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20話:終幕

「あ、ああ…あああ…あああ!!!」


アルゴスの狭いコックピットに、壊れたスピーカーのような飛永の叫びが反響する。

最初は声すらなかった。息の震え、喉を擦る悲鳴、それは理性が砕けていく“音”だった。


彼女の顔はもう別人だった。怒りでも恐怖でもない――感情の底が抜けた人間特有の、ひび割れた表情。

目はむき出しになり涙と汗で濡れ、歯は震え、呼吸はしゃくり上げて制御不能。

胸が詰まり、肺が痛むほど呼吸が浅くなっている。


コックピットシート後部では、ギルギガントがやられていく様を目の当たりにしていた萌里は口元を手で押さえ、震えが止まらないでいる。顔は青ざめ、唇は血の気を失い、肩が小刻みに痙攣していた。

その腕の中で、リナは耳を塞ぎながらうずくまり、もう外の光景を見ようともしない。

破壊されたギルギガントの姿が脳裏に焼き付いて、目を開けば崩れ落ちてしまうと本能が告げているように。


飛永は震える指で通信パネルを叩きつける。

怒りでも焦りでもない――“縋る以外に何もできない”と悟った人間の動きだった。


「うそだろ…おい!返事しろ!……返事しろってッ!!マリゲル!!!」


何度も、何度も、何度も呼びかける。

返ってくるのは虚しい無音と、壊れた通信のノイズだけ。

飛永の喉は怒鳴るたびに裂けていき、言葉にならない嗚咽が混じり始める。


「ありえねぇだろ……っ、なんだよこれ……何なんだよ……!」


指が震え、手の甲が汗で濡れる。

目の前の現実を拒絶したくて、でも逃げ場はなく、目を逸らせば自分が壊れてしまう。


モニターのノイズが、まるで嘲笑うように走った。


そして。

静かに、しかし確実にコックピットに影が差す。


『プレゼントは堪能してもらえたかな?』


目の前に立つ黒い機体――嵐着の声が、氷点下の冷たさで響き渡る。

あざわらいすら感情がなく、淡々と処刑を告げるような声音だった。


「プレ、ゼント………だと?!」


飛永の表情が、一瞬で爆発する。

悲しみも恐怖も全部置き去りにした“純粋な憎悪”が顔に浮かぶ。涙で濡れた頬をそのままに、モニター越しに黒い機体を睨みつける。


『これは、そこに乗っている田辺萌里へのプレゼントだ』

「人の死を…モノみてぇに扱うんじゃねぇよ…ッ!」


声が震え、怒鳴り声でありながら、悲鳴と嗚咽が混ざっていた。


萌里は喉を鳴らして息を呑む。

言葉は出ない。

出れば壊れてしまうと分かっているから。


『愚かな人間は、オレ達からすればカスも同然だ。オマエ達には、もう先がない』


その一言で、コックピット内の温度が一気に下がった。恐怖のせいか、三人の呼吸音だけが異様に大きく響く。


『見ただろう?オレ達ジャッジメントエンドに逆らった人間がどうなるか』


黒い機体が、マニュピレーターを前に突き出す。

挑発ではない。

完全な“捕食者の動き”。


『提案がある。田辺萌里と小さな少女を渡せ。そして…オマエも来い』

「……は、ぁ?」


理解できなくて言葉が漏れたのではない。怒りが余りにも大きく、脳で処理する前に声が出たのだ。


『その機体、アルゴスはゼウスフレームを持つ。ここで破壊するには惜しい機体だ。みたところ、まだ”扱いきれて”ないようだしな』

「だ、だ…誰が人殺しの手下になるか……ッ!教え子とリナを渡すつもりもない……ッ!おまえのところにも……いかないッ!!」


声が壊れ、涙が飛ぶ。

それでも飛永は叫ぶしかできなかった。

叫ぶ以外に、抵抗できるものが何一つ残っていなかった。


『わざわざ最後の選択肢を与えてやっているのに、無下にするか。つくづく人間は馬鹿な生き物だな、生きていたって待っているのは滅びのみだぞ』

「そもそも!何で田辺を必要に追う!! リナもだ!!何が目的だ!!カギってなんなんだよ!!」


怒鳴りながらも、手は震え、肩は上下し、涙で視界はぼやけている。

黒い機体は、動じることなく淡々と告げる。


『オマエ、その女の事を知らないだろ?』

「何の話だ!」

『その女、田辺萌里。遥か古代に存在した超文明”セルガンティス文明”を作った”命の女神”の血を受け継ぐ女だ』


飛永の息が止まった。

萌里の顔から血の気が完全に消え、リナの指が震える。


絶望という名の輪郭が、ゆっくりと、しかし確実にコックピット内を満たしていく。


「命の、女神…?」


聞き慣れない言葉。

しかし飛永の胸に湧き上がったのは“驚き”ではなく、“胸をつかむような警戒”だった。

まるで誰かに後頭部へ冷たい手を当てられたような感覚。

こんな場面で、こんな情報を投げてくる――絶対に何か裏がある。

だが、それを疑おうとする意識すら、黒い機体が漂わせる異様な圧迫に塗りつぶされていく。


『命の女神は超常的な力を有している。田辺萌里、オマエは気づいていないだろうが…既にその力は目覚めつつある』

「わ…わ、私知らない! そんなの知らないし!」


萌里の声は震え、言葉の半分は喉に引っかかり、掠れた悲鳴になっていた。


『思い出してみろよ』

「な、なにを…!」

『去年、何故オマエが森で謎の男たちに追われているとき、あの男が目の前に現れたのか……それはオマエが無意識に“呼んだ”からだ』

「……」


萌里の顔から、血の気が音を立てて消えたようだった。

嫌な記憶が胸の底から、腐った泥のように逆流する。

ユキトが現れた、あの異様な偶然。それが自分の……?


