第1話:ユキヒョウになっちゃいました
最後に見たのは、深夜のオフィス。ぼんやりと光るパソコンの画面と、積み上がった書類の山だった。空腹も限界を超えると、不思議と心まで凪いでくる。
(――ああ、もう十分頑張ったよね、私)
そんなことを思いながら、ふっと深い眠りに落ちた――はずだった。
「……あら?」
目が覚めると、そこは静かな夜の森だった。ふわりとした雪の匂いと、冷たく澄んだ空気。けれど、ちっとも寒くない。それどころか、体が信じられないほど軽い。少し戸惑いながら歩き出し、月明かりを映す水たまりに顔を寄せた。
(……まあ。私、真っ白ね)
そこに映っていたのは、淡い斑点模様に、宝石のような瞳。そして、自分でも抱きしめたくなるほどフカフカで太い尻尾。
(私、小さなユキヒョウの子になっていたんだわ。トリップ、というのかしら。……なんだか、とっても素敵な毛並み。これなら、もう残業も満員電車もなさそうね)
おっとりと自分の新しい姿を受け入れた私だったが、お腹だけは「ぐぅ」と可愛く鳴ってしまった。どうしようかと思案していると、重厚な金属が擦れ合う音が近づいてきた。
「――そこに、誰かいるのか」
現れたのは、黒髪を短く整えた、体格のいい男の人だった。筋骨逞しい体躯を包んでいるのは、映画で見たような本物の重厚な鎧。腰には鈍く光る剣が差され、肩からは立派な紋章が刺繍されたマントが翻っている。
(金属の鎧に、剣……。もしかして、ここは騎士様がいるような世界なのかしら)
その男の人は、まるで夜の森の主のような存在感を放っていた。鋭い眼光からは、触れれば切れるような凄まじい気迫が漏れ出している。
(……とっても強そうな騎士さん。でも、不思議ね。なぜだか本当はすごく優しい気がするわ)
私は逃げる代わりに、ゆっくりと座り込み、彼に向けて小さく鳴いてみる。
「みゅう……」
お腹が空いたわ、と素直に伝えただけのつもりだったけれど、その声は夜の静寂に思ったよりも切なく響いた。騎士さんは、目に見えて動揺したようだった。その強面が劇的に和らぎ、漆黒の瞳に熱い光が宿る。
「……逃げないのか。この俺から」
彼は跪き、震える手で重厚なマントを脱いだ。そして、羽織っていた熱を逃さないように、おそるおそるといった手つきで私を包み込んでくれる。
(――温かい。騎士さんのマントは、お日様のような安心感に満ちていたわ)
「……運命、なのだろうか」
彼は壊れ物を扱うような手つきで私を抱き上げると、マントの中に隠すようにして歩き出した。やがて、いくつもの大きな天幕が並び、焚き火を囲む兵士たちの姿が見えてくる。やはり、ここは間違いなく騎士たちの遠征地のようだ。
「団長! どうかされましたか?」
突然、他の騎士たちが彼に声をかけた。私はマントの隙間から、彼を「団長」と呼んで敬礼する人たちを見て、ようやく気づいた。
(あら、この騎士さん、団長さんだったのね。偉い人だったんだわ)
すると、さっきまで私に優しい顔をしていた団長さんは、一瞬で氷のように冷たい無表情に戻り、低い声で答えた。
「……何でもない。周辺の視察をしていただけだ。構わず休め」
そのあまりの気迫に、声をかけた騎士たちは「は、はいっ! 失礼しました!」と震え上がって下がっていく。団長さんはそのまま、自分の大きなテントへと私を連れ込んだ。
「いいか、静かに。他の者に見つかれば……その、説明が難しい」
ランタンの灯りの下で、団長さんは「おやつ」を差し出してくれた。小さく裂いた干し肉を、温かいお湯で丁寧にふやかしたもの。
(わあ、美味しそう。……いただきます、団長さん)
夢中でむにゃむにゃと食べる私の背中を、彼は大きな手で、恐る恐る撫でてくる。その掌はゴツゴツと硬かったけれど、驚くほど繊細で、慎重で温かかった。
(ふふ、とっても上手。……ありがとう、おやつのお礼に撫でさせてあげますね)
私は食べ終えると、感謝を込めて彼の大きな手に自分の頭を預けた。彼がお世話をしてくれるのは、きっと彼自身が「誰かを愛でたい」と思っていたから。私がそれを受け入れることで、この優しい団長さんも幸せになれるなら、それが一番。
(だって、こんなにフカフカで可愛い「私」の給仕ができるなんて、きっと最高に幸せなことでしょう?)
私が彼の立場だったら、絶対にそう思うもの。団長さんは、言葉を失ったまま私を見つめていた。
「……ああ、なんと尊い。……君は、俺の孤独を埋めるために来てくれたのか……?」
無骨そうな騎士団長さんが、今や私にメロメロになって、慈しむような溜息をついている。私はそんな彼に寄り添い、ゴロゴロと幸せな音を鳴らしてあげた。
しばらくして、団長さんはおもむろに立ち上がると、自分用の頑丈な寝袋を丁寧に整え、その中に私をそっと誘い入れた。
「今夜はここで眠るといい。……俺はすぐ隣にいる。何も怖がることはない」
軍用の寝袋は少し硬かったけれど、驚くほど保温性が高かった。私が中に入って丸くなると、彼は横に座り込み、私が眠りにつくまでその大きな手でゆっくりと背中を撫で続けてくれた。
(団長さん、あなたも一緒に寝ればいいのに。……でも、こうして見守ってくれていると、すごく安心するわ)
ランタンの薄明かりの中、団長さんは私が微睡むのを、瞬きさえ惜しむような真剣な眼差しで見守っている。その瞳はどこまでも優しい。 天幕の中は、団長さんの思いやりと、私のぬくもりで満たされて。私は心地よい眠気に身を任せ、ゆっくりと目を閉じる。
(明日もお世話になりますね)
見守られながら眠るという、贅沢で穏やかな確信に包まれながら、私は深い眠りへと落ちていった。




