6話:約束
5月が終わり、季節は6月初旬。
暦の上では梅雨の時期だが、例年続く猛暑のせいで雨の気配はなく、側溝に水の流れを見たのも久しい。
7月にもなっていないのに、朝から気温は早くも30度を超えようとしていた。
そんな中、一人の少女が深い眠りから目を覚ます。
「うぅ…」
寝起きの喉のイガイガにうなる萌里は、重い瞼をこすりながら体を起こし、大きく欠伸をする。
クーラー全開の部屋で、オーバーサイズのタンクトップとショートパンツ、寝ぐせボサボサのだらしない格好だが、彼女は売れっ子の読者モデルでもあった。
「喉痛い…窓開けよ…」
ベッドからゆらりと立ち上がり、スライド式の窓を開けると、目の前に広がる田園風景と海。
この景色と共に朝を迎える日々も、もう2か月近くになる。
「涼しいー……」
海風をしばらく浴びた萌里は、窓を閉め、スマホを片手に階段を下りる。
台所の前を通ると、油の沸騰音が聞こえた。覗き込むと、三角頭巾にエプロンを身に着けた哲郎が朝食を作っている。
「おはよー」
「んおお、起きたか!あと少しで出来るからユキト君を呼んできてくれんか」
「わかったー、何処にいるの?」
「ガルガンダのとこじゃろう。整備するとか言ってたのぅ」
「てことは…裏の雑木林か」
「そんなだらしない格好しとらんと、ちゃんと着替えるんじゃぞ」
「わかってるよーー」
表情を歪ませながら萌里は台所を後にし、玄関でスリッパに履き替えて庭へ出る。
祖父・哲郎の家の裏には広大な雑木林があり、大きな物を隠すには絶好の場所だ。
腰まである木の扉を開け、雑木林に入ると目の前に膝立ちで鎮座する鉄の巨人――ガルガンダがあった。
赤い胴体に白い装甲。戦闘の傷や凹みが痛々しく刻まれている。
黒く跳ねた汚れは、戦いの返り血だ。
「おはよー!居るー?」
萌里の声に、空いたコックピットからユキトが顔を覗かせた。
「おはよう、飯の時間?」
「そーだよ!呼んで来いって言われたー!」
「わかった。もう少ししたら行くよ」
ユキトはガルガンダのパイロット。年齢は萌里と近いが、育った環境のせいか話が合わないことも多い。
さらに、彼はこの時代の人間ではないのだ。
「…顔すっごい汚れてない?」
覗き込むユキトの童顔に油のような黒い汚れがついていた。
「整備してるんだよ」
「朝からよくやるよねぇー」
萌里は感心しながらも、朝の低血糖で少しぼんやりしていた。
ユキトは顔を引っ込め、作業に戻る。
一人取り残された萌里は、しばらく無言で考えた後、コックピットハッチから伸びる搭乗ワイヤーに足をかけ上がる。
重さを感知すると自動で引き上げてくれる賢い機能だ。降りるときはワイヤーを引っ張れば下まで行ける。
「…うっわ?!ちょ、なにこれぇ…」
コックピットに上がった萌里は思わず声を上げる。
これまで何度かガルガンダに乗ったことはあったが、人間二人が動けるかどうかの狭さが、工具や配線でさらに狭くなっていた。
天井や床のハッチは片っ端から開き、大小さまざまなパイプや配線がむき出しになり、踏む足場もなく、一人で動くのがやっとの激狭空間に変わり果てていた。
「”いざというとき”のために、いろいろやってたんだよ。配線つなぎ直したり、プログラムパッチ当てたり、再起動したり」
「ひえええ~…ってか、線の数100個以上あるよね…」
「367個だよ」
「ええ?!これ全部戻せるの?」
「なんとなく覚えてる」
「えぇ…全部戻すのでも気が遠くなりそう…」
「……」
「え、な、なに?」
「元気出た?」
「え?…あっ」
ユキトは、ここ最近の萌里の元気のなさを気にかけていたのだろう。
数週間前、信頼していた担任・飛永が実は萌里を狙うスナイパーだったことが発覚し、静止を呼びかけるも最後は自爆で終わった。その後、残骸や遺体の回収をするためガルガンダや哲郎の知り合いの慎太郎に頼み海底捜査隊まで動員したが結局見つからず、捜査は2週間で打ち切られた。
その事件以来、萌里は口数が減り、どこか沈んだ雰囲気を纏っていたのを、ユキトは見逃さなかったのだ。
「珍しいよね、気にかけてくれるなんて」
「飯食わせてもらってるし、服とか買ってもらったから、心配するくらいしといた方がいいと思ったんだよ」
「らしいね、そういうところ」
ハハッと笑った後、萌里は小さく重い溜息をこぼす。
「私ってさ、人を見る目ないのかな」
「どうしてそう思うの?」
「飛永先生も言ってたじゃん…”見えているモノが全てとは限らない。人間の本質を見抜けるような大人になりな”…ってさ」
太陽が昇り始める時間帯、山の日陰は田園を覆い、奥の海面は光を反射し静かに揺れている。
ガルガンダのコックピットから見下ろす景色は、萌里のもやもやした感情を包み込み、日常の穏やかさを取り戻すように映っていた。
「親にも見放されて、先生にも騙されて…踏んだり蹴ったり」
萌里はコックピットハッチの端まで行き、静かにガルガンダの顔を見上げる。
「私も戦えば、いろんなこと忘れられるのかな…嫌な事、苦しい事、辛い事全部…アンタみたいに強くなれるのかな」
飛永の一件から時間は経ち、心は徐々に落ち着きを取り戻し、気持ちの整理も始まっていた。
しかし、ふさぎ込んでいた自分を思い返すと、心に余裕はなく、後ろ向きな考えが重くのしかかっていた。
萌里は、落ち込んだ自分を奮い立たせる強い心が欲しいと心に留めていたのだ。
「考えたり、思ったりすることって、高等な生き物にしかできないことだよ」
「そうなのかな…」
「感情は大事にした方がいいよ。無いと不便だし、俺みたいになるから」
「………俺みたいにって、どういうこと?」
疑問が浮かんだ萌里が尋ねると、ユキトは再び小型端末を片手に配線の繋ぎ直し作業に没頭した。
その集中ぶりは凄まじく、話しかけるのもためらうほどだ。萌里は、他人の領域に踏み込むべきでないと自制し、言葉を飲み込む。
「…それ、難しい?」
「うん、わかりづらい。いつもアルテミスでやってもらってたから」
「度々アルテミスって出てくるけど、拠点か何かなの?」
「そうだよ。整備と修理をやってくれる、そこに仲間もいるよ」
「仲間……気になってたんだけどさ、こっちに来ちゃったわけじゃん?向こうで心配してるんじゃない…?その仲間の人とか、大切な人的な人?みたいな!」
「どうだろう」
「えぇ…仲良くないの?」
「飯食べたり、模擬戦したり、力試ししたり、筋トレしたり、掃除したりはするよ」
「めちゃくちゃ仲いいじゃん?!」
初めて知るユキトの交友関係に、萌里は意外さを感じた。
表情を変えず淡々と話す彼が、未来の世界でどんな人間関係を築いているのか、少なからず気になる。
「けどさ!大切な人は心配してるんじゃない?急に姿消したんだし!」
「大切な人…?」
「えっ?!あ…いや、いや!変な意味じゃなくて!」
顔を赤くしながら、両手をぶんぶん振り否定する萌里の心は焦りでいっぱいだった。
「そのっ、ホント違うから!深い意味ないから!」
「あんまりいないかな」