飛永は、横目で萌里を見て息を飲む。

“震えている”。

彼女の瞳の奥で、理解したくない現実と向き合うだけの気力が、きしむ音を立てていた。


『東京での戦闘も同じ力が働き、あの白い悪魔を呼び寄せた。京都で霊に干渉できたのも覚醒の前兆。気づいてなかったのか?』

「…まって、そんな……そんなわけ……」


萌里は自分の胸を押さえる。

自分の内側で何かが蠢くような錯覚に、呼吸すらうまくできない。

飛永は操縦桿を強く握り、意識が流されるのを必死で引き戻す。


この状況で気を抜いたら死ぬ。

それだけは分かる。


『時空の乱れで景色の中に見えた見えた異様な模様もそうだ。普通は見えない』

「くっ……ふざけてんのかッ!! なんの話してんだッ!!」


飛永が怒鳴ったのは、相手の話を否定したいからではない。

これ以上、萌里の心を壊させたくなかったからだ。

この男の言葉は毒だ。

頭に触れた瞬間、心を腐らせていく毒。


『スポンサーは未来から、この時代に来るときに女神の血がDNAに刻まれた瞬間を見た、と言っていたぜ』

「それとカギの、何の関係がある!!」


もう叫びは悲鳴に近い。


『命の女神のエネルギーは膨大。そいつを負の感情で満たせば、アリオネル帝国により作り出された負の心臓を持つ“創造主兵”(ジェネシスウェポン)”――デス・ラウガスを復活させられる』

「……復活……?」

『世界を破壊し、再構築する。だが負の感情が足りない。故に我々は戦争を起こし、人々の憎悪を集めてきた』

「紛争……世界中の……まさか……」

『全部、計画通りだ』


萌里が喉からかすれた声を漏らした。


「や、やめて……やめてください……」

『だが、それでも足りなかった。だから考えた。命の女神を徹底的に不幸にすればいい――と』


黒い鎌が抜き取られる。

その動作さえ、まるで“儀式”のように不気味だった。


『人間が最も絶望するとき……それは、大切な存在が壊れた瞬間だ。家族、祖父、仲間、そして――愛する男だ』

「てめぇッッッ!!!!」


怒りで意識が灼け切れた飛永が引き金を引いたが、撃ち抜いたのは残像。

直後、側面から衝撃が突き抜け、全身の骨が揺さぶられる。


瓦礫の中に叩きつけられたアルゴス。


『吠えるな。なにもできないザコが。泣こうが喚こうが助は来ない、オレの仲間が宇宙そらで世界中の通信をすべて妨害しているからな』


言葉の刃が、精神の急所に突き刺さった。


「くっ……!」

『諦めろ。オマエでは勝てない』

「萌里は……リナは……渡さない……!」


瞬間、黒い残像が走る。

刹那ののち、右腕と左足が空中で弧を描き、アルゴスは崩れ落ちた。


「な……」

『言っただろ、“無理だ”と』


腹部を踏みつけられる。

衝撃で頭をディスプレイに叩きつけ、血が飛び散る。


「っ……ぐ……!」


萌里はリナを抱き締めたまま、息もできない。

リナは声を出すことすらできず、ただ震えている。


『コックピットを潰す。まずはパイロットから殺る』


鋭いマニュピレーターが、ゆっくりと迫る。

アルゴスはもう動かない。

逃げられない。

守れない。


飛永の心が、折れかけた――

その時だ。


「……待って!!」


声というより、喉から絞り出された“悲鳴”。

萌里の震える叫びだった。


その叫びには、

“助けて”でも

“やめて”でもなく、


――すべてが終わるのが怖い、そんなどうしようもない絶望だけがあった。


「私が…私がっ、そっちに行けばいいんでしょ!!」


後部シートから絞り出された萌里の声は、震えでひび割れながらも、覚悟の芯だけはかろうじて残っていた。

その声は、当然コックピットの外にも響き、バグザンドの中の嵐着の耳にも届く。黒い機体の顔面パネルが、ゆっくりと嘲るように角度を変え、僅かに“笑った”。


「先生…コックピットを、開けてください」

「バカ言うなッ!相手の口車に乗る必要なんてねぇ!!まだ、まだやれるッ、ここは――」


言いかけて、飛永の声が砕けた。

萌里が震える手で、自分の肩を掴んでいた。指先は冷え切っていて、爪が食い込むほど必死だ。萌里の横顔――眉をかみしめ、泣きたいのに泣けない顔――は、恐怖と覚悟を無理やり共存させていた。


「…お願いです。開けて、ください……」


その声は細く掠れ、詰まって、沈みながら、それでも前に進もうとする人間の声だった。

飛永は迷う。

喉の奥が焼けるほどの葛藤で、頭が回らない。


――止めるべきだ、絶対に。

――でも、止めてどうする?どう戦う?どう助ける?何ができる?


