13話:魔女
季節はゆっくりと舵を切り、長く続いた猛暑がようやく終わりを告げた。
ついこの前までアスファルトの照り返しに揺らいでいた街の空気が、今はどこか澄んでいる。気がつけば、ビルの隙間を抜ける風がほんのり冷たく、秋の匂いを運んでいた。
わずか二週間のあいだに、気温は三十度を超える夏の熱から一転して二十度を下回り、季節の色彩はまるで絵の具をこぼしたように一気に塗り替えられていった。
蝉の声が遠ざかり、代わりに金木犀の香りが夜気に混じる。
それは、夏の名残が静かに背を向け、秋がその隙間に足を踏み入れた瞬間だった。
もはや誰も驚かない。
急激な温度の変化も、揺らぎ始めた四季のリズムも、今ではこの国・日本にとって、当たり前の風景になりつつある。
「あ、あの…すいません!」
登校の途中、ふいに声をかけられたのは——萌里の付き添いとして同行しているユキトだった。
彼は青南水産高校の生徒ではない。学校側には、萌里の所属事務所から派遣された“同行者”として正式に登録されている。
それでも、最近になってユキトへ話しかける生徒が急に増えたことを、萌里はよく感じていた。
「よかったら、これどうぞ!」
制服姿の女子生徒が、恥ずかしそうに紙袋を差し出す。
ユキトはいつも通り無表情のまま、短く「わかった」とだけ言ってそれを受け取った。
それだけのやりとりなのに、女子生徒は顔を真っ赤にして後ろを振り返り、見守っていた友人たちと「きゃーっ!」と小さな悲鳴を上げながら校門の中へと駆けていく。
萌里は、そんな光景を見ながら引きつった笑みを浮かべた。
「……モテモテじゃん」
わざとらしくため息をつきながらも、どこか誇らしげなような、複雑な気分になる。
そのとき——。
「田辺さん!」
背後から呼び止められ、振り返った萌里の前に、見慣れない女子生徒が立っていた。おそらく一学年下だろう。頬を赤く染め、両手で抱えるように差し出されたのは、
赤と白のストライプ柄に、ハート型の小箱。
「た、食べてください!」
「えっ……あ、ありがとう!」
戸惑いながらも受け取ると、女子生徒は小さくお辞儀をしてから「よっしゃ……!」と口元で呟き、嬉しそうに駆けていった。
萌里はその後ろ姿を見送りながら、何とも言えない顔で、ふっと笑う。
——どうやら、ユキトだけじゃないらしい。
バンド演奏とソロ演奏の効果なのか文化祭以来、彼女自身も男女問わず声をかけられるようになっていた。
秋の風が、どこかくすぐったいほど心地よく吹き抜けていく。
「何もらったの?」
正面玄関で靴を履き替えていた萌里が、すでに靴を履き終えて立っていたユキトに声をかけた。
「チョコ」
短く答えるユキトの手には、小さな包装箱。
気になった萌里は、つい身を乗り出して覗き込む。
「えっ、どれどれ……」
ユキトが無造作にリボンをほどき、箱のふたを開ける。
中には、小さく丁寧にラッピングされたハート型のチョコが並んでいた。
「……これ、手作りだ」
「そうなんだ」
興味のなさそうな声。
ユキトはただそれだけ言うと、ふたを閉じて鞄にしまった。
その素っ気なさに、萌里は思わず固まる。
普通なら、年頃の男子が女の子から手作りチョコをもらったら、顔を赤くして喜ぶものだ。けれど彼は、何も感じていないかのように淡々としていた。
(……本当に、同い年なのかな)
そんな考えが頭をよぎり、すぐに自分で打ち消す。
——そして、マリゲルの言葉がふと脳裏を過った。
サテライトシステムの代償……記憶と、感情の喪失。
校舎の中央階段を上りながら、萌里はユキトの背中を見つめる。
彼の乗るアーマーフレーム〈ガルガンダ〉。
人と機体を神経で直結する、極限の人型兵器。その代償として、脳に流れ込む莫大な情報がパイロットの記憶や感情を少しずつ蝕む。
それを聞いたときの、あの胸のざわめきを今も覚えている。
——人であることを代償にして、戦う彼。
「……」
階段を上りきり、ユキトが振り返る。
その瞳に、光も影もない。
萌里は小さく息をのむ。
ふと、あの夏の朝に見た“あの夢”が脳裏をかすめた。
暗闇の中、崩壊するガルガンダ。
むき出しになるコックピットで、首がない彼の姿。
(……ううん、違う)
萌里は小さく首を振る。
そんなはず、あるわけがない。
秋の光が窓から差し込み、廊下に二人の影を並べていた。
そして、いつも通りに始まる授業。
ユキトは教室の最後列――窓際の壁にもたれ、後ろで手を組んだまま静かに授業を眺めていた。
彼はこの学校の生徒ではない。ただ、萌里の付き添いとして特別に許可を受け、教室の片隅で日々を過ごしている。
最初の頃こそ、生徒たちは遠巻きにその姿を見ていた。
けれど、時間の経過とともに彼の存在は“特別な異物”から“教室の風景の一部”へと変わっていった。
今では、先生や生徒がふとした拍子に彼へ話しかけたり、質問を投げる光景も珍しくない。
「試しに…ユキトくん、この式の解き方わかる?」
「√の前を整理すればいい」
淡々とした声。
それでいて、正確無比。
驚くことに、彼は数学でも社会でも、どんな質問にも迷いなく答える。
本人曰く、
「学校には行ってない。でも、軍の施設で教育を受けた。必要だったから」――とのことらしい。
そのせいで最近では、授業中にこっそり彼へ聞こうとする生徒も出てきた。だが、それがバレて先生に注意される――そんな光景すら、もはや日常のひとコマになっている。
笑いが起こり、チョークの音が黒板を走る。その中でユキトは、静かに窓の外を見つめていた。