「えっっ?!!そうなの?!あっ…」
必死にごまかそうとバタバタ歩き回っていた萌里は、コックピットハッチから右足を踏み外し、姿勢が傾いて落ちてしまう。
即座に手を伸ばすユキトだったが、わずか数ミリ届かない。
同時に動力のタービンが稼働する音が鳴り、次の瞬間、萌里の背中は大きなもので覆われ、落下が止まった。
恐る恐る目を開けると、体はガルガンダのマニュピレーターにすっぽり収まっていた。
「えっ、うそ。どうして…?」
「……」
ユキトはコックピットから、キョトンとした顔を覗かせる。
「助かった~、ありがと!もしかして動かしてくれた?」
「……俺じゃない」
「え…?」
「コレーッ、何をやっとるかッッ!朝飯の時間じゃぞ!!」
真下から怒鳴る声が聞こえた。見下ろすと、三角頭巾にエプロン姿の哲郎が、お玉をブンブン振りながら呼びに来ている。
萌里とユキトは、不可解な謎を抱えたまま朝食へ向かうのだった。
日本の遥か上空を飛ぶ物体の存在があった。
巨大な長細い黒い戦艦は、一定時間ごとに鈍い金属音を放つ。それは、戦艦の動力に使われるエンジン機関の冷却ヒートシンクが稼働する音だった。
「ようやく安定稼働か。最初は挙動が怪しかったが、古代のポンコツも直せば十分使えるもんだな」
戦艦のブリッジ前列、船体の状況や操舵を担当する席に座る、顔中継ぎはぎだらけの男性は、満足そうにモニターを眺めていた。
「乗り心地も悪くないですね~。カビ臭いのなんとかなりません?シャワーの水も濁ってるんです」
黒い制服に片目隠しのツインテールの少女は、先ほど完成させたネイルを見ながらニヤリと笑う。操舵席の反対側、兵装武器やレーダー探知機の操作席に足を投げ出し、行儀悪く座っていた。
「文句言うなよ。プレハブ小屋生活から一気に大豪邸並みのマイホームに引っ越したんだぜ?家賃も税金も取られない、夢の暮らしだ」
汗だくで筋肉隆々の男性がブリッジに入ってきた。モヒカンヘアーに、顔面を横断する大きな傷。最近まで刑務所に服役していた彼は、過去に通り魔事件を起こしていた。
「デカメロンさん、汗は拭いてください。床が汚れるし、臭いです」
眉を歪ませるのは、ブリッジ左の管制操作席に座る長身の男性。七三分けの前髪に伊達メガネ。潔癖症で、過去に大手企業のサーバーに侵入するブラックハッカー活動をしていた。
「ケッ、パソコンカタカタしてるだけのオタクが何言ってやがる。舐めた口きいてると指バキバキにすんぞ!」
「スーツに汗染みます。離れてください。この船のシステム管理や操作、修復は私がいなくなったらどうするんですか?筋肉しか脳のないあなたじゃ動かせませんよ」
「んなもん、バチーンって叩けばなんとかなるわい!」
「昭和のテレビじゃないんです。筋肉で会話せず、頭使え」
「んだとぉッッッ!」
「さっそく始まりましたね。頭脳派の万丈さんと、筋肉体力型のデカメロンさん、全く違うタイプです」
「ヨヒカちゃん、他人同士が争うの見るの好きだよなー?性格悪いぞ」
「違いますよ、浦部さん。人間観察です。カスな人間がどう争い、殺し合うか…観察するのが好きなんですっ」
狂気じみた笑みを浮かべるツインテール少女ヨヒカに、操舵担当の継ぎはぎ顔・浦部は引き気味に突っ込む。
「随分と騒がしいな」
黒いフードを被った男性がブリッジに入る。
「嵐着、そっちはどうだった?」
「どうってことない。あの”赤い石”のおかげだ。普通なら資材や部品込みで修理費が莫大になるところだが、石を使えば時間はかかるが壊れた個所を再生してくれる」
「協力者という方からもらった”あの石”ですね?」
「協力者…というより、オレ達のボスだな」
『その通り』
巨大モニターにボイスオンリー表示。髑髏と名乗る声が響いた。
『嵐着君とは何度か顔を合わせているが、他の方々は初めましてかな?ワタシは髑髏という者です』
「顔出しなしかよ…気味悪いな」
「話は伺っています。顔を見せていただければ信用できるんですが…」
『顔を出さずとも信頼は与えられる。理由があってこのまま失礼する』
髑髏は続けた。
『君たちの乗る船は、失われた文明の遺産”エントノイス号”。今の技術より発達した文明が作った半永久機関を持つ駆逐戦艦だ』
「何から何まで整えてもらってな、おかげで時間短縮できた」
『君の意志に惹かれたからだ。手を貸したいと思ったのさ』
低い声に嵐着以外は息を潜め、二人の会話を聞く。
『君たちは同じ思想で行動する同盟、そうだろう?名は…』
「”判決者”…ここにいるのは人間社会から外れ、訳ありの者ばかりだ。同じ意志を持つ者同士が集った。理念は一つ…人類の抹消と世界の破壊」
『あぁ…すばらしい。その目は狂気のそれだ。君はよっぽど現世界が嫌いと見える』
嵐着の赤い瞳は血走り、内に抱える想いを体現していた。
「政治だ金だ横領だ争い、大衆が見ている前で言葉をぶつけ合う。弱者を虐げ、偽善を装う。人間は果てしなく賢く、底知れず愚かだ」
「だからこの腐った世界を壊す。木っ端みじんに。愚かな人類は滅ぼす。そしてオレ達が新しい世界を作る…ジャッジメントエンドが下した判決だ」
『ククク…素晴らしい思想だ。そのために船と戦う器を授けた。しかし、実現には材料が必要だ…まずは”カギ”を手にする必要がある』
サブモニターに一人の少女の画像。
『田辺萌里、17歳。彼女を支柱にすることが、我らの思想を実現する”カギ”だ』
「この女の傍には妙な男がいる。馬鹿強いだけでなく、白いロボットも持っている」
『あの男、ユキトが操るのはガルガンダ。伝説のフレームアーマーの一機だ。高出力動力を持つ。警戒すべきは”隠された力”』
「力…?」
『アーマーフレームは特殊機構を持つ。個体によっては大陸破壊レベルの威力を秘める。操作は非常に繊細で、人間の身体に大部分を委託する”サテライト”システムがある』
「通りで…動きは人間みたいだった。強かったな」
『君の機体”ロスガンドス”にも精密操縦システムを与える。サテライト以上のモノだ』
「はっ。期待してるぜ、ボス」
ヨヒカが嵐着に話しかける。
「へー、嵐着君が言うってことは、その男結構強いんですね。ワタシが相手してもいいですか?」
「やり方が卑劣だから却下」
「ならおれがいくぜ!手応えあるんだろ?!」
「汗臭いから却下でス」
「んだと!」
「喧嘩すんなよ!ガキかお前ら!」
ブリッジでじゃれ合う中、髑髏は話を進める。
『まずやってもらいたいことがある。詳細は後ほど。連絡は端末に送信する、いつでも確認できるようにしておけ』
「あぁ、わかったさ」
『ではまた』
巨大モニターの電源がぶつりと消え、静寂が戻った。
時刻は夜22時42分。
漆黒の戦艦・エントノイス号は、日本上空を低速飛行している。各地域の管制塔や飛行用レーダーに引っかからないよう、光学迷彩とレーダー干渉を防ぐジャミングを放ち、姿を消していた。
自動パイロットモードが操作を担っており、嵐着以外の全員は緊急時に備え各部屋で仮眠を取っている。