アルゴスは腕も脚も折られ、視界すら奪われている。

守る力を、何一つ残していない。


「……くそ……っ」


奥歯を噛みしめ、血の味がした。

飛永は壊れそうなほど操縦桿を掴みながら、それでも顔を上げ、ノイズだらけのディスプレイ越しに黒い機体を睨みつけた。


そして――


カシュン。


小さな開放音が、死刑宣告のように静かに響く。アルゴスのコックピットが、ゆっくりと開いた。


「……絶対……助けに行くからな……」


その声は強がりでも、約束でもなかった。

ただ、罪悪感と無力さに押し潰されながら、搾り出した“祈り”だった。


「……待ってます……」


リナに何かを預けた萌里は震える足で、斜めに傾いたコックピットをよじ登り、リナをそっと座席に残したまま外へ出る。

振り返った顔は泣き出しそうで、それでも涙をこらえようとしていた。

その姿が、飛永の胸に焼き付く。

一生消えない傷として。


「条件があります!このロボット…アルゴスには、手を出さないで!!」

『ふん……いいだろう、飲んでやる』


バグザンドが右腕を上げ、マニュピレーターが展開。

小型コンソールから照射された光が萌里を包み、淡い球体へと変形し、そのまま彼女の体を持ち上げる。

捕縛用ゲージ――逃げ場のない“檻”。


『今日は見逃してやる。命拾いしたな、人間』


黒い機体が翼を広げ、空を裂く。

萌里を抱えたまま、一直線に加速し、空を覆う巨大な空中要塞へ吸い込まれるように消えていく。


「……っ……あ……ッ……!」


飛永は開いたコックピットの中から、歯を砕きそうなほど食いしばって、ただその軌跡を睨み続けた。

腕も、足も、武器もない。

叫んでも、走っても、何も届かない。

守れなかった。止められなかった。助けられなかった。


「くそ……っ、くそぉ……っ……!!」


拳で操縦席を殴りつけ、血が飛び散る。

それでも痛みは、何一つ紛らわせてくれない。


自分の弱さだけが、残酷なほど鮮明だった。




****************************************************




それから、どれだけ時間が経っただろう。

重く沈んだ意識の底から這い上がるように、飛永はゆっくりと瞼を持ち上げた。ひび割れたモニターの向こうには、色を失った瓦礫の街が静寂の中で息を潜めていた。


「……気を、失って……たのか」


掠れた声とともに身体を起こそうとすると、全身へ鈍い痛みが濁流のように押し寄せてくる。骨の奥にまで染みついた衝撃の名残が、どこもかしこも熱を帯びて疼いていた。


膝に、太ももに、何か重みがのしかかっているのに気づき視線を下げると、リナが胸元に寄り添うようにして眠っていた。


「……そっか……」


健やかに上下する小さな肩を見つめていると、静かに震えが込み上げてきた。リナの髪を撫でる指先がかすかに震え、喉の奥からどうしても抑えきれない熱がせり上がる。


次の瞬間、こぼれる涙が頬をつたい、顎から滴り落ちた。


現実が、遅れて津波のように押し寄せてくる。

守れなかった。

助けられなかった。


どれだけ強くなったつもりでいたのか。

どれだけ自分を過信していたのか。


圧倒的な力の前に立った瞬間、すべては砂の城のように崩れ落ちた。


「……ふがい、ない……」


零れた言葉は、嗚咽でも涙でも、もう判別できなかった。

胸の深くで何かが砕けた音がした。


そのときだった。

割れずに残った唯一のモニターの隅に、小さな影が映った。最初は瓦礫が風に揺れただけかと思った。


しかし──影は、動いている。


涙を手の甲で乱暴に拭い、真っ赤に腫れた目で凝視する。

そこにいたのは、見覚えのある姿だった。


「……おい、まさか……」


リナをそっとシートに寝かせ、ひしゃげたハッチを押し開き、傾いたコックピットから身を乗り出す。外気に触れた途端、痛みの波が膝を突き上げるが、今は構っていられない。


倒れたアルゴスの傍に、複数の影。

ひとり、またひとり。

その全てが、心に焼きつくほど見覚えのある顔だった。


「……なんでだよ……」


声は震え、掠れ、呼吸のように弱々しく漏れる。

そこにいるのは──かつて彼女が担任していた2年B組の生徒たち全員だった。


「なんで……どうして……ここに……?」


混乱が思考の底をぐしゃぐしゃにかき回す。

彼らは山奥の避難所にいるはずだ。こんな死地に、理由なんてあるはずがない。


そのとき、先頭を登っていたみると目が合った。


「せ、先生!!」


今にも泣き出しそうな声でも、必死に手を振るみる。

周囲の生徒たちもその声に反応し、瓦礫をよじ登りながら一斉にこちらへ向かい始める。


「待てッ!危ないだろ!アタシがそっちに行く!!」


生徒を危険に晒すわけにはいかない──その一心で叫ぶが、いざアルゴスから飛び降りるために下を覗き込むと、思わず顔を引きつらせた。


「……たっか……」


しかし、躊躇している暇はなかった。

飛永は大きく息を吸い込み、痛む脚に力を込める。覚悟を決め、跳んだ。

衝撃が膝を貫くが、耐えるしかない。


顔を上げたその先。

みる、仁菜を筆頭に、B組のクラス全員がそこにいた。


「どうしてこんな、って…危ないに決まってるだろ!!」

「危ないのは……わかってます!でも……怖かったけど!ここにいる全員、覚悟決めてきたんです!!」

「覚悟って……死んだらどうするんだよ!親御さん、家族……どれだけ悲しむと思ってんだ!!」


「それは、そ……うですけど……ッ」


みるの声は震え、涙が滲んでいる。

それでも前に進む足は止められないという意志が、その瞳に宿っていた。


「萌里から聞きました。先生、ずっと……ずっとこのロボットで、私たちのために戦ってたって……」


「……今は、やられちまったけどな」


飛永は倒れ伏したアルゴスを見つめた。

灰色の装甲を、一粒の冷たい水滴が「チン」と叩く。

その音を皮切りに、雨脚は徐々に強まり、ひんやりとした雨が瓦礫の街にも、震える生徒たちにも、そして飛永自身にも降り注いだ。


「……嬉しかったです」

「……え?」


唐突に落ちたその言葉に、飛永は反射的に顔を上げた。

そこにいたみるは、泣いているのか笑っているのか分からない表情で、ぐしゃぐしゃの目元を必死に支えながら言葉を続けた。


「事故で亡くなったって言われたとき……皆、表では平気なフリしてたけど、本当は……本当は、めちゃくちゃ悲しかったんです。小学校の先生とか中学の先生は、正直……ここまで心に残る人、いなかった。でも……飛永先生だけは、違ってて……いつも私たちの味方で……」

