第10話:猫の矜持と、紐遊びの終焉
シグルドが公務から戻ると、私はいつものようにふかふかのクッションの上で丸くなっていた。
(……あれ? 私、今日も一日中寝ていた気がするわ。というか、この世界に来てから寝ることと食べることしかしてないんじゃないかしら?)
前世の社畜時代からは考えられない自堕落な生活。けれど、それを許容し、どころか「よく眠れているようで安心した」とまで言ってくれるシグルドが、今ではすっかり私の安らぎの拠点になっていた。ふと見ると、シグルドが鎧を脱ぎ、何やら落ち着かない様子でこちらを伺っている。その手には、どこから持ってきたのか、金色の飾り紐があった。
「雪。……その、もし良ければだが。体を動かすのも、健康には良いと本に書いてあった。……これで、遊ばないか?」
彼は武骨な手で紐を不器用に左右に振ってみせた。騎士団長が真剣な顔で紐を振る姿は、はたから見れば相当シュールだ。
(シグルド、あなた……私を退屈させないように、一生懸命考えてくれたのね。本当、いい人なんだから)
正直、紐を追いかけるなんて子供っぽいと思っていた。けれど、私を気遣ってくれる彼への信頼と、日頃の「ご飯と寝床」への感謝を込めて、一肌脱いでやることにした。
(よし、付き合ってあげるわ。ほら、そーれっ!)
私が紐に向かって「ちょいっ」と前足を出して飛びつくと、シグルドの瞳がパッと輝いた。
「おお……! 追ってくれるのか! では、これはどうだ!」
シグルドは俄然やる気を出したようで、まるで剣を振るう時のような鋭い動きで紐を操り始めた。私は「仕方ないわね」なんて思いつつも、いざ動いてみると、猫の習性か、揺れる金色を追いかけるのが意外と楽しくなってくる。
(あら、結構いい動きじゃない。やるわね、シグルド!)
二人の間に、今日一番の熱気が生まれる。シグルドは「君の運動神経は素晴らしい!」と珍しく興奮した声を漏らし、額に薄っすらと汗を浮かべるほど熱中していた。だが、その瞬間は唐突に訪れた。
(……あ、もういいわ。飽きた)
さっきまでの熱狂が嘘のように、私の心はスッと冷めてしまった。猫の集中力なんて、そんなものだ。私は動くのをぴたりと止め、ぷいっと背を向けると、毛繕いを始めてしまった。
「ゆ、雪? 今のは、俺の動かし方が悪かっただろうか。それとも、疲れてしまったのか……?」
シグルドの困惑した声が聞こえる。背中で感じた気配は、明らかに肩を落としてがっかりしていた。彼はもっと、楽しそうにじゃれる私の姿を見ていたかったのだろう。あまりの落ち込みぶりに、私は少しだけ良心が痛んだ。私は立ち去ろうとした彼の足首に、鼻先を「ちょん」と寄せた。
「……っ。雪、今のは……」
シグルドは一瞬で「至福」の表情に染まったが、それでもまだ名残惜しそうに金色の紐を握りしめている。彼は意を決したように、ポツリと、けれど真剣な声で私に頼み込んできた。
「……雪。もし嫌でなければ……明日もまた、遊んでくれるだろうか。君がこうして、俺の振る紐を追ってくれる時間が、俺にとっては何よりの……」
(もう、シグルドったら。そんなに切ない顔でお願いされたら、断れないじゃない。……わかったわよ。明日も付き合ってあげる)
私が「みゃぅ」と短く鳴いて首を縦に振ると、彼は安堵したように深く息を吐き、口元を緩ませた。
「感謝する。……さあ、疲れただろう。もうゆっくり休むといい」
シグルドは私の頭を、大きな掌でそっと包み込むように撫で始めた。その手つきは、紐を振っていた時とは打って変わって、どこまでも穏やかで慈愛に満ちている。
(……あ、だめ。やっぱりこの手、すごく安心する……)
ブラッシングの時と同じ、彼が私を心から尊重し、大切にしてくれていることが伝わってくる温度。うとうとする私の意識を、彼の手の温もりが優しく包み込んでいく。私は、シグルドという唯一無二の「拠点」に全幅の信頼を預け、深い眠りの淵へと、再びゆっくりと落ちていった。