「右腕の反応速度、Cパターン6の8が限界か。これ以上は可動部に負担がかかる…」
「熱心ですねぇ」
静まり返る整備兼発艦ドッグで、嵐着は自身の機体・ロスガンドスのコックピットで微調整を行っていた。
パジャマ姿のヨヒコが顔を覗き込む。
「寝たんじゃないの?」
「寝れなかったんですっ。嵐着君にUNOの相手してもらおうと部屋に行ったら、居なかったので…ここだと思って来ましたっ」
「悪いけど手が空いてないんだ。こいつの調整で忙しい」
ほっぺを膨らませていじけるヨヒコ。帰ろうとしたその時、スリッパに何かが当たった。視線を落とすと、首掛けの青いブローチが落ちている。フタが開いており、中の写真には笑顔でピースをする男女が映っていた。
「それ、返してくれないか?」
振り向くと、コックピットから手を伸ばす嵐着の姿。普段は冷静沈着な彼だが、今は少し焦っているのが分かる。口調も早い。
「落ちてましたよっ」
「サンキュー」
嵐着はブローチを受け取り、ズボンのポケットにしまう。再びメインディスプレイに手を戻す。
「……」
ヨヒコは言葉を押しとどめた。写真に映る人物について、今聞くべきか迷っている。
「何か聞きたそうだな?」
「……聞いても良いですっ?」
「言ってみろよ」
「写真の人、誰なのですっ?」
「教えねぇ」
「えぇえ?!教えるって言ったじゃないですかっ!」
「聞きたそうだから、聞かせただけ。答えるとは言ってない」
ほっぺを膨らませて拗ねるヨヒコがぷんぷんしながら立ち去ろうとする。
「待てよ」
「なんですかっ!」
「写真に写ってたのは、彼女だ」
振り向くと嵐着はロスガンドス前の乗り込み専用橋の手すりに腰掛け、フードを取り素顔を見せた。黒いもじゃもじゃの髪、赤い瞳、そして顔の皮膚は異なる色の組み合わせで構成されている。
「顔がこんなんだから、人前にはあんまり出さない。オレは14の時、全身大やけどの重傷を負った」
「浦部君みたいに顔が継ぎはぎ…」
「キャラ被るだろ?まぁ、オレのほうが多分重症だ。体中焼けて、誰か分からん状態だったらしい」
嵐着は自身の顔に触れながら話す。
「顔の皮膚の半分は、さっきの写真の彼女のものだ」
「彼女ってて…付き合ってたですか?」
「あぁ、そうだな」
ポケットから缶ジュースを取り出し、差し出す嵐着。
「飲めよ。好きだろ、餅ココア」
少し照れながら小走りで近づくヨヒコは缶を受け取り、手すりに腰掛け隣に座る。袖から手を出し、缶のふたを開け一口小さく飲む。
「どこまで聞いていいのですっ?」
「とりあえず言ってみろ、NGなところは言う」
「じゃ…今彼女さんはどうしてるんですっ?」
「NGだ」
「えぇーー?!はやすぎます!」
「冗談だよ…居ねぇよ、死んだ。いや、殺された」
嵐着の目が怒りで鋭く尖る。
「だ、誰にですっ?」
「世界政府の連中だ」
重く長い溜息を吐き、肩の力を抜く嵐着。ゆっくりと顔を上げる。
「オレはあいつらが許せない。罪もない人間を殺しても平然と平和を謳う。偽善者の塊だ」
「世界保安機構政府…略称、世界政府。国や領土を超えて治安を守る組織…」
「表向きは正義だ平和だと動くが、裏では違法実験して人を殺しまくってる。そんな大量殺戮を他国は見て見ぬふりだ…」
「大問題ですよっ。本当なら…」
「本当だ。その証拠が…オレなのさ」
嵐着は頬に手を当てる。
「真実を知ったオレは、世界政府に焼き殺された。家に火をつけられ、縛られ、完全に殺しに来たんだ」
「ではその姿は…」
「世界政府がオレにつけた証拠隠滅の烙印。そしてオレは、地獄の底から蘇ってきた…復讐者だ」
赤い瞳に憎しみと恨みが滾り、口角は刃物のように尖り、不気味な笑みを浮かべる嵐着。
午前8時58分。
土曜日の朝。学校が休みの萌里は、日の出前から準備を済ませ、朝一で出発した。
車を運転するのはユキト。もちろん萌里は免許を持っていない。
峠を越え、ほぼ一本道を進む。気づくと助手席で眠っていた萌里が目を覚ます。窓の外には朝日に照らされた街並みが広がっていた。
「驚いたよ、運転するんだね?」
「あっちでも車が動かしてたから。タイヤの付いた車は初めてだけど」
「あっちの車ってタイヤないの?!」
「ないよ。半重力スラスターで車体を浮かせながら進む」
「ガソリンは使うの?」
「使わないよ、電気で動いてた」
「えぇ…未来の話、授業で聞いたことあるけど、900年後の世界じゃ本当に実現してるんだ…」
萌里は窓の外に広がる京都の街並みを眺め、未来の技術に感心していた。
ユキトは片側二車線の東大路通を進む。マンション、小さな店、古民家が並ぶ景色を抜け、渋滞で車は最後尾で停車する。
「朝だから混んでるなぁ…約束の時間までには着きたいんだけど」
「今から会いに行くのって、ファンってやつ?」
「そうそう。本当は個別に会うのは禁止だけど、以前サイン会に来てくれたお爺ちゃんがいてね。地方のサイン会や握手会にも来てくれてたんだけど、最近見かけなくなったの。で、手紙が届いてね、読んでみたら寝たきりで闘病中だって…」
萌里はゆっくり街並みを眺め、数十分前に買ったコンビニのコーヒーを一口飲む。
「余命宣告もされて、最後に握手とサインが欲しいって内容だったの。事務所に相談したら怒られたけど、今回だけ特別に許可もらえたの」
「ふーん」
ユキトは黄色いパッケージの携帯食料を開け、チョコ味のスナックをモグモグ食べる。
「ごめんね、付き合わせちゃって」
「別にいいよ。連中が狙ってくるかもしれないし、俺がついていくのは当然だろ」
「ガルガンダの整備は…?」
「ある程度終わってる。あと頼まれたんだよ。誰だっけ…」
「え?頼まれたって?お爺ちゃんに?」
「違う、街でアナグラに襲われそうになってた女二人」
「女二人…あぁ!みると仁菜?」
「たぶんそう」
「へー…ってか覚え方!仁菜はわかるけど、みる!!黒いのって肌の色で覚えてるだけじゃん?!」
「顔と名前覚えるの苦手なんだ。みんな同じに見える」
「人間に興味ないのか! で、何を頼まれたの?」
「おちょこちょいで方向音痴だから面倒みてあげてね、って」
「ぐっ!あいつら私のオカンか!!」
車は通勤ラッシュの流れに乗り、南へ向かう。数十分後、右手に四角い建物が並ぶ施設が見えてきた。
「京都…付属、医学…病院。ここだ」
ユキトはハンドルを切り駐車場に入る。車を降りた二人は歩く人の波に乗り、病院内へ。
「えぇ…ひっろ、でっか!」
白い内装に大理石の床、7階までの吹き抜け構造に萌里は驚く。受付で数分手続きを済ませ、首から下げるカードを持つユキトの元へ駆け寄る。
「6階の321号室だってさ。はい、これつけて」
「なにこれ?」
「許可証だよ。本当は朝からの面会はダメだけど、特別に許可をもらったの」
エレベーターで6階に上がり、ナースステーション前を通り個室へ。
「稲本…大五郎…ここだ」
コンコンとノックし名前を名乗ると、部屋の白い壁とシャンデリア付き天井、真っ白な床が迎える。萌里はベッド脇で何かを目にして足を止める。
「え…」