「な、なんだよ急に……」


飛永の声は震えていた。

驚きと、痛みと、誤魔化しきれない罪悪感の混じった声。


「どうして生きてることを隠してたのか……ほんとはいっぱい聞きたいことあります。けど……」


みるは胸に手を押し当て、雨の中で小さく、でもはっきりと息を吸った。


「……それより先に、言いたいことがあるんです」

雨音が強くなる。

みるの声はその中で震えながらも、確かな熱を帯びていく。


「生きててくれて、ほんとうに……ほんとうに、よかった」


みるが震える足で一歩前に出た。

雨粒が彼女の頬を滑り落ちるが、それが涙なのか雨なのか、もう区別がつかない。

後ろのクラスメイトたちも、目を真っ赤に濡らしながら何度もうなずいていた。

まるで、どれだけ泣いたとしても足りないと言わんばかりに。


飛永の表情から、力という力がすっと消える。大きく見開いた瞳が、ゆっくり揺らぎ始めた。

胸に直接落ちてきた“生きててくれてよかった”という言葉が、心の奥で膨れ上がり、山彦のように何度も何度も響いていた。


――まだ、自分は誰かの中で生きていた。

――忘れられてなんかいなかった。

――離れていても、想っていてくれた。


その事実が、胸の奥ずっと沈んでいた黒い重りを突き破るように溶かしていく。


「ゴメン…いわれっぱなしで」


涙を拭う指が震えていた。


「アタシは…隠してたことがある。命令で、偽名で、教師として学校に潜り込んで…最初は全部ウソで、全部仕事で…」


声がかすれ、喉が締めつけられる。


「けど……オマエ達と過ごすうちにさ……勝手に心変わりしちまって……」


胸の奥に押し込めていた後悔と罪悪感が、一気に溢れだす。


「だましてた…犯罪者だ。人も、沢山殺してきた……だからアタシは、汚くて、オマエ達の前に立つ資格なんて――」


「それでも」


みるの短い声が、強く、真っ直ぐ飛永の言葉を遮った。


生徒たちは、飛永の周囲に自然と集まり、まるで倒れそうな彼女を支える壁のように寄り添った。


「あたし達の“大好きな先生”には変わりないですよ」


みるは胸の前で手をぎゅっと握りしめる。


「もし先生が、自分の心の中でドロドロになっちゃってるなら……あたし達が一緒に、拭います」


そう言って、みるが震える手でポケットからハンカチを取り出す。

それに続き、生徒全員が同じようにハンカチを掲げる。少年も、少女も、いつも騒いでいた子も、無口だった子も。


「これだけあれば、先生の分くらい……余裕で綺麗にできますから」


それは、現実とは思えない光景だった。

みんなが泣きながら笑っていて、その温度が雨の冷たさを押し返し、飛永の心の奥底まで染み込んでいく。


そして飛永は、その場に崩れ落ちた。

生徒たちがすぐに抱き留め、支え合うように腕を回し、肩を寄せ合う。


長く続いた孤独。

ずっと続くと思っていた後悔と罪の道。

その遥か向こうに、ようやく光の筋が差し込んだ瞬間だった。


「おーーい!!」


遠くから声が響いた。


飛永が涙を拭いながら顔を上げると、雨の向こうで霧崎が両腕を大きく振っていた。


「こっちは無事だァー!生きてる!!」

「えっ……?」


飛永は一瞬、呼吸が止まった。


「織田と霧崎、それに男子達にお願いしたんです。あの青いロボットにマリゲルさんが乗ってるんですよね?」


「ま、マリゲル……!? アイツ……生きて……?」


思わず、叫ぶ。

声が裏返るほどに。


「心配いらねぇっすよー! 話しかけたら息してて、意識もハッキリしてます!」


その言葉が届いた瞬間、飛永の膝から力が抜け、地面に座り込む。

肩が震え、胸が上下し、呼吸が乱れ、それでも笑いがこみ上げてきた。


重かったものが……全部、全部消えていく。

まるで、雨がすべてを洗い流すように。






***********************************************






「なぁ、万丈よ」


通路を歩く足音だけが沈んだ金属板に響く。その静寂を破るように、浦部は隣を歩く万丈へぼそりと声を投げた。

継ぎはぎの跡が残る顔には、普段の軽さの欠片もない。そこには、長い間胸の奥で燻り続けていた“刺”がようやく表に漏れたような気配があった。


「なんですか、浦部さん」

「…おれはさ。自分の卑怯さに、だんだん嫌気がさしてきてよ」


万丈は黙って聞く。

無表情の奥に、どこか引っかかるものを感じて。

中指で伊達メガネのブリッジを押し上げる仕草が、わずかに沈痛さを帯びていた。


浦部は胸に溜めていた言葉を吐き出すように続けた。


「言うべきときに言えなかった。止めるべきときに、止められなかった。相手の想いや関係がどうとか…そんなことばっか気にして、肝心の“守らなきゃいけないもん”を忘れてた」

「奇遇ですね…」


万丈も視線を落とした。

彼の沈んだ声には、同じ種類の後悔が滲んでいる。

浦部は苦笑のようなものを浮かべて、それでも悔しさを隠せず言葉を続ける。


「昔の俺なら、もっと簡単に割り切れたんだよ。世界が憎くて憎くて、誰がどうなろうが知ったこっちゃなかった。でもさ…アイツらと一緒に過ごす時間が長くなるほど、わかっちまったんだ」


