12話:学祭
晴れ渡る秋空に、――ドン、ドン、と空砲が高らかに鳴り響いた。
その音が合図となり、青南水産高校の校内が一気にざわめきに包まれる。
年に一度の一大行事、青南水産高校附属文化祭の開幕だ。
色とりどりの垂れ幕が風に揺れ、校門前には早くも長い列。
開場は午前九時――けれどその時を待ちきれない来場者たちが、笑顔でカメラを構え、地元テレビ局のクルーがマイクを手に行き交っている。
焼きそばの香ばしい匂い、ポップコーンの甘い香り、スピーカーから流れる軽快な音楽。校舎の窓にはクラスごとのポスターが並び、制服姿の生徒たちが呼び込みの声を張り上げている。
「青南水産高校文化祭、開幕でーす!」
マイクを持った放送部の声がグラウンドに響く。
笑い声と拍手、足音が混じり合い、
朝の光の中で、学校全体がまるでひとつの“街”になったようだった。
――今年もまた、青南の文化祭が始まる。
誰もが待ち望んだ、二日間だけの特別な祭りが。
「ほう……これが“ブンカサイ”というものか」
軽く感嘆の息をもらしたのは、銀髪にサングラスをかけた長身の男だった。カーキ色のロングコートに白いスラックス――服の上からでもわかる鍛え抜かれた体躯は、明らかに外国の血を感じさせる。
「すごぉーい…」
彼の隣を歩くのは、白いワンピースに麦わら帽子をかぶった小さな少女・リナ。異国から来た彼女にとって、日本の“高校文化祭”というものはすべてが新鮮で、目を輝かせながら屋台の並ぶ校庭を見回していた。
「お、おいっ。もうちょっとゆっくり歩けって」
そしてもうひとり。
彼らの少し後ろを歩く、黒い帽子を深くかぶった女性。黒のサングラスに白いマスク、肩までの白いコート――
その姿は一見するとどこかの芸能人か、あるいは関係者かと見間違えるほどだ。
「慎重になりすぎだ、逆に目立つぞ?」
「こっちは身バレしないように必死なんだよ…っ」
かつてこの学校で教師を務めていた彼女、飛永は、今は“死んだことになっている”身――堂々と足を踏み入れることはできない。
それでも、どうしてもこの日だけは、
あの子たちの笑顔をもう一度、この目で見たかった本心が今回勝ってしまったゆえの結果だ。
「ん?」
校舎の玄関に足を踏み入れた瞬間、銀髪の男――マリゲルは受付の教員と目が合った。
その瞬間、相手の表情がピクリと固まる。
まるで“怪しい外国人”でも見たかのような、明らかに警戒の色を浮かべた視線だった。
背後を歩く飛永は、その教員の顔を見た途端、すぐに誰かを思い出す。
――音頭。生徒指導部の鬼とも呼ばれる人物で、ツヤツヤに光るハゲ頭がトレードマークの教師だ。
マスクとサングラスの下で、飛永の表情がピクリと強張る。
(まずい……よりによって音頭先生……!)
「わたし達は夫婦だ。怪しい者ではない」
マリゲルは動じることなく、流暢な日本語でそう言いながらサングラスを外し、人懐っこい笑みを浮かべる。
その完璧なスマイルと低い声に、音頭の眉が一瞬ピクリと動いた。
「……ふ、夫婦、ですか。そ、そうですか。あー、どうぞ」
完全にペースを崩された音頭が、慌てて来客用スリッパを指し示す。
マリゲルは涼しい顔でそれに履き替え、続いてリナ、そして飛永も小さく会釈してスリッパを履く。
3人はそのまま校舎の中へと進んでいった。背後で音頭の視線がなおも刺さっていたが、飛永は決して振り返らなかった。
「ふー……ってかおい! 夫婦ってなんだよ! 無理があるだろそれ!」
廊下の奥、音頭の視線が完全に届かなくなったあたりで、飛永は前を歩くマリゲルの背中を軽く小突いた。
「欺くためには、時に“嘘”も必要だ」
マリゲルはまるで悪びれる様子もなく答える。
「幸い、今のこの構成なら――容易に欺ける」
「ま、まあ……確かに、そうかもしれないけど……」
飛永は頬を引きつらせながら、黒いマスクの下でため息をつく。
「それに――」
マリゲルは歩きながら、ちらりと後ろを振り返る。
「今回の目的は“誰にも気づかれずに”、君が担任をしていたクラスの出し物を見に行くこと、だったな?」
「う……」
飛永は思わず言葉を詰まらせ、視線を逸らした。その横顔には、ほんの一瞬、切なげな表情が浮かぶ。
「フッ、たまにはこういうのもいいだろう」
マリゲルは腕を組みながら、涼しげに笑った。
「わたしもアナグラとの戦闘続きでな――少し、息抜きをしたいと思っていたところだ」
「……いい匂いがする」
隣を歩いていたリナが、ふと足を止めて鼻をクンクンと鳴らす。
「匂い?」
飛永も思わず周囲を見回す。
ちょうど廊下の先に、「青南水産高校 食堂」と書かれた立て看板が見えた。近づいてみると、それは家庭科準備室を臨時の食堂として開放しており、一般来場者と生徒たちが入り交じって昼食を楽しんでいるようだった。
香ばしいソースの匂い、焼けた肉の香り、味噌汁の湯気――
廊下まで漂ってくるその匂いに、三人の足が自然と止まる。
中を覗くと、テーブルのほとんどが埋まり、文化祭特有のざわめきと笑い声があふれていた。
