8話:初夏
「はーい、それじゃあ――明日から夏休みです!」
軽やかな声が教室に響いた。
教壇に立つのは、ポニーテールがトレードマークの小柄な女性教師・吉田先生。
「今、前の席から“夏休みの過ごし方”プリントを配ってまーす。足りない人は言ってくださいねー」
終業式を終えたあとの恒例のホームルーム。
吉田先生は笑顔で生徒たちを見渡しながら、教卓の上のプリントを手際よくまとめていた。
ちなみにこの先生――最近マッチングアプリで出会った相手と食事に行ったらしい。が、待ち合わせに現れたのは「30代前半」と名乗る、どう見ても40代後半の男性。どうやら年齢も写真も“盛りすぎ”だったようで、そのまま自然消滅。
それでも懲りない吉田先生は、現在なんと十二個ものマッチングアプリを併用中。生徒のあいだではすっかり「吉田アプリ先生」という愛称が定着している。
「はい、それからー!」
教壇の端をトントンと叩きながら、吉田先生が声を張る。
「夏休みの過ごし方にも書いてありますが――変な人を見かけたらすぐ通報! 怪しいサイトにはアクセスしない! ネットで知り合った人と会わない! そして、ロボットの戦闘が始まったら即座に逃げる! いいですねー?」
「はーい!」
笑いが混じった元気な返事が教室いっぱいに響く。
「よろしいっ! じゃあ残りの連絡いきまーす!」
吉田先生は提出物や予定の確認を手早く済ませ、最後に教卓を軽く叩いた。
「それじゃあみんな――良い夏休みを!」
チャイムの音が重なり、教室は一気に学校という縛りから解放された空気に包まれた。
椅子の音、笑い声、机を囲む輪。
窓の外から差し込む真夏の光が、汗と期待と自由の匂いを照らす。
「はぁ〜……なんとか補習だけは回避できた……」
萌里は机に突っ伏し、魂が抜けたようにため息をついた。
「も〜えりっ!」
「ひゃっ!? ちょ、ちょっと!?」
背後から突然ぎゅっと抱きつかれ、慌てて振り向く。
そこには、笑顔全開の宇佐美みるがいた。
夏の光に反射する髪がふわりと揺れ、まるで太陽のかけらのようにまぶしい。
「や〜っと夏休みだよ! ねぇ、どこ行く? 海? カフェ巡り? それともお泊まり会?」
「ちょ、ちょっと! 近い近いってば!」
「いいじゃん別に〜! 今日くらいテンション上げてこ!」
みるはテンション高めに萌里の腕をがしがし揺さぶる。
蝉の声が窓の外でじりじりと鳴いていた。
「なんかさ――今年の夏、絶対何か起きそうな気がしない?」
「……フラグ立てないでよ」
「もう! そういうとこ冷めてるんだってば、萌里!」
「はは、ごめんごめん」
苦笑しながら萌里は頭をかき、ふと遠くを見た。
――正直、“もう十分すぎるほど色々起きている”。
両親に売られかけ、未来から同い年の少年と巨大ロボットが現れ、街での戦闘に巻き込まれ――
気づけば敵に「お前はカギだ」と言われ、信頼していた教師はスパイだった。
さらには、ファンの人に会いに行ったら病院の庭に不発弾が埋まっていたり、幽霊と出会ったり……。
(……いや、ほんと、小説一本書けるくらい波乱万丈よね)
思わず自嘲気味に笑って、頬杖をつく。
それでも――
どんな非日常が起きても、最後に帰ってこられる“日常”がある。
教室のざわめき、友達の笑顔、夏の光。
萌里は心の中で、それを静かに大切に抱きしめた。
そんな中、みるがカバンを肩にかけながら、ふと思い出したように声を上げる。
「そうだ! ねぇねぇ、夏休み入ったらUSJ行かない?」
「え? USJに?」
「そうそう! 織田のお父さんが取引先の社長さんから、なんと6人分の無料チケットもらったんだって! しかもホテル代込み!」
「えぇ!? すごっ! めっちゃラッキーじゃん!」
「でしょ! でね、メンバーは――アタシと萌里と仁菜、霧崎、織田、それにユキト君! どう?」
「いいねいいね! あっ……それっていつ?」
「えーっとね〜……7月31日と、8月1日!」
「うーん……その頃には帰ってきてるかな」
「え? 誰が?」
「ユキトよ」
「あー、そういえば最近見ないね」
「二日前から出かけてるんだけど、出先でトラブルがあったみたいで……数日は帰れないっぽいの」
萌里は少しだけ目を伏せた。
昨日、ユキトから電話があった。
京都での戦闘後、慎太郎の手配で修理のため兵庫へ運ばれたガルガンダ。修理は完了したものの、輸送の段取りに問題が生じ、しばらく戻れないという。
アナグラとガルガンダの存在は、いまや連日マスメディアやネットで拡散され、世界的な話題になっている。
そんな中、ユキトがその“操縦者”であり、自分も関わっていると知られるのは――危険すぎた。
萌里は、何も知らない友人たちに話すことをためらい、苦笑でごまかすしかなかった。
「へぇ〜……もしかして、元気ないのって寂しいとか〜?」
「なっ!? ち、違うし! 全然そんなんじゃないから!」
「え〜ほんとぉ? 声、ワントーン高いけど〜?」
「う、うるさいなぁもうっ!」
にやにやとからかうみるの肩を、萌里は真っ赤になってばんっと叩いた。
「だーかーらっ! 元気だってば!!」
「はいはい、照れ隠し〜♪」
「ちがっ……もう、ほんっとやめてっ!」
二人の笑い声が弾ける教室に、夏の光が柔らかく降り注ぐ。
萌里はその眩しさに、そっと目を細めた。
――この日常が、いつまでも続けばいいのに。
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時は少し遡り、二日前。
南水市から車で1時間半ほどの兵庫県沿岸――そこには、現在稼働していない旧海軍造船工場がひっそりと現存していた。岩肌に覆われ、長い年月を経て蔦が絡まり、建物は緑に包まれ、外から見れば存在すら気づかれないほど自然に溶け込んでいる。