言葉を一度切り、浦部はかすれた声で続ける。


「―間違ってるのは、おれのほうだったんじゃねぇかって」


その一言は、重さのわりにとても静かだった。


「失って初めてわかる、大切なもの…というやつですね」

「そうだよ!気づいたんだよ。失った穴を埋めてくれてたのは――もう、ずっと前からアイツらだったんだ!」


思わず声が裏返る。その叫びに、万丈も目を伏せた。


自動扉が静かに開き、二人は暗い空間を抜けて格納庫の観測室へと歩を進める。

そして、大きな窓越しに見えたのは――。


黒い巨躯・バグザンド。

開いたコックピットの奥で、胸から下を無慈悲な機械に飲み込まれたまま、かつての“友”である嵐着が、もう人間とも言えない姿で固定されていた。


浦部は息を呑み、指が震えた。


「あんなふうに…変わっちまった友達を見ると、心が…何かに掴まれたみてぇに痛ぇんだよ…」

「ゼウスフレーム、またの名を機聖。遥か昔にセルガンティス文明が、神に抗うため造った機械の神…。その代償が――操縦者自身の人体の譲渡」


万丈の声は冷静だったが、そのこぶしは白くなるほど握りしめられていた。


「他に方法あっただろ!今までの機体みたいに、人間の形のまま動かせるやり方が絶対あった!なのに、なんで…なんであんな“部品”みたいな姿にさせられなきゃなんねぇんだよ!」


「セルガンティス文明が考えた“理想の人類像”が、あれなのかもしれません」

「理想?ふざけんなよ…」


浦部の声は震えていた。怒りではない。もっと深いところにある――“喪失の恐怖”から。


「…あれじゃもう、生きてるって言えねぇ。ただ、機械に生かされてるだけだ。自分で生きる権利を手放しちまったら、それはもう――“人間”じゃねぇよ」


「彼は、生きることよりも“世界を作り直す”ことを選んだ」


万丈は静かに答えた。

だがその横顔には、ひどく痛ましい決意が宿っていた。


「わたし達は……友人のその選択を、“見守る”権利くらいは持っている。受け入れるか、拒むか。それは自由です」


浦部は万丈の横顔を見つめ、しばらく言葉が出なかった。


「……お前は、どうするんだよ」


万丈は目を閉じ、ひとつ息を整えてから答えた。


「見守ります。彼は、絶望の底で死にかけていたわたしを救い上げてくれた友人ですから」


その言葉は、悲しみの奥に揺らがない強さをもっていた。


浦部は吐息を漏らした。


「強ぇな…お前は。本当に、強ぇよ…」


ちょうどそのとき、バグザンドを乗せた移動式カタパルトが動き出し、

ゆっくりと天井のハッチが開いていく。

機械に呑まれたままの嵐着が、静かに光の中へせり上がっていく様を、


二人はただ――言葉を失ったまま見つめていた。





***********************************************






「…あれ」


重い瞼がゆっくりと持ち上がり、萌里の意識が水面へ浮上する。

まず目に飛び込んできたのは、冷たく濡れたように黒光りする床。

天井から滴るような低い唸りが空間を満たし、その音だけで背筋が粟立つほど不吉だった。


「…ここ、どこ…?」


反射的に体を起こそうとした瞬間、胸が強く締め上げられ、息が詰まった。


――動かない。


視線を落とすと、両腕は異様な角度で広げられ、極太の機械ケーブルが骨まで軋ませるような力で身体を壁に貼り付けている。

皮膚が熱を帯び、鉄の匂いがかすかに鼻を刺す。


「な…にこれ……なんで、私……っ」


記憶がゆっくり蘇り、胸の奥に冷たいものが沈んでいく。


「私……自分から……捕まって……」


その瞬間――


「その通りだ」


低く、冷たい刃のような声が空間の底から響いた。

振り向くと、床が観音開きに割れ、そこからゆっくりと姿を現す人影。

髑髏の仮面を被った黒スーツの男。

その佇まいだけで、空気が凍る。


「やぁ。目覚めの気分はどうだい、”女神”」

「だ、誰ッ!」

「ジャッジメントエンドを支援する者。髑髏――と名乗っている」


その名を聞いた瞬間、萌里の心臓が大きく跳ねた。

脳裏にこれまでの事件が連鎖するように蘇り、体を縛るコードより強く胸を締め付けた。


「こうして言葉を交わすのは初めてだがね。僕は1年以上前から、君を見ていたよ」

「一年……以上……?」

「未来での戦闘で爆発に巻き込まれた僕は、時空の裂け目へと落ちた。流れゆく時の流れの中で、星の”歴史”を垣間見た。終わりなき悪夢…争い、殺し、また争い。”感情”という欠陥を抱えた人類は、地球を食い荒らす寄生虫そのものへと進化していった」


口調は、静かで、怒りよりも深い軽蔑が滲んでいた。


「なぜ君にこの話をするか。単純だよ。僕は――”この星の人間ではない”からね」

「……は?」


理解が追いつかない。

恐怖が胸にじわじわ広がる。

髑髏はそんな萌里を楽しむように、緩やかに言葉を続けた。


「君は―アナグラの核が、どうやって生まれたかを知らないだろう?」


問いかけられても、萌里は答えられなかった。

胸が締めつけられ、呼吸の仕方すら思い出せない。喉の奥で空気が詰まり、ただ浅く息を吸うことしかできない。


「アナグラの核の正体は、“星に蓄積された負の感情の結晶”。憎しみ、恐怖、絶望――それらが強ければ強いほど、石は無限に近い力を引き出す……君も、何度も目の前で見てきただろう?」