流れる秋の雲が、やわらかい陽光に溶けていく。
——誰が想像するだろう。
この無表情な彼が、あの巨大な白い鉄の獣を駆り、正体不明の敵と戦っているなど。
そして、彼がこの時代の人間ではないということを――この教室の誰一人、知る由もなかった。
チャイムが鳴り、先生が教室を出ていく。
その瞬間、張り詰めていた空気がふっと緩み、生徒たちのざわめきが広がった。
「ねぇ、さっきの答えマジで合ってたよね?」
「ユキトくん、ほんと頭いいんだな〜」
「いや、もう先生より信頼できるんだけど」
そんな声があちこちから上がる。
ユキトは相変わらず教室の後ろで、窓の外をぼんやりと見ていた。けれど、その無表情の彼の周りには、いつの間にか数人の生徒が集まっていた。
「ユキト、これ見て! さっきの続きなんだけど!」
「……途中で符号を変えた方が早い」
短く答える彼に、生徒たちは「すげぇ!」と声をあげる。ユキトはほんの一瞬だけ、目を細めて小さく息を吐いた。
笑ったのか、照れたのか――誰もわからない。
教室の窓の外では、木々が金色に染まり、風に舞う葉が校庭を横切っていく。
穏やかな午後、戦場の匂いなど何処にもない。
けれど、ユキトの瞳の奥に一瞬だけ、遠い空を映したような光が宿った。それは誰も気づかない――彼だけの、もう一つの世界の名残だったのかもしれない。
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「……ん?」
気がつくと、ユキトは立っていた。
最初に目に映ったのは、足元の歩道タイル。
顔を上げると、空は淡く灰色に染まり、風の気配すら消えていた。
音がない。
街の鼓動が、完全に止まっている。
「……」
隣に気配を感じ、そちらへ視線を向ける。
萌里がいた。今日は哲郎におでんの材料を買う様に頼まれ二人で家の買い物をしている途中だった。
白いコートにスカート――普段より少し大人びた格好。けれど、その瞳は虚ろで、まるで時間ごと凍りついたように動かない。
周囲を見渡すと、通行人たちも全員が同じだった。笑顔を浮かべたまま、歩き出す直前の姿勢で停止している。
車は道路の中央で止まり、信号も点滅せず、風も吹かない。
世界が――凍結していた。
「違う」
ユキトは低く呟く。
周囲に広がる“静寂の異常”に、わずかに眉を寄せた。
異常な空間だ。
だが恐怖ではなく、まず分析が先に立つ。
視線を滑らせ、反射的に状況を把握する――まるで戦場に戻ったかのように。
その時だった。
「夢の中って、居心地いいんですよね」
背後から、少女の声が響いた。
ゆっくりと振り向く。
そこに立っていたのは、黒い軍服の少女。片目を覆う眼帯、腰まで届くツインテール。
その唇には、楽しげでありながら底知れぬ笑みが浮かんでいた。
「現実は、生きるのが面倒。でも夢の中なら、なんでも叶う」
彼女はくすりと笑い、首を傾げる。
「――けど、君は不思議ですね」
「……」
ユキトは何も言わず、ただその少女を見つめ返す。
「まるで“心”がない。今見ていた夢も、君自身の記憶を映しただけ。願望も、欲望も、存在しない…”いいですね、”うらやましい”…」
冷たい声だった。
ユキトの目がわずかに細められる。
「相手の脳内にミリ単位のナノマシンを侵入させ、記憶と知覚の境界を上書きする。見せるのは“幻覚”ではなく記憶を元に“脳内で再現された夢”。対象の五感を実際に操作しますので、本人には現実との区別が不可能なはずですが、それを打ち破り正気に戻るっと…アナタ……人間じゃないですね?」
「だから?」
淡々と返すその声に、感情の揺らぎが一切ない。
「アンタはなんだ?」
「――判決者。ヨヒコと申します」
少女は微笑みながら一歩踏み出す。その瞬間、空気がざらりと震えた。
「世界がこんな風になってるの、アンタのせいか」
「そうですねぇ。正確には、“ワタシ”ではなく――“ワタシの愛機”の仕業ですけど」
ヨヒコの背後で、影が蠢いた。
瞬間、世界の色が反転し、闇の中からそれは姿を現した。
黒い巨体。
人型でありながら“人”ではない。
全身を覆う装甲の隙間から、半透明のフレームが脈動している。
内部では青白い光が液体のように流れ、心臓の鼓動のように波打っていた。
頭部からは二本のアンテナ状のセンサー。
そして――顔には何もない、のっぺらぼう。感情も理性も削ぎ落とされた“模造された人”の殻。
それが、ユキトを静かに見下ろしていた。
「胸に赤い石――“アナグラの核”……」
「どうやら、あなた……深い因縁をお持ちのようですねぇ」
ヨヒコの片目が、獲物を射抜く蛇のように細められる。唇の端がゆっくりと吊り上がり、声が艶を帯びた。
「その石、誰からもらった?」
ユキトは無言のまま睨みつける。
その静かな眼差しには、冷えた怒りと警戒が宿っていた。
ヨヒコは小さく肩をすくめ、わざとらしく笑う。
「そんな顔しないで。知りたいなら――教えてあげてもいいですよ?」
彼女は手のひらをこちらに向け、くるりと指先を回した。
白い指が一本、また一本と折り畳まれていく。
その仕草は挑発というより、“儀式”のようだった。
「簡単なことです」
最後の一本を折る瞬間、ヨヒコの声が氷刃のように鋭く変わる。
「――このワタシを倒したら、教えてあげますよ」
そして、囁くように――しかし確かに命じた。
「さぁ、呼びなさい。あなたの愛機――“白い魔物”を」
ドゴォォォォォン――ッッ!