廃棄されてからおよそ80年。工場前に、銀色のワンボックスカーが静かに停車した。
「ここじゃよ」
運転席から降りてきたのは、白いポロシャツにアロハ柄の半ズボン、麦わら帽子をかぶった軽装の老人・慎太郎。
「へー、ここにあるんだ」
助手席から降りたのは、半袖のぴっちりしたトレーナーに黒のバギーパンツ、ブーツを履いたユキト。全体に錆びた巨大な扉を開け閉めする手つきは、無駄なく力強い。
かつては軍用艦艇や大型船を建造していた造船工場――今は静寂に包まれ、時の流れを重く感じさせる。外壁のコンクリートはひび割れ、窓ガラスの大半は粉々に砕け、残った硝子には雨水が溜まり、微かに虹色に光を反射していた。
錆びついた鉄骨が天井を支え、かつての機械油と潮の香りが混ざり合う重苦しい空気が漂う。床には落ち葉と砂、海風が運んだ細かな砂利が積もり、踏むたびにかすかな音を立てる。
巨大なクレーンや巻き上げ機の残骸は錆に覆われ、手で触れるだけでも崩れそうだ。かつて船体を運んだ広大なドック跡は水たまりに変わり、濁った水面に廃墟の影を映している。
壁面にはかつての工場名や注意書きのペイントがかすかに残り、「注意」「危険」といった文字が時を超えて微かに意味を伝える。80年もの潮風と雨風により鉄扉の蝶番は固着し、開閉のたびに重い音が響く。
廃墟ならではの静謐さ、そして足を踏み入れる者にだけ分かるひんやりとした緊張感。踏み込めば、錆びた機械の隙間から小動物が飛び出し、埃が舞い、空気は少し冷たい。かつて命を吹き込まれた船の設計図の面影を、廃墟はなおも抱き続けているかのようだった。
「…」
奥の扉を開けると、目的の存在がそこにあった。
片膝をつき、まるでユキトを待っていたかのように静止するロボット――白い装甲に赤い胴体、悪魔じみた造形の顔、フレームむき出しのガルガンダ。
「腕、直ってる」
慎太郎が低くうなずきながら説明する。
「まったく同じものは作れんかったが、持ち帰ったアナグラの残骸から使える部品を流用したんじゃ。大破した右腕にはアナグラの腕を使用し、強度を高めるために樹脂やゴム加工の特殊布を両腕に巻いてある」
「あの赤い包帯みたいなのが?」
「そうじゃ、『赤き補強布』。パイルバンカーの衝撃にも耐えられるよう、繊維を何重にも重ねてある。元の腕よりは強度は少し弱いかもしれんが…」
「なんで左腕にも?」
「関節部のシリンダーパーツに劣化の前兆が見えたので巻いた、補強じゃ」
「そっか…ありがとう」
ユキトはガルガンダの右腕を見つめる。赤い補強布が力強く巻かれ、まるで腕自体が再び命を吹き返したかのように輝いていた。
「修理はワシが務めておった造船工場の連中に手伝ってもらった、たまげとったよ。ロボットを見ることは、そうそうないからのう」
「こっちじゃロボット無いんでしょ。珍しいのも当たり前だよ」
「がははは!そうじゃな。じゃが…少し事情も変わってきた」
慎太郎は神妙な顔になる。
「ガルガンダを京都に運んだ戦闘機、C-17グローブマスターⅢというんじゃが。沖縄の米軍基地で訓練用に置いてあったのを使わせてもらったんじゃが…その際、君のことを基地の司令官に少し話した」
「それで?」
「本来なら段階を踏んで飛ばす許可をもらうのが流れなんじゃが、司令官はワシのダチでな。全部すっ飛ばして貸してくたわい。まぁ、あとで彼方此方から怒られたらしいがのぅ」
「悪いことしちゃったね」
「あの場合は仕方ない。軍のみならず、日本政府もアナグラのことは把握しておる。君のガルガンダのことも」
「だろうね」
「もしかしたら日本政府から直接、君に声がかるかもしれない。未知の敵に、今…」
「あー、俺難しいことよくわかんないから。戦うことしか能がないからパス」
「しかしなぁ、可能性としてはあり得るぞい?ここ一か月ほどアナグラは出てないが、今後起きないとも…」
「そうなったら俺が何とかするよ」
「君の腕なら大丈夫だとは思うがのぅ、まぁ…あぁ、そうじゃ」
何かを思い出した慎太郎はポケットからスマートフォンを取り出し、とある写真をユキトに見せる。
「君から教えてもらったゲスト専用操作モードでコックピットで腕の稼働を試していた作業員が、ディスプレイにずっと表示されているアイコンがあるといって写真を撮ったんじゃが…これはなんじゃ?」
「…リミッターだよ」
「リミッター?」
「ガルガンダみたいなアーマーフレームには、パイロットに負荷がかからないように普段は出力を抑制する装置がついてる」
「なるほど…つまり?」
顎に手を当てる慎太郎は首をかしげる。
「リミッターを解除すれば、ガルガンダ本来の性能を使える」
「それは…君は無事ですむのか?」
「フレームや関節部への負荷は大きくになる。パイロットの頭にかかる負担も一気に増える」
「なんと…」
慎太郎はゴクリと息を飲み、ガルガンダを見上げる。悪魔じみた造形の顔が、静まり返った工場内の薄暗い光に赤く反射する。
「こいつは歩く棺桶だよ」
ユキトは目を細め、ガルガンダをじっと見つめた。
「死んだやつも大勢いた。守れなかったモノもあった、手がと何処かなかったことも沢山あった…自分を守って誰かが死ぬより…自分を犠牲にして誰かを守る道を取った。使うときが来たら、俺は暴れる」
「………戦場で戦う人間の考えは、ワシ等一般人には理解しがたい域じゃのぅ」
「…」
ガルガダンを見上げるユキトの横顔は、とても17の少年のそれではなかった。幾多もの戦場を駆け抜けてきた歴戦の兵士の顔――そんな重みを宿している。瞳には冷静さと決意が入り混じり、わずかな恐怖も、迷いも、一切ない。
慎太郎はその横顔をしばらく見つめ、静かに息を吐いた。
「…覚悟は、あるんじゃな」
「あるよ」
ユキトの声は低く、しかし鋭い光を帯びていた。
そして慎太郎は思う。
この少年のは適わないな、と―。
