15話:予兆(前編)
夕暮れの空を仰ぐとき、人は何かに黄昏れる。
過ぎ去った遠い日の記憶か──それとも、まだ見ぬ明日の影か。
心がどちらへ傾くかで、世界の色はそっと変わる。
そんな言葉を、かつて誰かが呟いていた。
花の咲く丘。
風に揺れる無数の墓標が、沈みゆく陽に照らされて長い影を落とす。
一つひとつを数えるのが虚しくなるほど、その石は果てしなく連なっていた。
その中で、一人の青年がひとつの墓前に膝をつく。
抱えていた花束をそっと置き、静かに手を組んで目を閉じる。
黒いロングコート。
乱れた黒髪は獣じみた影を作り、紅い目だけが夕日の名残を反射する。褐色と白色が継ぎ合わせたように浮かぶ皮膚は、彼が歩んだ「生存」という名の地獄を物語っていた。
──嵐着だった。
「……」
長く息を吐くように瞼を開いた瞬間、彼は背後から近づく気配に目を細めた。
土を踏む軽い足音。振り向けば、片目を覆う黒い眼帯と、腰まで流れるツインテール。
軍服に身を包んだ少女──ヨヒコが立っていた。
「なんだよ。作戦前なのに出歩いてんのか」
ぶっきらぼうに言われて、ヨヒコは慌てて手を振る。
「あ、いやっ……! たまたまというか! 偶然というかですねぇ!」
「嘘つけ。さっきから後ろにいたろ。足音でわかる」
「むぅ……」
拗ねたように頬を膨らませたヨヒコは、ふと、墓標に刻まれた名へ視線を落とす。
「……親しい人の、ですか?」
「……前に話した彼女だ。滅多にこの国に戻らねぇから、会えるときに会っとこうと思ってな」
淡々とした声。
けれどその奥に潜む熱だけは、夕陽より深く、静かに燃えていた。
ヨヒコは隣にしゃがみ、手を合わせる。
夕風が二人の髪をすくい上げ、花の匂いと土の匂いを運ぶ。
「何を、お話してたんですぅ?」
「……近状報告ってやつだ。ガラじゃねぇが、たまにはな」
「意外とマメなんですねぇ」
「そうでもねーさ」
嵐着は添えた花の茎を整え、リボンを結び直した。
皮膚の焼け跡を持つその指先は、驚くほど丁寧だった。
ヨヒコはその横顔を見て、そっと微笑む。
「……ほんとに、大事だったんですね」
「当たり前だろ。オレを一番欲しがって、一番近くにいて……一番、先に消えた」
声は静かだが、夕闇のように深い痛みが滲む。ヨヒコは空を仰ぎ、小さく息を呑んだ。
「……会ってみたかったなぁ」
「お前とは気が合わなかったかもな。しっかり者だったから、うるさいガキは苦手だ」
「う……」
抗議しかけたが、嵐着の口元がわずかに緩んでいるのを見て、彼女もまた微笑んだ。
「……羨ましいです」
「何がだ」
「そんな風に、誰かを想えるのが……いいなって」
恥ずかしそうに視線を落とすヨヒコ。
嵐着は立ち上がり、夕暮れの空を見上げる。
「そんな大層なもんじゃねぇよ」
そう言いながらも、亡き彼女を追うように目を細める。
ヨヒコも立ち上がり、制服をパタパタとはたいた。
「あなたが今でも大事にしてるって……わかります」
二人の距離を埋めるように、そよ風が頬を撫でた。
「……あの。その人の……どんなところが、好きだったんですか?」
震える声。
聞きたいのに、聞きたくない。
自分の胸に芽生えたものを確かめるような問い。
嵐着はしばらく黙し、顔を上げ顎手を当てながらぽつりと言う。
「……料理が美味いところ」
「料理、ですか……」
ヨヒコは胸に手を当てて、そっと視線を落とす。
(わ、私……インスタントなら得意だけど……)
嵐着は続けた。
「おしとやかで静かで、気品があるところ」
「……む?」
ヨヒコの眉がぴくりと跳ねた。
(お、おしとやか……静か……気品……全部真逆……!?)
さらに畳みかけるように、嵐着は顎に手を添えたまま言った。
「あとはそうだな……ガキっぽくねぇところだな」
「……!!?」
ヨヒコの顔がみるみる赤くなる。
肩は怒りでふるふる震え、ツインテールがブチ切れそうに揺れた。
「な、な、なんですかそれぇ!? ぜ、全っ然わざとじゃないですよね!? 絶対わざとですよねぇ!?」
「何がだよ」
嵐着はしれっとした顔。
「だ、だってっ……全部……わ、私がっ……っ」
言いかけて、言葉が喉でつまる。自分で“私にはない”と言ってしまうのは、認めるみたいで悔しい。
「……っ、料理、苦手ですけど!?静かじゃないですけど!?気品なんて、無いですけど!?ガキっぽいですけど!?だからってそんなっ……!!」
「全部自分で言うんじゃねぇよ」
嵐着は思わず吹き出しそうになり、口元を手の甲で隠した。
「う、うるさいですぅ!!嵐着さんがそうやって意地悪言うからですぅ!!」
ヨヒコはぷんすか怒りながら、小さく地面を蹴った。
夕焼けが二人の影を少し伸ばす。
怒るヨヒコと、それを見てわずかに笑う嵐着。お墓の前なのに、不思議と温度のあるやり取りだった。
「……まぁ」
嵐着が小さく肩をすくめる。
「いいとこ全部違うだけで、別に悪いわけじゃねぇだろ」
「……え?」
ヨヒコがぴたりと動きを止める。
「ガキっぽいのは……見てて飽きねぇし」
「う……っ」
「声デカいのはうるせぇけど…元気ではある」
「う、うるさくないですぅ!」
「料理下手なのは………頑張れ」
「むううううーーっ!!」
結局また怒らせてしまい、表情を他所に向ける嵐着は肩で笑う。
それからしばらくして、ヨヒコの感情も収まり一息ついたところで、再び墓標のほうに目を向ける。
「……この方を殺したのは、世界政府……ですよね」
冷静になったヨヒコは確認するような声で尋ねる。
触れてはいけないと知りながら、避けられなかった問い。
嵐着の瞳が──微かに揺れる。
怒りか、憎しみか。
それとも、まだ癒えぬ痛みか。
「あぁ、そうだ。掘り返しゃまだまだ出てくる。よく世界を守る組織だなんてデカい面できたもんだよ」
声は、喉の奥で鉄を噛み砕くようだった。
「証拠隠滅のために手段を選ばねぇ。そうやってオレも焼かれた。細胞単位で、死ぬまで炙り殺されるはずだった……が、生き残っちまった」
焼けただれた皮膚を指でなぞり、嵐着は笑った。
その笑みは、氷のように冷たかった。
「生きてるのが気に食わないってな。オレを生かしちまった神様は、よっぽど皮肉屋だ」
そして、決意だけが鋼のように揺るぎなく光る。
「だからオレは──あいつらを殺す。世界政府も、都市も、思想も……一つ残らず灰にする」
ヨヒコは息を呑んだ。
怒りで鋭利に研がれた横顔が、夕闇を裂く刃のように見えた。
「……復讐だけの人生、虚しくないですか?」
その問いは、風に消えそうなほど弱かった。
嵐着は静かに墓へ触れる。
冷たい石の感触は、今も胸に残る喪失の温度だった。
「奪ったのは奴らだ。なら、世界に喧嘩売るが筋だろ」
そして静かに告げる。
「腐った世界は木っ端みじんに壊す。愚かな人類は滅ぼす。オレ達が新しい世界を作る──それがジャッジメントエンドの判決だ」
沈む陽が、墓を長い影で包む。
ヨヒコは、彼の背中を見つめた。
その背はどこか脆く、それでいて誰より強かった。
「……羨ましいです」
「またそれかよ。何がだ」
「だって……こんなに思われて、いなくなってからも守られて……彼女さん、幸せだと思います。でも……悔しいし、心配なんです」
意図の読み取れない言葉に、嵐着は目を丸くする。
「……どういう意味だ」
「えっと……ワ、ワタシも負けず劣らずのレディーですっ!」
「お前が張り合える相手じゃねぇよ」
「な、ななっ! なんでそういうこと言うんですかっ!」
怒って腕をバタバタさせるヨヒコに、嵐着は鼻を鳴らす。
こんなやり取りが、二人の日常だった。
ふと、ヨヒコは尋ねる。
「忘れたいって……思ったこと、ないです?」
夕焼けの残滓が、二人の影を重ねる。
嵐着は短く息を吐き、空を仰ぐ。
「……そうできたら、一番いいよな」
その声は儚くて、どこか虚しかった。
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12月28日──雪が静かに街を飾る日。