天地を引き裂くような轟音が、灰色の空を揺らした。
その瞬間、ビル群が波のように崩れ落ちる。地面が震え、街灯が倒れ、割れたガラスの雨が降り注ぐ。
人の声はない。ただ、世界そのものが悲鳴を上げていた。
舞い上がる粉塵の渦の中で、何かが――“生まれようとしていた”。
「……その姿は、まるで機械の姿をした”なにか”…ですね」
ヨヒコの声は恍惚とした笑みに溶け、震えていた。
濃密な砂煙の向こうで、巨大な影がゆっくりと姿を起こす。
最初に現れたのは、地を這うように伸びる漆白の腕。
指先がコンクリートを抉り、ひと掴みで車を握り潰す。
装甲の隙間からは、血管のように青白い光が走り、内部を流れる起動したばかりの時に発生する液体の脈動が起きていた――まるで“呼吸”しているかのように。
次いで、胴。
赤い装甲が光を反射し、淡い煙を纏いながら形を成していく。
背に生えた巨大なコンボウ刀は、まるで死神の鎌のように鈍く光り、その存在だけで空気が歪む。
そして――顔。
砂塵を割って現れたその顔は、表情を持たぬはずなのに、見た者全てに恐怖という名の感情を植え付けた。
二つの光点が、虚無の中でゆっくりと開き、その双眸が周囲を一瞥した瞬間、まるで見下ろされた空間そのものが、圧力に潰されていくようだった。
――戦場に現れた、白き獣。
ユキトを静かに待っていた。瞳には、静かな怒りだけがある。
「……行くぞ、ガルガンダ」
返すように、動力機関が一度だけ低く唸った。
その咆哮は、まさに――悪魔のように。
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『器用なことをしますねぇ。機体を……人がいないビル群の間に呼び寄せたのですかぁ?』
ヨヒコの声が通信越しに、笑うように響いた。
『噂には聞いてますよぉ。“白い悪魔”は――一般人を巻き込まない。そういう、優しい戦い方をするんですよねぇ?』
無機質な嘲笑を無視し、ユキトは動かない萌里を抱き上げる。
冷たい風が頬を打ち、砂塵が舞う中、彼は迷いなくガルガンダの脚部へと足をかけた。
コックピットが開く。機械的な蒸気音と共に、金属の匂いが満ちる。萌里を後部シートに静かに横たえ、シートベルトを固定。
続いて自らもメインシートに腰を下ろすと、頭上のコンソールが回転し、円環状の光が彼の頭部を包み込む。
瞬間――脳髄に、鋭い電流のような衝撃。意識が機体の神経網に“接続”される感覚。
心臓の鼓動が、動力の回転数と重なった。
「……」
ガルガンダのコアが低く唸る。
下層で動力炉のタービンが赤熱し、油圧の脈動音とともに、巨体の全身を貫くケーブルが光を帯びた。
メインディスプレイに触れる。
黒い視界が一瞬にして色彩を取り戻す――全天型モニター展開。
ユキトの目には、都市の全景が“自分の身体”として映し出されていた。
『ここで戦えば他も巻き込みますけど、どうするで――』
――ドガンッッ!!
ヨヒコの通信が終わる前に、ガルガンダのマニュピレーターが閃光のように動いた。
黒い機体の頭部を、鷲掴みにする。
衝撃で大気が振動し、破片が弾丸のように四散した。
「なんか言った?」
ガルガンダの背部ブースターが一斉に展開。圧縮空気を裂く爆音と共に、巨体が跳躍した。
アスファルトが抉れ、轍のような溝を残す。
白い残光がビル群を駆け抜け――
人も車もいない高架道路を蹴り台にしながら、一直線に駅裏の開発区画へ突き抜ける。
『ッ……!!』
ヨヒコの機体が掴まれたまま抵抗するが、腕部のサーボ音が悲鳴のように軋む。
そして――到達。
ガルガンダは跳躍の勢いを殺さず、広大な建設予定地の中心で、黒い巨体を地面に叩きつけた。
轟音。
地面が爆ぜ、衝撃波で周囲の足場が崩れ落ちる。鉄骨が宙を舞い、赤い警告灯が次々に点滅した。
白い悪魔と黒き夢魔。
廃墟の上で、静かに睨み合う。
「この前の筋肉みたいな奴には聞きそびれたからな。丁度いい」
ゆらり、とガルガンダが顔を上げた。黒煙を裂くように、モノアイが淡く光を帯びる。
その光は、静かな怒りの予兆。
「その赤い石、誰から貰った?」
低く、抑えた声。しかしその一言に、鋼を軋ませるような圧が宿っていた。
「“ジャッジメントエンド”ってのは……アナグラと関係があるのか?」
通信越しに、ヨヒコの笑い声が響く。
『随分と喋りますねぇ? 知りたいという意志は感じますが――やはり、心は空っぽのまま。あなたは本当に不思議なお方です』
「話、聞いてたか?」
ユキトの声が低く、刃のように研ぎ澄まされる。
その瞬間、ガルガンダのモノアイが鋭く輝き、背のコンボウ刀を引き抜く音が金属音を裂いて響いた。
巨腕が構え、切っ先がヨヒコの黒い機体へと突き付けられる。
「教えろ」
『ふふ……主が仰っていましたよ。あなた達とは“遠い未来”で戦ったと。その戦いの果てにこの時代へ堕ち、“全ての力”を与えてくださったのです』
「……主?」
『“アナグラの王”。――主が言うには、最後に相対した“敵”があなたなのだそうですよ』
その名が放たれた瞬間、ユキトの瞳が大きく見開かれた。
過去の記憶が閃光のように脳裏を走る。
爆風、断末魔、白光――あの日、原子力の光に呑まれた最後の瞬間。
そして、目を覚ました時にはこの時代だった。
「……探してたんだ」
ゴウン――。
ガルガンダの胸核が低く唸る。
「やっぱり生きてたんだな。俺と同じように……この時代に、来てたのか」
その声は、怒りとも歓喜ともつかない静かな震えを帯びていた。
「なら、話は早い」
操縦桿を握る手に力がこもり、機体の関節が金属音を鳴らして軋む。
「今度は――完全に終わらせる。“お前らの主”も、“お前”も――一片も残さず、潰す」
その言葉と同時に――。
ガルガンダの腰がひねられ、背部の装甲が音を立てて展開。
内部から伸びる超遠距離攻撃兼捕縛装備――ロッドワイヤーが、火花とともに射出された。
閃光を伴って疾駆するワイヤーが、一直線にヨヒコの機体を貫かんと迫る。
『危ないですねぇ!』
ヨヒコの機体――オルフェノスが機体を横にひねり、ブースターを吹かして瞬間回避。
だが、その軌道の先には――すでにガルガンダが回り込んでいた。
「遅い」
ドゴォォンッ!
