11話:束間
日が沈み、辺りはすっかり夜の帳に包まれていた。
水平線の向こうへと沈んだ夕日はもう見えず、残光すら消えかけている。田園の野道には、ぽつりぽつりと外灯が灯り、離れた家々の窓からもオレンジ色の灯りが滲んでいた。
静寂の中で、虫の声と風の音だけが響いている。
そんな郊外の小高い丘の奥――木々に囲まれた森の中に、それはあった。
骨組みだけを残した鉄骨の建物。かつて戦時中、アメリカ軍の空襲を避けて秘密裏に兵器を製造していた日本軍の施設跡だという。
今は錆びついた鉄と崩れかけた壁が残るのみだが、奇跡的に電気はまだ生きており、天井から下がる蛍光灯のいくつかが薄く光を放っていた。
「丁度いい隠れ家だな……」
マリゲルは腰に手を当て奥を見る。
そこには、片膝をつきなが鎮座する三機の巨体が並んでいた。
一機は、鎧のような青い装甲に背中へ巨大な突貫型ランスを背負う《ギルギガント》
隣に立つのは、灰色の機体。フェイスガードで顔を覆い、肩には長大なライフルを担いでいる。
そして最後に、赤い胴体に白の装甲、悪魔を思わせる頭部を持つ《ガルガンダ》。その背には身の丈ほどもある鉄棍刀――。
無骨な倉庫の中に、三機の機影が並ぶ光景は、まるで戦の余韻をそのまま閉じ込めたようだった。
「では改めて――久しぶりだな、ユキト」
ギルギガントの傍でマリゲルが声をかける。
ガルガンダのハッチに腰掛けていたユキトが、軽く片手を上げた。
「アンタがこっちにいるってことは……アルテミスも来てるの?」
「いいや。まだ会えていない。通信圏内にも反応がない。そもそも、この時代に来ているのかすら分からない」
「そっか。じゃあ、アンタも“流れ着いた”ってわけだ」
ユキトが足をぶらつかせながら言うと、マリゲルは肩をすくめた。
「目が覚めたら砂漠地帯にいた。砂に飲まれ、気づけば日本人の男と現地人に助けられていてな。数日前まで一緒に旅をしていたところだ」
「ふーん。やっぱり、こっちに来たのは偶然じゃなさそうだな」
「……それにしても。随分と暴れていたらしいな?」
マリゲルは口の端をわずかに上げた。
「この時代のニュース映像を拾っていたが…敵は――アナグラか?」
「どうやらあいつらも、俺たちと同じタイミングでこの時代に来たらしい」
ユキトは天井の蛍光灯を見上げながら答える。
「アナグラの核を埋め込んだ機体とも何度かやり合った……さっきのも、その一つだ」
「それに関しては、彼女からも聞いている」
マリゲルが視線を動かす。
アルゴスの膝の上――そこには、金髪の幼い少女リナと手をつないでいる飛永の姿があった。
「彼女とは、面識があるんだろう?」
「まぁね。正確に言えば、俺っていうより……こっちの方が」
ユキトが振り向く。
その背後で、小さく肩をすくめる少女――萌里。彼女は今も、まだ現実が飲み込めていなかった。
突如現れた巨大な機体、そしてそのパイロットが――数か月前に死んだはずの教師だったなんて。
頭の中で何度も「どうして」「なぜ」と繰り返しても、答えは出なかった。
「……こうしてちゃんと話すのは、初めてだね」
ユキトが、静かに口を開いた。
「そう、だな」
気まずそうに笑う飛永。
その指先で、癖のある髪をくるくるといじっている。
「アンタの乗ってた黒い機体。あれ、赤い核がついてたよな。どこから手に入れた?」
「……一年前。政府直属の暗殺部隊にいた頃、髑髏の仮面を被った男から依頼が来たんだ」
「髑髏の……?」
飛永は遠い記憶を探るように言葉を選んだ。
「“ある女子高生を監視しろ”…それが命令だった。あの黒い機体は、その男から渡されたものだよ」
「アナグラとの関係は話してなかったのか?」
マリゲルが鋭い声で問う。