一年の終わりが手を振るように近づき、日本中が薄氷のような冷気と、年の瀬特有のざわめきに包まれていた。
クリスマスの灯りはつい先日まで街角を彩っていたはずなのに、気づけばすでに片付けられ、代わりに門松や正月飾りが並ぶ。
テレビでは年末特番への切り替わりを告げ、企業の正月CMが延々と流れ続ける。
商店街では人々が小走りに買い物袋を抱え、行き交う声には焦りと期待が混じる。
駅前のアナウンスさえ、どこか急き立てるようだった。
雪は、そんな慌ただしさをよそに、ただしんしんと降り続ける。人々の足跡を白く覆い、時間の喧騒に薄いヴェールをかけるように。
まるで、あっという間に過ぎ去った一年をそっと包んで、
「ここからまた始まりだ」と囁くかのようだった。
──だが、その静けさは唐突に破られた。
ビルの谷間に轟音が反響した。
街の空気そのものが震え、積もりかけの雪が細かく跳ね上がる。
年の瀬の東京の中心、新宿にて。
異物の唸り。
聞き慣れない低周波。
人々のざわめきが悲鳴へ変わる気配。
直後、無線の声が飛び交った。
『こちら第七機動隊! 新宿バスタ前、半径二百メートルの封鎖を完了! だが一般市民の退避がまだ終わらねぇ、雑居ビル内に取り残し多数!』
『了解、救護班は裏路地へ回り込め! 戦闘展開ラインに民間人が残ると危険だ! 急げ!』
『指揮所より各隊へ。上空のドローンが不審物体を確認。現在、初期位置にて戦闘継続中──予備の戦闘領域を確保しろ! 市民の流入は絶対に阻止しろ!』
混乱する街を切り裂くように、サイレンが鳴り響く。
雪を照らす青赤の光が、コンクリートの壁面に明滅を刻む。
封鎖された新宿バスタ前に──
白い巨影が、雪煙を巻き上げて躍り込んだ。
ビルの壁面に反射する光が、その機体の輪郭を鋭く切り取る。白亜の装甲は冬空を照り返し、胸部の深紅はまるで心臓のように脈動していた。
両腕には赤い補強布が風を裂き、舞い散る雪の中で鮮烈な軌跡を描く。
その顔は、悪魔じみた造形。
禍々しさすら気品のように纏い、ただ立っているだけで周囲の空気が震えた。
──ガルガンダ。
巨大なコンボウ刀を握り、雪空を切り裂くように一閃。
凍てつく空気が瞬時に圧縮され、遅れて轟音が路上を揺らす。
散った雪片は衝撃波に弾かれ、銀砂のように舞う。
対する影もまた、異様な存在だった。
黒い装甲は夜の塊のように光を吸い、両肩には、円形のノコギリ刃が唸りを上げながら回転する。
刃の摩擦熱が雪を瞬時に蒸発させ、立ち上る白煙が周囲を覆った。
そして、胸の中心──
深紅に脈動する石、アナグラの核。
それはまるで心臓の代わりに怒りを宿しているかのように、鼓動のたび、赤い筋が装甲の隙間を走り抜ける。
年の瀬の喧騒は消え、ただ機械の唸りと、降り続く雪の気配だけが残る。
白と黒。
正義でも悪でもない。
そして──鳴り響く、連続で金属同士の衝突する轟音。
足音は雪を砕く音ではなく、街の運命を打ち鳴らす、巨大な戦端の鐘の音である。
「コイツ、動きが速い」
ユキトの冷静な呟きは、緊張で乾いた空気に吸い込まれるように消えた。
だがその指先と脚は迷わない。今日はいつもの薄着ではなく、黒の分厚い上着を羽織っている。
操縦桿を斜めに切り、フットペダルを細かく刻む。
同時に背部スラスターが白い閃光を吐き、ガルガンダの巨体が雪煙を裂くように旋回した。
機体の重量からは想像もつかないしなやかさで、まるで“巨人の肉体に自分の意志が宿っている”かのように。
通常の機体なら、操作伝達回路の遅延が動きを鈍らせ、
人間の思考と機体の挙動の間には必ず「ズレ」が生まれる。
だが──ガルガンダは違う。
ユキトの神経の電流が、そのまま巨体の筋肉に流れ込むような感覚。サテライトシステムにより機体を同期させ、人間を超えた反応速度を可能にしていた。
「アイツ、何かしてくるよッ!」
コックピット後方から響く声。
振り返らずとも、ユキトにはその表情が浮かぶ。
腰まで届く金髪が揺れ、薄いピアスが微かに音を立てる。
ネックレスの金属が照明を受けて細い光を返す。落ち着いた佇まいは、とても17歳の女子高生とは思えない。
田辺萌里──
謎の組織ジャッジメントエンドから狙われているため、ユキトが護衛をしている少女だ。気温が低いので今は首にファーのついた白い上着を羽織っている。
「………」
ユキトが睨むように観察する中、前方の黒い機体が動いた。
両肩に装備された回転刃──
ギラリ、と雪明かりを裂くように光を返し、そのまま軌道を描きながら肩から外れる。
次の瞬間、黒い巨体がそれを掴んだ。
空気が震えた。刃は高速回転のまま、獣の咆哮のような唸りを上げ、そして──投げ放たれる。
空を割く赤黒い閃光。回転の熱で雪が蒸発し、螺旋状の蒸気が尾を引いた。
“投擲された刃”というよりも──
それは、都市を断ち切るために生まれた“死の輪”。
ユキトの眼に、わずかに光が宿る。
「……」
ガルガンダの両腕が、空気を裂くように構えを切り替えた。
白い巨体が静かに足を踏みしめると、その一瞬だけ世界が「待ち受ける側」に回る。
次の刹那──
ガギィンッ!
鋭い金属音が新宿の空を切り裂いた。
飛来した回転刃が光の輪となって迫り、ガルガンダのマニピュレーターへ激突する。
指の一本一本が独立してうねるように動き、まるで巨人の“生きた手”が獲物をつかむかのように高速で回転する刃を受け止めた。
衝突の瞬間、火花が散り、雪の舞う空にオレンジの閃光が弧を描く。
「………」
冷静な面のユキトは操縦桿にあるマイュピレーターの稼働を操作するクッションレバーを緩めることはない。
マニュピレーターの関節がパキリと音を立て、刃の回転を指先の力だけで抑え込んでいく。
摩擦熱で赤く染まった刃がガルガンダの白い手を焦がすように唸りを上げ、
やがて──
ギュルル……ッ、ガッ。
失速し、完全に停止した。
マニピュレーターの隙間からは煙が立ち上り、蒸気のように白いコックピット光が照り返す。
そのとき、
ガルガンダの顔面にある一つ目──
モノアイが、まるで地獄の門が開くように、妖しく輝いた。
光は細く鋭く、「次は逃がさない」と宣告する悪魔の眼光のよう。
停止した回転刃を手で握り砕きながら、ガルガンダはゆっくりと顔を黒い機体へ向ける。
その動きは、まるで──獲物をつかまえた捕食者が、ようやく“反撃の時間だ”と笑うかのようだった。
「すっご…避けると思ったのに、あんな早いの受け止めちゃった…」
後部座席で萌里は目を丸くし、手すりをぎゅっと握っていた。あの回転刃は、日常で見かけるどんな高速物体と比べても“別次元”。
だがユキトは──息ひとつ乱さず、静かに、正確に止めてみせた。
「ここで避けたら建物に当たる。まだ逃げてない人がいる」
淡々としたユキトの声。
萌里は慌てて全天周モニターを見渡す。
その視界の至るところ、割れた窓の奥や暗い通路の影に、しゃがみ込み震えている人、見守っている人々の姿が点々と映った。
「うっそ、マジでいるじゃん…あっぶな」
その瞬間──
「…ん?」
ユキトの視線が前方に鋭く戻る。
黒い機体が、地面を削るような勢いで突進してきていた。
ユキトは迷いなく操縦桿を押し出し、フットペダルを踏み抜く。
ガルガンダの巨体が低く沈み込み、まるで獣が臨戦態勢に入るように姿勢を固定する。
次の瞬間、
バゴシュンッ!!
破裂音が爆風となって周囲のガラスを震わせた。
白い右腕から射出されたパイルバンカーが雷光のように伸びる。
一閃。衝撃。
そして──破壊。
黒い機体の頭部が、花弁が散るように空へほどけていく。
その破片ひとつひとつが赤い核の光を受け、
夜の新宿の空に赤白のきらめきを撒き散らしながら降り注いだ。
頭部を失った機体は、糸の切れた操り人形のようにのけ反り、巨体が軋むたびに黒い装甲が悲鳴を上げる。
重心を失ったまま後退し、制御不能のまま新宿バスタの壁へ──
ズレ落ちるように身を傾けていく。
その瞬間だった。
キィィィン──!