視界に入ったのは、ベッド下でうつぶせのパジャマ姿の男性。さらに赤い液体が体の下から流れている。
「倒れてる!!大丈夫ですか?!お医者さん呼んで!」
「……」
「ねぇ!ねぇってば!」
「でひゃひゃ!!驚いたか?!驚いたかえ?」
「死体がしゃべった?!」
「わしゃまだ死んどわんわい!!!」
赤い液体で染まった顔を見せ、ぴょんっと起き上がったのは白ひげの稲本大五郎。手紙には94歳とあったが、老いを感じさせない動きだった。
「何だ、びっくりした…その赤いのは?」
「ケチャップだよ」
「そうなの…?」
「匂いで分かった」
「え、それで…言ってよ!焦るじゃん!」
「普通の嗅覚じゃわかんないだろ」
萌里は怒り顔に。大五郎はニッコリ笑いピースをする。
「萌里ちゃんが来るからびっくりさせようと思ったんじゃ、大成功じゃの!」
「本当にびっくりしましたよ!難波のサイン会以来ですね、お久しぶりです」
「1年ぐらい経つかのぅ、相変わらず別嬪さんじゃ」
萌里が深々と頭を下げると、大五郎は笑顔を返す。
「容態はどうですか?余命宣告されたとお手紙で…」
「それについては私から説明しよう!」
バンとクローゼットが開き、白衣の中年男性が登場。
「おはようございます、担当医の大和です」
「どこから出てきたんですか?!」
「ずっとクローゼットでスタンバってたのさ」
「もっと普通の登場の仕方あるでしょ!」
「助手の池本です!よろしくお願いします!」
次に助手の池本が現れ、萌里は思わず声が出る。
「何この病院!?変な人しかいない!」
病室で起きる珍道劇を、ユキトは携帯食料をモグモグ食べながら、淡々と他人事のように眺めていた。
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「本来はご家族様にのみお話しするのですが、本人の強い希望で今回限り、ご家族以外の方にも病状と容態のお話をさせていただきます」
先ほどまでふざけまくっていた担当医・大和は、いつの間にか真剣な顔に戻り、手に持ったカルテに目を通し始めた。
「大五郎さんの症状は『老衰』です」
「ろう…すい…?」
「加齢により身体機能が衰弱し、最終的に生命活動の維持が困難になる症状です。初期症状としては歩行速度の低下、転倒回数の増加、食事量減少、体重減少、睡眠増加などが挙げられます」
「へーん!ワシはぴんぴんしとるぞい!」
大和の説明の隣で、大五郎は両手を上げガッツポーズ。現在の様子を見る限り、老衰の初期症状はほとんど見られない。
「大五郎さんの年齢になると現れる症状です。進行速度は個人差があります。延命治療を行う方もいます」
萌里は大五郎を見つめる。1年前会った時は汗をかきふっくらした体型だったが、現在はやせ細り、サイン会当時の面影はほとんどない。
ふと大五郎は病室の隅で後ろ手に立つユキトに声をかけた。
「アンタ、歳はいくつじゃ?」
「17」
「ほう…17」
大五郎はしばらくユキトを見つめ、静かに言った。
「………悲しい目をしておる」
ユキトは返答せず、大五郎の視線を受け止める。
「戦いの中で生き続けてきた目じゃ。若いのに辛い苦労を重ねてきたんじゃな」
何かを悟ったのか、大五郎の声が重く響く。
「死に急ぐなよ、若い戦士よ」
大五郎は重い溜息をつき、病室の窓の外を見つめた。
「お前さんは、戦争で死んだ親友と同じ目をしておる。歳を重ねると、昔のことばかり思い返すようになるんじゃよ」
ユキトは表情を変えず、黙って聞いていた。
「大きな木…」
「木?」
「わしは『あの木の下』で待ち合わせをした。6月26日の夜、一人の女性に伝えたいことがあると言われ…それからずっと、わしは待っておる」
「……」
萌里は眉をひそめ、困惑しながらも聞き続ける。
「名は『佐由子』という。赤色が好きでのぅ、また会いたいのぅ…」
「それって、何年前のお話なんですか?」
萌里が訪ねるが、返事はない。大五郎は窓の外を見つめたまま動かず、顔を覗き込むと瞼を閉じ、鼻先を膨らませ居眠りしていた。
ユキト以外の一同は、思わずズッこけた。
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「81年前…?!」
定期診察を終え、病室を出た二人は、6階の通路を歩きながら大和医師と池本助手から話を聞いていた。
「大五郎さんのお話は戦時中のことです。佐由子さんというのは、大五郎さんの想い人でした。約束はしていたようですが…当日、彼女は現れませんでした。物理的に不可能だったと思われます」
「物理的に不可能…?」
萌里は眉を寄せて問いかける。
「81年前の6月26日、京都で西陣空襲がありました。約300戸の家が消失し、43名が死亡、66名が負傷しています」
「じゃあ…約束の日に来なかったのは…」
「恐らく空襲に巻き込まれたのでしょう」
「大五郎さんは、今も来るはずのない彼女を待ち続けているんですね」
池本は窓の外に見える中庭の大木を見つめ、鳥の鳴き声と光に揺れる緑の中庭を静かに眺める。大和も窓の空を遠く見つめながら、言葉を紡いだ。
「本来なら自由に動くことすら困難な年齢です。しかし、不思議なことに症状が進んでいない」
「人間の生命力には、度々驚かされます」
その言葉が、萌里の胸に静かに響いた。
それから担当医の大和と助手の池本と別れた二人は、6階の休憩スペースで一息つく。
「定期検診が終わったら病室に戻り、サインを書いて撮影会。それで今日の用事は終わりだ」
「わかった」
自販機で買ったジュースを飲みながら、窓の外に広がる京都の街並みを眺める。萌里は勇気を出して口を開いた。
「…ねぇ」
「なに?」
「その…前々から言おうと思ってたんだけど、名前の呼び方!ずっと『アンタ』じゃ呼びにくいし…」
「ユキトでいいよ」
「そ、そか!じゃあ私も、萌里で!」
「わかった」
ユキトは窓の外を見つめ、缶を一口。普段と変わらぬ無表情で、今のやり取りにも特に興味を示していない様子だ。
「ずっと考えてたことがあるんだ…」
萌里はジュースの缶を指でなぞりながら、口を開く。
「生きるって、なんだろう」
「熱でもあるの?」
「ぐっ!真面目な話なの!」
無意識に炸裂するユキトのノンデリ発言に、萌里は思わず顔をしかめる。
「最後笑ってたのに…もう少し手が届きそうだったのに、どうして死ぬ必要があったのかなって」
萌里は天井を見上げ、重いため息をつく。
「大五郎さんも体はボロボロで余命宣告を受けているのに…おそらく約束のために抗っている。だから病状も進まないのかもしれない。会って話を聞いて、そう思った」
ユキトは窓の外を眺め、黙って聞いている。
「生きるって、なんなんだろう…」
「人生は旅だよ」
「旅…?」
「誰もが人生という道を歩き、時に分岐が現れる。その分岐を自分で選び進む。その過程が、生きるってことだと思う」
ユキトは携帯食料を一口食べ、言葉を続ける。