「何も。ただ、赤い石の力について少し。――“質量の範囲内で、その物の性能を引き出し、進化させる”。使いこなせるかは、”パイロット次第”だって」
「……つまり、核は譲渡可能なのか」
「かもしれないね……あの男には一度しか会ってない。その後は電話越しのやり取りだけだった」
飛永は両手を小さく上げて苦笑した。
「ジャッジメントエンドって連中の機体にも、アナグラの核が使われてた」
ユキトが携帯食料を口に運びながらつぶやく
「判決者……映像では確認した。巨大な戦艦を保有している組織、背後に大きなスポンサーがいるだろ。その“髑髏の男”と、ジャッジメントエンド。繋がってる可能性はあるな」
「やつらは、萌里のことを“鍵”って呼んでた」
ユキトの言葉に、マリゲルの眉が動く。
「鍵……?」
「だから狙われてる。俺は、なるべく傍にいるようにしてた」
ユキトの言葉に合わせるように、萌里が小さく頷く。
「私は……何も知らないんです。本当に」
その素直な声に、マリゲルは短く息をつく。
「……なるほどな。飛永、お前はその“監視対象”が誰か知らされていたか?」
「あぁ、知らされていたさ。“女子高生・田辺萌里”。監視が捕縛命令に変わったのは――今年の四月の終わりだ」
「……ふむ」
マリゲルは顎に手を当て、思案に沈む。
「”紳士たるもの、常に堂々とあれ――我が家の家訓だが、まだ断片しか揃っていない。こそこそするのは性分ではないが、今は動くより息を潜め、様子を伺うのが先決だろう」
「こっちも余裕がない」
ユキトがガルガンダの頭部を見上げる。
「機体も限界が近い。特に両腕が怪しい。補強したけど全力は無理だ」
「こちらのギルギガントも同じだ。特攻作戦以降、まともに整備を受けていない。……この時代の技術では、満足な修復は望めない」
「まともに動けるのは――あの灰色の機体か」
ユキトが視線を送ると、飛永は肩を竦め、少し照れくさそうに笑った。
「一応、最新型だからね」
その瞬間――ぐぅぅぅぅ……。
低く響く音が、鉄骨の建物内にこだました。
全員の視線が一斉に音の方向を向く。
飛永が、腹を押さえて苦笑する。
「……はは、アタシだ」
「お腹、すいたの?」
リナがきょとんとした目で見上げる。
「そーいえば、ここ数日まともに食ってなかったな……」
沈黙。そして――
「あ、あのっ!」
ぴょこんと、ユキトの背後から萌里が勢いよく手を挙げた。
顔を真っ赤にしながら、声を張る。
「よ、よかったら……! う、うちでご飯、食べませんかっ!?」
その瞬間、場が固まった。
マリゲルも飛永も、目を瞬かせる。
萌里自身も「やっちゃった……!」という顔をして俯いた。
だが――
「……それも、いいかもしれないな。腹は減っている」
マリゲルが先に口を開いた。
「俺も」
ユキトが笑う。先ほど携帯食料を食べていたが、まだ腹は満たされていない。
萌里の顔がぱっと明るくなる。
「じ、じゃあ! 私の家に、どうぞ!」
夜の風が、森の中をそよいだ。
古びた鉄骨の建物に、小さな笑い声が広がる。
戦いの余韻がまだ消えぬ中、ほんのひとときの――安らぎの夜が、始まろうとしていた。
*****************************
「な、なんじゃなんじゃ!」
午後七時半過ぎ。
玄関の扉を開けた瞬間、萌里の祖父・哲郎が思わず声を張り上げた。
無理もない。
いつものようにユキトと萌里の二人が帰ってきたと思ったら、背後に――見慣れない三人が立っていたのだ。
一人は長身で、銀髪に碧眼の男。
白いパイロットスーツを着込み、まるで映画のワンシーンから抜け出してきたような落ち着いた雰囲気を纏っている。
もう一人は、服の上からでも分かるほどのプロポーションを持つ女性。
腰まで流れるウェーブヘアーが艶やかに光り、その立ち姿はまるでファッション誌のモデルのようだった。