振り下ろされたコンボウ刀が地面を叩き砕く。
一帯の舗装が波のようにめくれ上がり、破片と粉塵が爆風に乗って四方へ弾け飛ぶ。
鉄骨の残骸が宙を舞い、衝撃波が空気を揺らした。
『ワイヤーをデコイに敵の動きを誘導、自分の間合いに引きずり込む……手慣れてる、戦場で生きてきた動きですねぇ!』
ヨヒコの機体が片腕を横に薙ぎ払うように出す。
露出したフレームの裂け目から、光の粒のように複数の小型支援機が射出され、
瞬時に隊列を組んでオルフェノスの周囲を旋回する。
『申し遅れましたねぇ――この機体の名はオルフェノス。
“悪夢を見せる者”ですことよ』
「……だから?」
ユキトの声が冷たく響く。
ガルガンダが踏み込み、コンボウ刀を大上段から振りかぶる。
空気が悲鳴を上げる。
オルフェノスが片腕を上げ、防御の姿勢を取る。
だが、その瞬間――
「甘い」
ガルガンダの右膝が、折り畳まれた状態から一気に伸び上がった。上からの攻撃をおとりに下から追撃する作戦だ。
装甲の油圧が爆ぜる音と共に、膝が下から突き上げるようにオルフェノスの胸部を直撃。
黒い機体が衝撃で弾かれ、数メートル後退。
『なかなかやりますねぇ!』
ヨヒコが息を呑み、両腕で指令を送る。
周囲を飛ぶ支援機群――ファントム・ドローンが一斉に動き出した。
先端からビームが照射され、空気を焼き切る音が連続する。
赤い光線が網のように降り注ぐ。
しかしガルガンダは、わずかに腰をひねり、滑るように回避。
その動きはまるで鉄の獣ではなく、人間の“戦士”そのものだった。
「――単純だ」
低く、凍てつくような声がコックピットに響いた瞬間。
ガルガンダが地を蹴った。
巨体とは思えぬ速度で踏み込み、振り抜かれたコンボウ刀が空気を裂く。
ドゴォォンッ!
刀身が地面を抉り、爆風のような衝撃が走る。
アスファルトが砕け散り、瓦礫と粉塵が一気に巻き上がる。
白い嵐のような砂煙が周囲を覆い、世界が一瞬――音すら呑み込んだ。
その中で。黄色い光が、閃いた。
モノアイ。
一点の光が、濃霧の中に“獣の眼”のように浮かび上がる。
ユキトの声が、冷たく、短く、息のように漏れた。
「……見える」
閃光。
ガルガンダの影が白煙を裂き、突き出すコンボウ刀がオルフェノスの頭部を正確に貫く。金属が悲鳴を上げ、火花が奔る。続けざまに、左掌が突き出された。
――バゴシュンッ!
掌底の中央から、パイルバンカーが炸裂。
オルフェノスの右肩装甲を粉砕し、内部のフレームを貫通。赤黒い火花と液体金属の霧が舞い、機体が軋みを上げてのけぞる。
「隙だらけだ」
ユキトの声が低く唸る。
次の瞬間、ガルガンダが半身を回転――
脚部スラスターが一瞬だけ閃光を放ち、後ろ回し蹴りが炸裂した。
ドゴォォォンッ!
蹴りの衝撃波が爆発のように空気を弾き、オルフェノスの巨体が地面を滑りながら吹き飛ぶ。
アスファルトが抉れ、残響だけが戦場にこだました。
粉塵の中、半壊した頭部。紅いモノアイが再び光を帯びる。
その瞳はまるで――地獄の底から這い上がった悪魔のように、無感情で、冷酷だった。
『……確かに、並の強さではないですねぇ』
ヨヒコの声がノイズ混じりに笑う。
だが、次の瞬間――ユキトの声が鋭く割り込んだ。
「周りを飛んでるやつ、制御が繊細なんだろ。なら、間断なく攻撃して“思考する隙”を奪えば――ただの浮遊物に過ぎない。そういうタイプの奴は、何度も見てきた」
短く言い放つ声には、戦場で培った“確信”が宿る。
だがヨヒコはくつくつと笑い、まるで獲物が罠にかかった瞬間を楽しむように言った。
『……それは、“一人で戦っている”前提の話ですよねぇ?』
その瞬間――。
ガギュウゥゥゥンッ!
金属が蠢く音が戦場に響き渡った。
オルフェノスの装甲板が音を立てて開き、内部のフレームがむき出しになる。
継ぎ目のラインに、血管のような赤い光が走った。
「……これは」
ユキトの表情が一瞬だけ揺らぐ。
見覚えがあった――あの浜高原発で交戦した、“隕石に偽装したアナグラ”と同じ光。有機構造、神経伝達パルス、そして――生命反応。
オルフェノスの装甲を這い上がる赤い線が、まるで血流のように脈打つ。全身を巡るたび、機体が呼吸するかのように膨張と収縮を繰り返す。
重金属の機構音ではない。
それはまるで、“生きている”音だった。
『オルフェノスには――複数の“頭脳”が搭載されております』
ヨヒコの声が快楽に濡れていく。
『機械では処理しきれない複雑な演算、予測、そして戦闘直感。それを人間の脳みそが担っているんですよぉ。固定的な命令しかできないAIより――“人間の脳”の方がずっと優秀ですからねぇ!』
「……何の話だ?」
ユキトの声は低く沈む。
だがその奥には怒りの兆しがあった。
『つまり――』
オルフェノスの全身が、紅く燃え上がるように光を帯びる。
背部のスラスターが咆哮し、空気が焦げる。
その中心で、ヨヒコの声が――狂気じみた笑いとともに、宣告のように響く。
『――あなたの“白い獣”よりも、ワタシたちの方が優秀ってことですよ!』
轟音。
オルフェノスの脚部が地を蹴る。
赤く脈動する巨体が、血肉を持つ獣のように飛びかかる――。
ガルガンダが、ゆっくりとコンボウ刀を構える。
だが次の瞬間――その動作すら、遅れて見えるほどの速度でオルフェノスが踏み込んだ。
金属の悲鳴。
両腕の装甲がガバリと展開し、そこから“生える”ように飛び出した半円状のブレードが閃光を描く。
ガガガッ――! ガルガンダの腹部装甲が立て続けに斬り裂かれ、火花と油煙が舞い上がった。
「くっ――!」
ユキトが制御桿を握り締めるより早く、無数の小型支援機が旋回しながらビームを雨のように放つ。
光線が大気を焦がし、ガルガンダの全身を薙ぎ払った。
装甲が焼け焦げ、フレームを貫通。赤い補強布で包まれた左腕がジュウ、と音を立てて焦げ、白煙が上がった。
その瞬間――。
「!」
ガゴンッ、と鈍い衝撃。
オルフェノスの巨大なマニュピレーターがガルガンダの顔面を鷲掴みにした。
『――仕返しです』
空気が爆ぜた。
ボゴンッ!!