横合いから放たれた一閃が、闇の中を走る白雷のごとく軌跡を描き、傾きかけた無頭の機体を横殴りに貫いた。
金属を砕く爆ぜる音。
青白い衝撃光が弾け、黒い巨体はまるで風に吹かれた紙のように横へ弾かれ、建物へ倒れ込む前に粉砕される。
視線を向けると、そこに立っていたのは──
青い装甲に重厚な外殻を纏う騎士のような巨影。
分厚い胸の装甲が街のネオンを反射し、脚部の油圧部が低い咆哮を漏らす。
その機体は、投擲姿勢からゆっくりと腕を戻していた。
ギルギガント。
鋼を磨き上げたような青の巨体が、空気を震わせながら立ち直る。
飛来したのは、その愛用武器──
身の丈ほどある大きさの突貫型ランス。
その槍は、闇夜の中で蒼い光芒を尾に引き、まるで魔槍が獲物を断罪したかのような存在感を放っていた。
ビル風がギルギガントの外装を撫で、巨体の影が夜の新宿の雪まじりの夜気に揺らめく。
青き騎士は静かに立ち、、ガルガンダとユキトの背を守るように姿勢を整えた。
『わたしの出る幕は、なかったようだな』
静かに、だが芯の通った声音がガルガンダのコックピットに満ちた。
聞き慣れた低音。
青き巨機・ギルギガントのパイロット──マリゲルだ。
雪降る夜の空気にも似た、落ち着いた響き。
『いいじゃねーか、アタシなんか出番なかったんだぞ』
続いた声は、どこか拗ねたような、羨望まじりの明るさ。
通信の発信元は、新宿御苑の樹木の合間に伏せるように構えた灰色の機体アルゴス。
巨大なライフルの銃口が新宿バスタ方面へ向けられ、その後方で飛永が舌打ちしながら笑っている姿が想像できた。
『準備に越したことはない。背後を守る者がいるというのは、前線の者が集中して戦える理想的状況といえる。戦術の基本だ』
淡々と、教科書の一節のように語るマリゲルの声。だがどこか、仲間を気遣う温度が滲んでいた。
『はいはい、引き続きお役目務めさせていただきますよ~だ』
飛永の返しは皮肉たっぷりなのに、妙に弾んでいる。まるで「褒められた」とでも感じた子どものように。
コックピット内でそのやり取りを聞いていた萌里は、くすっと微笑んだ。
「この二人、なんだかんだ仲いいよね」
「そうなの?」
ユキトは相変わらず無表情で、興味の欠片もなさそうに答える。
しかし、彼の指先はほんの少しだけ操縦桿から力を抜いていた。仲間の声が背中にあるという安心が、無意識のうちに伝わっているかのように。
夜の新宿を照らす雪明かりの下で佇む三機の巨影は、まるで長き戦場をともにしてきた騎士たちのように静かに息を潜めていた。
ガルガンダのモノアイが、鈍い紫の光をぱちりと灯す。
ギルギガントは蒼い装甲に降り積もる粉雪をそのまま鎧の一部のように受け入れ、
アルゴスは樹影の闇に溶け込みながら、獲物を狙う狼のように銃口を滑らせた。
──たしかに、仲はいい。
誰も口にしないだけで、その連携はすでに確かなモノになりつつあった。
だが。
なぜ、この四人と三機が──日本の中心、東京の真ん中に立っているのか。
それは、この静かな雪景色の二日前に、
話は遡る─。
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雪は天気予報を裏切った。
まるで空の奥に詰め込まれていた白を一気にほどくように、静かに、しかし容赦なく降り続けている。
空は白。
地面も白。
世界の輪郭が淡く溶け、音はすべて綿の奥へ吸い込まれていく。
“モノトーンの無音劇場”のような風景が広がっていた。
その静寂を切り裂いて、買い物袋を抱えた女子三人──飛永、萌里、リナ──が、真っ白な田園を駆け抜ける。
駅から萌里の祖父・哲郎の家までは徒歩10分ほど。
だが今日の雪は、息を吸うそばから肺が冷え、頬を刺す刃物のようだ。のんびり歩くという選択肢は、すでにどこかへ消えていた。
「…手ぇ冷たすぎて、ちぎれそうなんだけど……!」
飛永が吐く白い息は、ふわりと夜気に溶けて消える。
萌里は鼻をすすり、肩で呼吸を繰り返す。
「この前まで暑かったのに、急に寒くなりましたよね…!」
「そのうち秋と春なくなるって、絶対」
「ゆきふかふか~!」
雪が靴に染み込んで痛む萌里と、寒さに文句を並べる飛永と、雪を踏むだけで楽しげなリナ。
三人の足音と声は、白い世界の中へふっと溶けていった。
やがて遠くに、ぼんやり暖色の明かりが見え始める。
哲郎の家だ。
「──待て」
先頭を走っていた飛永が、不意に腕を横へ伸ばした。
雪を切り裂くような動きで、後ろの二人を制する。
「え、どうしたんですか?」
萌里が息を弾ませて尋ねる。
飛永は顎で前方を示し、声を低くした。
「……家の前。黒い車が停まってる」
雪のヴェール越しに視線を凝らすと、確かに哲郎の家の前──出入口を塞ぐように黒いセダンが鎮座していた。
街灯を受けて濡れたボディは、夜の闇だけを纏ったように重たく光っている。
「お客さん……ですかね?」
「あの車…防弾ガラスつけてやがる。ただの車じゃねーな…」
飛永の声は、戦場帰りの軍人のそれに近かった。軽さは完全に失われ、鋭い判断だけが残っている。
背筋を冷たい指でなぞられるような感覚に萌里は身震いした。
リナもその空気を察したのか、飛永の腰にそっとしがみつく。
「……行くぞ」
飛永が雪を蹴り、三人は家へのラストスパートをかけた。
セダンの横をすり抜け、玄関前へたどり着く。
飛永は引き戸を紙一重だけ開き、耳を澄ませる。
「……奥から話し声。落ち着いてる。揉めてはいない」
「居間で誰かと話してるんでしょうね」
萌里が小声で返す。
危険なしと判断した飛永が戸を静かに開き、三人は靴を脱いで家に入る。
玄関には見覚えのない革靴が二足。無駄のない並び方が、かえって不穏だった。
「二人か」
飛永は足音を消しながら廊下を進み、居間の戸をそっと開ける。
そこで三人は、息を呑む。
テーブルを囲むように、右側にユキト、マリゲル、哲郎。
そして対面には──黒いスーツを端正に着こなした中年の男が二人。
この雪国の古い家には似合わないほど、都会の空気をまとっている。
「戻ったか」
マリゲルが、いつもと変わらぬ落ち着きで声をかける。
「あ、ああ……戻った」
飛永が答えると、哲郎が優しく目を細めた。
「おお、寒かったじゃろう。よぉ帰ってきた」
飛永は息を整えつつ、黒スーツの男たちへ視線を移す。
その正体は、哲郎が口にした。
「こちらはの……東京の警視庁の 警視総監 じゃ」
「……え?」
飛永の思考が一瞬止まった。
警視総監――日本の警察組織の“頂点”。
全国でただ一人、警察官の最高階級に立つ者。治安の象徴とも言える存在。
そんな人物が、なぜ雪深い地方の古民家に座っているのか。
「初めまして。警視総監の 近藤 と申します。こちらは私の側近です」
近藤は丁寧に頭を下げ、その所作に宿る重さが場の空気をさらに引き締める。
その隣の坊主頭の大男も、静かに礼を返す。無駄のない動き、隙のない気配──第一線の“本物”の風格。
「さて、皆そろったようだな」
マリゲルが静かに話を切り替える。
促され、飛永・萌里・リナは窓際へ座った。
雪で冷え切った身体に、暖房の温もりがじんわり染みていく。
「この度は、旧友であるレイナー君から話を聞いてね」
近藤は姿勢を正し、重い言葉を置く。
「君たちが──昨今ニュースで取り沙汰されている“巨大ロボット”のパイロットだと」
部屋の空気が一気に張りつめた。
ユキトの指先がみかんをつまんだまま止まり、
マリゲルは瞼をわずかに動かし、
飛永の表情には戦場の影が落ちる。
「黒いロボットと戦っているのは…君たちで間違いないね?」
「……あぁ、そうだ」
マリゲルの声は外の雪のように冷たく澄んでいた。耳を澄ますユキトは無表情のまま、ただ静かにみかんを食べ続ける。
近藤は側近へ目で合図を送り、側近がタブレットを起動する。黒い画面にふっと光が入り、この部屋の全員の顔が一瞬だけ反射する。
「まずはこれを見てほしい。数日前、監視カメラが捉えた映像だ」
画面が動画サイトへ切り替わると、自然と全員が前のめりになった。 ユキト、マリゲル、飛永、萌里、リナ、そして哲郎まで――まるで小さな光の窓に吸い寄せられるように。
映し出された映像は、夜の東京・丸の内駅前広場。
右上の時間表示は午後22時を過ぎた頃となっている。
白い石畳が夜のライトに淡く照らされ、芝生の緑が月明かりを受けて静かに沈んでいる。
左右に並ぶ木々は、冬の風を受けて枝先を微かに揺らし、夜のビル街を透かすようだった。 皇居側から吹き込む冷たい風が、ひとつ、落ち葉を弧を描かせながら石畳を滑らせる。
赤レンガの東京駅舎は宝石のようにライトアップされているのに、そこには人の気配は皆無―― 華やかさより“空虚な美”が勝っていた。
広場のど真ん中に、ひとりの若い男が立っていた。
白い髪、白いシャツ、白いズボン、そして――素足。深夜零時の丸の内で、その“白”はあまりにも異様だった。
男はゆっくりと、夜空へ右手を掲げる。
次の瞬間
――ズンッ。
画面越しでも腹の底に響くほどの衝撃。
石畳に亀裂が走り、白い粉塵がふわりと舞い上がる。
男が腕を振り下ろすと、広場の端に停まっていたバスが“真っ二つ”に裂け、遅れて爆音が画面を揺らした。
「なんだ……コイツ、今なにやったんだ?」
飛永の声には、理解の外の出来事を見た戸惑いが濃かった。
「まずはこれが一つ目の映像。そして、もうひとつ」
近藤の合図で、側近が画面を横にスワイプする。
次に映るのは、深夜の裏路地。 街灯の死角、若者たちが数人たむろしている。
その背後に――黒い影。