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人類がそこへ至るまでに、いかほどの時が流れるのか――
それを知る者は、まだいない。
この星にはいまもなお、誰の足跡も届かぬ地があり、名すら持たぬ空白の大地が、沈黙の底で眠っている。
──そして今も、その影は脈々と続いている。
『……君たちは、“終極機聖戦争”という名を、知っているかい?』
低く響く声が、ブリッジの空気を震わせた。
成層圏の闇を滑る、黒き巨艦《エントノイス号》。
その艦橋中央に据えられたモニターには、【VOICE ONLY】の文字が鈍く点滅している。
通信の主――“髑髏”。
機械ノイズをまとったその声は、どこか人の温度を欠いていた。
ブリッジに静寂が落ちる。
鋼鉄の床には、警告灯の赤が脈打つように反射している。
判決者の面々は、それぞれの持ち場で動きを止め、重い空気の中、その声を待った。
「知らないな……なんだそりゃ?」
沈黙を破るように、嵐着が口を開く。
椅子を軋ませながら身を乗り出すその瞳には、わずかに興味と、殺意の色が混じっていた。
「遥か昔、この地上に宇宙からの来訪者がやってきた。名を――アリオネル帝国」
髑髏の声は低く、まるで遠い記憶をなぞるようだった。
ノイズ混じりの音声の奥で、かすかに電子のざらつく音が響く。
「彼らは“神”を名乗った。その技術は、地上のどの文明よりもはるかに進んでおり、星を割り、海を蒸発させることすら容易だった。そして、やがて――地球を征服の対象と定めた」
ブリッジの空気が、わずかに重くなる。
誰も口を挟まないまま、髑髏の声だけが響き続けた。
「だが、当時この地上にはひとつの偉大な文明があった。現代よりも遥かに進んだ文明を持つセルガンティス――地球そのものと共鳴し、自然の理をもって科学を操る民だ。彼らは、宇宙からの侵略に抗うため、神の模倣を始めた」
「おいおい、待てよ。作り話にしては度が行き過ぎてるぜ?そもそも、そんな歴史があるなんて聞いたこともない」
『当然さ、これは”隠された歴史”だからね』
「隠された歴史ですと…?」
ブリッジ左の管制操作席に座る長身で七三分けの前髪に伊達メガネの男性、万丈が反応する。
「続きが、気になります!」
ウキウキな様子でヨヒカは腕を小さく降る。
「わざわざ話すってことは、今後の活動に関係あるんだろー?」
操舵席にいる浦部が続けた。
「難しい話は分かんねぇが!とりあえず聞いてやるよ!」
筋肉自慢の体系を持つデカメロンは窓際で100キロあるダンベルを今後に軽々と持ち上げる運動をしている。
「話を遮って悪かった。んで、続きは?」
とりあえず嵐着も聞く姿勢を再度取る。
『――セルガンティスは、神に抗うため“機械の神”を造った』
髑髏の声が一段低く沈み、ブリッジ全体に重たい振動が走った。
エンジンの低周波が共鳴し、まるで艦そのものが、その名に反応しているかのようだった。
『彼らは、己らの叡智と地球の理を掛け合わせ、神々の機構を模した。それが、”機聖”と呼ばれる存在』
「機聖……?」
ヨヒカが首を傾げる。
『アリオネル帝国の文明により作り出された負の心臓を持つ“創造主兵”に対抗するために生まれた地球の守り神…いや、あれは、神の姿をした悪魔…というべきか』
「神の姿をした、悪魔…」
万丈の眼鏡が、警告灯の赤を反射して光る。
『神を模した機械は力を持ちすぎた、人の理解を超えすぎていた。人類はそれを“異端”と呼び、恐れた。そして、戦いの最中、セルガンティスは滅び――機聖たちも、地の底深く封印された』
沈黙が流れた。
ブリッジの空気は重く、冷たく、まるで数千年の眠りの話を、そのまま今に引きずり出したような錯覚を覚える。
「……で、その“終極機聖戦争”ってのは?」
嵐着がぼそりと呟く。
『セルガンティスとアリオネル帝国が最後に交わした、世界の形を変えた最終戦争――それが“終極機聖戦争”。星の表層が裂け、大陸が沈み、空が燃えた。だが、決着はつかなかった』
「決着が、つかなかった……?」
『ああ。最後に残った機聖と帝国の王は、互いの命を削り合いながら、地中深くへと沈んだ。そして、そこから“今”へと続く』
「今……?」
浦部が怪訝そうに眉をひそめる。
『――地の底で、”あれ”が今も眠りにつきながら息をひそめ、復活の時を狙っている』
ブリッジの照明が、一瞬ちらついた。
誰もが言葉を失い、ただ髑髏の言葉の続きを待つ。
『これからのボク達の目的は、世界中で争いを巻き起こすとこと。擬態の力を君たちに与えたのも、その為だ。そして、今後エントノイス号が向かう地点は、”刻印の地”と呼ばれる場所だ。世界を変えるための一歩だ』
「……随分と穏やかじゃねぇ話だな」
嵐着が肩をすくめながら、しかしその目は鋭く光っていた。
『ふふ……穏やかじゃないのは、いつも君たちのほうだろう?』
髑髏の声が微かに笑みを含む。
ノイズ混じりの通信が切れ、【VOICE ONLY】の表示が暗転する。
ブリッジには再び、機械音だけが残った。
「――終極機聖戦争、か」
誰かが小さく呟いた。
その言葉は、まるで封印を解く呪文のように、静かに艦内へと溶けていった。
その夜――。
成層圏を滑る《エントノイス号》は、まるで眠る獣のように沈黙していた。
照明は落とされ、赤い非常灯だけが、無機質な鋼の壁を血管のように染め上げている。
その静寂を破るように――ブリッジ奥の広場で、金属のこすれる低い音が響いた。
そこに、ひとりの巨漢がいた。
デカメロン。
鋼を打ち直したかのような肉体が、呼吸のたびに赤光を受けて陰影を刻む。
両手に握るのは百キロを超えるバーベル。だが、彼の腕の動きはそれをまるで玩具のように扱っていた。
「……ふッ!」
短く息を吐くたび、空気が震え、筋肉が軋む。