「あの爺さんは『約束』という選択肢を選び、限りある命に抗っている。俺たちも今、道の上を歩いている。この先、生きるか死ぬかも俺たち次第だ」
「死んだのは仕方ない、ってこと…?」
「そうだよ」
「言ってることはわかるけど、ちょっと納得できないかも…」
萌里の手に力が入り、缶を握り締める。
「いつか分かる時が来る。俺もそうだったから。それか自分なりの答えを見つけるといい」
「またそれ…?」
萌里は前にも聞いた気がして、重い溜息をつく。
「そういえば…ユキトはどうしてアナグラと戦ってるの?」
その問いに、ユキトは答えなかった。
だが、窓の外を見つめるユキトの瞳には、息を飲むほどの殺意が宿っていた。萌里は初めて、彼の恐ろしい一面を目の当たりにする。口を開くことすら重く感じるほどの圧に、言葉を出せない。
それから数十分、二人の会話は途切れたままだった。
「…時間かな。そろそろ戻ろう。診察、終わってるかも」
「わかった」
萌里はふと、ユキトがいつもの無関心な調子に戻っていることに気づく。休憩スペースを後にし、大五郎の病室へ向かおうと歩き始める。
「ん?どうしたの?」
後ろを歩いていたユキトが、突然立ち止まり窓の外を見下ろす。視線の先には、中庭の大木の足元に、小さな人影――全身真っ白の姿があった。
「あれは…」
「えっ、なにあれ…?!」
萌里が驚きの声をあげた瞬間、ユキトはためらいなく走り出す。
「ちょ、待って!」
ナースステーションを横切り、エレベーター横の階段を駆け下りるユキト。その背を追う萌里だが、常人離れしたユキトの速度には追いつけず、距離が開いていく。
「こっちか」
1階に降りたユキトは通路を右に曲がり、中央病棟と東病棟を繋ぐ屋根付き通路から中庭へ飛び出す。
既に全身白の人物は、下半身が地面に埋まるようにして立っていた。ユキトの姿を見つけると、何かを訴えるような目でじっと見つめる。その首から下げられたペンダントには、赤く光る石が輝いていた。
ユキトが一歩踏み出し、手を伸ばす。だが――全身白の存在は、地面に吸い込まれるように消え去り、目の前から完全に姿を消した。
「ちょっと!はやすぎ…はぁ…はぁ…」
後から駆けつけた萌里は、息を切らしながら立ち止まる。
「さっきここにいた白いやつ…首から下げてたペンダント、赤い石だった」
「赤い石…えっ、まさか?」
「あの光り方…アナグラ核、赤い石……この木の下か」
中庭に佇む大木は、静かに、しかし何かを秘めているかのように揺れていた。
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「はい、チーズ!」
病室に戻り、診察を終えた大五郎の隣で萌里がピースサインをしながら声をかける。ユキトは携帯のシャッターボタンを押す。
「若い子はええのぅ!元気が貰えるわい!」
「良かったです。サインはどこに書きましょうか?」
「ここに書いてもらおうかのぅ」
大五郎はズボンとパンツを半脱ぎ状態で萌里にお尻を向ける。
「やさしくするんじゃぞ♡」
「警察呼びますね」
「まて!はやまるな!じじぃジョークじゃ!」
曇りがかった笑みを浮かべながら携帯で番号を打とうとする萌里に、大五郎は必死に弁解する。
「はーれま、まーたやっとるな」
扉の方から声が聞こえ、振り向くと入院用の衣服を着た年配の方々3人が顔を覗かせていた。
「騒がしいから見に来たら、お客さんかえ」
「はれー、えらい別嬪さんがおるの」
「アンタ!雑誌で見たことあるよ!モデルさんだよね?」
「え、えぇ、一応…」
「稲本さん、ずーっと会いたい言うとったさけ、良かったなー!」
「写真撮ってもろたぞ!ええじゃろ!」
「なぬ!?わしも撮りたい!撮りたい!」
「伊藤さんッ、駄々こねないで!」
「みっともないねぇ~男ってのは歳重ねても子供じゃ」
いつの間にか萌里とユキトは、年配の方々と大五郎に囲まれ、話の輪の中心になっていた。
「こ、こちらの方々は…!」
「隣の病室のやつらじゃ。病院生活が長いと、知らんもん同士でも繋がるもんなんじゃ」
「ここにおったら退屈せん!家に居ったら息子夫婦がうるせーうるせー!」
「出た出た、とめさんの愚痴が始まったぞぉ」
「こうなったら止まらんからな」
萌里は最初、借りてきた猫のように縮こまりながら周囲を見ていたが、次第に雰囲気に慣れ、相槌を打てるようになってきた。
「あたしは先がないさけな、最後くらいこうして楽しく話せる友達が出来るだけでうれしいんや」
「バカ言うなよ!おれが先に死ぬんだ!とめさんは心臓に毛が生えとるから長生きするわい!」
「なんやとタカ!」
「まぁまぁ~落ち着いてみんなっ」
「だってよ、ウメさん。年金勝手に使ってた息子の顔を殴るようなやつやで?ホンマに心臓病なんかー?」
「おいおい、ここはワシの部屋じゃぞ~?喧嘩はよそでやってくれんかのー?」
少しずつ盛り上がる会話に、萌里はクスっと笑う。隣のユキトは相変わらず無表情だが、珍しく大五郎たちのやり取りを眺めていた。
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昼頃、一旦大五郎の病室を後にした二人は、病院の目の前にある定食屋で昼食を終えた後、カウンター席に座り携帯で周辺の地理を調べていた。
「……なるほど、昔この辺りには避難用の防空壕がいくつか作られてたみたい。だけど爆の投下予定都市から外されたから使われなくなったって書いてあるわね」
「防空壕って、地下シェルターみたいなもの?」
「うん、そうね。戦争後は埋められて今は残っていないはずだけど…」
「でも、1個だけ残ってるぞ」
その時、落ち着いた口調で会話に割り込んできたのは、カウンター奥で麺を湯切りしていた定食屋の店主。白い服と前掛け、鉢巻に長靴姿で、見るからに貫禄があった。
「病院の裏手に雑木林があるだろ。その中に小さな祠があってな、そこに階段がある。降りて進むと、戦時中の大きな防空壕が残ってるんだ」
「今も行けるんですか?」
「行けるには行けるが、辞めといたほうがいい」
「どうしてです?」
「出るからさ」
「出るって……?」
「幽霊だ」
萌里は硬直し、口元がガタガタ震えた。
「心霊は無理そうだな、嬢ちゃん。昔から幽霊が出るって噂で、中には襲われたやつもいるらしい。悪いことは言わん、辞めときな」
「えぇ……だ、だってさ。どうするの?」
涙目の萌里に、ユキトはデザートのプリンを最後の一口で飲み込みながら答える。
「行こう」
「聞いてた?!幽霊でるって言ってたじゃん!」
「俺には関係ない」
「私にはあるの!」
「お会計よろしく」
「あ、はい」
伝票を渡された萌里は会計を済ませるとユキトと共に定食屋を後にする。車通りが多い交差点が青になったタイミングで渡り、病院前を経由して裏手にある雑木林の入り口まで来た。
「昼間なのに道の先が妙に暗いんだけど」
「いいじゃん」
「ここだけ妙に風が冷たいっていうか…」
「気のせいだよ」
「ホントに行くの…?」
「行くよ」