そしてその二人の間には、ふわふわの金髪をした幼い少女――リナが、少し緊張したように飛永の影に隠れている。
「え、えっとですね……」
萌里は慌てて両手をぶんぶん振りながら説明を始める。
「この男の人は、ユキトと同じ時代から来た人で……こっちの女の人は、わ、私の元担任で……で、この子は?」
「リナだよ」
飛永がやさしく答え、隣の少女の頭をそっと撫でる。リナは少し恥ずかしそうに頬を染めながら、小さくぺこりと頭を下げた。
「よ、ようわからんが……ま、まぁ!とりあえず入らんかい!玄関先は冷える」
哲郎は頬をかきながらも、どこか慣れたような調子で三人を家に迎え入れる。
それぞれが靴を脱ぎ、廊下に並ぶスリッパを履くと、家の中を進んでいく。
木の床がみしりと鳴り、古い家の匂いがどこか懐かしく漂う。
廊下を歩く途中、マリゲルがふと足を止め、壁や天井を見上げながら目を細めた。
「……素晴らしい。木の香りが落ち着くな」
「キョロキョロしてどうしたんだよ?」
隣を歩く飛永が不思議そうに尋ねる。
「こういう“和の造り”が好きでな。思わず見惚れてしまった」
「おじいちゃんの家、結構古いもんね」
萌里が笑うと、哲郎は得意げに胸を張った。
「そーじゃなー。かれこれ、もう五十年近く経つかのぅ」
「へぇ……そんなに」
飛永が感心したように呟く。
やがて一同は、畳の香りが漂う居間へと通された。
ちゃぶ台の上には急須と湯呑み、壁には古いカレンダーと昭和時代の写真。どこか時間が止まったような空気だ。
「ところで……学校付近でドンパチがあったと聞いたが――まさかお前らじゃないだろうな?」
哲郎が眉をひそめて言う。
「そうだよ」
ユキトが淡々と答えた。
「やっぱりかー!」
哲郎は頭を抱えたが、次の瞬間、ふっと笑って肩をすくめる。
「まぁええ。くつろいでいけ。どうせ長いこと滞在するんじゃろ?」
「えっ……」
萌里は目を丸くする。
確かにまだ話し合いの途中だった。
マリゲルと飛永、そしてリナが今後この街を拠点にアナグラと戦うことになる――その可能性は高い。
けれども、正式に決まったわけではない。
「い、いいの……? 急に増えたら迷惑じゃ……」
萌里が恐る恐る尋ねると、哲郎はふわりと笑った。
「ちぃと飯作るのは大変じゃがな。わしらの平和を守ってくれる恩人たちに、そのくらいお安い御用じゃ。……手伝ってくれたら嬉しいがのぅ?」
そう言って、哲郎はおどけたように片目をつむってウィンクした。
「えっ……この歳でウィン……」
萌里は思わず口を押さえる。
だがそのツッコミは、なんとか飲み込んだ。
「お心遣い、感謝する」
マリゲルが背筋を伸ばし、深々と頭を下げた。
「ありがとうございます」
飛永もそれに倣い、隣のリナも小さく手を胸の前で合わせてお辞儀をする。
古びた居間に、静かで温かな空気が流れる。
異なる時代を生きた者たちが、今この一つの家で息を合わせる――そんな不思議な瞬間だった。
「さてと――じゃあ、早速飯作るか!」
腕まくりをした哲郎が、勢いよく台所へと向かう。
いつものチェック柄エプロンを身につけ、三角巾まで完璧に装着。
その姿は、まるで戦場に赴く料理人のようだ。
「ユキト、ちょっと手伝えい!」
「わかった」
呼ばれたユキトは、素早く立ち上がると静かに廊下を抜け、台所の方へ消えていった。
「風呂も沸いとるから、誰でも入ってええぞー! 突き当たり右じゃからなー!」
台所から響く哲郎の声に、居間に残った四人は思わず顔を見合わせる。
「では、先にいただいてもいいか?」
静かにそう尋ねたのは、意外にもマリゲルだった。
整った横顔に柔らかな光が射し、どこか品のある佇まい。
萌里は思わず、ぽかんと見惚れてしまう。
(さすがイケメン……やっぱ、きれい好きなのかな……?)