額から落ちる汗が、非常灯の赤を反射して血の滴のように輝いた。
「――随分と熱心に鍛えてますね」
低い声が静寂を裂く。
管制席に腰を下ろしていた万丈が、いつの間にかこちらを見ていた。手元の端末に視線を落としたまま、軽く笑う。
「お前こそ、こんな夜中に何やってんだ?」
「まとめたデータの照合ですよ。……ついでに、筋トレ音が聞こえたもので」
わずかに皮肉を含んだ言葉に、デカメロンは肩をすくめた。
「はは、悪ぃな。騒がしかったか?」
「もう慣れましたので」
軽口を交わしながらも、二人の間には不思議な落ち着きがあった。出会って日は浅いが、互いを認め合う空気――馴れ合いではない、戦場の勘で掴んだ信頼のようなものが、そこにある。
「……筋トレの暇つぶしに聞きますけど」
万丈が端末から目を離さず言う。
「今日の会議、どう感じました?」
「あぁ? 戦争の話か?」
「えぇ。どうにも――あの髑髏という人物、我々を使おうとしている気がしてならない」
デカメロンはバーベルを床に置き、汗を拭いながら万丈のほうへ視線をやる。
「そうか? オレはあんま深く考えてねぇな」
「……でしょうね」
呆れ混じりのため息が、万丈の口から漏れる。
「でもよ」
デカメロンが静かに続けた。
「オレは、嵐着についていくぜ」
「……ほう?」
意外そうに万丈が眉を上げる。
「出会いは最悪だったが、あいつはオレにもう一度“自由”をくれた。それに――話してると、妙にウマが合うんだ。昔やってたゲームの話とかよ」
「恩と情、ですか」
「ついていきてぇ、って思わせてくれるんだ。嵐着ってやつは」
「野生の勘ってやつですか?」
「ああ、そんなとこだな」
デカメロンは笑う。腹の底から、カッカッカッと。
その笑いに、万丈もふっと口の端をゆるめた。
彼もまた、同じ“何か”を感じているのだと気づきながら――
もしそうでなければ、自分もこの船には乗っていなかっただろう、と。
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「……朝、か」
重たい瞼を押し上げると、最初に映り込んだのは、電源の落ちたメインディスプレイ。
その向こう、全天周モニターには夜の名残を抱いた空がぼんやりと映っている。
薄く差し込む朝の光が、機体の外殻を鈍く照らし、金属の縁を淡く輝かせていた。
「いででで……ったく、椅子が倒せないってのは不便だな」
上体を起こした途端、背中と首に鈍い痛みが走る。
寝返りも打てないまま仮眠を取ったせいで、筋肉が石のように固まっていた。
――無理もない。
飛永が腰かけているのは、戦闘用ロボットのコックピットシートだ。
車のような快適性など、最初から想定されていない。
分厚いシートは、パイロットの身体を固定するための構造。
背中の奥には衝撃吸収材が埋め込まれ、
振動や被弾の衝撃から脊髄を守るためのものだった。
だが、それは“戦うための椅子”であり、“眠るための場所”ではない。硬質な素材は弾力よりも反発が勝ち、瞬間的な衝撃には強いが、長時間の姿勢保持にはまるで地獄のようだ。
飛永は肩をぐるりと回し、軋む筋を伸ばす。
モニターの外では、朝日がゆっくりと昇りはじめていた。
その光を見て、ようやく自分が一晩中この座席で過ごしたことを実感する。
「……ん?」
体を起こそうとしたとき、股のあたりに柔らかな重みを感じた。
視線を落とすと、そこには小さな頭――
歳は十にも満たない、泥にまみれた白いワンピース姿の少女・リナが、
穏やかな寝息を立てていた。
後部シートもあったが、固く冷たく。
昨日一日動きづめだった彼女は、力尽きるように眠ってしまった。起こすのも忍びなく、飛永はそのまま寝かせておいたのだ。
「……ん、んーっ……んっ」
小さな身体がもぞりと動き、リナは頭を上げる。
両手をいっぱいに伸ばし、猫のように背伸びをした。
「起きたか?」
「うん……おはよー」
まだ眠たげな瞳で見上げながらも、リナはにぱっと笑う。その無垢な笑みに飛永の口元がわずかに緩み、そっと乾いた泥のついた髪を撫でる。
指先で触れると、泥がぽろりと崩れ落ちた。
「わたしたち……ドロドロだね」
「そうだな」
リナが自分の汚れた手を見つめながら言うと、
飛永は一瞬、言葉を失った。
モニターの下――
地平線の果てまで続く無数の十字架が映っている。
枝や焼けた家の残骸で組まれた、それぞれ形の違う墓標たち。
朝日が差すたび、長く影が地面を伸ばしていた。
(改めて思うと……これを、一週間でやったのか)
飛永は思わず息を呑む。
目の前の十字架は、かつてリナが暮らしていた村の人々を弔うものだった。
ここは――村の跡地から少し離れた、森が開けた小高い丘。
一週間ほど前、謎の地下空間で手に入れた機体で脱出した飛永とリナ。
二人は無事地上へ戻ることができたものの、リナの村は無惨にも焼き尽くされていた。
住人たちは全員、何者かに殺害され、遺体は散乱していた。
目を覆いたくなる光景。胴体を真っ二つに裂かれた者、原型を留めぬほどに飛び散った者。
その中には――リナの両親の姿もあった。
飛永はぎゅっと拳を握る。
泥まみれの少女を抱きしめたまま、深く息を吐く。胸の奥に、怒りと無力感が同時に押し寄せる。
(あの時――私が撃った弾、私の手で奪った命……)
自分の過去が脳裏をよぎる。
これまで撃ち抜いてきた相手たち。
彼らの背後には家族がいて、愛する者がいて、生活があったのだ。自分の手でその世界を壊してきたことを、ここに立つリナと十字架の列が突きつけてくる。
胸の奥が締めつけられる。軽々しく扱っていた銃口が、今になって重くのしかかる。
「……」
リナの視線が飛永に突き刺さる。
無邪気だったあの日の目は消え、死を知った者の、少しだけ荒んだ瞳になっていた。まだ十も行かない幼い少女なのに、そこにあるのは、荒涼とした世界を映す深い影。
