第12話:肉球への大いなる一歩
シグルドの様子がおかしい。いえ、前からおかしいのだけれど、今日の彼はいつになく真剣だった。私がクッションでくつろいでいると、彼は戦場に赴くような厳しい面持ちで私の前に正座した。その手には、見たこともないほど香りの良い、最高級の干し肉が握られている。
「……雪。交渉だ」
(あら、そのお肉……すごく美味しそうね。何かしら、珍しく真正面から) シグルドは一つ、深く息を吐いた。震える手で干し肉を差し出し、低い声で言葉を紡ぐ。
「これを……進呈する。代わりに……手を。その、前足を……俺の手に、乗せてほしい」
(……。なるほどね。さては、肉球ね?)
バレバレである。彼の鋭い視線は、私の丸まった前足に完全に固定されていた。第11話からの「部位観察」が、ついに「接触」への欲求へと進化したらしい。本人は騎士の威厳を保っているつもりだろうが、微かに鼻の下が伸びているのを私は見逃さなかった。
(……はぁ。まあいいわ。これだけ良い肉を用意してくれたんだもの。居候のお代としては安いものよ)
私はゆっくりと立ち上がると、シグルドが差し出した大きな掌の上に、前足を「ぽすっ」と乗せた。
ーその瞬間。
「…………っ!!!!」
シグルドの呼吸が止まった。掌に伝わる、肉球の弾力。吸い付くような感触と、柔らかな毛の質感が、彼の全身を貫いたらしい。彼はそのまま、目を見開いた状態で硬直した。一秒、二秒……。数分経っても、彼は一言も発さず、瞬きすらしない。
(シグルド? お肉、食べていいのよね? ……ちょっと、固まりすぎじゃない?)
私は彼の手から前足をどかし、干し肉を完食した。ついでにお礼として、彼の親指に「鼻先ちょん」をしてあげたが、彼は復活するどころか、さらに深く沈黙した。
「……至高。もはや、奇跡だ。……雪、お前は……」
(感動しすぎよ。騎士団長でしょ)
結局、彼が再起動するまでに一時間を要した。その晩、彼は寝入る瞬間まで、自分の掌を慈しむようにじっと見つめていた。私はそんな彼に呆れつつも、同じベッドの隅で丸くなった。
翌朝。先に目が覚めた私は、深い眠りの中にいるシグルドの顔を覗き込んだ。最強の騎士団長ともあろう男が、無防備に、どこか穏やかな表情で眠っている。
(ふふ、昨日はあんなに固まっちゃって。……ちょっとだけ、驚かせてあげようかしら)
私はいたずらな気持ちで、音を立てずに彼の枕元へ忍び寄った。そして、彼の頬に、自慢の肉球を「むにっ」と力強く押し当てた。名付けて、肉球スタンプ。
「……ん、……ぬっ!?」
頬を打つ未知の弾力に、シグルドが飛び起きた。状況が飲み込めず目を白黒させていたが、目の前で尻尾を振る私と、頬に残る「感触」に気づくと、みるみるうちに顔を紅潮させた。
「……雪。今、お前……自ら、俺に……?」
(あちゃー。驚くどころか、また感動モードね)
シグルドは顔を押さえたまま、震える声で天を仰いだ。
「……夢ではない。現実か。……この頬は、もはや聖域だ。今日の会議……これがあれば、負ける気がせん」
(いや、会議はちゃんとして。……でも、そんなに喜ぶなら、たまにはいいわよ?)
いたずらのつもりが、結局は彼に究極の活力を与えてしまったようだ。シグルドは幸せを噛み締めるように何度も頬をさすりながら、浮き足立った様子で着替えを始めた。最強の騎士団長が、たった一つの肉球で骨抜きにされる。
私は「お代のご飯、期待してるわよ」と鳴いてみせると、再びふかふかの枕へと顔を埋めた。