心の中でそんなことを思いながら、萌里は苦笑をこぼす。
「入ってきなよ。アタシらは後で入る」
飛永が肩をすくめながら言うと、マリゲルは小さく頷いた。
「そうか。では、ありがたく使わせてもらう」
そう言ってマリゲルは立ち上がり、静かな足取りで居間を出る。
木の床がきしむ音が遠ざかり、やがて通路の突き当たり――風呂場の方へと姿が消えていった。
残されたのは、萌里と飛永、そしてリナの三人。
「……」
「……」
気まずい沈黙が、居間に降りる。
テレビもつけていない。
風呂の湯がぼこぼこと沸く音だけが、遠くから聞こえてくる。
(う、うわぁ……なんか、空気重い……)
萌里は内心焦りつつも、言葉が出てこない。
なにせ――目の前にいるのは、数ヶ月前まで自分のクラスで教壇に立っていた“担任の先生”。
それが今は、まるで別の世界から帰ってきたかのように、そこにいる。
「……」
「……」
飛永もまた、少し視線を泳がせていた。
無理もない。
かつて生徒だった少女と、こうして家庭の居間で向き合う状況など、想像したこともなかった。
ふと、リナが二人の間を見上げて首をかしげる。
「……ふたりとも、なんで黙ってるの?」
その一言が、静寂を破った。
「い、いやっ、なんでもないよ! ね、先生!」
萌里が慌てて笑顔を作ると、
「えっ、あ、あぁ…!なんでもないぞ!なんでも…」
慌ててごまかしながら飛永は、ふと我に返る。次第にいろんな感覚を思い出し、それまで緊張の意図で強張っていた表情が少しだけ緩む。
ほんの少し前まで学校で交わしていた「日常」の空気が、わずかに戻ってきた気がして何処か嬉しかった、のかもしれない。
「と、とりあえず! 座りましょう!」
「そ、そうだな」
萌里の敷いた座布団に飛永が腰を下ろす。その隣にリナがちょこんと座り、テーブルを挟んだ向かい側では、お茶の入った湯呑を置いてくれる萌里がスカートを整えながら座布団に膝を折った。
だが、沈黙。
壁の時計の針の音だけが、やけに響く。
廊下の奥ではユキトと哲郎の会話がかすかに聞こえ、反対側の風呂場からは「かぽーん」と湯桶の音が小さく響いてくる。
何から話せばいいのか、互いに探り合うように視線を逸らし、作り笑いを浮かべながら頭の中で言葉を探している。
その様子を交互に見ていたリナが、首をかしげた。
重い空気が続き、ようやく沈黙を破ったのは――萌里だった。
「……無事で、その……良かったです」
やっとの思いで絞り出した一言。
それは、ずっと伝えたかった言葉でもあった。
「しぶといっつーか……まぁ。なんとかな」
「そっちの話し方が、素ですか?」
「学校にいた時は“演技”さ。なるべく溶け込むことも仕事だからな……」
飛永はうなじをかきながら、少し照れくさそうに笑う。
「まぁ、その……もう命は狙ったりしない。信じろってのは無理かもしれないが」
「……」
萌里は俯き、返事をしない。
飛永は内心で「ああ、そりゃそうだよな」と苦笑しかけたその時――
「信じます」
思いがけない返答だった。
命を狙われた相手を信じるなど、本来ならありえない。だが、萌里のその表情には、迷いが一切なかった。
「人を見る目は、磨いてますから」
小さく片手でガッツポーズを作り、にっと笑う。
その笑顔に飛永は思わず目を丸くした。
(……ちょっとは、強くなってんじゃん)
かつての教え子が、確かに成長している。
飛永は安堵の息をつき、萌里が入れてくれた湯呑を手に取る。
その時――廊下から足音が近づいてきた。
「すまないが、着替えを貸してはくれないか?」
次の瞬間、居間の戸が開く。
入ってきたのは、湯気をまとった全裸の男――首にタオルをかけただけのマリゲルだった。
「ぶっ――!? な、なんで裸なんだよッッ!!」