「何か食べていくか?」
マリゲルがリナに問いかけると、少女は即座に「うん!」と笑顔で頷いた。
「君はどうする?」
その視線が飛永に向けられる。
「……じゃあ、あたしも」
帽子のつばを指で押さえながら、少し照れくさそうに答える。
「決まりだな」
マリゲルは軽く顎を上げると、3人で食堂の中へ入った。
中は湯気と人の熱気で満ちていた。
黒板の上にはチョークで書かれた手作りのメニューが並び、
「海鮮焼きそば」「まいたけうどん」「手作りからあげ定食」など、水産高校らしい名物料理が並んでいる。
「……壮観だな」
マリゲルはカウンター越しに並ぶ料理を見て、感心したようにうなる。
「戦場の補給所よりも活気がある」
「なんだその例え…」
飛永は苦笑しながらも、どこか懐かしそうに生徒たちの働く姿を見つめた。エプロン姿の生徒が笑いながら注文を受け、料理を運ぶ――ほんの数か月前まで、彼女はそんな生徒達を見守る側の立場だった。
「先生――!」
一瞬、誰かがそう呼んだような気がして、飛永の肩がびくりと震えた。振り向いても、そこにはただ楽しげに話す生徒たちの姿しかない。
(……もう、"先生"じゃないのにな)
心の中でそう呟き、視線を下げる。マスクの奥で息を整えると、マリゲルが小声で言った。
「どうした?」
「なんもねーよっ」
小声で反応し返す飛永は、リナそっとが差し出した手を握った。
その小さな手のぬくもりが、ほんの少しだけ、
彼女の胸の痛みを和らげる。
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「中々に美味だったな」
青南水産高校の食堂を後にしたマリゲルは、どこか満足げな表情を浮かべていた。
メニューの中にあった“麻婆豆腐カレー”という妙な組み合わせに興味本位で手を出したのだが――それが彼の舌に予想外のクリティカルヒットを叩き込んだらしい。気づけば三杯目を平らげていたというのだから、相当な衝撃だったのだろう。
「毎年、市の給食センターから職員が助っ人で来るんだよ。小学校の給食担当してる人たちだから、味は確かだね」
飛永が言いながら、口元を軽く拭う。
彼女が選んだのはシチューと焼き立てパンのセット。久しぶりに口にする“家庭の味”に、無意識のうちに柔らかな笑みが浮かんでいた。マスク越しで誰にも見えないその表情を、本人だけが気づいていない。
「プリン、美味しかった!」
リナが両手を胸の前で握り、目を輝かせる。
彼女が注文したのは《王様特大プリン》。先月、地元で開かれた“P-1グランプリ”――プリンの頂点を競う祭典で優勝した店の逸品だ。どうやら英国生まれの彼女の舌にもドンピシャで合ったらしく、ひと口ごとに笑顔が弾けるようだった。
気づけば、同じプリンを何度もおかわりしている。もはや“英国幼女”ではなく“プリンの亡者”と呼んだほうがふさわしいかもしれない。
マリゲルはそんな二人の様子を見やり、密かにふっと微笑む。
(……戦場では、決して味わえぬ平穏、か)
マリゲルは小さく息をつく。
その瞳の奥には、一瞬だけ遠い戦火の残光が宿っていた。
かつて彼が身を置いた時代――アナグラとの果てなき戦争に明け暮れた十年の記憶が、脳裏をよぎる。
爆煙と硝煙の匂い、仲間の声、軋む鋼鉄の躯。
それらに囲まれた日々の中で、こんな平穏な午後を過ごす感覚など、とうに忘れ去っていた。
平和を取り戻すために戦い続けた戦士が、
その“平和”というものの温度を思い出せなくなる――
なんとも皮肉な話だ、と彼は心の中で苦笑する。
「……ん?」
階段を上りかけたところで、マリゲルはふと足を止めた。
隣にいたはずの気配が、ない。
振り返ると、飛永が階段の下で立ち尽くしていた。
その傍らにはリナがいて、不思議そうに首を傾げている。
「どうした?」
マリゲルが問いかけると、飛永はわずかに肩をすくめた。
「……なんでもねーよ」
短く答え、彼女は再び階段を登り始める。一段一段を確かめるように、ゆっくりと。
その背中には、言葉にならない何かを噛みしめるような重さがあった。
やがて階段を登り切り、突き当りの廊下を左へ折れると、
二年生の教室が並ぶゾーンが広がっていた。
すでに多くの一般来場者で賑わい、笑い声と呼び込みの声が入り混じっている。
祭の熱気と青春の匂いが、校舎の空気を満たしていた。
「この先だ」
マリゲルが迷いなく言う。
「わーってるよ」
彼は以前、準備期間中の夜に弁当を持ってこの校舎を訪れたことがあり、構造を把握している。そのため足取りは自然と速くなる。飛永とリナはその後ろに続きながら、廊下の賑わいを横目に歩いていった。
廊下の両脇には、色とりどりの看板が並ぶ。
お茶屋、メイドカフェ、射的、簡易アトラクション――
どのクラスも全力で自分たちの“世界”を作り上げており、その熱意が空間を鮮やかに染めている。
そして、奥から二番目――「2年B組 お化け屋敷」と書かれた看板の前には、