飛永は声をかけることもできず、ただ見つめ返すしかなかった。
自分のしてきた過ちが、痛感せずにはいられなかった。
リナの存在が、これまで戦場で見えなかった命の重みを、今まさに教えている――
「……そうか、だから……」
小さな声で、彼女は自分自身にも言い聞かせるように呟いた。涙を飲み込みながら、飛永はその手でリナの頭をそっと撫で、抱きしめ、視線を十字架の列に落とす。
無数の墓標が朝日に照らされ、静かに揺れる影の中で、彼女の心は揺れ動く。
(あの言葉が、胸に刺さったんだ……)
拳を握る手に力を込める。怒りだけでは、何も変えられない。
だけど、過去に犯した過ちは、この手で少しでも償うことができるなら――そう思わずにはいられなかった。
「…大丈夫だから」
飛永は小さく囁く。自分自身にも、少女にも、力を込めて言う。
その声は弱々しいが、決意の温度を帯びていた。
背後の森の空気が、朝日の光で黄金色に染まる。
飛永は深く息を吸い込み、泥だらけのリナの小さな手をしっかり握った。
(もし、まだ…)
その瞬間、心の奥底に小さな炎が灯った。怒りでも悲しみでもなく、守るための意思の炎。
過去の自分をただ後悔するのではなく、行動で示すための力。
飛永は少女を抱え上げ、電源が落ちたディスプレイを操作し、アルゴスのコックピットを開ける。
傷はまだ癒えない。心も、体も。けれど、もう迷わない。
「お別れ、しよっか」
「…うん」
コックピットハッチの足場に立つ二人は、眼下に広がるお墓に両手を合わせ、祈るように黙とうする。
丘の向こうで、朝日が徐々に地平を染め上げ、森の輪郭を金色に縁取る。
風が二人の髪をそっと撫で、泥の匂いを運んできた。
「さて、どうしようか…」
飛永はコックピットハッチを開き、リナを股の間に座らせながら操縦桿を握る。アルゴスは森を抜け、二人は静かな浜辺にたどり着いた。
目の前には、朝の光に淡く輝く海が広がる。波は穏やかに砂を洗い、淡い泡を残してゆっくりと引いていく。
空は東の地平から朱色と黄金色が混ざり合い、夜の蒼をゆっくりと押し上げていた。雲の縁は金色に染まり、朝風に揺れる小さな波間に光を散らしてきらきらと輝く。
砂浜を吹き抜ける潮風が、二人の髪と頬をそっと撫で、静かに新しい一日を告げていた。
「高精度射撃、スナイピング用超広角レンズ、多層スキャンセンサー、熱源感知…射撃特化なのはありがたいんだけど。こいつ、飛行機能はなさそうだな」
メインディスプレイを操作し、武装コンソールを開きながら飛永が呟くと、リナは首をかしげた。
「ふぅん?」
「空を飛べないってことね」
「船は?」
「こんな大きい物を運べる船なんて…ないよ」
リナが小首を傾げ、海をじっと見つめる。
「あそこ!」
リナが身を乗り出して指さすと、沖合には一隻の船がゆっくりと航行していた。
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時は、わずかに遡る。
太平洋のただ中――果てのない蒼の海を、一隻の巨艦がゆっくりと進んでいた。
その動きは静かでありながら、確かな力を秘めたもの。
まるで大海そのものが、その進路を譲っているかのようだった。
鋼鉄の船体は、深海の色を映した青。
全長二百二十メートル――人の営みなど微塵も寄せつけぬ孤高の巨影。
波を切るたび、鈍い衝撃音が腹の底に響き、白い飛沫が空へと弧を描く。
老いた船だ。
造られてから十余年、幾度も荒海を越え、嵐の夜を耐え抜いてきた。
その甲板に刻まれた錆と傷は、敗北ではなく、戦い抜いた証。
鋼の肌に刻まれた年月が、無言の誇りを物語っている。
潮風と陽光が交じり合い、甲板を黄金色に染める。
遠くでは波濤が唸り、船底では鉄が軋む。
それは生きている――
この巨体そのものが、呼吸をしているようだった。
これは、ただの輸送船ではない。
海を知り尽くした者だけが辿り着ける、鉄の巨獣。
今日もまた、無言のまま、水平線の向こう――まだ見ぬ闇へと突き進む。
「……」
甲板上。厚い布をかけられ、鎖で固定された青き巨躯『ギルギガント』。潮風に布がはためき、その下からのぞくのは、鈍く光る装甲の一部。
その機体を、真下から静かに見上げる男がいた。
銀糸のような髪、氷を思わせる青い瞳。
名は――マリゲル。
無言のまま、彼は海と鉄の咆哮を聞いていた。それはまるで、次なる嵐の前触れのように。
「……おはようございます」
背後から、まだ眠気の残る声がした。
振り返ると、朝の光に縁取られた人影――メガネをかけた男性、緒方だ。
四十代半ば、少し無精ひげが伸び、寝癖のついた髪を手ぐしで直しながら歩み寄ってくる。
アフリカ南西部での発掘以来、行動を共にしてきた考古学者であり、この分野では知らぬ者のない権威。
今回の航海も、日本へ帰るついでに同行しているのだった。
「おはよう。……よく眠れたか?」
マリゲルが問いかけると、緒方は欠伸を噛み殺しながら苦笑う。
「えぇ、まぁ。思ったより揺れないもんですね、タンカーって」
「これだけの船体。嵐でも来ない限り簡単には揺れないだろう」
「ですね……」
緒方は眼鏡のブリッジを軽く押し上げ、潮風を吸い込むように深呼吸した。まだ朝の匂いを残す甲板の上で、金属のきしむ音だけが静かに響いている。
「不思議だな」
「え?」
「空だよ。青い空、久しく忘れていた」
「元居た時代では…空はなかったんですか?」
「アナグラの放つ有毒ガスの影響で大気は汚染され、地球環境に大きな影響を与え、その関係で空は赤く染まってしまっていた」
脳裏に残る自身の居た時代の景色を辿るように話すマリゲルは、遠い目で天井に広がる青い空を仰ぐように見る。
「……空は、血のように赤かった」