音もなく、ただ“いる”。
人型のようでいて、人間から少しだけ外れた曲線。
影が沈むと、弾丸のような速度で動いた。
夜に白い線が刻まれ、 次の瞬間、若者たちが倒れ込む。 誰も叫ばず、影は跡形もなく消えた。
「これって……」
萌里の声が震える。以前彼女は、ユキトがこの時代にきて間もない頃に目の前で同じ存在に遭遇し、襲撃されかけたのだ。
「オチビト」
そして交戦経験のある ユキトが淡々と告げた。 テーブルに置いたみかんの皮だけが、妙に生活感を持っている。
「東京で目撃され始めたのは一週間前。殺害後は完全に消える。痕跡ゼロだ」
近藤の声には、警視総監でさえ隠しきれない焦りが滲む。
「この白い男は?」
マリゲルが問うと、近藤の表情が引き締まる。
「身元は不明。秋葉原で法定速度を超える車を止めたのが最初の目撃。そして――周囲の証言によると」
部屋の灯りが揺れた。
近藤は低く告げる。
「“我はジャッジメントエンドの意思に賛同する者”と、名乗ったらしい」
和室の空気が深く沈んだ。
「世界に裁きの判決を下す者…ジャッジメントエンド。今や世界で知らぬ者はいないだろう」
8月、大阪USJ付近での戦闘。
ユキトが乗るガルガンダとの戦闘時、デカメロンが世界中の前で組織名を堂々と叫んだあの日から、ジャッジメントエンドの名は世界の脳裏に焼き付いていた。
「巨大な空飛ぶ船に、巨大なロボット。一部では日本に対するどこかの国のテロ行為だと騒ぎ立てる連中もいる…詳細がつかめないだけでに憶測ばかりが飛び交う」
近藤は眉を寄せる。
マリゲルは腕を組み、静かに尋ねる。
「……それで。あなた達警察の判断は?」
言われて、ゆっくりと彼らを見渡す近藤。目の奥に、焦りと恐怖と、そして覚悟だけがあった。
「今日来たのは君達に、この二つの脅威に対して全面的な協力をお願いしたい。我々はこの件、警察だけで扱える規模ではないと考えている……普通の事件や捜査とはまるで違う…」
「オチビト、アナグラ、そして……ジャッジメントエンド。この時代の防衛では対処不可能だ」
「ってことは、アタシ達東京に行くことになるのか?」
飛永が尋ねる。
「やらねばならぬだろう。放置すれば、被害は計り知れん。それに場所は日本の大都市…放っておくわけにはいかない」
900年後の未来からきたマリゲルは、日本に到着してからこの時代のことを様々な情報媒体を使って調査をしているのだ。当然”今の日本の要となっている都市が東京だというのも把握している。
「我々の目的は、アナグラの殲滅…そうだろう?」
マリゲルは静かに頷き、ユキトを見る。
その視線に釣られて、部屋の全員がユキトに注目する。
最後のひとかけを食べる彼は、指先を舌で軽く拭ってから言う。
「行こう」
その一言がこの雪の夜を、
静かに、しかし確実に“物語の次の段階”へ押し出した。
************************************************
12月29日・明朝。
朝日がゆっくりと地平から顔を出し、東京全土に刺すような冷気が降り立っていた。
吐く息は薄く白い霧となって消え、凍える空気の中で、夜の青を下からあたためるような淡い朝焼けだけがわずかな温度を持っている。
お台場倉庫群の広場――
その一角、三機の機体が片膝をついたまま静かに佇んでいた。白と青と灰色の金属の巨影が夜明け色を反射し、まるで眠る騎士のように沈黙している。
「……朝か」
暗めに落とされたコックピットの中、ユキトがゆっくりと瞼を開いた。黒いジャケットの裾がわずかに揺れ、彼は指先でメインディスプレイを軽くタッチする。
瞬間、画面にOS起動の光が走り、機体の奥から低く重い起動音が唸り始めた。続いて天井の照明がひとつ、またひとつと灯り、背後から前へ向かって全天周モニターに光が流れるように広がり、外界の映像が鮮明に立ち上がる。
冷え切った倉庫、白む空、遠くの東京の街並み――
それらがガルガンダの内部に静かに映し込まれた。
「腹減った…」
ユキトがぼそりと呟く。
昨夜の戦闘後からここまで、彼はずっとコックピットで眠っていた。3機を同時に収容できる場所として警察が確保できたのは都内から少し外れたこの使われていない倉庫のみ。
そして、有明コロシアム付近のホテルからは距離があるため、万が一アナグラが出現した場合に備え、ユキト、マリゲル、飛永の3人が7時間交代で機体の番をすることになっていた。
「なんか持ってくればよかった……」
冬の朝焼けに染まる倉庫群と、静まり返った湾岸の街並みを眺めながら、ユキトは小さく鳴り続ける腹を片手で押さえた。
そのとき――
モニター端に、影がひっそりと入り込む。
ユキトは背もたれから体を少し浮かせ、目を細めた。
影はゆっくり近づき、やがて1台の車であることが分かる。
ガルガンダの足元で停まると、ドアが開き、銀髪碧眼の男と金髪の少女が降りてくる様子がモニターに映った。
「……交代か」
10時間が経過していたことに気づいたユキトは、メインディスプレイに触れて電源と動力の出力を落とし、ガルガンダをスリープモードへ沈める。
ハッチが開くと、冬の空気がひやりと頬を刺した。
搭乗ワイヤーで地上へ降り立つと、そこにはすでにマリゲルが待っていた。
「ここからはわたしが引き受けよう」
「わかった。頼むよ」
「それと――君のことだ、どうせお腹が空いているのだろう?」
マリゲルは淡々とした声で続ける。
「萌里君が持っているバスケットの中に、わたしが作ったお菓子が入っている。あとで食べるといい…わたしの自信作だ☆」
「そうなんだ。わかった、ありがとう」
「では」
短く告げると、マリゲルはギルギガントの脚部へ歩き、降りてきたワイヤーに身を預けてコックピットへと上がっていった。
これから10時間、彼がこの倉庫群に待機する3機を預かる番だ。
「おはよう、ユキト」
背後から聞こえた声に振り向くと、首元にもこもこのファーがついた白い上着を羽織った萌里が、両手でバスケットを抱えて立っていた。
「眠れた?」
「寝れたよ。起きたら朝だった」
「すご……あのシート固いのに。わたし、後ろに座る時でも腰痛くなるのにさ」
ユキトと共に車に向かって歩き出す萌里は呆れと心配を半分ずつ混ぜた顔をしていた。
「いつも萌里が座ってる後ろ、実は座席じゃないよ」
「えっ、そうなの?!」
萌里は思わず声を裏返らせる。
「でもイスっぽい形してるよね?」
「たまたまそういう形になってるんだと思う」
「……言われてみれば、真ん中に“開きそうな隙間”みたいなの、あったような……」
意外すぎる事実に、萌里は眉を寄せて曖昧な記憶を手探りするように思い返す。そして納得したようなしてないような顔のまま車の後部座席へ乗り込み、ユキトも後に続いた。
運転席には、近藤警視総監が手配してくれた若い刑事が座っている。まだ朝日が低い時間帯だというのに、その眼差しはしっかりとした職務の緊張を宿していた。
「乗車を確認。出発します」
短い声とともに、サイドブレーキがわずかに沈む音がした。
シフトノブが前へ押し込まれ、車体が静かに滑り出す。
冷たい外気を切り裂きながら、倉庫群はゆっくりと後方へ遠ざかっていった。
しばらく、車内にはエンジン音だけが響いた。
そして、萌里はバスケットを抱えたままユキトに身を寄せ、小声で尋ねる。
「ねぇ……じゃあ、あそこって本当は何なの?」
「………………荷物置き場」
「私、そんな所に何時間も座ってたの……?」
「うん」
「うんじゃなくて!!」
萌里は肩を落とし、それからふっと笑った。
怒る気はあったのに、ユキトの無表情で悪びれない一言が、どうしても突き抜けてしまう。
「……ほんと、ユキトってさ」
「ん?」
「なんでも“普通”みたいな顔で言うのズルいよ」
「そう?」
「そうだよ」
ガルガンダに搭載されたサテライトシステムの反動で、表情を動かす感情がないことを知っているので仕方ないのもわかるが、ついつい出てしまう言葉。
それは悪気ではないことでだけは確かだ。
萌里はため息混じりに言いながら、バスケットを開けた。
中で整然と並ぶ焼き菓子――全てがマリゲルの手作り。
香ばしい匂いが車内にじんわり広がり、冷えた身体に染み込んでいく。
「ほら、食べなよ。マリゲルさん、ユキトのために作ってくれたんだし」
ユキトはバスケットを覗き込み、しばらくじっと焼き菓子を見つめてから、一つを指先でつまんだ。
「……うまい」
「でしょ? マリゲルさんって、なんか…全部完璧だよね」
出会った頃は風呂場から全裸で現れ男の一物を丸出し状態で出てくるなどの珍事件もあったが、それを除けば貴族の出なのもあって出来ないことが殆どない男マリゲル。言い方を変えれば容姿含めて隙が無い彼を表現するには、ぴったりの言葉だろう。
「……」
ふと、ユキトは一度だけ萌里に視線を向け、少しだけ間を置いた。
「えっ、なに?」
「萌里はお菓子作らないの?」
「き、急に? あんまり作らないけど…そ、そりゃー……作ろうと思えば作れるよ……?」
「ふーん、そうなんだ」
ユキトはそれ以上何も言わず、パクっと最後の一口を口に放り込み、さっさと窓の外へ視線を逸らした。
会話がすっと終わらされ、取り残された萌里は、胸の奥がざわつく。
(え、ちょっと待って……今のって……手作りを食べたいってこと……?いやでも、どうだろ……聞いてくるってことは、そういう……ことだよね!?で、でも夕飯の手伝いで私も作ってるけど……あれはほとんどおじいちゃんだし……違う。ってことは…………つまり……わたしの手作りを……食べたいってこと!?)
