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お代はもふもふでお願いします  作者: 天丹
第1章:私のお猫様生活
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第15話:白銀の足跡(後編)

ー廊下に響く、軍靴の重厚な音。


 それが扉の前で止まった。私はインクで汚れた足を隠すように丸まり、ぎゅっと目を閉じた。


(……怒られる。あんなに綺麗な部屋を汚して、呆れられちゃうわ……)


 扉が開いた。室内に入ってきたシグルドは、足元に広がる黒い足跡を認め、足を止めた。沈黙。騎士団長らしい冷徹な静寂が室内を支配する。私は叱責を覚悟して、身をすくめた。


「……雪。これは君が?」


 低く、地響きのような声。だが、そこには怒りではなく、どこか呆然とした響きがあった。彼は音もなく私の前まで歩み寄ると、床に膝をつき、絨毯に刻まれた黒き肉球の跡をじっと見つめた。


「……殺風景だと思っていた。この部屋は、職務のためだけの場所だと。だが……」


 シグルドは大きな掌で、汚れのない絨毯の一部をそっとなでた。


「君がここに居るという証が、この部屋を完成させた。……この跡は、このままにしておこう。俺には、どんな装飾品よりも価値がある」


(シグルド……。あなた、本気で言ってるの?)


 言葉数は少ないが、その眼差しには重いほどの確信がこもっている。呆れる私だったが、緊張が解けた途端、情けなさがこみ上げてきた。耳は力なく伏せられ、自慢の長いひげも力なく「しょぼん」と垂れ下がる。シグルドはその私の様子を認めると、わずかに眉を寄せ、外に控えていた者に手短に命じた。


「……。湯を用意しろ直ちに」


 彼はそう言うと、自らの懐から清潔な白い布を取り出した。それは雪のような私の毛並みを拭うために、常に彼が持ち歩いているものだった。やがて運ばれてきた湯に布を浸し、シグルドは再び私の隣に座る。その動作には無駄がなく、かつて戦場で傷ついた戦友を介抱するかのような、静かな慈しみがあった。


「怖がらせたか。済まない。……俺にとっては、この部屋よりも、君が怪我をしていないことの方が重要だ」


 大きな、節くれだった騎士の掌。その温もりが、汚れを拭う布越しに伝わってくる。前世でミスをすればただ切り捨てられてきた私にとって、その無骨な優しさは、何よりも深く心に染み渡った。


(……ごめんなさい、シグルド。……ありがとう)


 私は安心し、彼に身を預けた。汚れがすべて落ち、元の真っ白な毛並みが戻った頃。シグルドは、綺麗になった私の前足をじっと見つめると、押し殺したような声で呟いた。


「……君のすべてが、俺の宝だ」


 そして、彼はごく自然な動作で、私の肉球にそっと唇を寄せた。騎士が主君に誓いを立てる時のような、厳かな接吻キス


「っ!???」


(な、なな……っ! 急に、何を……!)


 突然のことに、私の心臓が跳ね上がった。さっきまで力なく垂れていたおひげが、驚きのあまり「ピン!」と真っ直ぐに立ち上がる。混乱する私を余所に、シグルドは私の驚いた反応に動じることもなく、満足そうに一度だけ頷いた。そして、何事もなかったかのような手際で私の体を抱きかかえると、そのまま自分の膝の上へと強制連行してしまった。


 シグルドは私を膝に乗せたまま、当たり前のように再びデスクに向かい、ペンを走らせ始める。私はといえば、騎士の体温が伝わる特等席で、熱くなった頬を落ち着かせるのに必死だった。おひげをピンとさせたまま、しばらくの間、ただ固まっていることしかできなかった。


 そんな私の戸惑いを知ってか知らずか、シグルドは片手で書類を捌きながら、もう片方の手で、いつもと変わらぬ優しい手つきで私の背中をゆっくりと撫で始めた。


 その無骨な掌の安定したリズムに、いつしか私の心は、心地よい安らぎの中へと溶けていった。

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