右腕の圧縮パイプがピストンのように動き、凄まじい圧力を叩き込む。圧縮空気の衝撃波がガルガンダの頭部を直撃し、フェイスパーツが半分吹き飛ぶ。片方のモノアイが砕け、メインカメラの映像がバチバチと火花を散らしながら半分途切れた。
視界が歪む中、ユキトは唇を噛み、ただ一瞬の反撃を選ぶ。
「――まだッ!」
ガルガンダが、自身の顔を掴んでいたオルフェノスの右腕を力任せに掴み返す。
パイルバンカーが駆動音を響かせ――
ドゴォンッ!!
零距離で炸裂。オルフェノスの上腕部が粉砕され、爆発の衝撃で機体が大きくよろめく。
だがその一瞬の隙こそ、敵の狙いだった。
オルフェノスが残った腕を高く振りかぶり、腕部装甲のリング状ブレードを解き放つ。
「――ッ!」
ガルガンダのセンサーが閃光を捉えると同時に、空気を裂く金属音が響く。
ブレードは唸りを上げ、弧を描いて突き刺さった。
ガゴォォン――!!
腹部装甲を貫通し、内部機構を切り裂いて、コックピットを襲う衝撃。
操縦席全体が激しく揺れ、警告音が鳴り響く。咄嗟に後部座席の萌里を庇うユキトの頬を火花が掠め、計器などのガラスがヒビ割れた。
胸を焦がすような熱が走る。まるで敵の刃が、装甲を越えて“自分の体”を貫いたような感覚が駆け抜ける。
「……」
コックピット内に、焦げた金属の匂いが充満していた。
煙が漂い、割れた照明がチカチカと明滅する。残された全天周モニターの片側だけが、かろうじて戦場の光を映していた。
ユキトは息を吐く。庇った萌里が、奇跡的に無傷で後部シートに倒れている。夢の中で取らわれている彼女は、表情は固まったまま動くことはない。
その姿を一瞥し、彼は再び前を向いた。
「……ガルガンダ」
その声は低く、どこか別のものを呼び覚ますように響いた。
操縦桿を握り直し、静かに言葉を落とす。
「――鍵を外せ」
途端に、背後で重い振動音。
ガゴンッ……と何か巨大な錠が外れる音が響き、機体全体に鈍い震えが走った。
動力炉の回転数が跳ね上がる。唸るような低音が空気を震わせ、まるで鉄の獣が息を吹き返すかのように機械の鼓動が高鳴った。
ユキトの額から伝う血が頬を這い、口元まで落ちる。
舌でそれを舐め取ると、鉄の味が口内に広がる。
コックピットの照明が一斉に赤へと変わる。
暗闇の中、警告灯の光がユキトの顔を不気味に照らした。
天井のコンソールがカチリと音を立て、中央からスライドしながら開いていく。
ガシュンッ――!
シートが沈み込み、背もたれが自動で収納される。
その瞬間、八つの光条が走った。
両腕、両脚、背中――次々と光が走り、レーザー状のリニア接続ケーブルが装着されていく。
【Warning: Unidentified unit connected. Immediate disconnection required】
液晶がひび割れたメインディスプレイに、文字が浮かぶ。
内部機構のどこかで獣の咆哮のような音が轟いた。
圧縮空気が裂け、装甲の継ぎ目から赤い蒸気が噴き出す。
警告音が絶え間なく鳴り響く。
だが、その声を掻き消すほどの“何か”が生まれた。そしてメインディスプレイに、別の文字が浮かぶ。
【To the one who crossed the boundary — may the blessing be upon thee.】
機体の全身が震え、唸り、黄色いモノアイが光の奔流のように輝いた。まるで、眠っていた獣が――この世に再び呼び戻されたかのように。
『……一体、何を――』
ヨヒコの声が震えた。
オルフェノスが一歩、後退する。
視界の中心に映るのは、赤い蒸気を噴き上げながらゆらりと立ち上がる白い巨体。
ガルガンダ――いや、“それ”はもはや、先ほどまでのガルガンダではなかった。
ユキトが何かを解き放った瞬間から、空気そのものが異質に変わった。赤黒い霧のような蒸気が装甲の隙間から漏れ出し、金属の軋み音がまるで呻き声のように響く。
ガルガンダはゆっくりとコンボウ刀を持ち上げ――次の瞬間、無造作に放り投げた。
飛来する巨大な金属塊を反射的に左腕で弾いたオルフェノスのメインモニターに、異常な映像が映る。
赤い残光を残し――“既に”目の前に、ガルガンダが立っていた。
頭部は半壊し、露出した内部フレームが骸骨のように覗いている。そのモノアイは不規則に点滅し、赤に染まりながら、狂気の光を放っていた。
『な――!?』
オルフェノスが反応するより早く、ガルガンダの右手がその顔面を掴み取る。
そのまま――地面へ叩きつけた。
ドゴン、っと轟音。
地表が波打ち、大地が軋み、衝撃で大きな岩の瓦礫が一斉に舞い上がり砕け散る。割れた地面から立ち上る熱風と粉塵の中で、ガルガンダの影は微動だにしなかった。
『なんてパワー…リミッターを解除したオルフェノスより速い……!?』
ヨヒコの震える声をかき消すように、低く、冷たい声が響く。
「――教えろよ」
それはユキトの声だった。
だが、その声には人間の温度がなかった。
静かで、抑揚がなく、それでいて背筋を凍らせるほどの“圧”があった。
もはや機械ではない。
そこに立つのは、人でも機体でもない。
「悪魔」――そのものだった。
ガゴン――。
ガルガンダの掌底が、オルフェノスの腹部装甲にめり込み、鈍く重い音を立てた。
だが、それは破壊ではなく――威嚇だった。
『こ、これは……なにを……!?』
「速い相手には、速さで上回る」
ユキトの声は、地の底から這い上がるように低く沈み、
冷たい金属音と混ざり合って、機内全体に響いた。
「――常識だろう」
その瞬間、オルフェノスのセンサーがガルガンダを捉える。