長蛇の列ができていた。
「盛況のようだな」
マリゲルが感心したように目を細める。
その隣で、飛永はサングラスの奥で静かに目を見開いた。
列の向こう、客を案内している生徒たちの中に――見覚えのある顔が、いくつも見えた。
半年ぶりに目にする、自分の教え子たち。その姿を前に、彼女は言葉を失う。
(……くそ、なんでこんなので)
飛永は、マスク越しに思わず口元を押さえた。
目頭の奥が、じわりと熱を帯びていく。
あふれそうな感情を噛み殺すように奥歯を噛みしめ、深く息をつく。
「並ぶだろう?」
前を歩くマリゲルが振り返る。
「あ、あぁ……」
短く返した声は、どこか上ずっていた。
「ここなーに?」
無垢な声を上げたリナに、マリゲルは淡々と答える。
「お化け屋敷――お化けが出る屋敷だ」
「そのまんまじゃねーか……」
飛永が鼻をすすりながら突っ込みを入れる。
三人は行列の最後尾に並び、ゆっくりと進む列に身を任せた。
その時、奥の出口側から悲鳴と笑い声が響く。
「きゃーーっ!」「無理無理無理!」
制服姿の女性二人組が駆け出すように出てきて、息を切らしながら笑い合っていた。
「やっばくなかった!?」「クオリティ高すぎたよねっ! 今年も本気だわ~!」
満足げに帰っていく彼女たちの姿を見送りながら、
飛永の表情が――マスクとサングラスの下で、さっと青ざめる。
「あ、あのさ……」
「なんだ?」
「やっぱり……やめねーか?」
「急にどうした?」
「いや、その……あのな……」
帽子のつばを指先で掻きながら、飛永は視線を泳がせる。
リナは不思議そうに首を傾げていた。
「アタシ……お化け屋敷、苦手なんだよ……」
その声は照れとも情けなさともつかず、
普段の強気な彼女からは想像できないほど小さかった。
マリゲルはそんな彼女を数秒見つめ、無言のままゆっくり前を向いた。
「――そうか。では、行くしかないな」
「はぁ!? 今なんつった!? お化け屋敷はダメって言ってんだろ!」
「教え子たちの勇姿を見なくていいのか? そのために来たのだろう?」
「こ、こいつ……っ!」
顔を真っ赤にして抗議する飛永。
その横でマリゲルは無表情を装いながらも、口の端をわずかに緩めた。
「そうこう言っているうちに――そろそろ順番が回ってくるぞ」
「えっ……」
列の先、暗いお化け屋敷の入口が、黒いカーテンの奥で口を開けて待っていた。
照明の明滅とともに、奥から響く不気味なうめき声。
飛永の喉が、ごくりと鳴る。
「何名様ですかー?」
ついに順番が回ってきた。
受付で元気に声を上げる女子生徒――かつて飛永がよく職員室で話していた教え子のひとりだ。
だが、いまの彼女にとって“飛永先生”はもう死んだ人。
白いマスクに黒のサングラス、深くかぶった帽子。
重度の変装が功を奏し、まるで別人のように見えている。
「三名だ」
マリゲルが無駄のない動作で指を三本立てる。
「はーい、では中へどうぞー! お化けには触れず、暴力的な行為はご遠慮くださーい!」
軽い注意事項のあと、三人は黒いカーテンをくぐった。
暗闇の向こうから、ぼそぼそと囁くようなBGMと機械仕掛けの音が混じり合って聞こえる。
「……マジかよ」
飛永は肩を落とし、心の中で全力で後悔していた。
通路は完全に暗く、壁一面が黒のビニールシートで覆われている。¥足元にはなぜか本物の土が敷かれ、靴底がざくりと沈む。その異様なリアリティが、文化祭の軽さを打ち消していた。
「手が込んでるな……」
マリゲルが小声で感心する。
「そういう問題じゃねぇっての……!」
彼の背後にぴったりとくっつき、飛永はリナの手を握りながら身を縮めて歩く。リナだけがルンルン気分で、物珍しそうにきょろきょろと辺りを見回していた。
突然――足首に“何か”が触れた。
「ひゃっ!」
飛永が悲鳴を上げて飛びのく。
カーテンの隙間から伸びた白い手は、すぐに闇の奥へと引っ込んでいった。
「……なんだよもぉぉ……」
安堵と動悸が入り混じる中、彼女は背後から妙な気配を感じる。
振り向くと、マリゲルが顔をそむけていた。
だが――肩が、微妙に震えている。
「おい」
「なんだ?」
「笑ってるだろ」
「さて、何のことだ?」
そっけなく答え、彼は再び前へ進む。
飛永は舌打ちし、涙目のままリナの手を引いてついていく。
その時だった。
天井が――ぐにゃりと動いた。
「……え?」
次の瞬間、暗闇の中から“顔”が降ってくる。
血まみれの包帯、ただれた肌、虚ろな眼――。
「ぎゃああああああっ!! 無理無理無理っ!!」
飛永は叫び声を上げ、反射的にマリゲルの背中に飛びついた。
マリゲルはというと、まったく動じることなくその顔を凝視している。
「……」
「……」
沈黙。
その“ゾンビ顔”――実際は、特殊メイクをしたユキトだった。
マリゲルの表情で即座に気づく。
同時にユキトのほうも、マリゲルの銀髪と、隣にいる“白いコートの女”と“金髪幼女”を見て――理解した。
((……あ))
目が合う。
暗闇の中で、奇妙な沈黙が流れた。