「きゃああああああああああああああ!!!」
萌里は悲鳴を上げ、飛永は口の中のお茶を盛大に吹き出す。
リナは無垢な表情でマリゲルの股間を指さした。
「あの、ぶら下がってるおっきなナマコみたいなの、なにー?」
「ああああああ!! 見るんじゃねぇぇぇ!!」
慌ててリナの目を両手でふさぐ飛永。
「どうした、何事じゃ!」
「なにかあった?」
台所から哲郎がお玉を片手に駆けつけ、続いてソーセージを口にくわえたユキトがのんびりと現れる。
「ぬえっ!? な、んじゃおぬし!? なぜ裸なんじゃ!」
「着替えをもらいに来た。すまないが、貸してもらえるか?」
「なんで首にタオルかけてんだよ! 普通股間だろ!隠せ早く!!」
「紳士たるもの、常に堂々とあれ――これが家訓だ」
「家訓貫く前に常識貫け!!」
「お願いだから前隠してえええええーー!!」
「あ、揺れた」
「リナ! 見るな! 絶対見るな!!オマエにはまだ早い!」
「おじいちゃーーーん! はやく着替え持ってきてー!!」
「このソーセージ、美味いな」
――午後八時半過ぎ。
静かな田園の夜に、騒がしい笑い声が響く。
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隕石落下騒動から、二日が過ぎた――。
浜高原発周辺の山々は、ガルガンダとアナグラの戦闘によってほぼ更地と化していた。
だが奇跡的に、死者も負傷者も一人もいない。
ガルガンダが戦闘中に切り離した右腕は、翌日には軍がヘリで回収。
しかしその理由について、政府は一切説明を避けた。
「何かを隠しているのではないか」――そんな憶測がネットを中心に広まり、各メディアは連日この話題で持ちきりとなる。
一方、青南水産高校付近で起きた戦闘の被害は、岸壁の一部破損のみ。
アナグラの残骸は一切見つからず、跡形もなく消滅していた。
二次災害もなく、避難勧告は二日で解除。
街は、まるで何事もなかったかのように、日常を取り戻しつつあった。
――さらに二日後。
青南水産高校も、再び登校を再開する。
だがその早朝。
海風の吹き抜ける一軒家の庭には、場違いなほど重厚な金属音が響いていた。
「さすがだな。こっちに来ても鍛錬は欠かさないとは」
ガゴンッ――。
ベンチプレスのバーとプレートがぶつかる乾いた音。
ベンチに寝そべり、合計150キロのバーベルを軽々と持ち上げているのは、マリゲルだった。
腕の筋肉が隆起し、汗がしずくとなって地面に落ちる。
「日課だから」
その数メートル先では、上半身裸のユキトがバーベルを肩に担ぎ、静かに腰を落としていた。
重量は――約300キロ。呼吸を整えながら、淡々とスクワットを繰り返す。まるで一つ一つの動作に、戦場の緊張を閉じ込めているかのように。
「……最近は下重視か?」
「まぁね。そっちは上鍛えてるの?」
どちらも汗で全身を濡らし、吐く息は白く、体からは湯気が立ち上っていた。
まだ朝日は低く、空は淡いオレンジに染まり始めたばかり。
だが、その庭だけは――まるで戦場の熱気が残っているかのようだった。
「……まだやってたのかよ」
軽く息を切らしながら、飛永が庭に姿を見せた。
こめかみを流れる汗を拭い、萌里から借りた青南水産高校のジャージがしっとりと肌に張り付いている。
どうやらランニングを終えた帰りらしい。
「いや、もう終わるところだ」
マリゲルは短く答えると、ガンッと音を立ててバーベルをスタンドに戻した。
隣でユキトも同じようにバーベルを地面に下ろし、両肩をぐるぐると回す。
二人は自然に距離をとり、向かい合った。
静かに膝を落とし、構える。
空気が一気に張り詰める。
「……?」
飛永が首をかしげる間もなく。
――ズドンッ!!