気づいた瞬間、萌里の顔はみるみる赤く染まった。
唇をきゅっと噛み、嬉しさと動揺のエネルギーが体の中で暴れているのをどうにか抑えながも肩がプルプル震えてしまい、慌てて窓の外へ顔を向ける。
その横顔は、隠し切れない“嬉しさの塊”そのものだった。
そんな二人のやり取りを、ルームミラー越しにちらりと見ていた若い刑事は、心の中で呟く。
(あぁ……青春ってやつだなぁ……)
車は湾岸の道路へ滑り出し、朝焼けに金色に染まり始めた東京の街へと向かっていく。
その先には、まだ誰も知らない“今日”が静かに待ち受けていた。
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お台場倉庫群から車で十五分ほどの距離にある有明コロシアム周辺のホテルは、どれも高層建造物ばかりだ。周囲を一望できるほどの高さを持ち眺めも良いが、そのぶん宿泊料金もべらぼうに高い。もっとも今回は、警察側が手配も支払いもすべて面倒を見てくれるらしく、萌里たちは実質タダで泊まれているのだった。
「えっ、なに?」
ホテル前のロータリーで車を降りた萌里は、どこからともなく“カタカタ”という小さな振動音を感じ取り、思わず身を固くした。
揺れはすぐに弱まり、やがて何事もなかったかのように静まっていく。
「地震…かな、今の」
とりあえずユキトと一緒にホテルのエントランスへ足を踏み入れた瞬間、ひんやりとした空気が頬を撫でた。
天井まで吹き抜けになった広大な空間は、朝の光を受けて淡く輝いている。床一面には白を基調とした大理石調のタイルが敷き詰められ、歩くたびに、靴底が「コツ、コツ」と澄んだ音を返した。
中央には円形の巨大な柱がそびえ、その外周には控えめな金色の装飾が施されている。柱の表面もまた大理石調で、光沢のある滑らかさがロビー全体の清潔感を際立たせていた。
左右の壁面には、落ち着いた色合いのアートパネルが等間隔に並び、まるで美術館の一角。天井近くにはシャンデリア風の照明が何層にも重なり、柔らかい光をふわりと落としている。
受付カウンターはロビー奥にあり、黒と白の大理石柄を組み合わせた重厚なデザイン。フロントスタッフが数名、静かに来客を迎えていた。
上部に設置された大型モニターには速報の地震情報が映し出されており、ロビーの誰もが自然とその画面に一度は視線を向けてしまう。
どこか無機質でありながら品のある雰囲気。
そして、東京の朝の喧騒とは異なる“静かな高級感”が、この空間全体に漂っていた。
「やっぱり地震だったんだ。最近多いよね」
「……」
他人事のように言いながらも少し警戒している萌里に対し、ユキトは返事をせず無言で画面を見つめている。
日本はプレートの境界に位置するため地震が多く、近い将来には南海トラフ地震の可能性もあると言われている。それゆえ日本人は、日常のどこかに常に地震への備えを意識して生きている。
「あ、先生たち居た」
エントランス奥の食堂に入ると、手前の席で見慣れた女性と幼い少女が朝食を取っているのが目に入った。
「戻りましたっ」
「おかえり。機体の番、ご苦労さん」
「美味そうなの食ってんね」
先ほどマリゲルの作ったお菓子を食べたばかりのユキトは、表情こそ変わらないが、飛永の皿にあるサンドイッチを見る目には明らかに“飢え”があった。
「そんな怖い顔すんなって。バイキング形式だから、好きなだけ食っていいんだぞ。お代わり自由だとよ」
「さすが高級ホテル…ん、あれ?」
声をかけようと横を向いた萌里は、ユキトの姿が忽然と消えていることに気づく。慌てて周囲を見渡すと、ちょうど飛永が指さした方向――バイキングコーナーで、ユキトがすでにトレイを持って列に並び、順番待ちをしていた。
「お菓子食べたのに、まだお腹減ってるんだ…」
「家でも食いしん坊だしな、あいつ。将来が大変そうだな〜?」
「ちょ、なんで私を見るんですかっ!」
「べ〜つにぃ?」
からかうように微笑む飛永は、サンドイッチを食べ終えると紅茶を一口含む。その隣では、リナがナンにカレーを乗せ、大きな口で無邪気に頬張っていた。
その様子を眺めていた萌里は、ふとリナの額にうっすらとした痕があることに気づき、覗き込む。
「…この痣みたいなの、どうしたんですか?」
「ああ、アタシも朝見つけてさ。どこかにぶつけたのかって聞いたんだけど、本人も覚えてねぇって言うんだよ」
「たまにリナちゃん、夜一人でトイレ行くから…寝ぼけて何処かに当たったのかなぁ…」
心配そうに眉を寄せた萌里は、リナの額の痣をそっと撫でた。
リナはくすぐったそうに笑いながら、またナンをちぎってカレーに浸している。
とりあえず朝食を取るために萌里はトレイを手に、ゆっくりとバイキングの列に並んだ。
前に並ぶ大人たちの皿には、スクランブルエッグやベーコン、山盛りのパンが次々と乗っていく。その光景を見るたび、彼女の心は少しだけ揺れる。
(うわぁ…全部おいしそう…。でも……太るよね、絶対)
トングに手を伸ばしかけては止め、また伸ばしかけては引っ込める。その様子は、端から見ればまるで小動物が餌を前に悩んでいるようだった。
「……とりあえず、サラダ。サラダなら…ゼロカロリーみたいなもんだし」
自分に言い聞かせるように、レタスとトマトを控えめに皿の端へ乗せる。
その次に視界に入ったのは、甘い香りを放つ焼き立てのクロワッサン。
バターの光沢がまるで「食べて」と誘惑してくる。
(だめだめだめ……朝からパンなんて……いや、でも今日動くし?いや、でも……うぅ)
結局、指が震えながら小さめのクロワッサンを一個だけそっと皿に置いた。
置いた瞬間、自分に甘い判断をしたようで俯く。
「……一個だけなら、セーフ……なはず……」
ところが、次に進むと温かいコーンスープのコーナーが現れる。香りにつられかけるが、萌里は首を振り、素通りしてしまう。
(スープなんて飲んだら、一気に満腹になるし……いや、それは逆にダイエット的に良いのか……? もうわかんないよ……)
気づけばユキトを探していた。
少し前のほうにいる彼は迷いもなく次々と皿に料理を乗せ、しっかりした量の朝食を用意している。本人曰くガルガンダで戦闘をした日は消費カロリーが常人の倍以上らしく、それを省いても燃焼能力が高いらしい。
(いいよね……男子って……)
最後にヨーグルトを少しだけとり、ブルーベリーを数粒だけ乗せて、自分的には“頑張って抑えた”一皿が完成した。
「……よし。これなら……太らないはず……」
そう呟く萌里の皿は、周囲の宿泊客の盛られた皿と比べて、どこか“育ち盛りとは思えないほど控えめ”だったという。
**********
「ん…?」
苦悩と葛藤の末にプレートを手に戻ってきた萌里の“控えめすぎる朝食”に、一番最初に反応したのは飛永だった。
「随分控えめなんだな?」
「え、えぇ…まぁ、その……」
萌里が視線を落としながら答えると、ふと飛永の足元──いや、正確には“横に積まれた皿のタワー”が目に入る。
8皿。
(……8?え、8?!)
美人で肌は真っ白、ウエストはくびれているのに胸も大きくて、脚なんてモデルみたいに長い。
その上で8皿。
萌里の脳内で何かがおかしい、と警報が鳴る。
「先生、結構食べるんですね……?」
「そうでもねーよ」
「そ、そうなんですか……」
(いや“そうでもない”の基準どこ?!)
疑問を飲み込んだまま、萌里はついじーーーっと飛永の身体を観察してしまう。
胸。
ウエスト。
脚。
(……全部細い。いや、細いのに出るとこ出てる)
萌里はつい、じーーーっと飛永の全身を観察してしまっていた。
「ジーーーー……」
「……な、なんだよ?!」
スプーンを落としそうになる飛永。
そりゃ、女子高生にあんな距離で凝視されたら誰だってビビる。
「い、いえ!あの、その……先生って、なんでそんなに細いのにいっぱい食べられるんですか……?」
「……あぁ、そのことかよ。なんだ、てっきりアタシの色気に見惚れたのかと思った」
「え、見惚れ……っ?!なっ、そんな、そそそそんなわけ──っ!」
真っ赤になって慌てる萌里を見るなり、飛永はニヤァッと悪戯な笑みを浮かべた。
「冗談だよ。で、なんで太らねぇかって?」
「はい!何かやってるんですか?」
「……秘密!」
「えぇぇ!? 教えてくださいよぉ! 女子の永遠のテーマなんですよ、それって!」
「ヒミツはヒミツ。女には謎があった方がモテんだよ?」
「な、なんかズルいんですけど!」
ツンと唇を尖らせつつ、萌里は控えめサラダを無意味にブスッと刺した。
「まだ10代でしょ?若いんだから、気にしなくていいと思うけどなー?」
「雑誌の撮影でラインが出る服を着ると、どうしても気になっちゃって…」
「ふーん?萌里はそのままで十分可愛いと思うけどね」
「……ちょっ、ふえ?!」
耳の先から首筋まで真っ赤になる萌里。
その横で、リナがもぐもぐしながらぽそり。
「もえり、ほそいよ……? 」
「えっ……そ、そうかな……」
「ゆきとより、ほそい」
「比較対象おかしいってばリナちゃんっ!?!?」
飛永がお腹を抱えて笑う。
萌里は顔を覆って小さく呻き、リナはきょとんとしたままナンを頬張り続ける。
そんな賑やか女子トークの真っ最中──
山を築いたかのような皿を両手で抱えて、ユキトが無言で席へ戻ってきた。
三人の皿を見比べる。
……いや、比べる必要もない。
量と差がすごすぎる。
「…………」
「……ねぇユキト」
「ん?」
「さすがに遠慮とか、学ばない?」
「なんで?」
きょとん、とした無表情。
それが逆に腹立つ。
萌里と飛永が同時に深いため息をついたのだった。
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晴れ渡った空と、果てしなく続く青い海。
太平洋のど真ん中、水平線は薄い光を帯びながら弧を描き、波は穏やかに砂浜へと寄せては返す。
潮風は頬を撫で、湿った草いきれと混ざり合い、まるで世界から切り離された静寂そのもののようだった。
そんな孤絶した海域に──地図にも載らない“島”が、一つ。
「……ここは、なんだ?」
黒い戦艦の側面から降下用階段を下りてきた嵐着は、足を砂へ沈ませながら眉をひそめた。
黒い髪はもじゃもじゃと乱れ、顔は皮膚の色が違う継ぎはぎだらけの異形。
視線の先、砂浜に転がる黒い塊が目に入る。
「あれは……」
「既に壊れて動かないよ。ボクが少し前に与えてあげた“おもちゃ”さ」
背後から響いた声は、低く湿り、不気味さと愉悦が混ざったような響きだった。
肩に袋を背負い、髑髏の仮面と黒いスーツを身につけた男──髑髏だ。
「何もねーとこだな、マジで」
「自然しかありませんねぇ~」
ツインテールの黒い軍服の少女ヨヒコと、筋骨隆々でモヒカンのデカメロンが続いて降りてくる。
「地図に記載がない…つまり政府非公開区域、ですか」
「ピクニックには程遠いなー?」
さらに七三分けに伊達メガネ、潔癖症の元ハッカー──万象と、戦艦の操舵士で嵐着と同じ継ぎはぎ顔の浦部が地面へ降り立つ。
髑髏は静かに砂を踏みしめながら言った。
「“世界から抹消された島”。ここには名がない」
「なにがあるってんだ?」