ユキトは暗く不気味な林の道を堂々と歩き出す。萌里は恐怖で縮こまり、ユキトの服の裾を掴み後ろに隠れながらついていく。奥に進むと街の喧騒は遠くなり、風は肌を刺すほど冷たく、まるで別世界に迷い込んだようだった。
「さっきまで暑かったのに急に寒くなった…」
「なにかある」
「え…?」
やがて二人の前に古い木造の祠が現れる。時間の経過で塗装は剥げ、腐敗も進んでいた。
「これが祠…だよね。扉を開けるの?」
「あけよう」
「ねぇえ!もうちょっと躊躇って?!」
ユキトは躊躇なく扉を開け、萌里を案内して床に設置された梯子から地下通路へ降りる。通路は80年前のものとは思えないほど整備されているが、壁や天井には経年劣化が見られ、鉄筋がむき出しになっている箇所もあった。
「当然進むよね?」
「当たり前じゃん」
歩いて数分、ユキトが突然立ち止まる。進行方向の奥に、かすかに浮かぶ人影があった。
「ゆ、幽霊…?」
「違う」
人影は変化し、形を成す。
「中庭で見た全身真っ白の…」
その存在は背を向け、暗闇に消えていく。ユキトの後ろを萌里が追いかける。数分歩くと、奥からかすかな光が見え始めた。
「……ここは」
二人がたどり着いた先は、大部屋。高さは約6メートル、年季の入った照明が光り、古めかしい壁や床は年月を感じさせた。
「これが防空壕…ん?」
壁の片隅に、半分埋まった黒い長細い金属の塊を萌里が見つける。
「ねぇ、あれ…なに?」
「資料で呼んだことがある。たぶんこれは…爆弾」
「ば、爆弾?!ってことは…不発弾?」
「うん、81年前の戦争で使われてたと思う」
全身真っ白の存在は、天井の方を指さし、ユキトに意思を伝える。
「上にも同じものがある」
「ホントだ」
「これをどうにかしてほしくて、呼んだんだろ」
萌里が赤い石に気づき、首からかけているものはアナグラの赤い石ではないことに気づく。
「そうなんだ…」
安堵する萌里をよそに、ユキトは不発弾をじっと見つめる。その瞬間、ズドンという重い轟音が響いた。
「今のなに?地震…?」
「違う」
ユキトはそのまま走り出し、防空壕を後にする。
来た通路を戻り、梯子を上って祠を出ると、二人は走って雑木林を抜け街へと出た。振り向くと、ズドンという地鳴りのような音が聞こえた方向に、信じられない光景が広がっていた。
昼下がりの京都、交通量もそこそこある大通りを、巨大な影が悠々と横断している。病院の建物よりも大きなその存在は、全身真っ黒の装甲に胸部中央には赤く光る石を持ち、顔はほとんど脳のような形で形成され、あちこちについている目がギョロギョロと絶えず動いていた。
「アナグラ……」
「ちょっとちょっと、どうなって……うわっ、あれってまさか…なんで京都にまで……」
困惑と焦りで言葉を失う萌里。建物を破壊し、車を踏みつぶし、信号や電線をなぎ倒しながら進むアナグラ。病院との距離は目と鼻の先ほどしかなく、逃げ惑う人々の悲鳴が渦巻く。
「どうしよう、ユキト!病院の中にはまだ沢山の人がいるのに…大五郎さんが!他の人達も…でもガルガンダもないし……あーーもう!どうすればいいの!」
パニックに陥る萌里の横で、ユキトはただ黙って迫るアナグラを見つめているだけだった。
その時、萌里の携帯が鳴った。
「誰よこんな時に!はいッもしもし!」
【おー繋がった!オレだ、慎太郎だ!】
「慎太郎……あっ!おじいちゃんの友達の?なんで私の番号知ってるの?!」
【説明は後だ、そこにユキト君は居るか?居るならかわっとくれ】
萌里はユキトの肩をトントンと叩き、スマホを渡す。
「もしもし」
【あと4分で現着だ、場所はどこにする?】
「京都付属医学病院にアナグラが出てる。そいつに落としてほしい」
【な、なんじゃと?!また出たのか…ん?なんといった今?!オメーそんなことしたらぶっ壊れるぞ!】
「落として」
【正気か……うう~~~ん………どうなっても知らんぞ!】
「いいよ」
ユキトは通話を終了し、携帯を萌里に返した。
「なに?何話してたの?」
「……」
「…え?」
鳴り響くクラクション、逃げ惑う人々。街中は瞬く間にパニックの渦に包まれる。その中で、ユキトは黙って空を見上げる。
もうすぐ病院に接触するという状況下で、彼の冷静すぎる行動に萌里は首をかしげる。そして視線を追う
すると昼下がりの京都の空の向こうから、姿の見えぬ彼方から、低い唸りが空を震わせる。眼に映るその姿、灰色の巨影がゆっくりと雲を割って現れる。戦闘機の鋭い悲鳴とは違う。遠雷のように重く、じわじわと迫る音は巨体の到来を告げる。
「飛行機…え、あれって…」
近づいてくる灰色の巨影の真下には、見慣れた人型がつり下がっている。ユキトと萌里の真上を通過すると同時に吊るしていたアンカーリフトが解除され投下された人型は京都の空を縦に突っ切り、病院付近まで近づいていたアナグラの頭の上に着弾、ドゴォンっという地割れのような音と衝撃風が周囲の建物や人を襲う。
「どうして、ここに…」
萌里は驚きのあまり声を失う。粉塵が晴れると目に映ったのは、空から投下される形で舞い降りた人型が真上からアナグラをアスファルトに押さえつける姿だった。
「…ガルガンダ」
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地面の粉塵をまとい、ユキトはガルガンダに近づいた。
手を引いて萌里を後部座席に座らせ、自身もシートに腰を下ろす。
天井の円形コンソールから光が射し、脳に直接アクセスするような感覚が走る。
真下でタービンがキィィンと回転を始めた。
メインディスプレイを操作すると、全天型モニターが順に起動。
後方から周囲の映像が投影される。
「事前に連絡を取ってたの?」
「うん、病院の電話で」
「用意周到……さすがぁ」
感心する萌里をよそに、ユキトは操縦桿を上に引き、フットブレーキを踏む。
ガルガンダを押さえつけつつ、アナグラの上から距離を取った。
「病院にはまだ避難できていない人がいる。体の不自由な人は振動だけでも危険だ。中庭の下には不発弾も……」
「衝撃を与えたら爆発する可能性がある」
「そうなったら甚大な被害が出る……よね?」
「出るよ」
ユキトは淡々と答え、アナグラに視線を固定した。
アナグラが姿勢を落とす。
道路のアスファルトを蹴り上げ、突進してくる。
「舌噛むよ」
ユキトは操縦桿を前に押し、フットブレーキをべた踏み。
スラスター噴射。
両腕で突進を受け止める。
ドゴンッ。
衝撃がコックピットに伝わる。
後部座席の萌里も前後に大きく揺さぶられた。
振動が脳まで届く。
「凄い力だな」
ユキトは冷静に操縦桿を操作。
ガルガンダは上体を後ろに反らせ、頭突きを叩き込む。
怯んだアナグラの懐に踏み込み、右手のパイルバンカーで頭部を粉砕。
「やった!」
「違う」
頭部を破壊され、アナグラはさらに後ろに下がった。
だが首の周りにある、脳のような奇怪な塊がミチミチと水音を立てて動く。
形を変え、首の断面から骨が形成され、血管や肉が巡る。