マリゲルの声は、潮騒にかき消されるほど低い。
彼の視線は青空を見つめながらも、そこには別の光景が映っていた。
「アナグラの外殻が裂けるたび、毒の煙が吹き上がった。大地は焼け海は黒く濁り、人は空を見上げることを恐れた。戦場ではいつも――空が、敵の色をしていた」
彼の言葉に、緒方はそっと息を呑む。
マリゲルの横顔には、静かだが確かな疲労の影があった。長年の戦いが刻んだ傷跡は、肉体よりも心に深く残っている。
「……それでも、戦ってたんですね」
緒方の言葉に、マリゲルはわずかに口角が上がる。
「戦う以外に、残された道はなかった。空を奪われ、海を汚され、仲間を喪って――それでもわたしたちは、引くことをしなかった」
潮風が吹き抜け、二人の間を過ぎる。
どこまでも透き通る青が、空と海を溶かしていく。
「……皆が目指す場所は一つ。取り戻したいのさ、当たり前を」
マリゲルは静かに言い、手すりに触れた指先で潮の跡をなぞる。
その動作には、まるで遠い日々の感触を確かめるような慎重さがある。
その時だった。
マリゲルの胸元で、かすかな振動音がくぐもった。
作業着のポケットを探ると、小型のトランシーバーが微かに震えている。
数日前、タンカーに乗り込む際、輸送の仲介をしてくれたコルミが「何かあったとき用だ」と言って託してくれたものだ。
鉄の外殻を隔てても、振動は確かに彼の掌に伝わる。
「……どうした?」
『ソナーに異常反応! 高速で接近する熱源を感知! 飛行機でも船でもない――この速度は、一体……!』
ざらついたノイズの向こうから、焦りと恐怖の混じった声が割り込む。マリゲルはトランシーバーを握りしめたまま、ゆっくりと顔を上げた。
青く澄んだ空。
雲間を裂くように、微かな風が吹き抜ける――その静けさが、かえって不気味だった。
「……アナグラ、か」
「えっ……? アナグラって、未来で戦っていた敵の……?」
「あぁ。日本だけではない――こちらにも出るようになったのか」
マリゲルの声は低く、海面を渡る風に溶けていった。
油の匂いと潮の湿気が混ざり、タンカーの甲板を包む。
エンジンの重低音が、まるで深海の鼓動のように船体の奥から鳴り響く。
「ギルギガントを起動する。――船体のバランス崩すなよ」
『な、なにぃ!? 正気か!?』
コルミの悲鳴を遮るように、マリゲルは無言でトランシーバーの通信を切った。
振り返りざま、緒方に短く指示を飛ばす。
「船内へ入るんだ!」
それだけ告げると彼は甲板中央に片膝立ちで鎮座するギルギガントに駆け寄り、一瞬の迷いもなく、ハッチの金属の縁を蹴って中へと飛び込んだ。
――闇が彼を包む。
機体内部、コックピット。閉じたハッチの音が重く響き、外の世界が断ち切られる。
次の瞬間、闇の中に幾つもの光点が浮かび上がった。
モニターが順に点灯し、計器の数値が走り出す。天井から降下するメインコンソールが、冷たい白光を放ちながら彼の顔を照らした。
――認証開始。
電子音が短く鳴り、フロントモニターに文字が走る。
《PILOT ID: MARIGEL 》
「……今ここで落とされては、わたしも困るのでな」
床面が低く唸り、油圧の駆動音とともにパネルが開く。
そこから、二本の操縦桿とフットペダルがせり上がってくる。振動が伝わり、コックピット全体が生命を得たように震えた。
天井から降りてきたヘルメットを被るマリゲルは手袋を締め直し、操縦桿に指をかける。その瞳には、かつて戦火の中で空を睨んだ戦士の光が宿っていた。
「さて…」
低く唸る駆動音の中
突然、コックピット全体に赤い閃光が走った。
《WARNING: UNKNOWN HEAT SIGNATURE APPROACHING / DISTANCE 12,000》
鋭い電子音が耳を裂く。警告ランプが一斉に点滅し、照明が赤と白の閃光を交互に繰り返す。まるで機体そのものが危機を訴えるように、金属の骨格が軋んだ。
「来たか……」
マリゲルは息を吐き、フロントモニターを指先でスライドさせる。ホログラムが展開し、立体的な空域図が浮かび上がった。
青い空の中央に、ひとつ――不規則に脈打つ赤い点。
《距離 10,000……8,000……6,500》
速度は上昇し続けている。旅客機でも、戦闘機でもない。空気を壁を無視するように、一直線で迫ってくる。
甲板上では、避難行動を実行中のタンカーのクルーたちが慌ただしく動き回っていた。金属を叩く音、誰かの怒号、風に煽られる布の音が、遠くかすかに聞こえる。
だがコックピットの中は、逆に不気味なほど静かだった。
「……アナグラ。空を焼き、地を侵した亡霊が、過去の時間をも犯すか」
マリゲルの指が操縦桿を握りしめる。
その瞬間、計器が青白く光り、ギルギガントの内部構造が点灯していく。
油圧が唸り、エネルギーラインの光が胴体を這うように走り抜けた。
《PRIMARY SYSTEMS ONLINE》
《CORE LINK — STABLE》
「ギルギガント、全システム起動」
マリゲルの低い声に呼応するように、
機体の外殻が軋み、甲板を震わせる重低音が海面を伝って広がる。
その瞬間、遠くの水平線の彼方で、黒い影が浮かび上がる。
赤く光る何かが、太陽の逆光を裂く。
「あれか……」
マリゲルは細めた瞳で、光の彼方を見据えた。
逆光を貫いてくる黒影――それは、まるで空そのものを裂いて現れる「傷痕」のようだった。
雲が焼け、空気が歪む。アナグラはまっすぐ、音をも追い越す速さで突っ込んでくる。
《距離 2,000……1,200……900──》
「速度、異常領域……」
マリゲルは小さく息を吐き、右手でスイッチを倒した。
瞬間、ギルギガントの足元が赤く脈動した。
船体と脚部をつなぐ固定アームがうなり、甲板の鉄板が低く震える。
海上を漂う巨体を、まるで海神の杭で打ち付けるかのように留めたのだ。