地面を蹴り砕くような音とともに、マリゲルが突っ込んだ。
筋肉の鎧を揺らしながら繰り出される右ストレート。
だが、その拳が掠めたのは空気だけ。
「む……!?」
ふわりと空気が揺らぐ。
ユキトの姿は一瞬で右側へと消え、マリゲルの腕を支点にして空中で倒立。
軽やかに身を翻して着地した。
「ほう、衰えてないな!」
「そっちも」
その一言の直後、再び衝突。
マリゲルが連撃を繰り出す。
鋭いジャブ、重いストレート、寸分の狂いもないフォーム。
拳が唸り、風が裂ける。
ユキトは一歩、また一歩とギリギリで回避し続ける――頬をかすめた瞬間、
バチンッと乾いた衝撃音。
そして、マリゲルの視界からユキトが――消えた。
「なっ――」
ゴスンッ!!
腹部に重い衝撃が突き刺さる。
息が詰まり、体がわずかにのけぞった。
見えない。ほんの刹那、ユキトが懐に潜り込み、カウンターの左拳を叩き込んだのだ。
「……ッ、ほほぅ……!」
しかし、マリゲルは口角を上げて笑った。
すぐさま畳んだ左肘を叩き落とす――ユキトが咄嗟に後方へ跳び、髪の先をかすめる。
切れた前髪がふわりと宙を舞った。
「えぇ……」
飛永が思わず声を漏らす。
朝の静寂を切り裂くように、二人の動きだけが躍動していた。
拳と拳が交わる音。
砂を踏む足の音。
それ以外は、何も聞こえない。
鉄のぶつかる音も、波の音も消えた。
庭に響くのは――呼吸と鼓動だけ。
それから、どれほど経っただろう。
朝日が完全に昇り、庭を淡い金色に染め上げた頃、ようやく二人の組手は終わった。
止まることなく動き続けたというのに、どちらも息ひとつ乱していない。
額の汗をぬぐう仕草にさえ、疲労の影が見えない。
「お前ら……いつもそんなことやってんのかよ」
飛永は半ば呆れ、半ば感心したようにため息をついた。
「パイロットに求められるのは、咄嗟の判断力と動体視力。それに、長時間の戦闘にも耐える肉体と精神力だ」
マリゲルは肩で呼吸を整えながら、当然のように言葉を返す。
「こうして実力の近い者同士で組手をすれば、互いの癖も見える、反応速度も磨ける」
「……あっちでは、日課だった」
ユキトも静かに言葉を重ね、縁側に置いてあったタオルで顔の汗を拭う。その何気ない動作を、飛永はぼんやりと目で追って――ハッとした。
(……なに、あれ)
ユキトの上半身。
肌の上にはいくつもの縫い跡が走り、金属片のようなものが皮膚に沈んでいる。ひとつやふたつではない。胴体を一周するような大きな傷もいくつかあり銃痕のような痕跡まである。
「……ん? なに?」
視線に気づいたユキトが、首を傾げた。
飛永は慌てて視線を逸らす。
「あ、いや……なんでもねぇよ」
「あぁ、これ?」
ユキトはまるで日常の雑談でもするかのように、自分の腕を持ち上げてみせた。
「昔、事故で両腕と両足を失くしたんだ。……手術で腕と足をつないでもらって、今はこうして動けてる」
あまりに淡々とした口調だった。
まるで、今日の天気を話すように。
だが、その言葉の重さが胸に沈み、飛永は息を呑む。
朝の光が差し込む庭の中で、ユキトの継ぎはぎだらけの腕が静かに輝いていた。
風がふっと通り抜けた。
空気が柔らかく揺れ、庭の柿の葉がさらりと音を立てる。
静けさの中、朝が始まる。
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テーブルいっぱいに湯気が立ち上る。今日の朝食当番は哲郎だ。
焼きたてのサンマに、貝の味噌汁、ほくほくの肉じゃが、そして漬物。
昔ながらの和食メニューがずらりと並ぶ食卓に、一同が輪になって座った。
「はいはい、手ぇ合わせてー」
「いただきます」
声が重なり、穏やかな朝が始まる。
「ふぅん? これなーに?」
「これはサンマだ、サンマ」
飛永が箸を動かしながらリナに教える。
「さんま……?」
リナは皿の上の魚をじっと見つめ、つん、と箸でつついた。