瞬きの間に、頭部は復元された。
「再生した?!」
「あの首周りの目玉みたいな塊が一つ減ってる。あれで頭を再生してる」
「じゃあ……あれをなんとかすれば…!」
間合いを詰めるアナグラ。
コックピットのモニターに拡大表示される。
右拳を振り上げ突き出すが、ガルガンダは右マニュピレーターで受け止めた。
衝撃が機体に伝わり、各所で軋む音が鳴り響く。
アナグラの拳による風圧が衝撃波となり、周囲に広がる。
電線は切れ、窓ガラスは吹き飛ぶ。
人々の悲鳴が上がる。
「このアナグラ、パワータイプ……?」
「そうだ。暴れ出せば街は消し飛ぶ。俺はここから動けない」
「え、どうして……」
萌里は驚く。
ユキトの視線の先には建物群と、先ほど食事をした定食屋、京都付属医学病院。
病院は無傷だ。
「まさか、病院を庇って……?」
「守りたいんでしょ」
「え?」
「違うの?」
「ま……守りたい、守りたいよ!」
「ならこれでいい」
萌里はコックピット内の映像に目を向ける。
ガルガンダの立ち位置から、アナグラの拳の衝撃波が後方に届かないよう、アスファルトにしっかり跡が残っている。
「ガルガンダを盾に……」
拳による猛攻が続く。
耳を劈く轟音が連続で鳴り響く。衝撃波は周囲の建造物を叩き壊すように襲う。
足元のアスファルトに亀裂が刻まれ、右と左の腕で拳を防ぐガルガンダのコックピット内に、エマージェンシーシグナルが鳴る。
右モニターにステータス画面。
「The right arm’s joints and actuators are all damaged…右腕稼働各部破損?」
「そうみたい」
「そうみたいって……」
焦る萌里。
戦場をくぐり抜けたユキトとは対照的だ。
萌里は違和感に気づく。
「武器は!いつもの背中の武器で!」
「使えない」
「どうして?」
ユキトの視線の先。
病院の後ろ、雑木林前の交差点に逃げる一般人。
「武器を使えば巻き込む」
「そんなことまで……」
ガルガンダの右腕が砕け散る。
ユキトは左のレバーを引き、破損した右前上腕部をパージ。
右足蹴りでアナグラを蹴飛ばす。
「噴射ガスは残り僅か。左腕も損傷。避難民もいる。後ろは病院。自由に戦えない……迂闊に動けない」
状況を冷静に分析しつつ、アナグラの動きを観察。
立ち上がろうとするアナグラの動きが止まった。
手足はもがくが、体は動かない。
「……」
ユキトは意識を絶やさず観察。
動けるようになったアナグラを見て、何かに気づき目を見開く。
フットペダルをべた踏み。
スラスター噴射。
アナグラの前で右に大きく回避。
アナグラも反撃の姿勢を作る。
その瞬間。
左膝が鈍い音とともに折れ、崩れるアナグラ。
ガルガンダは右足と左腕で顔面と首回りの塊にパイルバンカーを連続打撃。
怯んだところで、背中のコンボウトウを左手で取り出し、顔面目掛けて突き刺す。
「おぎゃあああああ!」
甲高い悲鳴が街に響く。
コンボウトウを深く突き刺し、パイルバンカーで残りの装甲を破壊。
赤い血が建物や電柱、車に飛び散る。
アナグラは動かなくなった。
上半身、下半身ともに内臓と肉の塊と化す。
沈静化成功。
「すごい……」
萌里は唖然。
ガルガンダはアナグラの核となる赤い石を拾う。
色は黒く変わり、粉々に砕け、塵となって風に乗り消えた。
「…」
萌里の目に映った。
近くのビル、アナグラの衝撃波と風圧でかろうじて残った窓ガラスに、血まみれのガルガンダが映る。
まるで悪魔の姿だった。
「…」
ユキトはモニター越しに、ガルガンダの真下に気配を感じた。
視線を向けると、そこには全身真っ白の存在が立っている。
無機質な白。
体は徐々に崩れるように剥がれ落ち、人の姿へと変化していった。
「え、なになになに!どうなってるの…」
後部座席の萌里は理解が追いつかない。
変化後の姿は、白い服にダボダボのズボン、おかっぱ頭。
今の時代とは合わない格好だった。
「女の子?」
「アンタでしょ、さっきアナグラの動きを止めたの」
「え…?」
全身真っ白の存在から変わった女の子を見つめるユキト。
操縦桿を操作し、ガルガンダをしゃがませ、膝立ちの姿勢にする。
左手のマニュピレーターを開き、乗るよう促す。
「ユキト…?」
行動が読めず萌里は戸惑う。
女の子がマニュピレーターに乗ると、ガルガンダは立ち上がり病院へ向かって歩き出した。
「ちょっと!そっちは病院!」
「大丈夫」
病院敷地に入り、駐車場を歩くガルガンダ。
遠目で避難民が多く見えるが、気にせず前へ進む。
とある病棟の前で立ち止まった。
「ここって…」
萌里はモニターに映る部屋を見て、見覚えがあった。
驚きの表情でぽかんとする大五郎も確認できる。
ガルガンダは左マニュピレーターを、大五郎の病室の窓位置で固定した。
「行きなよ」
《…ありがとう》
女の子はマニュピレーターから飛び出し、窓をすり抜け病室に入る。
「どういうこと…?」
「さっきアナグラの動きが一瞬止まったでしょ。あれはこいつがやってくれたんだよ。動きが止まらなかったら、アナグラの膝に負担がかかってて潰れやすくなるのもわからなかった」
「…そっか。だから急に横に移動したんだ。それで膝に負荷をかけ、崩すことができたのね……ところで、あの女の子は何?」
「これからわかるよ」
ユキトはモニター越しに、病室での女の子と大五郎のやり取りを見守る。
普段他人に興味を示さない彼も、珍しく視線を注ぐ。
萌里も静かに見守った。
***********************************
「あわわわわわわ! なんじゃおまんは!」
病室の窓をすり抜け、ひとりの少女が現れた。
重力を無視するかのようにふわりと宙を漂い、やがて音もなく床に降り立つ。
その唇には、小さな微笑み。
「た、たたりじゃ! わしゃまだ生きたい! 命だけは……命だけはぁ!」
《……随分と待たせちゃったね》
少女は大五郎の顔をまっすぐに見つめた。
皺に覆われたその姿は、彼女の記憶の中の少年とはかけ離れていたが、関係なかった。
怯えて両腕で顔を覆う大五郎に、少女は首から下げた赤い石のペンダントをそっと掲げてみせる。
《遅れてごめんね。やっと来られたよ》
「な、なんじゃ……?」
《……大きな木の下で待ち合わせの約束をした日。
わたしは、六月二十六日――京都の西陣空襲に巻き込まれて、行けなかったの》
「……え……」
忘却の底に沈んでいた記憶が、光を浴びるように蘇る。
あの日、あの木の下で待ち続けた自分の姿が、鮮烈に胸に戻ってくる。
「ま……ま、まさか……おま……!! 佐由子……佐由子なのか?!」
《……八十一年ぶりだね、大五郎さん》
「ああ……あぁぁ……ああああああああああ!!」
大五郎は心の奥底からあふれる感情に押し潰されるように叫び、
涙を滝のように流しながら、その場に崩れ落ちた。
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そこに立っていたのは、若き日の大五郎だった。