「……落ちるわけにはいかない。この船が沈めば、戦場そのものを失う」
操縦桿の背中に装着していた突貫型ランスが、唸りを上げて展開される。
全長十八メートル。
その穂先には、旧世代技術の名残――プラズマ加速針が静かに青白く光を灯す。
ギルギガントが槍を構えた瞬間、アナグラの影が天頂から落ちてきた。
「来るか!」
空気が破裂した。
目に見えない壁が押し寄せ、タンカー全体が海に叩きつけられたかのように軋む。
風が叫び、波が立ち上がる。
アナグラは一度も減速せず、まるで空間を滑る刃のように甲板を掠めた。
ギルギガントの巨腕が動いた。
風圧に抗うように、ランスを振り上げ――
その穂先が閃光を走らせた。
「――突貫!!」
金属と金属がぶつかり、火花が夜のような白光を散らす。
ドン!!っという衝突の衝撃で甲板が割れ、積載物が海へと吹き飛んだ。
アナグラは旋回。
翼の下で空気が唸り、反射的に機体を翻す。
その姿は、まるで雷そのもの。
ギルギガントの足がわずかに滑る。
タンカーの鉄板が波に傾き、巨体の重心が一瞬にして崩れる。
「……油断したか」
マリゲルの声は穏やかだ。
だがその目には、冷えた光が宿っていた。
左腕のマニュピュレーターが、素早く船体側面の固定クレーンを掴む。
ギルギガントはその反動を利用し、巨体を引き戻した。
甲板が大きく沈み、波が白く弾け飛ぶ。
その反動を利用し、再び跳ぶ。
巨大なランスが軌跡を描き、アナグラの背へ突き立つ。
炸裂。
閃光が空を裂き、アナグラの片翼が吹き飛ぶ。焦げた金属の破片が雨のように降り注ぎ、再度甲板に着地するギルギガントの装甲に、潮風が絡みつく。海面から跳ね上がった水しぶきが、青白い金属の表面を滑り落ち、光を反射して小さな閃光を散らす。脚部の油圧がうなりを上げ、甲板を支えるタンカーの鋼鉄が軋む音が低く響く。
マリゲルはランスを肩に担ぎ直し、静かに呼吸を整える。穏やかな声ながらも、内側には緊張がみなぎっていた。
「……速い。だが」
空を裂く赤い光が再び迫る。アナグラは損傷をものともせず、再生した翼を広げ、旋回しながら高速で突っ込んでくる。風を切る音が耳を切り、空気の圧力が甲板上の鉄を揺らす。
ギルギガントは揺れる船体の上で、両脚をしっかりと踏みしめる。左腕のマニュピュレーターが再び甲板のクレーンを掴み、わずかな反動も利用して体勢を整える。突貫型ランスを前に突き出し、狙いを定める。
「来い!」
マリゲルの指先が操縦桿を軽く叩く。
ギルギガントの巨体が瞬間的に跳躍する。
甲板を蹴り、波を背にして空へと押し上げるその動きは、まるで海を足場に空を駆ける巨人のようだった。
アナグラの光翼が交差する。
速度と再生を武器にする敵に対し、マリゲルは静かに、しかし確実に、タンカーという足場を最大限に活かす。
ランスの先端が光を帯び、空間を裂く準備を整えていた。
「……焦ることはない。足場は、ここにある」
ギルギガントの目が赤く光る。
次の一撃のために、全ての重心を甲板に集中させ、海と空の狭間で静かに跳躍を待つ。
海風が渦を巻き、甲板上の金属を叩く音が低く響く。
ギルギガントの脚部はタンカーの鉄板にしっかりと固定され、巨体が波に揺らされても微動だにしない。
突貫型ランスを握るマリゲルの手に、わずかな緊張が走る。
アナグラが再び上空から突っ込んでくる。
光翼の反射が海面を照らし、赤く光る残像が幾筋も尾を引く。
速度は衰えず、まるで大気そのものを切り裂く刃のようだ。
「……よし」
マリゲルの声は穏やかだ。
だがその目には冷たい決意が宿る。
両脚を踏み込み、甲板の傾きを計算しながら微妙に体勢を調整する。左腕のマニュピュレーターでクレーンを握り、体を固定することで、海上という不安定な足場でも最大限の突進力を得られる構えだ。
次の瞬間、ギルギガントが跳ぶ。
タンカーの甲板を蹴り、波飛沫を蹴散らしながら空中に舞い上がる。突貫型ランスを前方に突き出し、アナグラの進行軌道を正確に計算したその角度は、まるで射程を持つ槍のように空を裂く。
「終わりだ」
ランスの先端が青白く光を帯び、空間に微細な電磁圧を生み出す。
アナグラの光翼が閃き、残像が幾重にも折り重なる。
その速さは、人の目では追えないほどだ。
しかし、マリゲルは落ち着いていた。
速度では敵に劣るものの、ギルギガントには「海上という揺るぎない足場」と「巨大なランス」という強力な武器がある。並の兵士なら、機体ごと海に落ちてしまうのが関の山だろう。しかし彼は、幾多の戦場を駆け抜けてきた戦士である。
操縦桿とフットペダルの踏み具合、機体の重心の微細な変化――それらを瞬時に体感し、制御することで、不安定な足場さえ己の大地に変えてしまう。経験と練度が生む、まさに彼の技量であった。
「雷刃閃光牙、そういう名らしい」
空中で交錯する刹那。
ランスの尖端がアナグラの胴体にある赤い核を貫き、光の閃光とともに金属の悲鳴が響き渡る。
同時にアナグラの体は黒い塵となり、朝焼けの空へと消えた。
「ここも、わたしの射程圏内だ」
マリゲルは低く呟き、背中のブースターと足のスラスターを駆使して、ギルギガントを甲板へと静かに着地させた。
「終わったか…?」
コックピット全体に赤い閃光が走り、警告シグナルが鋭く点滅する。
急接近する熱源を感知するシステムアラームだ。
「これは、はやい!」
マリゲルが振り向いた瞬間、海面から黒い物体が飛び上がる。
魚類のような体躯、額には赤い核――アナグラが、タンカーの船主に向かって突進してくる。
そう、空以外にも、海中にはさらにもう一匹潜んでいたのだ。
「くっ……」
フットペダルを踏み操縦桿を倒すが、魚類の体躯を持つアナグラの動きのほうが明らかに早い。そして船主にはコルミや他の乗客も乗っている。潰されたらタンカーは制御を失う。