互いに何も言わず、ただ「やばい」という空気だけが交差する。
そして――ユキトはそろりと、無言のまま天井の奥へ引っ引っ込んでいった。
残された三人。
「……今の、もしかして」
「…うむ」
マリゲルと飛永は天井を眺めながら、リナは楽しそうな様子ではしゃいでいる。
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「だはー……洒落になんねーっつのぅ……」
午後一時半をまわった頃。運動したわけでもないのに息切れしている飛永は、校舎の壁にもたれてぐったりしていた。
「なんで“お化け屋敷”のあとに“ハロウィン屋敷”と“生霊屋敷”なんだよ……! しかも全部ジャンル同じじゃねーか……お前、あとで覚えとけよ!」
サングラス越しでも涙目になっているのが分かる。
その隣でマリゲルは、実に涼しい顔で売店のクリームソーダを口にしていた。
リナはというと、手にした綿あめをふわふわと指で転がし、不思議そうに観察したあと、ぱくりと頬張って目を丸くしている。
「久々の教え子の様子はどうだった?」
不意に問われ、飛永は言葉を詰まらせた。思い返せば、数時間前――自分の生徒たちが笑いながら話す姿に、何度も胸が詰まった。
「……」
答えの代わりに、彼女はそっぽを向く。
だがマリゲルには分かっていた。
マスクとサングラスの下、きっとその口元には小さな笑みが宿っているのだと。
「“当たり前”とは、そこにあるうちは気づけない。失って初めて、その重みを痛感する。――平和も同じだ」
「急に真面目語りかよ。意味わかんねーっつの」
「…この景色を見て思ったのだ」
マリゲルはグラスの底を軽く傾け、残ったソーダを飲み干す。
目の前には、文化祭で賑わう中庭が広がっていた。生徒たちの笑い声、スピーカーから流れる陽気な音楽、焼きそばとたこ焼きの香ばしい匂い――すべてが、穏やかな時間の証のようにきらめいていた。
「人の世の“賑わい”というやつは、見ていて飽きない」
マリゲルは視線を遠くの中庭ステージへ向ける。軽音部の演奏が始まり、ギターの音が空に響く。観客の歓声が一段と大きくなった。
「この景色を守るためには、いつの時代も、わたし達のような戦う人間が必要になる」
「平和を守るために、ロボットに乗って戦う…か」
まるでアニメや漫画のような話だなと心の中で思う飛永が小さく呟くと、リナが手を引っ張り屋台の方へ駆け出す。
「みてみて!チョコバナナ!金魚すくい!」
「お、おい引っ張んなって!」
その様子を見て、マリゲルは小さく笑う。
――人間という生き物は、不思議なほど、こうした“束の間の幸せ”を守ろうとする。
それこそが、戦いの理由であり、必死になる意味なのだろう。
風が吹き抜け、どこかから花火のような紙吹雪が舞った。陽光の下、青南水産高校の文化祭1日目は最高潮を迎えている。
「んだこのクソ不味いたこ焼きは! こんなんで商売できると思ってんのか、アァン!」
ドスの効いた怒鳴り声が、中庭の喧騒を一瞬で凍りつかせた。
振り向いた生徒たちの視線の先――たこ焼き屋テントの前に、灰色の学ランを着た男子生徒が六人。
周囲の笑い声も音楽も止まり、空気が張りつめる。
「……あちらは、別の意味で賑わっているな」
「灰色の学ラン――第二戸崎高校だな」
飛永はサングラスを少しずらし、男子たちを観察する。
「知り合いか?」
「いや、東側にある高校だ。ラグビーの強豪だけど、素行の悪さでも有名さ。数年前、教師を殴って退学になった奴もいたって聞く」
「……つまり、子どもの戯言か」
マリゲルの声音は低く、どこか冷ややかだった。
怒鳴り散らし、女子生徒三人を取り囲む六人。
「舌がマズくなっちまったじゃねぇか! どう責任取るんだよ!」
「なぁ、可愛いじゃん。俺らと遊んでくれたら、今回は見逃してやってもいいぜ?」
「見てんじゃねぇぞテメェら!」
誰も止めようとはしない。
人込みの影からスマホを構える者、視線を逸らす者。
――見ぬふり。それが現代の“正しさ”なのかもしれない。危険から身を守るという意味では、合理的な選択だ。
だが、その沈黙の中で、ひとりだけが歩を進め近づく。
「……失礼」
その声は、静かに、しかし空気を震わせた。
六人のうちのひとりが振り向く――そこに立っていたのは、長身の異国の男。
その身体の輪郭が、昼下がりの光の中で影のように重く沈む。
「なんだテメ――」
言葉の途中で、彼の喉が止まった。
マリゲルの視線が、まるで銃口のように突き刺さる。
その目は、幾千の戦場を見てきた兵士の目だった。
「わたしは、たこ焼きを食べたいのだ。そこをどいてもらえるか?」
穏やかに放たれたその声は、低く静かで――だが、誰の耳にも“命令”のように響いた。
男たちは一瞬たじろぐ。
だが、虚勢を張るように笑いを戻し、強がりの言葉を吐く。
「でけぇだけの外人が何言ってんだ! 黙ってろって――」
空気が、変わった。
マリゲルは、わずかに首を傾ける。