「だ、だから……何……」


声は掠れ、震えていた。

それでも萌里は歯を食いしばり、必死に睨み返す。逃げたら、ここで“自分”が壊れてしまう気がした。

髑髏は仮面の奥で、笑った気配を滲ませる。


「その石を生んだのは――“地球そのもの”だ」

「……ッ、意味、わかんない……!」

「そのままの意味さ。君達人間が進化の名の下に星を傷つけ続けた結果、地球はついに“滅ぼすための手段”を選んだ。アナグラの核は、地球からの正当な反撃だ」

「は、反撃って……そんなの嘘!地球と会話でもしたって言うの!?」


感情が爆発しかける萌里を前に、髑髏は淡々と続ける。


「アナグラの核に満ちる負の感情は、すべて君達人類が吐き散らしてきた毒だ。当時、宇宙から飛来したアリオネル帝国はそれを理解し、愚かなセルガンティス文明人達に証明するため“負の感情を動力とする心臓”を持つ兵器を造った」


一拍、言葉を区切る。


「――創造主兵ジェネシス・ウェポン。デス・ラウガス」


萌里の胸の奥で、何かが軋む。

理解したくない。

だが、拒絶するほどに言葉が染み込んでくる。


「そして僕は――アナグラの核が具現化した存在。言い換えれば、“核そのもの”。時空航行の過程で得た異能の力を持つ、絶対的な存在」

「……じゃあ……東京にいた、白い男も……」

「ほぉ…察しがいいね」


声が、愉悦に歪む。


「嵐着たちに力を与え、負の感情を極限まで増幅させるために世界各地で戦争を起こさせた。その過程で、ゼウスフレームを動かすために必要な“人間の脳”を集めさせた」


萌里の視界が、ぐらりと揺れた。

脳裏をよぎるのは、テレビやネットの投稿などで見た破壊された街、泣き叫ぶ人々、倒れていった仲間たち。


「……そんな……」

「そして、僕は地球から預かった声を代弁する者でもある」


髑髏は一歩、近づく。

拘束された萌里は、後ずさることすらできない。


「――“人類は、もはや地球で生きる権利を失った。君達は、星に巣食う寄生虫に過ぎない”」


静かな声。

だが、そこには一片の迷いもなかった。


萌里は息を呑む。

恐怖と怒りと悲しみが絡まり、心がぐちゃぐちゃに掻き回される。


「だから君には――」


髑髏は、彼女の目をまっすぐ見据える。


「人類を終わらせる“引き金”になってもらう」

「……いや……」


かすれた声が、ようやく零れた。


「そんなの……私は……」

「君は“命の女神”」


遮るように、髑髏が言う。


「救うことも、殺すこともできる。君の感情ひとつで、世界は簡単に傾く」


萌里の胸の奥で、

何か――熱を持ったものが、静かに蠢き始めていた。


それが怒りなのか、恐怖なのか、

あるいは……絶望なのか。彼女自身にも、まだわからなかった。


「だが……まだ足りない」


髑髏は、玩具を品定めするような声でそう呟いた。


「君の負の感情では、まだデス・ラウガスを完全には起動できない。ほんの、もう一押しだ」


不気味な笑いが、冷たい空間に粘つくように広がる。


「なら、こうしよう」


パチン、と指を鳴らす乾いた音。


次の瞬間、少し離れた床が低く唸り、二本の円形の台座がせり上がってきた。

人ひとりが立てる程度の広さ。一定の高さで止まり、そこで――さらに床が開く。


両腕を左右に広げ、拘束された人影が、一本につき一人ずつ現れた。


「……え」


萌里の喉から、空気が抜けるような音が漏れる。

そこにいたのは、男と女。

何度も夢に見て、何度も憎んで、時には恋しくなった顔。


「……おとう、さん……?」


言葉が、途中で折れた。


父は、白い布切れのような服を着せられ、顔も手足も殴打の痕で紫色に染まっている。母は、長かった髪を無造作に切り落とされ、同じ布を纏い、同じように傷だらけだった。


二人は、ゆっくりと目を開き――苦しそうに、萌里を見た。


「あ……」


声にならない声が、胸の奥で詰まる。


「どうして……どうして、ここに……」

「“会社を守るために闇金に手を出し、失敗し、借金の代わりに君を売った”――と」


髑髏の声は、淡々としていた。


「だが、それは違う」


萌里の呼吸が、浅くなる。


「……まさか……」

「すべて、ここに繋がるための僕のシナリオだよ」


頭の中で、何かが音を立てて崩れる。


捨てられ、裏切られたと思っていた。

憎むことでしか、自分を保てなかった。


それが――全部、嘘だった?