嵐着が強く問い返す。
「ここはね──“世界政府”の管轄下にある島だ」
「……気になったのですが、世界から抹消されたというのは……どういう意味ですか?」
万象がメガネを押し上げながら質問する。
「言葉の通り。世界政府がこの島を地図から消した。理由としては『先住民が外部接触を拒んでいる』……なんて建前があるけどね。実際の理由は別にある」
「その理由とは?」
追いで尋ねる万丈の隣にいるデカメロンは既に眠そうに目を擦っている。筋肉を動かさない時間が長いと眠気が襲うらしい。
髑髏は、熱帯の濃い緑を見つめたまま言う。
「“隠したいものがある”。この島には、世界政府が嘘を重ねてまで隠蔽したい“何か”が眠っている」
「それは……オレ達の活動に関わるのか?」
嵐着の声には狂気すら滲む。復讐心を燃料にしたような、鋭い双眸。
「アンタに言われてから、擬態能力で争いを起こして死体を量産した。んで今度は見知らぬ島で宝探し……どこに向かってんだよ」
「君達にやってもらったのは序章だ。今からが本番──“世界再生”への第一歩だよ」
そう言って髑髏は森の奥へ歩き出す。嵐着、ヨヒコ、デカメロン、万象、浦部が後を追い、ジャングルの影へと消えていく。
絡み合う太い根。湿った腐葉土。木漏れ日すら届かない濃密な緑。
一歩踏み込むたび、足音は重く沈む。
無言で歩く一同。
湿った土を踏みしめる音だけが、森の奥へと吸い込まれていく。
やがて、先頭を歩く髑髏がふいに背を向けたまま語りかけてきた。
「君達は――“ヤムデル族”を知っているかい?」
「……聞いたことねーな」
髑髏のすぐ後ろを歩く嵐着が、訝しげに眉をひそめる。
「この島には、かつてヤムデル族が住んでいた。温厚で、争いを嫌う種族だ。そして……先祖代々受け継いできた“島の秘密”を守る宿命を負っていた」
「今はもう住んでないのか?」
嵐着が肩越しに問い返す。
「いないよ。だって――ボクが殺したから」
「へぇ、いつの間に」
まるで雑談のように答える髑髏に、嵐着も淡々と返す。
そのやり取りを、他の四人は言葉を挟まず黙って聞いていた。
「収穫はあったよ。調べた甲斐があった。これから案内するのは――“失われた文明の遺産が眠る場所”だ」
やがて森林を抜けると、急に視界が開ける。
陽光を受けて鈍く光る巨大な岩の山が、一同の前にそびえ立っていた。
「さて、こいつを使おうか」
髑髏は無造作に肩から下ろした袋を地面へ投げ捨てる。
ずるり、と袋の口から人影が転がり出た。
皆の視線が一斉にそこへ向かう。
それは明らかに死体だった。
肌は灰色に変色し、乾き、裂け、ところどころは原形を留めていない。
頭部の皮膚は剥がされ、むき出しの脳が透明な容器の中で不気味に浮かんでいた。
「……これはなんだ?」
嵐着が冷静に問う。
「この島に住んでいたヤムデル族の亡骸さ。墓から掘り返した。装置を使って、脳だけはかろうじて生かしてある」
「趣味わりぃっての」
デカメロンが顔を引きつらせながら唸る。
「世界を変えるには、必要な犠牲さ」
髑髏は軽く肩をすくめ、死体を見下ろす。
次の瞬間、容器の中の脳がぶるりと震え、無数の気泡がぶくぶくと立ち上り始めた。
まるで、長い眠りから意識を取り戻すかのように。
「――開くぞ」
髑髏の言葉と同時に。
ガゴンッ。
岩山の正面から重たい振動音が響いた。
中央に一本の裂け目が走り、ゆっくりと左右へ割れていく。
大自然とは明らかに異質な、人工的な光景が姿を現す。
暗く長い、地下深くへと続く通路だった。
「こいつは……」
嵐着が思わず漏らす。
「島のあちこちに、こうして開く入口がいくつもある。しかし――“ヤムデル族”でなければ開けられない仕掛けになっている」
髑髏が平然と言い放つ。
「……奥に行くんだな」
「その通り」
髑髏の背に続き、嵐着が一歩、暗い通路へ踏み込む。他の四人も黙って後へ続いた。
足を踏み出すたび、
カツン――
と乾いた音が、静まり返った通路に反響する。
床は金属とも石とも判別しがたい冷たさで、踏むたびに体の芯へ硬質な振動が伝わった。
「……ん?」
歩みを進めた一同の前に、ぽっかりと空間が開けた場所が現れる。
その中央――
淡い光を帯びた円盤状の物体が、まるで重力を無視するように浮かんでいた。
「浮いてる……のか?」
嵐着が警戒しつつ近づくと、円盤の縁がかすかに脈動し、波紋のように光が広がっていく。
「エレベーターだ。乗りたまえ」
髑髏が当然のように言う。
髑髏に続いて嵐着たちも円盤に足を乗せた。
その瞬間、円盤がわずかに震え――ゆっくり、静かに沈み始める。
青白い光が全員の輪郭を淡く縁取る。
足元の景色がゆるやかに遠ざかり、視界が暗い深淵へと吸い込まれていく。
音はない。
風すら動かない。
ただ、空気がゆっくりと流れ、体の周囲でかすかに揺れる。
上下の感覚が徐々に曖昧になり、どこからどこまでが空間なのかすら判別しにくくなる。
まるで――地の底に眠る“何か”の胎内へ、ゆっくりと飲み込まれていくかのような降下。
耳を塞ぐような静寂が広がり、その深さは不気味なほどだった。
沈黙が長く続くほどに、一同の胸の奥に、不安がじわじわと満ちていく。
どれほど降りただろうか。
“時間”という概念そのものが指先からこぼれ落ちそうになった頃――
突然、視界が裂けた。
「……ん?」
ジャッジメントエンド一同の前に広がったのは、底なしの巨大空洞。
天井も壁も存在を疑うほど深い闇に浸され、その闇の中を無数の金属の橋梁とパイプが“網の巣”のように走り回っている。
青や白の光点が絶えず明滅し、まるで夜空に星座が組み上がってゆくかのように、空洞全体が呼吸しているようにすら見えた。
そして――その中心に。
それは浮かんでいた。
闇すら押し返す、巨大な“艦”達。
長さ数百メートル。いや、数え方そのものが無意味に思えるほど巨大。
鈍く輝く銀の外殻は、無数のワイヤーで天井から吊られ、空中に囚われた巨獣の死骸のように静止している。
艦体には深い亀裂が刻まれ、
焼け焦げた痕が点々と散っていた。
過去に受けた攻撃か、あるいは墜落寸前の抵抗か――
それはもはや“傷”ではなく、戦いの記憶と呼ぶべきものだった。
しかし、それでもなお造形は圧倒的に、美しかった。
鋭利さと滑らかさが同居し、金属であるはずなのに生き物の“筋肉”じみた起伏を備え、
曲線は呼吸をしているかのように自然で――まるで、巨大な生物が金属の殻に姿を変え、いまも眠っているかのようだった。
「なんだ……ここは……」
嵐着の呟きは、空洞の奥へ吸い込まれるように消えていった。
髑髏は一歩前に出て、
静かだが不気味なほど確信に満ちた声で語り始めた。
「遥か昔――宇宙から来訪した“アリオネル帝国”。そして、それに対抗し、地上に君臨し現代よりも遥かに進んだ文明を持っていた“セルガンティス文明”」
「終極機聖戦争……ブリッジで言ってたやつだな」
「その通り。ここは、セルガンティス文明が遺した“聖域”だ…遺産だ」
嵐着たちは、あらためて巨大空洞を見渡す。
戦艦と呼ぶにはあまりに巨大な影がいくつも暗闇に浮かび、天井のワイヤーによって吊り下げられた姿は――まるで巨神の屍骸。
現代文明では到底到達しえない、途方もない技術の残響だった。
「セルガンティス文明はアリオネル帝国の“創造主兵”……神の負の心臓を有する兵器に対抗するため、自分たちも“神”を造った」
円盤は静かに巨艦の下層をくぐり抜け、蒼光はやがて柔らかな琥珀色へと変わっていく。
空気が湿り、重く、どこか……古い祈りの気配が漂い始めた。
そして――
闇の底に、“影”が姿を現す。
船ではない。
動かぬまま永劫を見つめる、巨神の群れ。
人型をしている。
しかし、その高さは百メートルを超え、並び立つその姿は神殿の守護像というより――時の流れに封じられた“神々の軍葬”のようだった。
灰白色の装甲は静かに光を吸い込み、頭部から伸びる無数のケーブルは、天井へ昇る“魂の鎖”のように見える。
胸部の円環コアが淡く鼓動し、沈黙の中でわずかに呼吸しているかのように光を脈打った。
「あれも……そうなのです……?」
ヨヒコの声は震えていた。
暗闇に連なる巨神たち。
誰が見ても、そこに宿る“存在感”は生身の兵器ではない。
神性をもつ“何か”だった。
円盤は静かに巨神たちの間を滑る。
一同はまるで古の遺跡を巡る巡礼者のように、言葉すら忘れ、その荘厳に呑まれていた。
遠くで、低く長い金属音が鳴る。
風でも機械の作動でもない、もっと原始的な――
まるで眠れる神が夢の中で息をついたかのような音。
その瞬間、巨神たちの胸のコアがほんのわずかに明滅した。
やがて下降が止まり、円盤の周囲に圧力音が広がる。
扉が開くと、光が吸いこまれるような静寂の中枢室が広がっていた。
壁面は白銀に輝き、未知の光素パネルが脈動する。
空間全体が呼吸しているような錯覚を覚える。
奥へ進むほど、空気が澄み、神域めいた緊張感が満ちる。
そして――視界がひらけた。
巨大な格納庫。
天井は百メートルを超える円蓋。
幾本もの吊架アームが天井から垂れ下がり、その奥には、息を呑む光景があった。
無数の巨神たちが、祀られるように鎖で吊られ、永い眠りについていた。
その姿は、機械でありながら神像。
「ここは……なんだ……?」
嵐着の声はかすれていた。
髑髏は光に照らされながら、静かに答える。
「ここは――“機械の神”が眠る聖域。セルガンティス文明が神に抗うために造りし者。彼らはこう呼ばれていた……」
闇の奥で、吊られた巨神のコアが淡く脈うつ。
「――“機聖”。そして、その巨神の骨組み……“ゼウスフレーム”と」
髑髏の声は、祈りにも呪いにも似た響きを帯びていた。
「ゼウスフレーム?」
聞いたことのない単語に嵐着は眉を顰める。
「――ゼウスフレームとは、“究極の生命体”を創るための器だよ」
髑髏は静かに語り始めた。
その声は空洞の暗がりに吸い込まれ、しかし重く響いた。
「セルガンティス文明が辿り着いた結論だ。彼らは機械を極め、人体を極め、それでも満足しなかった。完璧なる人類――それが当時の悲願だった」
嵐着は黙って耳を傾ける。
「人と機械を“繋ぐ”のでは足りない。互いの長所を“補う”のでも足りない。彼らの思想では、人間は不完全で、機械は空虚だった。だからこそ――」
髑髏は、鎖に吊られ静止する巨神へとゆっくり指を伸ばした。
「たどり着いたのは…完全融合だ。心、肉体、神経、そのすべてを機械へと沈め込み、“操縦者”と“兵器”の境界を根こそぎ消し去る。動かすのではない。共に進化し、共に生きるための器――それがゼウスフレーム。地上で最強の兵器の一角といっても過言ではない」
言葉に触れた瞬間、空洞の空気が冷えたように思えた。
背筋に、細い氷柱をなぞられたような感覚が走る。
「セルガンティスが夢見た神性……これは、その残滓にすぎない」
髑髏の声には、畏れとも敬意ともつかぬ微妙な震えがあった。
だが、次の瞬間――彼の視線がふいに鋭さを帯びる。
(…おかしい。ゼウスフレームは全部で二十機のはず。“あの女”が持ち出した一機のほかに――いくつか足りない。それに戦艦も……誰かが、ボク達より先にここへ入ったか…?)