表情の笑みが消え、目が鋭く尖る。
まるで獣が狩りの瞬間に切り替わるように。
「……聞こえなかったか?」
その声は、もはや人の温度を持っていなかった。
静寂が落ち、周囲のざわめきさえ遠のく。
マリゲルがわずかに一歩、前へ出る。
その足音は、まるで地雷原の上に響く金属音のように、低く乾いて重かった。
六人の背筋に、冷たい電流が走る。
――戦場で死を悟った者だけが放つ、あの圧。
肉体ではなく、“空気”そのものが威圧を帯びていく。
「どけ、と言っているんだ」
短い。だが、その一言に込められたものは、数百の命令と幾千の死の重さ。
言葉が空気を震わせ、周囲の酸素が薄く感じられるほどだった。
その眼光は、炎でも氷でもない――ただ、任務を遂行する兵士の“無”の光。
殺気よりも静かで、理性よりも鋭い。
六人の若者たちは、誰も意識できぬまま一歩、また一歩と退いた。
脳が理解するより早く、身体が逃げ出そうとしていた。
その場に立つだけで、マリゲルは戦場を再現していた。
長年、鉄の巨体の中で死線を渡り歩いた男の気配――それは銃も刃もいらない、純然たる“存在の力”だった。
「なにやってるの?」
その声が響いた瞬間、空気の密度が変わった。
まるで世界そのものが一瞬、呼吸を止めたかのようだった。
反対側から歩いてくる青年――ユキト。
いつもの黒のピッタリした半袖シャツに黒のバギーパンツで軍用のブーツ姿で、ただ歩いてくるだけ。
だが、その一歩一歩が、地面に“無音の雷鳴”を刻んでいた。
マリゲルが静かに彼へ視線を向ける。
「……君か」
「騒いでるみたいだったから、ちょっと見に来たんだ」
「偶然見かけたのか」
「上の階から」
軽く言う口調。だが、その声には微細な“重み”が宿っていた。
彼が目を向けるだけで、六人の男子の喉が鳴る。
汗が首筋を伝い、誰も瞬きをしない。
――理屈ではない。
脳が“理解”するより早く、身体が“死”を感じ取っていた。
「なに、やってるの?」
二度目の問い。
場の空気が完全に支配された。
風すら音を失い、視界のすべてがユキトを中心に収束していく。
瞳孔がわずかに細まり、目尻が鋭く吊り上がる。
表情に怒りはない――だが、“命令”でも“脅し”でもない、“圧倒的な殺気”がそこにあった。その瞳には戦場で数え切れぬ修羅場を越えてきた者特有の――“殺気を制御した重圧”が宿っている。
マリゲルの圧が訓練と経験で磨かれた軍人の威圧だとすれば、
ユキトのそれは――理性を超えた、“戦場の生き物”そのもの。生と死の境を幾度も跨いできた者だけが放つ“現実的な脅威”だった。
数百の爆音の中で、何百という死を見てきた者。
彼の視線には、見えない無数の戦火が宿っている。
まだ自立すらしていない未成人の六人の男子は息をすることすら忘れ、ただその場で固まっていた。彼らの背中に流れる冷や汗の筋は、まるで戦場で狙撃銃の照準を浴びた兵士のようだった。
ユキトは、ただ一言だけ、静かに告げる。
「……まだやるの?」
その声には怒気も脅しもなかった。だが、“拒否”という選択肢は存在しなかった。
六人の足が、勝手に動き出す。
それは命令でも、恐怖でもない。
――生存本能が、“この場から離れろ”と叫んでいたのだ。
「……っ、ち、ちがうんすよ!」
「で?」
短く言い放たれたその声に、男たちは反射的に一歩退いた。
背筋に氷柱を差し込まれたような感覚。
まるで自分たちが今この瞬間、照準の中心に立たされているような錯覚。
そのままの圧でユキトが一歩、また一歩と近づく。
気づけば、6人の男子は互いに顔を見合わせ、言葉を失っていた。
やがてそのうちの一人が小さく「す、すんませんでした!」と叫ぶと、あとは雪崩を打つように全員が逃げ出していった。
――静寂。
中庭に一瞬、風の音だけが残る。
それから、ぽつりと誰かが呟いた。
「……やっべぇ、何もしてねぇのに逃げたぞ…?!」
その一言を皮切りに、周囲の生徒たちが爆発したかのように一斉にどよめき始めた。
「今の見た!?」「すげぇ!」「何者だ…?」「あの金髪の人誰だ?!クッソイケメンなんだけど!」「あの人ってB組に出入りしてる人だよね…?」「漫画かよ…」と、中庭のあちこちから拍手と歓声が上がり、瞬く間に歓声の渦が広がった。見物していた生徒たちが笑顔で肩を叩き合い、屋台のテントの中では安堵のため息が漏れる。
2階の教室の窓際――。
そこから見下ろすB組の女子たち、そして萌里も、胸の前で手をぎゅっと握っていた。
その顔には、誇らしさと安心が入り混じった笑み。
隣で見守っていたみるや仁菜も「すっご…あいつら追い返しちゃった!?」「やったー、やったー」と盛り上がり、拍手を送る。
「もう少し、穏便にやるべきだったか」
マリゲルが静かに髪をかき上げる。
ユキトは、いつもの無表情で。
「…タコ焼き貰っていい?」
一時的な大歓声は、ほどなくして教師たちの到着によって静まっていった。何が起きたのか知らぬ教員たちは、騒然とした中庭と、何事もなかったように立つユキトとマリゲルの姿にただ驚くばかりだった。