視界の中で、両親は今も苦しそうに息をしている。それでも、萌里を見つめる目だけは、必死だった。


「……憎いだろう?」


髑髏が、楽しげに言う。


「憎いだろう? 君からすべてを奪った存在が」


違う。

憎むべきは――。


ぐちゃぐちゃに絡まった感情が、怒りへと一気に収束する。

萌里の目から涙が溢れ、歯が噛み合う音が鳴った。


「お……おまえ……」


声が震え、裂ける。


「おまええええええええええええ!!」

「そうだ! それだよ!」


髑髏は、歓喜に満ちた声を上げる。


「怒れ! 憎め! 絶望しろ!これを待っていたんだ――さあ、メインディッシュだ!」


再び、指が鳴る。

その刹那。


両親の腰に巻き付けられていたベルトの中央が、赤く光った。

理解する暇すら、与えられなかった。


――ドン。


空気を叩き潰すような爆音。

世界が、白く弾ける。


「……え?」


思考が、止まった。


目の前で起きた現実を、脳が拒絶する。


父と母の腰から上が、内側から破裂した。

肉と骨と臓器が、濡れた音を立てて飛び散り、台座の縁から床へと落ちていく。


顔の半分が残り、口が開いたままの父。裂けた胸から内臓を零し、力なく崩れる母。


爆発は抑えられていたのか、原型は僅かに残っていた。

だからこそ――何が起きたのかが、はっきりとわかってしまう。


肉片が、ぴちゃり、と床に落ちる音。下半身だけが、遅れて崩れ落ちる。

萌里の喉から、音は出なかった。


悲鳴も、涙も、言葉も――すべてが、内側で凍りついたまま。

ただ、目だけが見開かれ、焼き付くようにその光景を映し続けていた。

血と肉の匂いが、遅れて鼻を突く。

萌里の胸の奥で、何かが完全に折れる音がした。


「あ……」


吐息とも、泣き声ともつかない音。


その瞬間――

彼女の胸の奥で、何かが音を立てて壊れた。


腹の底から叩きつけられるような叫びが、喉を引き裂く。

声という形を借りた痛みが、世界を震わせた。


同時に、萌里の全身を幾何学的な光の線が走り抜ける。

血管の代わりに刻まれるかのような、冷たく、正確な軌跡。


金色だった髪は、眩い黄色へと変わり、

衣類を失った身体に光の粒子が集まり、白い羽衣を形作る。


――だが。


胸の奥から溢れ出した“白”は、悲鳴のようにうねり、憎悪に染まり始める。


光は濁り、羽衣は墨を流したように黒へ沈み、髪もまた、夜の底へ引きずり込まれるように黒く染まっていく。

萌里の身体は、ゆっくりと、確実に、背後に蠢く巨大な構造体へと沈み込んでいった。


逃げられない。

抗えない。

心だけが、置き去りにされたまま。


「それが君を拘束しているもの――デス・ラウガスの“負の心臓”だ」


髑髏の声は、慈悲の欠片もなく、楽しげですらあった。


「完全に満たされた負の感情。これで君は、この機械を動かすための“核”になった」


一歩、愉快そうに歩み寄る。


「同時に――君は、少しずつ取り込まれ、存在そのものが消えていく」


笑い声が、空間に反響する。


「さらばだ、命の女神」


意識が、闇へと沈んでいく。

光は遠ざかり、砕け、星屑のように散っていく。


音が消え、

痛みが薄れ、

感情すら、ほどけていく。


それでも――

最後の、最後まで残ったものがあった。


小さく、弱く、

それでも確かに生きている願い。


萌里は、消えゆく意識の底で、声にならない声を紡ぐ。





――助けて……ユキト……





************************************************************






「……ここは」

意識が浮上した瞬間、身体を動かそうとして――全身を貫く激痛が走った。

思わず息を詰め、マリゲルは再びベッドへと沈み込む。


「っ……!」


歯を食いしばり、荒い呼吸の合間に自分の腕を持ち上げる。

前腕には、幾重にも巻かれた白い包帯。

嫌な予感に駆られ、布団をずらすと、胴体にも同じように包帯がきつく巻かれていた。


「怪我……そうか。私は……」


途切れ途切れだった記憶が、痛みとともに形を取り戻していく。

マリゲルは重いため息を吐き、額に手を当てる。頭の奥が鈍く揺れ、世界がまだ定まらない。


「あれから……どれほど眠っていた?」


視線を巡らせる。

白い天井。無機質な灰色の机がいくつも寄せられ、卓上には雑多な資料が立てかけられている。

壁一面の棚には、本や書類がぎっしりと詰め込まれていた。


――研究室、いや……違う。


「……ん?」


痛みをこらえ、上体を起こした拍子に、右腕の違和感に気づく。

皮膚に残る、見慣れない痕。


「点滴……」


誰かが、手当てをしてくれた。

そう理解した、その直後。


ガラリ、と奥の引き戸が開く音がした。


顔を上げると、両腕いっぱいに紙袋を抱えた飛永が、部屋に入ってくるところだった。


「――えっ」


飛永の目が大きく見開かれる。


「……やあ」


マリゲルは、わずかに口元を緩め、小さく手を上げた。

その仕草を見た瞬間、飛永は反射的に駆け寄り、ベッド脇に膝をつく。


「起きて平気なのか!?」

「ああ……かなり痛むが。意識ははっきりしている」

「そ、そっか……」


張り詰めていた糸が切れたように、飛永の身体から力が抜ける。

座り込んだ拍子に紙袋が床へ落ち、缶詰や簡易食がばらばらと転がった。


「私は……どれくらい眠っていた?」

「五日だよ」


飛永は拾い物をしながら、吐き出すように言う。


「オマエ、自分がどんな状態だったか分かってねぇだろ。全身打撲、肋骨とあばら骨の骨折。肺に刺さりかけてたんだぞ。手術して、昨日まで点滴だ」

「……そうだったのか」


窓の外へと視線を移すマリゲル。その目は、痛みを帯びながらも、曇ってはいなかった。


「ここは?」

「街から離れた山奥の公民館。今は避難所だ。一階には街の人間が大勢いる」


「……ギルギガントは」


その名を口にした瞬間、飛永の手が止まる。


「…………もう、戦える状態じゃない」

「……君の、アルゴスは?」

「右脚と左腕が、かろうじてな。武器は全損だ。慎太郎のおっさんに頼んで、米軍のヘリでここまで運んでもらったけど……まともな戦闘は無理だ」

「……そうか」


マリゲルは窓の外を見つめたまま、静かに呟く。