その疑念は、暗闇よりも冷たく重かった。
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「…天気、良いなー」
朝食を終えて身支度を整えた四人は、ホテル前のロータリー広場に集まっていた。
大型観光バス、タクシー、小型送迎バスが絶え間なく出入りし、まだ朝の9時だというのに活気とせわしなさが漂っている。
空は雲ひとつなく晴れわたり、時刻は午前9時3分。快晴。
「風吹いてますけど、冷たいって感じしないですね」
風に遊ばれる髪を押さえながら、萌里は肌に触れる空気の軽さを確かめる。
白いふわもこ付きの上着にショートパンツ、その上から黒タイツ。歩きやすい白いスニーカーに、同じ白色の帽子――どこへ行くにも準備万端といった装いだ。
「北西季節風だな。日本海を渡るあたりで水分を落とすから、太平洋側に来る頃には乾燥して晴れやすくなるんだ」
「へぇ…物知りですね先生!」
「はは、一応まだ教員免許持ってるんでね」
飛永は苦笑しながら肩をすくめる。
その横には赤い上着に黄色のもこもこ帽子、そして足首まで隠れるロングスカートを着せてもらったリナが、飛永の手をぎゅっと握って立っていた。
「ん? リナちゃん、それどうしたの?」
何気なくリナを見ていた萌里が、と気づいた。
リナのポケットから、何か小さな“顔”のようなものが覗いていたのだ。表情は可愛らしい……いや、可愛らしい“つもり”の造形というべきか。どこかのキャラクターグッズに見える。
「これ? さっきホテルの売店で買ったんだよ。うさぎぴょん子っていう、最近流行ってるらしい」
「……あ、日曜日の朝にやってるアニメの? 小さい子に人気って聞いたことあります!」
「かってもらったぁ!」
リナは満面の笑みでポケットから取り出し、自慢げに萌里へと差し出す。
ぬいぐるみ自体はピンク色で、うさぎ耳がついている。だが――
(……いや、目がめちゃくちゃ血走ってるし、身体ゴリラみたいにガッシリしてない? 本当に幼児向けなのこれ……?)
萌里の脳内に一瞬そんなツッコミがよぎったが、リナの嬉しそうな顔を見て心の中だけに留めた。
「よかったね、リナちゃん! かわ……かわいいよね、うん!」
「うん!!」
リナはぎゅっとぴょん子を抱きしめ、幸せそうに笑った。
「これからどうすんの?」
会話の終わるタイミングを狙っていたのか、ユキトが朝食二十皿を平らげたばかりとは思えない軽さで、携帯食料をかじりながら尋ねる。
今日も黒い上着を羽織り、さすがの彼も風を防いでいるようだった。
「まずは、白い男とオチビトが現れた場所だな。
何かしら痕跡か手がかりが残ってるかもしれない」
飛永の声は落ち着いていたが、どこか緊張の芯があった。そして4人はホテルを後にし、国際展示場駅へ徒歩で向かうことにした。
歩き出してすぐ、都会の空気が全身を包み込んでくる。
ガラス張りのビルが朝日を反射し、白金色の光が歩道に波のように広がる。
横を走る大通りには、観光バス、物流トラック、黒塗りの車が列を成し、絶え間なくエンジン音が重なり合っていた。
「すご…ビルでか…」
思わず見上げた萌里の瞳に、幾重にも重なる高層建築が映る。風がビルの谷間を抜け、ひゅうと細く高い音を立てて通り過ぎていった。普段家の立地もあって、田園の景色か海か山しか見てない彼女にとっては新鮮な光景である。
歩道にはキャリーケースを引く旅行客や、首からIDカードを提げたビジネス客が行き交い、
駅へ向かうにつれ人の波はどんどん濃くなっていく。
「ほら、リナ。はぐれんなよ」
飛永が手を引いて歩幅を合わせると、リナはこくんと頷いた。
彼女からすれば、見慣れない巨大なビルに囲まれた景色そのものが迷路のように見えるのだろう。
街路樹の葉が風に鳴り、遠くではクレーンの金属音が響いている。
近未来的な建物が立ち並び、ガラスの壁面には東京湾の光が淡く反射していた。
「駅だ」
飛永が指差した先――巨大な屋根を持つ国際展示場駅が、都会の喧騒の中心のようにそびえていた。
朝の通勤客が流れ込むように改札へ向かい、構内からは連続して電車の駆動音が響き出ている。
どこまでも都会のリズムが続いていく――そんな景色の中へ、4人は歩みを進めた。
切符売り場で小銭を入れ、各々切符を購入。しかし、ユキトはこの時代の切符の買い方を知らないので萌里が代わりに購入、リナの分は飛永が買っていた。
改札を抜けホームに入ると、同時に電車が入ってくる。通過時に来る風は冷たく肌を突き刺し、冬の寒さを改めて痛感させられる。
「人多っ…」
電車に乗ると萌里は小声で漏らす。朝の通勤時間帯なのでどこも満席、立っているしかない。
そして電車は走り出し、朝の都内を駆け抜けていく。
ガタンゴトン、
聞こえる電車の走行音。
周りは静かでほとんどがスーツなので、これから出勤する民だろう。
ユキトは流れる東京湾の景色を眺めながら、飛永はスマホをいじり、リナは飛永の腰にしっかりとしがみついており、萌里はボーっと天井を眺めている。
束の間の日常の空気に、皆各々の姿勢で電車に揺られていた。
そしてゆりかもめ、りんかい線、JRを乗り継ぎ、人の波に流されるように電車から降り構内を抜け、丸の内側の出口へと向かう4人。
長い地下通路を抜けた先――階段を上がると、視界が一気に鮮やかな“赤”で満たされた。
「わ……!」
萌里が立ち止まる。
そこには、東京駅丸の内駅舎の壮麗な姿が広がっていた。
赤レンガ造りのクラシカルな建築。丸いドーム屋根、精巧な装飾。
立ち並ぶ高層ビルの窓に朝の光が斜めから差し込んで、建物全体がほんのりと金色に輝いている。
足元には、広大な丸の内駅前広場――
白と灰の石畳がまっすぐ皇居へと続き、シンメトリーの美しさをそのまま地上に描き出していた。
行き交うビジネスパーソンの足取りは速いが、この広場だけはどこか静謐な空気が漂っている。
「都会って感じだぁ……」
萌里が自然と息を呑む。
飛永も思わず感心していた。
「研修以来だなー。相変わらず日本文化感じるねぇ、ここの駅舎」
その横で、リナは赤レンガの駅舎を見上げ、目をぱちぱちさせている。
「おっきい……きれい……」
ユキトはというと――
「駅の中に食べもの売ってたけど」
「食い気しかない?!」
萌里が即ツッコミを入れる。
いつも通りのやりとりに、飛永が小さく笑う。
「て、っていうか!」
萌里が慌てて声を上げた。
「私たちは白い男の手がかりを探しに来たんですよ!見とれてたり、食べ物につられてる場合じゃないですって!」
必死に自分たちの目的を思い出させるように言うが――
その瞬間だった。
バサッ、バサササッ。
萌里の上着の裾から、何かが雨のようにこぼれ落ち、足元に散乱した。
「ん? なんか落ちたぞ」
飛永がしゃがみ、落ちた紙束を拾い上げる。
「……スカイタワー観光案内マップ?」
ゆっくりと萌里の方へ視線を向ける。
すると萌里は――
口を“フー”とすぼめ、そっぽを向きながら、絶妙に3人との目線を避けていた。
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「おぉぉおぉあああ…!」
東京丸の内駅から電車を乗り継いで約三十三分。押上駅を出てわずか五分、ビルの谷間を抜けた先――それは突然、視界を支配した。
歩道の先に広がるのは、半円状に開けた大きな広場。段々畑のように重なった石造りのバルコニーからは、まるで滝のように緑があふれ、最下層にはカフェや雑貨店が軒を連ねている。
行き交う観光客のざわめきと、都会の喧騒が混じる独特の空気。
その中心で、四人は同時に足を止めた。
視線が、吸い上げられるように上へ―そして息を呑む。
そこにそびえていたのは、雲を突き刺さんばかりの青銀の巨塔。
東京スカイタワー。
写真や地図で見た「大きい」などという言葉は、足元に立った瞬間に意味を失う。
鋼鉄の編み目が幾何学模様を描きながら天空へ伸び、その先端はもはや視界の端に霞むほど。
陽光を受けてきらりと光を返し、構造体の内部からは巨大建造物特有の低い振動音が、胸の奥に微かに響いてくる気さえした。
「……でっっっか……」
萌里は口を開けたまま首を反らし、完全に固まっていた。
リナは圧倒されるように一歩下がる。
「お、おおおぉ……き、きぃ……っ!」
飛永は苦笑しつつも、明らかに目が輝いていた。
「何回来ても圧がすごいねぇ。首がいたくなるくらい」
そんな三人の反応をよそに、ユキトは無表情のまま塔を指してぽつり。
「これなに?」
「えっ、知らないの?!」
萌里は裏返った声を上げる。
「知らない」