だが、生徒たちは皆知っている――あの二人が、たった数秒で騒ぎを収め、文化祭を守ったのだと。
その場限りの“ヒーロー”となった二人は、しかし、称賛の渦の中でもいつも通りの顔をしていた。
ユキトは何事もなかったかのようにタコ焼きを頬張り、マリゲルは、静かに人波を離れていく。
少し離れた屋台の陰――。
飛永はその背中を見送りながら、手にしたわたあめをひと口。
隣ではリナが首をかしげ、「何見てるのー?」と小さく呟いた。
飛永は苦笑し、ふうっと息を吐く。
「……まあ、あいつららしいよ」
どこか安堵を含んだその声は、夕方の風に溶けていった。
こうして、青南水産高校の文化祭一日目は、笑顔と歓声に包まれたまま――
無事、幕を下ろしたのだった。
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1日目が大盛況のうちに幕を閉じた文化祭は、翌日――さらに熱気を帯びて再び幕を開けた。
晴れ渡る秋空の下、校内は朝から人の波であふれ、焼きそばやクレープの香ばしい匂いが風に混じって漂っている。前日を上回る来場者数を記録し、今年の青南水産高校は地域内でも“最も勢いのある文化祭”として名を上げつつあった。
二日目も、マリゲルと変装した飛永、そしてリナの三人は肩を並べ、昨日回りきれなかったクラスの展示や出し物を順に巡っていた。
屋台の列を抜け、手作りの迷路を笑いながら進み、教室で上映される自主制作映画に足を止める――
束の間の平穏は、まるで戦場を離れた兵士たちに与えられた“休息の時間”のように穏やかで、三人の表情にもどこか柔らかな色が宿っていた。
そして、楽しげな笑い声が夕方の風に溶け始めたころ。
時計の針は、いつの間にか16時をまわっていた。
文化祭のフィナーレ――ステージライブが、校舎裏に広がるグラウンドでまもなく始まろうとしていた。
夕焼けがステージの照明と混じり合い、オレンジ色の光が観客たちの顔を染める。
歓声が遠くから波のように押し寄せ、二日間の熱狂が、いよいよひとつの頂点を迎えようとしていた。
「ここでいいのか?」
マリゲルたちは、観客の群れの一番後ろ――ステージからかなり離れた場所に立っていた。
「近くだとバレるかもしれねーだろ」
と、飛永が口を尖らせる。とはいえ身長が低い彼女は背伸びをしながら、なんとか前方を見ようと奮闘している。隣ではリナも面白がって真似をし、ぐいーっと背を伸ばして笑っていた。
「君の担当していた子達は何番目だ?」
「……16時25分。この次かっ」
「そろそろだな。1番目の劇が終わる」
ステージ上では、演劇部のフィナーレが拍手に包まれて終わりを迎えていた。照明が一度落ち、ざわめく観客の中に静かな期待の気配が流れ始める。
やがて、司会の生徒がマイクを握り、次の出し物を告げる。
「続いてのステージは――2年B組!《曲名は(いつもの空)、作詞作曲は、同じく2年B組・田辺萌里さんです!」
その瞬間、観客席から歓声があがった。
前日の“あの出来事”で一躍話題となったB組のメンバーがステージに上がる姿に、全校の注目が集まる。
ドラムセットに仁菜、いつもの無表情でギターを構えるユキト、隣にはリズムギターの霧崎とベースの織田。センターにはマイクを握るみると、もうひとりのボーカル――萌里の姿があった。
ステージライトが照らし出すその光景に、マリゲルは静かに腕を組み、飛永とリナは期待に目を輝かせる。空の色は薄紅から群青へと変わりつつあり、風がやさしく頬を撫でた。
戦場のような緊迫も、日常の喧騒もない、ただの“青春”の一瞬。
――そして、仁菜の最初のドラムのスティックが空を切り、リズムが始まる。
最初の一音が、秋の空気を震わせた。
その瞬間、観客の視線が一斉にステージに向く。初回の音に惹かれ本能的に意識がいった、というのが正しいだろうか。誰しも良さげな曲が耳に入ってくると自然と、その音の聞こえる方に視線がいく。
B組のバンド演奏は、その少し上をいっていた。
仁菜のスティックがリズムを刻み、霧崎と織田のギターとベースが重なっていく。厚みのあるサウンドがグラウンドの隅々にまで響き渡り、ざわめいていた観客が次第に息を飲み、ノリの波が巻き起こり始める。
鳥肌が、せり上がる瞬間だ。
マイクを握る萌里が、一歩前に出た。
ライトに照らされたその顔は、まっすぐに前を見ている。彼女の喉から放たれる声は音程が綺麗なラインをなぞる様に取れ、聞き入る者たちを虜にするには容易だった。気が付けば会場に居る観客は萌里の歌に、声に、歓声を上げる。
その横でみるが深く息を吸い、音に溶け込むようにハーモニーを添えた。
柔らかく、それでいて芯のある声だった。
歌詞には、戦いも悲しみもない。ただ“平凡な日常”と“そこにいる誰かへの感謝”が描かれている。
それだけの歌なのに、なぜか胸の奥が熱くなる。
飛永は思わず息を止めた。
「……へぇ」
