第14話:白銀の足跡(前編)
「私を連れてきたら仕事にならないのでは」という私の懸念は、意外な形で裏切られた。
執務室に入り、山積みの書類を前にしたシグルドは、まるで戦場に立つかのような鋭い眼光を見せたのだ。
(……あら? シグルド、案外真面目に仕事してるじゃない)
ペンを走らせる音だけが室内に響く。彼は一切の無駄なく、次々と決済を済ませていく。その驚異的な集中力に少しだけ感心した私は、彼へのご褒美と、少しの好奇心で、彼の膝の上に「ぴょん」と飛び乗ってみた。
「っ……! 雪……っ」
シグルドの肩がびくりと震え、喜びを押し殺したような、低く掠れた声が漏れる。だが、彼はそこで仕事を止めなかった。どころか、さらにペンを動かす速度を上げたのだ。
(えっ、さらに早くなった!?)
傍らでサポートしていたエルウィンが、肩をすくめて苦笑する。
「雪、いい仕事をしてくれましたね。団長は今、『一秒でも早く仕事を終わらせて、君を愛でる時間を捻出する』という……彼なりの崇高な動機でフルパワーを出しているのですよ。彼の本来の能力は、こういう時にこそ発揮されるのです」
なるほど、帰宅後の「雪タイム」を死守するための超特急モードというわけだ。最強の男が私欲のために全力を出す姿は、ある意味で非常に恐ろしかった。やがて、驚異的な速度で書類の山が消え去った。シグルドは満足げに、けれど名残惜しそうに私を膝から降ろすと、剣帯を締め直した。
「雪。急ぎの書類は終わった。……鍛錬場へ行ってくる。少しの間、ここで待っていてくれ。……危ないことは、するな」
彼は私の頭を一度だけ愛おしそうに撫でると、エルウィンと共に部屋を出て行った。静かになった執務室。私は日当たりの良い窓際で丸くなり、まどろみの中にいた。しばらくして、ふと目が覚める。体が少し固まっていたので、私は猫らしく、前足をぐーっと伸ばして背中を大きく反らせる、最高の「伸び」をした。……その時だった。気持ちよく伸びきった私の長くて立派な「しっぽ」が、机の端に残されていたインク瓶を、予期せぬ角度で薙ぎ払ってしまったのだ。
「……えっ」
ガチャン、という鈍い音と共に、黒いインクが絨毯の上に広がっていく。慌てて飛び退こうとしたが、運悪く右足がその黒い海の中に着地してしまった。
(どうしよう……! やってしまったわ、どうにかしないと……!)
焦って足を動かすたびに、上質な絨毯の上に真っ黒な「ユキヒョウの足跡」がくっきりと刻まれていく。拭こうにも、自分の足では汚れを広げるばかりだ。真っ白だったはずの右足は無惨に汚れ、その黒さが自分の不手際を突きつけてくるようで、胸がギュッとなる。
(シグルドがせっかく仕事を頑張ったのに……私はなんてことを……)
前世の社畜時代、ミスをして縮こまっていた時の嫌な感覚が少しだけ蘇る。けれど今は、叱られる恐怖よりも、あんなに大切にしてくれているシグルドをガッカリさせてしまうのではないかという申し訳なさでいっぱいだった。私は途方に暮れ、せめてこれ以上汚れを広げないよう、執務室の大きな扉の前でちょこんと座り込んだ。インクで汚れた右足を少しだけ浮かせ、情けない気持ちで耳を伏せる。
(……ごめんなさい、シグルド。早く、帰ってきて……)
大好きな家主の帰りを待つ時間は、いつもの昼寝よりもずっと、長く、心細く感じられた。廊下の向こうから、聞き慣れた、重厚な足音が近づいてくるまで。