「ユキトの時代って……スカイタワー無いの?」
「見たことない」
「えぇ、どういうこと……?」
ユキトは曇りのない目で言った。
「マリゲルが言ってた。古の戦争で文明が一度“灰になった”って」
「じゃあ未来では、これ……なくなってるんだ……」
ほんの一瞬、萌里の表情が陰る。
だがすぐに、もう一度巨大な塔を見上げる。高さ六四三メートル――自立式電波塔として世界一。
心柱構造で耐震・耐風性も最高峰。
“今”を象徴する、人類の技術の結晶。
そして、萌里の表情はいつもの明るさに戻った。
「あっ……ていうか! 来てよかったんですか?本当は白い男とオチビトが出た場所に行くのが目的だったのに……」
飛永は両手をポケットに突っ込んだまま、肩をすくめて笑った。
「さっき確認したら、ここも“探索区域”の一つだったよ。お偉いさんも“適度に休憩しながら行け”って言ってたし……これくらいは許容範囲だろうさ」
ユキトも無表情のまま小さく頷く。
「たまにはいいんじゃない」
その言葉に、萌里は胸を撫で下ろすように息をつき、頬がほんのり赤く染まった。
「よかった……」
4人は人混みをかき分けるように広場を抜け、スカイツリータウンの出入り口へと向かう。
入口の自動ドアが開いた瞬間、どこか甲高い「キィン」という耳慣れない音が耳をかすめた。
モスキート音だろうか、と萌里は軽く首を傾げる。
中へ足を踏み入れると、両サイドに小さな店がぎっしりと並び、甘い匂いや焼けた匂いが漂ってくる。
ユキトが“そちら”にふらりと吸い寄せられかけたところで、飛永が小指でその肩を軽くつつく。
「こっちだぞ」
ユキトは表情のない顔で、背を向ける。
エスカレーターに乗りながら、飛永がふと指を鳴らした。
「あ、そういや登るのってチケット要るんだったな……。アタシら、まだ取ってなかったじゃん」
言ってから「やっべ」という表情で額を押さえる。
しかし、前方にいた萌里がくるりと振り向き、頬をほんのり赤く染めたままスマホの画面を両手で掲げた。
画面には、4人分の予約QRコード。
「……おまえ、最初から来る気満々だったろ?」
飛永が呆れたように目を細める。
「へへっ……」
萌里は照れ笑いをして、金髪の髪を指先でいじった。
その後もエスカレーターを乗り継ぎ、さらに階段を上って4階へ。
屋根のない連絡橋に出ると冷たい風が通り抜けるが、四人の間にはどこか遠足めいた空気が漂っていた。
再び建物内に入り、予約者用の列に加わる。
すでに萌里が全員分のチケットを押さえていたおかげで、待ち時間も少なくスムーズに進んでいく。
やがて、一行は展望台へと向かうエレベーター前へと辿り着いた――。
「どこいくの?」
飛永の手をぎゅっと握ったまま、リナが首を傾げる。
「景色のいいところさ」
まるで親子のような柔らかい会話を交わしながら、4人は流れるように人の波へ合流し、エスカレーターへ乗り込む。
扉が閉まると同時に、静かに上昇が始まる。
窓の外に広がる街は、ゆっくり、しかし確実に下へと沈んでいくように見えた。
「っ……」
耳にツンとくる違和感が走り、萌里は唾を飲み込んで圧力を抜く。
頭上のデジタルパネルでは数字が目まぐるしく回転し、この密室がどれほどの速度で上昇しているのかを示していた。
やがて軽い振動とともに速度が緩み、扉が左右に開く。
辿り着いたのは――東京スカイタワーの展望台。
「う、上も人でいっぱいだぁ……」
思わず漏れた萌里の声は、興奮と緊張が入り混じって少し裏返っていた。
普段なら胸の中で留めておくはずの本音が、今は高鳴る鼓動と共に口からこぼれてしまう。
「あっちから景色が見えるぞ」
飛永が顎で示す方向へ、萌里は吸い寄せられるように歩いていく。
足取りは軽く、気持ちはさらに浮き上がっていた。
窓際に着くと、萌里は手すりにそっと手を添え、深く息を飲む。
そこに広がっていたのは――
果てしなく続く東京の街並み。
空は何処までも青く透き通っておりビル群は玩具のように小さく、道路は線のように細く、自分たちが歩いてきた場所さえ、地図の印刷のように遠く感じる。
その“縮んだ世界”の中で、人も車も確かに動いている。
「……すご……っ」
その一言は、胸の奥から零れ落ちた純粋な感嘆だった。
日常では絶対に味わえない圧倒的な高さ――
そのスケールに、萌里は目を大きく見開き、頬を紅潮させたまま、景色を全身で飲み込んでいた。
隣では、手すりにつかまり背伸びをして、なんとか窓の外を覗こうとするリナの小さな姿がある。
その様子を見ていた飛永は、ふっと表情を和らげると、軽々と両腕でリナを抱き上げた。
「これなら見えるだろ」
「……わーーー……」
リナの瞳は、瞬間的に宝石のように輝きだした。
広大な都市のパノラマが一気に視界に飛び込んできて、言葉が追いつかない。
ただ、景色に呑まれるように目を見開き、口をぽかんと開けたまま、きらきらと光を宿している。
――誰だってこの高さからの景色を見れば、一度は息を呑む。
その圧倒的なスケールと美しさは、子どもに限らず大人の心さえも奪ってしまう。
「け、景色をバックに、し、写真撮りません?!」
興奮のままに萌里がスマホを取り出し、震える声で提案する。
「おう、いいぞ」
飛永が軽く笑い、
「とるー!」
リナが元気よく両手を挙げ、
ユキトも視線を外さないまま、
「いいよ」
と短く返した。
「じゃ、じゃあ!周りの邪魔にならないところで、集まって、集まって!」
萌里が慌てつつも嬉しそうにみんなを誘導する。
4人はぎゅっと肩を寄せ合い、萌里がスマホを高く掲げる。
角度を微調整しながら、全員がフレームに収まったのを確認する。
「よしっ、撮ります!」
軽やかな声とともに、シャッター音が何度か響いた。
萌里と飛永は控えめにピース。
リナは両手を思いきり上げて、太陽のような笑顔を向ける。
そしてユキトは――レンズをじっと観察するように無表情で真剣な顔のまま写っていた。
「……あ、結構盛れてる……!」
スマホの画面を確認した瞬間、萌里の頬にぱっと花が咲いたような笑みが広がる。
その様子に興味を引かれたのか、飛永もリナを抱いたまま、ゆっくりと画面を覗き込み、ユキトも珍しく少しだけ身を寄せて画面をのぞいた。
四人の頭がひとつのスマホの前で寄り合う。
その光景は、アナグラやオチビトなどの危険な世界とは無縁、ただ仲の良い友達同士が笑い合う、ごく普通で、温かい時間そのものだった。
「うお、なんだ?!」
平穏な喧噪には似つかわしくない、鋭い驚きの声が遠くから響いた。
賑わう展望台の中で、ざわ…ざわ…と、人々が驚きと困惑を含んだ反応を示し始める。
そのざわめきは波紋のように広がり、やがて萌里たちのいる方向へ近づいてきた。
何か――誰かが、人混みの間を勢いよく駆け抜けてくる。
黒ずくめの男が4人の前を横切った。
片手には誰かのカバン。
「え、何今の?」
萌里が思わず声を漏らす。
直後、群衆の奥から必死の叫び声が飛んだ。
「ひ、ひったくりです! カバン取られました! 誰か…誰か捕まえて!!」
その悲痛な声が聞こえた瞬間、真っ先に動いたのはユキトだった。
続いて飛永が迷いなく駆け出す。
「へぇ、意外とこういうのでも動くんだ、アンタ」
飛永が横目に声を掛けるが―
「………」
返ってくるのは無言。ただし無視ではない。ユキトはもともと必要以外は喋らない性格な人間でもある。
「どうする?」
「このまま追う。――俺は壁を使う」
「おっ、任せ……って壁?!」
驚く暇もない。
ユキトは急に進路を横へ切り、勢いよく跳び上がると、壁へ足をかけ、そのまま重力を裏切るように疾走し始めた。
俗にいう――壁走り。
人混みを突破するよりも速いと判断した、ユキトならではの追跡ルート。
「おいおい、忍者かよ!!」
飛永は呆れ笑いを漏らしながらも、人混みをかき分け全速で追う。
黒ずくめの男が後ろを振り返った瞬間――凍りついた。
ひとりは普通に追ってくる。
だがもうひとりは、壁を走り、重力無視で迫ってくる化け物じみた追跡者。
「ひっ……!?」
間抜けな悲鳴が漏れた。
次の瞬間、ユキトが壁から強く蹴り出し――
天井すれすれの高さから人混みの頭上を飛び越え、一直線に男へ襲いかかる。
「……ッ!」
ユキトの飛び蹴りが男の顔面に炸裂。
黒ずくめの男は派手に転び、床を滑った。
その直後、飛永が飛び乗るように押さえ込み、男が握るカバンを力で奪い返す。
抑え込む姿勢はプロそのもの。
やがて係員や警備員が慌ただしく駆けつけ、周囲も騒然とする。
こうして、スカイタワー展望台で起きたひったくり騒動は“二人のイカれた追跡劇”によって、
あっさり終息した。