蒸気の中で光るモノアイ――
そこに、“瞳”があった。
機械ではあり得ない、感情の宿った瞳。
怒りとも悲しみともつかない何かが、確かに“そこ”で燃えていた。
『……これが、アーマーフレームの力……?』
ヨヒコの声には、もはや戦意ではなく畏怖が滲んでいた。
彼女は見てしまったのだ。この世の理を越えた“何か”が、ガルガンダという器の中で目を覚ました瞬間を――。
空気が歪み、焦げた匂いと金属粉が風に舞う。
静寂。
その中に、警告アラームの甲高い音が突き刺さった。
――接近警報。
「……?」
ユキトが反射的に操縦桿を引き、フットペダルを踏み込む。
ガルガンダの巨体が滑るように後退した直後、
大気を切り裂いて、影が落ちた。
轟音。
爆風と共に降下してきたのは、漆黒の装甲を纏い、背に巨大な鎌を背負った機体。
その動きは滑らかで、そして――“静かすぎた”。
「――!」
ガルガンダが構えるよりも早く、黒い機体は、壊れかけたオルフェノスを掴み上げ、まるで“奪い返す”ように跳躍した。
黒い残光が弧を描いて空へ昇る。凄まじい上昇速度――ユキトの目でも追えない。
「アイツは……」
呟く声がかき消される。見覚えがある黒い機体は空の彼方で光を反射し、そのまま一筋の流星のように消えていった。
残されたのは、崩壊した開発途中の地と、紅く蒸気を噴き上げる白い巨体――ガルガンダ。気づけば空はいつの間にか、何事もなかったかのような蒼を取り戻し、ヨヒカの夢から人々は世界は目覚めていたという。
「……あれ?」
背後から、小さな声がした。
振り返ると、ヨヒカの夢の中にいたはずの萌里が、ゆっくりと瞼を開けていた。
「ここって――」
言いかけた瞬間、萌里の瞳が大きく見開かれる。
視界の端、わずか数十センチ横に、巨大な刃が突き立っていたのだ。
オルフェノスのブレードがコックピットハッチを貫通し、機体内部にまで深々と食い込んでいる。
鋭い金属音がまだ空気の中に残響しているようで、金属片が時折カラン、と落ちる。
モニターの大半は黒く沈み、亀裂の入った画面の隙間からは微かな火花が散る。
割れたパネルの液晶が崩れ、焦げた匂いが鼻を刺した。
壁に走る配線の先端が、赤く燐光を放ちながら煙を上げている。
そんな惨状の中、萌里の目を釘付けにしたのはユキトの姿だ。
操縦席に座る彼の体は、天井から伸びる赤い光の束――神経接続管のようなものが、両腕と背中、首筋、両足に突き刺さるように繋がっている。
顔の半分は血に染まり、それでも彼は、いつも通りの様子で静かに前を向いていた。
「ど、どうしたの……それ……」
震える声で問いかける萌里に、ユキトは一度だけ息を吐き、
ゆっくりとこちらを振り向いた。
「おはよう」
「お、おはようじゃなくて!」
萌里は半ば叫ぶように言葉を返す。
「どうなってるの!? コックピット……ボロボロじゃん! この刃なに!? なにがあったの!?」
萌里の焦燥と恐怖が混じる声が響く。ユキトの返答は――いつも通りだった。
「帰ろう」
「えっ、う、うん…」
ユキトの返答は――いつも通りだった。
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「――オマエ、人を殺したな」
その声は、刃のように胸を刺した。
言葉だけで全てを削ぎ落とすような冷たさ。少女の耳には、それが遠く深い谷間から響く断末魔のように聴こえた。胸の奥が凍りつき、息をするのも辛いほどに世界が重く、色を失っていく。
「命だけは!命は!」
床に膝をつき、嗚咽混じりに祈るように叫ぶ若い女。白いワンピースの腹部は大きく膨らみ、そこに二つ分の鼓動があるはずだった。顔は青ざめ、瞳は必死に何かを掴もうとする。
彼女の声が──大人の声が、空気を震わせ、しかし狂気に満ちた男の耳には届かない。
「うるせぇ!人質がガタガタぬかすんじゃねぇ!」
男の怒声が狭い店内を引き裂く。パンチパーマ、無精髭、薄汚れたジャージ。握る拳銃の冷たさと、目に宿る荒んだ熱が、場の空気を毒のように濁らせた。周囲の客も店員も、ただ縮こまるだけ。誰一人、勇気を振り絞る者はいない。
「黙れアマが!」
男が女の髪を掴み、そのまま後ろに振り回す。壁に叩きつけられるたびに、女の目は奥へ奥へと追いやられていく。男の言葉は、被害者の絶望を嘲る刃にしか思えなかった。
だが、そのとき――小さな黒い影が割って入った。
ツインテールの少女は、鋭く喰らいつくように男の手首に噛みついた。血の味、肉の感触、痛みに呻く男。その隙を突く──かに見えた。
「ヨヒコ!」
母の声が詰まり、震えた。
だが少女は、怯えた目で男の顔を見上げただけで、口は開かなかった。男は怒りで赤くなり、手を払いのける。小さな身体が宙を舞って床に叩きつけられ、壁に打ち付けられる。幼い口から血がにじんだ。客席の誰もが動かなかった。戦場ならば、誰かが立ち上がるはずの光景だが、人々はただ視線を逸らす。
「ガキの分際で!どうなるかわかってんのか!」
男の足元に、銃が落ちた。
ラッキーな偶然か、運命の悪戯か。床に転がる黒い鉄が、かすかな光を投げ返す。ヨヒコはそれを拾い上げ、震える手で構えた。誰に教わったのか――知っているのか――周囲は息を呑む。
「まって!危ないから!捨てなさいそんなもの!」
母は必死に叫ぶ。
声が震え、涙が頬を伝い落ちる。
だがヨヒコは、母の叫びを無視するように、まっすぐに男を見据えた。幼い顔にべったりと血がにじみ、唇は白く固まっている。
誰も、その小さな手に何が宿っているのか理解できなかった。
男が驚きで後ずさる。