サングラス越しに、目が少しだけ潤む。
彼女にとって、教え子たちの成長は何よりの勲章だった。
ステージ上では、ユキトがギターを構え、静かに弦を弾き始めていた。戦うかガルガンダに乗るかの姿しか見たことがないマリゲルにとっては、とても新鮮な姿だったといえる。
曲の後半、みるの高音が秋空を突き抜け、萌里の声と美しく溶け合った。ステージの照明が二人の姿を照らし、舞い散る汗の粒を宝石のようにきらめかせる。
夕焼けは完全に夜の群青へと染まり、照明の光と観客の熱気がひとつに溶け合っていく。
その瞬間――B組の五人が放つ音と熱は、まるで星々が集まって生まれた“ひとつの光”のように輝いていた。
やがて、最後の音が消える。
空気が一瞬、真空のように静まり返った。
世界のすべてが、呼吸を忘れたかのように止まる。
――そして次の瞬間。
爆発するような歓声がグラウンド全体を揺らした。
「うおおおおおおおっ!!鳥肌立ったー!」
「B組ーーー!お前ら最高すぎる!」
「ユキトー!萌里ーー!!」
「これ、ほんとに高校生の演奏かよ!?プロだろ!」
歓声と笑いと涙が、夜風に混ざり合って渦を巻く。
誰もがその音の中に、何かを見た。何かを受け取った。
同じ学園の仲間が奏でた音楽が、彼らの心を震わせ、感情を溶かしていく。
文化祭という小さな舞台は、今だけ確かに“ひとつの伝説”へと昇華していた。
ステージ上で息を切らし、汗を光らせながら笑う萌里。
隣のみるがタオルで額を拭き、仁菜は「ふんふんっ」と鼻を鳴らしてスティックを掲げる。
霧崎と織田も互いに拳を合わせ、ユキトだけが――いつも通りの無表情で、ギターを肩にかけたまま前を見つめていた。
その光景を、飛永はマスク越しにじっと見つめていた。
拍手と歓声が轟く中、彼女は両手で口元を覆い、鼻をすする。
「……いいじゃねぇか」
小さく呟いた声は、風に溶けた。
マリゲルは腕を組み、穏やかに頷く。
その隣でリナが両手を上げてはしゃぎ、無邪気な笑顔で言った。
「……楽しい!」
その笑顔につられて、飛永も思わず笑う。
夕暮れの風が通り抜け、拍手と歓声の波が再びグラウンド全体を包み込んだ。
――その時、飛永がふとスマホを見て眉をひそめる。
「……ん? まだ時間、残ってるな」
「どうした?」
「演奏終わってるのに、タイムテーブルじゃまだ枠がある。あと五分は……」
言い終えるより早く、ステージの照明がふっと落ちた。
校庭が暗転し、ざわめきが一瞬で静まり返る。
スタッフの影が慌ただしく動くのが、わずかに見えるだけ。
そして――一分後。
再び、光が灯った。
その中央に立っていたのは、ひとりの少女。
萌里だった。
ギターを肩にかけ、マイクの前に静かに立つ。
ステージのライトが彼女を包み、風が髪を揺らす。その姿はまるで、夜空に降り立った一つの星のようだった。
観客が息をのむ。
ざわめきの中で、萌里は小さく息を吸い込み、マイクを握りしめる。
「――一曲目、聴いてくれてありがとうございます!」
彼女の声がマイクを通して響く。
拍手が返り、ライトの中で萌里は微笑んだ。
「二曲目は……私のソロです。これは――いつも頑張ってる人へ。私なりの、感謝の気持ちを込めた曲です。それでは聴いてください———《ひとりのヒーロー》」
静かに、ギターを弾く指が動いた。
その最初の一音が、夜気を裂いて広がる。
まるで星の残響が地上に降り注ぐかのように、秋の空気がふたたび震え始めた。
歌い出しは静かで、一曲目の熱狂とは対照的だった。
けれど、その穏やかさの中には、確かな熱が宿っている。
萌里の声は、誰かを包み込むように優しく、
それでいて、今にも泣き出しそうなほど真っすぐだった。
静かな旋律の中に、確かに“想い”の形があった。
聴く者たちは息を潜め、ただ耳を澄ませる。
グラウンドを渡る風が止まり、夜空の星さえも瞬きを忘れたようだった。
中盤、リズムが少しずつ上がり、
ギターの音が夜の闇を裂くように明るく響く。
萌里の指先は迷いなく弦を滑り、その声が伸びる。
それはまるで――遠く離れた“誰か”に届くための光のようだった。
観客の中には、思わず涙をぬぐう者もいた。
恋人同士が手を取り合い、教師たちでさえ静かに拍子をとる。
誰もが、心のどこかで“支えてくれた誰か”を思い出していた。
そして、その“誰か”をまっすぐに見つめているのは、ステージを終え、観客席の一角で待機しているユキトだった。
照明に照らされた萌里の瞳は、確かに彼を捉えている。
そこには、言葉よりも確かな想いがあった。
――“鉄の箱の中で戦う、君は最高のヒーローさ”――
最後のサビ。
萌里は目を閉じ深く息を吸い込み、ギターを強くかき鳴らす。
夜空に響く声が、風に乗って、グラウンドの隅々まで届いた。
そして、音が――止む。
一瞬、世界が静止したかのようだった。
誰もが息を止め、ただその余韻に心を委ねる。
次の瞬間、嵐のような拍手が湧き上がり、夜を震わせた。
その中心で、萌里は小さく笑い、ギターを胸に抱きしめる。