次の瞬間、船外から一本の閃光が飛来した。
空気を切り裂く鋭い軌跡がアナグラの額にある赤い核を貫き射止め、黒い塵となって空に消えていく。
「……なんだ?」
突然の出来事に、マリゲルは咄嗟に警戒の姿勢を取り、閃光の飛来方向を凝視する。
モニター越しに確認した先には、島影のような陸地が見えた。
「狙撃…?」
右手の動きに合わせて表示されるホログラムを操作し、望遠機能で拡大。岸辺には灰色の装甲を纏った機体が立ち、ライフルを構えたまま射撃を終えた姿勢で静かに佇んでいた。
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戦闘が終わると、タンカーは沖合でゆっくりと停泊した。マリゲルと緒方は、コルミが手配した小型の船に乗り込み、灰色の機体がいる島の岸辺へと向かう。
戦闘中、狙撃援護をくれた機体は所属不明――間一髪の利きを救ってくれたとはいえ、警戒は必要だ。実は最初、タンカーの船主が拡声器で呼びかけると、灰色の機体はゆっくりと手を上げ、攻撃の意思はないことを示した。しかし、その動作はわずかに緊張をはらんでおり、マリゲル達も完全に油断できるものではない。
次にギルギガントの無線で呼びかけようとしたが、チャンネル周波数が合わず、相手の声は途切れ途切れでしか聞き取れなかった。視界に入るのは、灰色の機体の静かな影だけ。
波間を揺れる小舟の上で、マリゲルは拳を握り直す。こうなると、岸に近づくには自分たちの足で接近するしかない――風と波の揺れに晒されながら、緊張の中で進むしかないのだ。
「…これは」
船の底が浅瀬に触れるまで進んだマリゲルは、思わず目を見開いた。目の前に立つのは、灰色の装甲をまとった機体――背中には身の丈ほどもある巨大なライフルを背負っている。むき出しのフレーム、そしてフェイスガードの隙間から覗くモノアイ。その雰囲気は、彼がかつて目にした伝説の白い機体を彷彿とさせた。
「先ほどの狙撃、感謝する。わたしはマリゲル、こちらは緒方。わたしたちは日本へ向けて移動中だ。よければ、君たちの素性を明かしてもらえないか?」
緒方が後ろで緊張の面持ちで見守る中、マリゲルは小舟の上から呼びかけた。すると、灰色の機体の腹部にあるコックピットハッチがゆっくりと開き、中から二つの人影が現れる。
「…ん?女、と…子供か」
「しかも、かなり幼いですね」
緒方が小声でつぶやく。
「敵意はなさそうだな」
歴戦の目を持つマリゲルが状況を確認していると、灰色の機体が静かに動き出した。
マニュピレーターでコックピットハッチの上にいた二人を慎重に抱え上げ、片膝をついて姿勢を低くすると、そっと砂浜へと降ろす。
(――誰も乗っていないのに……やはり)
見覚えのある機能に、マリゲルは目を細めた。
砂浜に降り立ったのは二人。ひとりは成人の女性。
ウェーブがかったショートヘアに、体のラインが浮かぶノースリーブのトレーナー。右サイドを破いたようなスカートにブーツ、背にはライフル、腰には拳銃を携えている。
その隣には、金髪で小柄な少女――年の頃は十にも満たないほどの幼い顔立ちだ。
「初めまして。この通り、武装は解除してある」
「……らしいね。対等じゃなくてすまない」
「気にすることはない。君の名前は?」
「飛永。日本人だ。こっちはリナ、この島の住人さ」
「とびなが……日本人ですか?」
マリゲルの背後で緒方が驚いたように声を上げる。
「ああ。わけあって、この島に流れ着いてな」
「ほう……ところで、その機体は?」
マリゲルの視線は、彼女たちの背後で守護神のように佇む灰色の機体へと移る。
「この島の地下にあったんだ」
「地下に? どういうことだ?」
「アタシにもよくわからない。洞窟の奥に入り口があってな。中を進むうちにどんどん地下へ降りていったら、そこに――でかい戦艦やら、でかいロボットみたいなのが並んでた。そしてその奥に、コイツに似た機体が宙吊りになっていたんだ」
「デカイ船に……でかいロボット……?」
その口調に虚偽は感じられない。
飛永の瞳を見つめ、マリゲルは即座に真実だと判断した。
同時に脳裏をよぎる――数週間前、砂漠の底で見た地下都市の記憶。あの時と同じ「人ならざる技術の痕跡」だ。
「その場所へは行けるか?」
「調べたけど、もう駄目だ。脱出のときに通った道は、海底の岩が崩れて塞がっちまった」
「そうか……ん?」
ふと、マリゲルの視線が砂浜の少し先に向く。
そこには黒い塊――四肢を失い、胴体だけが残された機体の残骸が横たわっていた。
「あれは?」
「漂流してきたとき、アタシが乗ってた機体の残骸さ」
「え、まさか…日本から、あれで来たんですか?」
「アタシは殆んど寝てたが、そうらしい」
「ふむ。よほど剛性と気密性の高いボディだったようだな」
マリゲルは遠目で観察しながら、ある異変に気づく。
残骸の胸部には、何かを収めていたような窪みがある――幅も深さも遠目では正確に測れないが、その形状には見覚えがあった。
マリゲルの脳裏に、一つの“赤い石”の映像が閃く。
「ひとつ、尋ねたい。――あの機体の胴体、中央部分に……何か、入ってはいなかったか?」
「…………さあ、なんのことだろうね」
「たとえば――赤い石、とか」
「………」
マリゲルが探るように言葉を重ねた瞬間、飛永の表情がわずかに変わった。
その微かな変化を、彼は見逃さない。
「警戒しなくていい。……わたしは、その“赤い石”とは因縁がある」
「因縁?」
飛永は隣の金髪の少女を背へと庇い、ゆっくりと腰の拳銃へ手を伸ばす。
波の音の合間に、空気が一瞬だけ張り詰めた。
「――戦う相手だ」
遠くを見つめるように告げるマリゲルの声に、飛永の指がわずかに震える。
しばらく彼を見据えたのち、彼女は拳銃から静かに手を離した。