銃先を向けられ、必死に言葉を探す姿が滑稽にも見えた。だがその刹那、ヨヒコの指先が引き金に触れた――
鉄の破裂音が店内に轟き、硝煙の匂いが鼻を刺す。
時間が一瞬だけ引き伸ばされたように感じられた。音は遠く、しかし全てを包むように大きく、誰もが固まる。
男の体が小さく揺れ、目が見開かれたまま後ろへ倒れ込む。
血の匂いが立ち上り、床にこぼれ落ちる。
ヨヒコは立ち尽くしたまま、銃を握る手が震え続けていた。
母は叫びを上げ、駆け寄ろうとしたが、彼女の体は震え、動きが止まる。人質たちも店員も、ただ口を塞いでその場にへたり込むだけだった。
誰もがその光景の意味を受け止められなかったのだ。
「えっ……」
母の声は掠れていた。
恐怖が変わり悲嘆に変わる。彼女は愛する子の手が、人の命を奪った瞬間を見てしまったのだ。
そして見た。人を殺した愛する子の顔が、満面の笑みを浮かべていた。
まるで、悪魔のように。
「ヨヒコ……あなた…………!」
その言葉は、刃のように刺さった。
幼い胸に深い亀裂が走る。銃声の余韻がまだ鼓膜を震わせている。ヨヒコの瞳はあっという間に曇り、世界が遠のいた。身体が冷たくなる感覚、鼓動が遠ざかるような錯覚。
母の叫びが、容赦なく凌辱のように重なって覆い被さる。
幼い手から銃が滑り落ち、床でガチャンと音を立てる。
ヨヒコはその場に膝を折り、顔を手で覆った。嗚咽が漏れ、震えが止まらない。
彼女の中の、何かが折れたのだ。
幼い心から、もう元に戻れないものがこぼれ落ちていった。
外側では救急車のサイレンが遠くから近づいていたが、その音はまるで別の世界のことのように思えた。
母は崩れ落ち警察の声が割り込むまで、誰も動けなかった。
それが、ヨヒコの最初の――重くかすかな終わりの刻印だった。
――幼い手が握った鉄は、彼女の世界を二つに裂いてしまったのだ。
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「……おい、寝てんのか?」
聞き覚えのある声が、暗い水面の底から意識を引き上げた。
重く閉じていた瞼がゆっくりと持ち上がる。視界に映ったのは、格納庫の照明と、黒く乱れた髪。
そして赤い瞳と、人工皮膚が複雑に組み合わされたような異質な顔――嵐着だった。
「……嵐着、君?」
かすれた声で名を呼ぶと、彼は腕を組んでこちらを見下ろしていた。
「よう。やっと起きたか、寝坊助」
ヨヒコはようやく、自分がオルフェノスのコックピットに座っていることに気づく。
ひどく冷えたシートの感触が背中に残っていた。
「あれ……ここは……」
「エントノイス号の格納庫だ。オレが回収して運んだ」
「回収……そっか。私、ガルガンダと戦って……意識が……」
「危なかったんだよ、あれは」
嵐着の声が低くなる。
「まだオレ達の機体は完全じゃねぇ。あんな無茶な突撃、二度とやるな」
「……すみません」
ヨヒコは申し訳なさそうに目を伏せ、小さく頭を下げた。
しばし沈黙。
格納庫の機械が低く唸る音だけが響く。
「で――」
嵐着が口を開いた。
「奴とやり合って、どうだった?」
ヨヒコは少しだけ息を詰める。
思い出した瞬間、胸の奥がざらついた。あの戦闘の光景――、言葉にできないほど冷たいものが心を締めつける。
「……人の強さ、とは違いました」
ヨヒコの声は静かだった。
「戦うためだけに在る存在。そこに“心”も、“痛み”もない……」
短く息を吐く。
「それを見た時……ワタシは“恐怖”って、こういうことなんだなって思いました」
それを聞いて、嵐着はしばらく黙っていた。
赤い瞳がわずかに揺れ、何かを言いかけて――結局、言葉を飲み込む。
格納庫の奥では、オルフェノスの外装から冷却ガスが静かに漏れ出し、白い霧となって広がる。
「ヤツの強さは――他と根本的に違う。だから読めねぇ……それに――」
言葉を途切れさせた嵐着は、眉間に皺を寄せながら、記憶の奥底を掘り返す。
あの時、戦闘外空域から観察する形でロスガンドスのコックピットモニターから見た光景――オルフェノスと交戦中、ガルガンダの挙動が突如として変貌した。
(機体から出ていた赤い蒸気のようなもの…そして)
刹那、あれは“機械”の動きではなかったと、思い返す。プログラムでも、戦闘アルゴリズムでも説明できない。
まるで何かが“目を覚ました”ような、生々しい恐怖――。
(……あの動き、何だ)
嵐着の心がざわめく。
(あれが“アーマーフレームの特殊機構”ってやつか…人間と機械の融合。人類が夢見た進化の具現と理想――)
そこまで考えて、彼は唇を歪めた。
(……いや、違う。あれは理想なんかじゃねぇ。もっと……原始的で、壊れた“本能”の暴走)
胸の奥に、冷たい感触が走る。
あの異形が見せた動き――それは“生物”のように生々しく、“死”のように冷たかった。
「今、目が覚めるまで――夢を見ていました」
「……夢か」
ヨヒコは膝の上で両手を重ね、ぎゅっと爪先まで力を込める。指先の震えが、小さな音をたてていた。
「怖い体験をしたからでしょうか……」
小さく息を吸い込み、視線を落としたまま言葉を継ぐ。声は薄く、しかし一語一語が重かった。
「子どものころの、嫌な景色がまた出てきて。初めて、人を――殺した日の夢を」
その最後の一言は喉の奥でつぶれ、震えが滲む。しばらく、嵐着は黙って彼女を見つめていた。やがて、大げさに息を吐いて肩を竦める。
「おいおい、昨日ウノで散々人のこと煽ってた奴とは思えねえな。どう反応すりゃいいんだよ」
「乙女の機嫌は、秋の空ですっ」
「はあ? 意味がわかんねえ」