「……そうか」
拍手喝采の中、マリゲルは腕を組んだまま静かに呟く。
「それが、君なりの“支え方”なのだな」
どこか満足したように、彼はふっと口角を上げる。
あの夜、語り合った“想いの形”を、萌里が歌で体現してみせた。
マリゲルはその姿を目に焼きつけ、静かに視線を落とす。
もう、言葉はいらなかった。
こうして大盛況のうちに――
青南水産高等学校の文化祭は、すべての幕を下ろした。
夜風が拍手の余韻をさらい、空には、ひときわ強く輝く星がひとつだけ残っていた。
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「ん?」
それから一時間後。
完全に日が落ち、時刻は十九時半を回ろうとしていた。
文化祭の終了を告げるアナウンスが流れ、生徒たちの笑い声と下駄箱の音が混じり合う中――
帰りの人波に乗って校舎を出てきた萌里とユキトは、校門の前で足を止めた。
街灯の下、見慣れた三人の姿が立っていた。
「あれ、帰ったんじゃなかったんですか!?」
驚いたように駆け寄る萌里。上は体操服、下は制服のスカート――まるで文化祭の余韻そのままの装いだ。
「喋ってたら、なんだかんだこの時間になっちゃってさ……ついでに、待ってたんだよ」
飛永がマスクを少しずらし、鼻をすすりながら照れくさそうに笑う。
「見ていたぞ。二人とも、実に見事な演奏だった」
腕を組んだマリゲルが満足げに頷く。
「ありがとうございます!」
萌里は思わず深々と頭を下げ、隣のユキトはいつも通りの無表情で「ふつう」と言わんばかりに立っている。
「ジャジャーン!」
突然、リナがエアギターをかき鳴らすポーズを取り、得意げに言った。
「もえりー、こーんな風にしてた!」
「ははっ、そんな激しく動いてないってば!」
「でも、かっこよかったー!」
「本当?ありがとうっ」
しゃがみこんだ萌里は、リナの頭を優しく撫でた。
その笑顔は、ステージ上とはまた違う、年相応の柔らかさを帯びていた。
少し離れたところでは、マリゲルがユキトに視線を向けている。
「君がこういう行事に出るとは思わなかったが……楽器まで弾けるとはな。練習したのか?」
「なんとなく、できた」
「ほう……さすがだ」
感心したように顎に手を当て、マリゲルは笑みを浮かべた。
そんな二人から少し距離を取り、
飛永が萌里のもとにそっと顔を寄せる。
「……な、なんですか先生?」
「シッ。声でかい、バレるだろ」
「あっ、すみません!」
「で……二曲目、誰のことだ?」
「えっ」
突然の直球に、萌里の動きが止まる。
「えーっと……ほら、普段頑張ってるみんなに、みたいな!」
「ほう? 歌詞、単数形じゃなかった気がするんだが?」
「き、気のせいですよー!やだなもう!」
飛永は目を細め、口の端を上げた。
「……言っとくけど、バレバレだぞ?」
「う……」
萌里は頬を真っ赤に染め、視線を逸らす。
手のひらでほてった頬を押さえながら、小さな声で呟いた。
「……内緒、ですっ」
「そうかそうか、青春だなぁ」
わざとらしく肩をすくめる飛永。
その二人のやり取りを、遠目から見ていたマリゲルとユキトは、
どこか不思議そうに首をかしげていた。
「彼女たちは何を話しているんだ?」
「さぁ」
――秋の夜風が、五人の間をやわらかく抜けていった。
文化祭の喧騒はすでに遠く、校舎の窓明かりもひとつ、またひとつと消えてゆく。
その静けさの中で、萌里がふっと顔を上げた。
「……ひとつ、叶いました」
「ん? なにがだ?」
飛永が、わずかに眉を上げて問い返す。
「B組のみんなと、文化祭をやるっていう目標です」
そう言って、萌里はにっこりと笑った。
その笑顔を見た瞬間、飛永の胸の奥に、過去の記憶がよみがえる。
——あの日。
ガルガンダのコックピットから、彼女は真っすぐに言った。
『一人じゃ足りないから、みんなで。だからこれからも——』
殺し屋に向けて言うには、あまりに無邪気で、まっすぐすぎる言葉だと思った。
だが今なら、わかる。
それはただの理想ではなく、彼女自身が生きる力そのものだったのだと。
夜空を見上げる萌里の横顔には、曇りがない。その澄んだ瞳は、罪も過去も超えて未来を見ている。
——だからこそ、自分もここに立っている。
ふと、飛永は小さく息を吐き、口を開いた。
「……やり直せると思うか?」
その問いには、かすかな震えがあった。言葉を出した瞬間、心の奥にある恐れが滲み出る。
けれど、萌里は一切のためらいなく答えた。
「大丈夫ですよ。—私たちが拭います。みんなで、これからも」
その声は、まるで夜の空気に溶けていくようにやさしかった。
笑顔の輪郭が街灯に照らされ、ほんのりと光を帯びる。
今日見たどんな景色よりも、その笑顔がいちばん美しかった。
飛永は何も言わず、マスクを少し深くかけ直す。その仕草の裏に、ほんのわずかな微笑みがあった。
——まるで、失くしたと思っていた幸せを、もう一度掌で確かめるように。




