の男だった。
(はぁ……。まあ、いいわ。昼間にあんなに部屋を汚しちゃったのに、あなたはちっとも怒らなかったものね。これはその時のお詫びと、優しくしてくれたお礼よ)
私は「仕方がないわね」と心の中で小さくため息をつくと、自分からすい、と右足を出した。シグルドは息を呑み、震える手で私の足を受け取ると、丁寧にインクをつけ、紙とハンカチへ慎重に押し当てていく。
――ぺたん、ぺたん。
静かな部屋に、柔らかい音が響く。私は、一点の曇りもなく、かつ淡々と肉球スタンプを押してあげた。シグルドは、和紙に刻まれた見事な「漆黒の肉球紋」を眺め、この世の宝を手に入れたかのような, 深く、満足げな溜息をつく。
「……素晴らしい。これは額に入れて寝室に飾ろう。ハンカチは、常に肌身離さず持ち歩くことにする」
(……。それはちょっと重い気がするけれど、あなたが満足ならそれでいいわ)
満足げに微笑むシグルドを横目に、私は「支払いは済ませたわよ」と言わんばかりに、また最高級毛布へと潜り込むのだった。