面倒くさそうに額を掻き、嵐着はわざとらしい素振りでため息を重ねる。コックピットの蓋を押し上げ、外の可動橋に寄りかかると、格納庫の冷たい光がその背中を淡く照らした。
しばしの沈黙。機体の金属が甘く鳴る音だけが空気を満たす。その静寂を破って、ヨヒコがぽつりと続ける。
「――夢の中で、母がワタシを見て泣いていました。『ヨヒコ、人殺し』って、言うんです。もしあの時撃っていなければ、母は死んでいた。けれど――撃ったら、母はワタシを見て、怖がったんです」
言葉の端に震えが乗る。胸がぎゅうと締め付けられるように痛む。ヨヒコは目を伏せ、額に汗を浮かべた。奥の暗がりで、黒いオルフェノスの外装が無言の影を落としている。
嵐着はしばらくの間、何も言わなかった。やがて低く、掠れた声で呟く。
「……殺さなきゃ、死ぬしかなかったんだろ」
「それで助けたのに責められるなんて、理不尽だ」
言葉は短い。だが、その奥に澱んだ諦念がある。
ヨヒコは顔を上げ、嵐着をじっと見据えた。その瞳には、恐怖を超えた迷いが住んでいる。
「嵐着君は、怖くないですか? 誰かを――殺すこと」
「怖くねぇよ」
彼は即答した。声は平坦で、歪んだ誇りなどない。続けて、ひどく冷めた口調で言う。
「怖がるってことは――まだ人間でいられる証拠だ。感じなくなったら、たぶん戻れねぇ。で、オレはもう感じねぇ側の人間になっちまった」
その言葉が、ヨヒコの胸に重く落ちる。目に涙が溜まり、照明の淡い光が一粒を凍らせるように照らした。
「……ワタシは、人間でいられるでしょうか」
「知らねぇよ」
嵐着は背後の機体を一瞥し、低く口を開く。声音は冷たく、計画の暗い輪郭をさらけ出した。
「俺らのやることは……人類の抹消だ。世界を壊し、この腐った仕組みを木っ端みじんにする。愚かな人間は滅ぼす――それがジャッジメントエンドの判決だ」
言葉は容赦なく、空気を固くする。ヨヒコはシートにもたれ、消えかけのモニターをぼんやりと見上げた。電源が落ちた暗がりに、彼女の小さな影が震える。
「おまえは、人を殺すのが怖いか――?」
嵐着の問いは問答無用に突きつけられる。ヨヒコの口はわずかに動き、言葉が詰まる。胸の奥で、幼い日の叫びと、銃の冷たさが渦巻く。
「言っておくが、オレたちの目的を成すには、人を殺すことにいちいち感情を傾けている暇なんざねえ。人間に生きる価値なんてない――そういうことだ」
「はい……」
ヨヒコの返事は、囁きにも満たない。覚悟か、諦めか、それとも単なる虚空の応答か――自分でも区別できない音だった。
嵐着は背を動かし、そのまま去る。彼の足音が金属に反響し、やがて遠ざかる。コックピットの中は再び暗く、冷たい空気だけが残された。
ヨヒコは両足を胸に引き寄せ、薄いシートに身を丸める。膝に顔をうずめ、しゃがれた呼吸を小さく繰り返す。涙はぽたぽたとシートに落ち、そこから波紋のように冷たく拡がっていった。
格納庫の奥、オルフェノスは無言で佇み、ヨヒコの中で何かが揺れ、砕け、また細かな欠片として散っていく――その音は誰にも聞かれはしない。
「生きるのって…面倒ですねぇ」
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「――妙だな」
音も光もない暗黒の空間に、男はぽつねんと白い椅子に腰を下ろしていた。
その前に立つのは、黒いスーツを纏った人物。
顔には白骨の仮面をつけ、目孔の奥に灯る赤い光が微かに揺らめいている。
「先刻、調査に放った部隊から報告が入った。あの島の住人と、処理した人数――数が合わない」
椅子の肘掛に体を預け、こめかみを指で一定のリズムで叩きながら、髑髏は沈思する。
やがて、空中を指先でなぞった。
虚空に、幾枚もの半透明のウィンドウが淡く浮かび上がる。
「ひとり……取り逃がしたか」
ウィンドウの一枚を軽く弾く。
作戦時に飛ばしていた監視ドローンの映像が開き、指先で拡大すると、
森の中を逃げ去る小さな影が映し出された。
その影は、森に潜んでいたもう一人の女性らしき人物と手を取り合い、
奥へと消えていく。
髑髏は赤い光を細めた。
「……あの女か。生きていたとはな」
映像は続く。
二人が岩陰へ身を潜めた後、その前を追跡型ロボットが通過していく様子が映っていた。
「この場所には、何もないはずだが」
髑髏は再び指を動かし、別のウィンドウを呼び出す。調査報告書が淡く開き、素早く目を走らせる。
「映像では、二人はこの後、一度も姿を見せていない……
ドローンが滞空していたのは約四時間。
岩陰に潜んだまま残り三時間を凌いだとは考えにくい」
しばし、沈黙。
髑髏の仮面越しに、赤い光がすうっと細く収束する。
やがて、彼は静かに顔を上げた。
「……見落としていた。そういうことか」
まるで獲物の痕跡を見つけたかのように、嬉しげで、それでいて底冷えする声で続けた。
「ならば――」
髑髏は指先で空をなぞり、ひとつのウィンドウを呼び出した。
地図が展開し、島の地形を示す立体映像が浮かび上がる。
岩の密度、地熱、風の流れ――
すべてが精密な網目となって可視化された。
「断層……いや、ここから先が地下空洞」
低く笑う髑髏。
岩陰に見えた影は、ただの隠れ場所ではない。
そこに、“入り口”があったのだ。
「しかし――おかしい。どこから潜った」
顎に手を当てた髑髏は、再び思考を巡らせる。
ふと、”ある事柄”が脳裏をよぎり、赤い光がわずかに強まった。
「……あの“民”なら、可能か」
点と点が線を繋ぎ、確信へと収束する。
仮面の下で、髑髏はゆっくりと口角を吊り上げた。