その横顔には、絶望よりも――計算と覚悟の色があった。


「あの黒い飛行体は?」

「沖合の空で停滞してる。まるで、こっちの様子見だ。ネットも相変わらず死んでる。世界がどうなってるのか、誰も分からねぇ」

「……手を打たねばならないな」

「な、何とかって……!」


飛永の声が荒れる。


「こっちは機体も武器もねぇ!どうしろってんだ!」

「その言葉の裏で……」


マリゲルは、ゆっくりと飛永を見る。


「君も、諦めてはいない」


一瞬の沈黙。

飛永は目を伏せ、唇を噛みしめた。


「……当たり前だろ。攫われた田辺……萌里を、助けたい。でも、手段が………ねぇ」


その時――


ズドン、と腹の底を揺らす轟音が、外から響いた。


「……なんだ、今の音」


飛永が息を呑む。


マリゲルは歯を食いしばり、痛みに耐えながらベッドを降り、窓へと近づく。

外を見た、その瞬間――彼の瞳が、わずかに見開かれた。


「……これは」


マリゲルの喉から、掠れた息が漏れた。

それは言葉にならなかった。なってはいけなかった。


眼前に広がる光景は、もはや戦場ですらない。

破壊の結果でも、途中経過でもなく――

終焉そのものだった。


避難所として使われている公民館は、小高い丘の斜面に建っている。

森に半ば隠れるその立地は、本来なら街を見下ろすには都合がいい。

だが今、その「見晴らしの良さ」は、残酷な呪いと化していた。


沖合から少しずつ近づき、空を覆い尽くすほど巨大な、黒いドーム状の飛行体。

それは雲を押しのけ、空を“占拠”している。

その下では、すでに街と呼べたはずの場所が、瓦礫と粉塵の海へと変わり果てていた。


そこへ――

次々と、黒い影が降りてくる。


一機、二機ではない。

十、十五……数える意味を失うほどの数。

人型の黒い機体が、空から“雨のように”降下し、街の残骸へと着地していく。


「……おい……冗談だろ……」


飛永の声は、明らかに震えていた。唇が白くなり、喉がひくりと鳴る。


「……海の向こうだ。あれを見ろ」


マリゲルの低い声に、飛永は視線を水平線へ向ける。

そこには――最初は蜃気楼のように、

次第に“輪郭”として現れ、

やがて現実だと否定できなくなるものがあった。


人の形をした、巨大な影。

一体ではない。三体。


その一つ一つが、

百メートルを優に超える異様な存在感を放っている。


「……なんだよ……あれ……」


飛永は震える指でスマホを取り出し、必死にズームをかける。画面に映った“顔”を見た瞬間、彼女の血の気が、一気に引いた。


「……嘘……だろ……」

「知っているのか?」

「……ああ……」


喉が、貼り付くように重い。


「前に話しただろ……アルゴスを見つけた地下で……あそこに、立ってた人型だ…間違いない……」

「……では……起動したというのか」


答えは、聞くまでもない。


下の1階から響いてくるのは、

悲鳴、叫び、泣き声、怒号。避難民たちの声だ。

それらすべてが混ざり合い、

“人間が壊れていく音”として耳に突き刺さる。


黒い機体の群れ。

海から迫る超巨大兵器。

そして――戦う術を、何一つ持たない二人。


「……人類に、止めを刺しに来た……というわけか」

「クソ……クソッ……!」


飛永は歯を食いしばる。

恐怖は確かにある。

だがそれ以上に――

何もできない自分への怒りが、拳に力を込めさせていた。


その時だった。


ドゴンッ――!


空を裂くような衝撃と共に、黒い影が一つ、森へと降下する。着地の瞬間、木々は薙ぎ倒され、地面は抉られ、土と破片が噴き上がる。


ゆっくりと立ち上がる黒い機体。

頭部の赤いモノアイが、冷酷に光を灯す。


胸部には――

赤く脈打つ、アナグラの核。


「……来た……!」


黒い機体は巨大な斧を構え、一直線に公民館へと向けて振り下ろす。


――死。


誰もが、それを疑わなかった。

だが。


バヂィン――!!


甲高い音と共に、斧は“何か”に弾かれた。


「……?」


飛永が、恐る恐る顔を上げる。

空に――

小さな影が浮かんでいた。


「え?」


目を凝らす飛永は、思わず瞼が吊り上がる。


「……リ……リナ……!?」


幼い少女が、空中に静止している。

額には淡く光る幾何学的な紋様。全身が、淡い光を帯びている。

掲げた右手の前には、目には見えないが、確かに“壁”が存在していた。


黒い機体の一撃を、

リナは――力任せに押し返していた。


「……すげぇ……」


飛永の声は、震えていた。

畏怖と驚愕が、混じり合っている。


「だが……まだだ」


マリゲルは、すでに次を見ていた。

空から、さらに二機。黒い機体が降下する。


「くそ……!」


左右から同時に振り下ろされる斧。

リナは両腕を広げ、必死に幾何学模様のバリアを展開する。

だが――


バキンッ!!


まるでガラスが割れるように、見えない壁が砕け散った。


「――っ!」


リナの小さな身体が吹き飛ばされ、公民館の正面玄関を突き破り、壁に叩きつけられる。


「リナ!!」


飛永が事務室を飛び出し2階から駆け下り、倒れ込む少女の手を掴む。


リナの呼吸は浅く、意識は朦朧としている。

力は確かにある――

だが、制御できていない。


その隙を、黒い機体は逃さない。


斧を高く振り上げ、

最後の一撃を――


――その瞬間。


空気を裂く、弾丸のような衝撃。

黒い機体の頭部が、文字通り――吹き飛んだ。


遅れて、暴風。


飛永はリナを抱き込み、マリゲルがその上から覆い被さる。

破片が、雨のように降り注ぐ。


「……な……何が……」


顔を上げた飛永の目に映ったのは、頭部を失い、崩れ落ちる黒い機体。


続けざまに――

金属が引き裂かれ、砕ける轟音。


二機、三機。

次々と、同じように倒れていく。


「……これは……」


マリゲルは、痛む身体を引きずり、外へと出る。

そこで彼が見たもの。


――白い機体。


空を飛び、

八枚の横長の翼を背に持ち、

白い装甲を基調に金で装飾された、神話のような姿。その頭部を見た瞬間、マリゲルの呼吸が止まった。



「――ガルガンダ……」



絶望の中に、

あり得ない希望が、現れた瞬間だった。

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