鼻を垂らし、帽子のつばが少しずれたまま、それでも元気よく気をつけの姿勢を取る少年の姿。
《やっと渡せる……はい、これ》
「……綺麗な石だね。どこで見つけたんだい?」
《えへへ、あちこち店を回って探したの。わたし、赤が好きだから……お揃いにしたくて! 石言葉はね――”愛情”》
「あ、愛情……?!」
《そう! 君のことが好きって意味》
「あぁ……」
《これをずっと伝えたかった。遅くなって、ごめんね》
「遅くなんて……ないよ。わしはずっと待ってた。あの日からずっと……。おかげで、一生独り身で過ごしてしまった」
《じゃあ――会えなかった八十一年分、これから二人で埋めていこ?》
「………あぁ、そうじゃな。佐由子……迎えに来てくれて、ありがとう」
その声は優しく震え、
大五郎の顔は涙で濡れながらも、満面の笑みで輝いていた――。
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ユキトと萌里は、コックピットの中から佐由子と大五郎のやり取りをじっと見守っていた。
やがて佐由子は窓をすり抜け、赤く染まったガルガンダの前に静かに立つ。
《もう一度会わせてくれてありがとう。あなたのおかげで、大五郎さんを救うことができました》
「……不発弾の処理は頼んでおく。それでいいんでしょ?」
ユキトは拡声器モードに切り替え、外の佐由子に言葉を投げかける。
《八十年以上経った今でも、あの弾は眠っている。いつ爆ぜるかは誰にも分からない。
もう二度と、多くの命が奪われる戦いが起きてはならない。戦争のように、人が無残に死ぬことがあってはならない。願わくば――これからの世が、平和であってほしいと、わたしは願っています》
「……」
ユキトは沈黙した。
長く戦場を渡り歩いた彼には、火種さえあれば争いは繰り返されることを知っている。
だからこそ、その祈りがどれほど甘く、儚いものかも理解していた。
《それでも、あなたのおかげで……ほんのひととき、現世と触れ合うことができました。力も授かり、あの木から解き放たれた。かつては離れることすら叶わぬ呪縛霊だったのに》
「木は……元々ここにはなかったんですか?」
萌里がふと問いかける。
《ええ。あの木は別の地にありました。空襲の炎にも焼かれず残り、人々は”守りの木”と呼びました。やがてこの病院を建てるとき、患者を守るよう願いを込めて、中庭へ移されたのです》
「そうだったんだ……でも、その根の下に不発弾が眠っていたなんて。皮肉な偶然ね」
《運命だったのかもしれません》
そう言って、佐由子は小さく頭を下げた。
その足元から、光の粒子が舞い始める。
《……授かった力に、霊体が耐えきれなくなりました。どうやら、ここでお別れのようです》
「…そっか」
足元から脚部、腰へと光の粒子に変わりながら、佐由子の姿は静かに消えていく。
その眼差しの先には、返り血に赤く染まった巨影――ガルガンダ。
《“傀儡に魂を入れたことで、鉄の塊は意志を持ち、悪魔を宿す。その力は平和をもたらすか、それとも地獄の使者となるか……”》
「……なにそれ?」
《この傀儡を見て頭に浮かんできただけです。理由は分かりません。ただ――”未来の記憶”なのかもしれない。あるいは、”誰かが”わたしに囁いているのかも……》
「そうなんだ」
《こうして“見える力”も授かりました。……あなたに、どうか良い未来が訪れますように》
その声は途絶え、佐由子は光の塵となって夜空へと融けていった。
残されたのは、血に濡れたガルガンダと、ただ黙してモニター越しに空間を見つめる萌里とユキト。
言葉はなく、ただ深い沈黙だけがそこに横たわっていた。
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騒動から数日後、京都付属医学病院から連絡が入り、ユキトと萌里は担当医・大和から大五郎が亡くなったことを知らされる。
それまでは経過が良好だった大五郎だったが、騒動後に急に状態が悪化。医師たちに見守られながら、静かにこの世を去ったという。
亡くなる直前、彼の手には佐由子からもらった赤い石のついた首飾りと、萌里のサイン入り色紙ととツーショット写真が握りしめられていた。
街の被害は甚大だったものの、奇跡的に死者は出ず、翌日にはマスメディアやネットでガルガンダとアナグラの戦闘が大きく取り上げられ、世界中に情報が駆け巡った。
しかし同時に、世論の反応は以前にも増して過激になり、賛否両論の声や不安を訴える声が大きくなりつつあった。
「……お葬式に出るの、初めてだから、妙に緊張しちゃった」
大五郎の親族から葬儀に呼ばれたユキトと萌里は再び京都を訪れ、式を終えたばかりの火葬場の休憩室で、一息ついていた。
参列者の数は多く、大五郎と同年代の人々や、少し年の離れた中年層も混ざっている。聞くところによると、大五郎は京都でも有名な和菓子店の店長を務め、戦後から続く店を守り続けてきたという。家族を持つことはなかったが、兄弟や同僚、会社の仲間、後輩、友人たちに支えられ、人生を全うしたのだ。最後の別れの時、業者らしき関係者も涙を流しながら見送る姿を、ユキトと萌里は静かに後ろから見守っていた。
「お葬式、出たことある?」
「ないよ。あっちじゃ誰かが死んでも弔う暇なんてない。みんな生きるのに必死だから」
「そっか…こうして皆に見守られながらってのは、当たり前だけど、恵まれたことなんだよね」
「……」
着慣れない礼服姿のユキトは、ポケットからチョコスナックを取り出し一口かじる。
「今、骨が燃えて空に煙が上がってるんだよね…天に向かってるってことなんだよね」
「そうだよ」
「どんなに必死に生きても、最後は跡形も残らないなんて、人間ってちっぽけな生き物だよね…」
「忘れなければ良いんだよ」
ユキトはそう言いながら、ポケットから取り出した筒を萌里に向ける。萌里が手を差し出すと、筒から丸いチョコスナックがいくつか転がり落ちる。
「形は残らないけど、一緒に生きた想い出は残り続ける。忘れないことが、死んだ人を大事にできる方法だと思う」
「忘れないことが…思いやり」
「あの爺さんの人生のゴールはここだった。死んだときにどれだけの人が泣いてくれたかで、その人の価値がわかるって言われたことがある。あの爺さんは、いい人生を送ったんだと思う」
「旅の終わり…か」
萌里は火葬室から出てくる兄弟や孫たちの涙を見つめる。
「大五郎さんはきっと、佐由子さんを追いかけて行ったんだと思う。ちゃんと人生を完遂して、待っていた想い人と最後に会えたんだよね。私、そういう風になれるかな」
「さぁ」
「ぐっ!そこは!『なれる!』っていうの!」
萌里はくわっと怒り顔に染まる。
その後、二人は大五郎の親族や関係者に挨拶を済ませ、火葬場を後にする。外に出て冷たい風に当たる萌里は、最後に煙突から立ち上る煙を見上げ、小さく手を振った。
そしてユキトの後ろを追いかけ、静かに歩き出す。