焦げ目のついた銀色の皮が、ぱりっと音を立てる。
「今年のサンマは美味いぞい。しかも安い」
満足そうに笑う哲郎の隣では、マリゲルが不器用に箸を動かしていた。
「ご老人。このシャキシャキした食べ物はなんだろうか?」
持ち上げたのは、つやつや光る白菜漬け。
「あぁ、それは漬物じゃ。塩をつけても、醤油をちょろっとかけても旨いぞ」
マリゲルは言われるままに一口。
「……これは、白米が進む」
低い声で真顔のまま呟く。だが、その表情には確かな感動があった。
箸の使い方こそぎこちないが、食べ方は妙に上品で、どこか育ちの良さを感じさせる。
「じいちゃん、おかわり」
箸を口にくわえながら空の茶碗を差し出すユキト。
「おお、もう三杯目じゃぞ?!」
「腹減ってるから」
悪びれもなく答えるユキトに、哲郎が目を丸くする。
「朝からそんな食べる!?」
隣の萌里が呆れながらも笑う。
湯気の立つ味噌汁、焼き魚の香ばしい匂い、そして笑い声。
戦いのない朝は静かで、少しだけ眩しかった――。
「そうえいばマリゲルさんは、出身は何処の国の人なんですか?」
萌里は気になっていたことを訪ねる。
「わたしは第三アメリカ共和国の出身だ」
「だ、第三アメリカ…?」
聞いたことない単語に萌里は目が点になる。
「そうか…”こちらで”はまだアメリカが一つか」
「えっ、アメリカ別れてるんです?」
「正確には、五つの連邦国家に分かれている」
マリゲルは湯呑を手に取り、淡々とした口調で答えた。
「五つ……?」
萌里が小首をかしげると、ユキトが箸を止める。
「北東連邦、南部連合、太平洋岸同盟、中西部自治圏、そして……第三アメリカ共和国」
「え、それ……つまり全部アメリカってこと?」
「名目上はな。だが、実際は別々の国だ。統合政府は崩壊して久しい」
「ほ、崩壊……」
萌里は思わず箸を握りしめた。
マリゲルは淡く笑みを浮かべ、まるで古い歴史を語る教師のように続けた。
「わたしのいた時代から約四百年前、世界規模な“戦争”があった。急速に発達しすぎた人口知能と人間の全面衝突…人類の半分が生き残れず、国家は再編された。アメリカは分裂し、ヨーロッパは海に沈み、アジアは統合されて“東亜連邦”になった」
「海に……沈んだ?」
萌里が思わず声を上げる。
「戦争の余波で海面上昇と地殻変動によって、旧フランスやイギリスの大半は失われた。生き残った地域は“北欧自治領”と呼ばれている」
「……未来は物騒なことが起きておるんじゃのぅ」
哲郎が茶をすすりながら目を細める。
「それに比べて日本は、奇跡的に地形がほとんど残った。もっとも、文明レベルは一度ほぼリセットされたが」
マリゲルは箸を置き、真っすぐユキトを見た。
「――君たちの時代が築いた技術のほとんどは、“灰”になった」
静寂が降りる。
味噌汁の湯気だけがゆらゆらと立ち上り、誰も言葉を続けられなかった。
「……すごい、スケールの話になってきたな」
ようやく飛永が呟き、空気を緩める。
マリゲルは軽く肩をすくめた。
「滅んでも、また立ち上がる。それが――“人類”だからな」
その言葉に、ユキトは目を静かに向けていた。
窓の外では、秋の風が穏やかに吹いていた。戦いのない朝は、やはり少しだけ眩しい。
「その戦争は――“古の戦争”と、後に呼ばれるようになった。終戦の鍵を握ったのは、後に伝説と謳われる人型兵器の存在だった」
マリゲルの声音には、静かな重みがあった。
ユキトはサンマを咀嚼する手を止め、視線を向ける。
「人類は、自らの手で生み出した災厄を、自らの手で終わらせようとした。その決意のもとに造られたのが――対人工知能殲滅兵器。
…“ガルガンダ”もその系譜に連なる機体だ」
しゃく、と漬物を噛む音が、妙に静かな部屋に響く。
マリゲルは淡々と話を続けた。
「進化を続ける人工知能に対抗できるのは、人間の直感と進化の速度だけだった。パイロットの脳を無線接続で中枢演算装置として稼働させる――それがアーマーフレームの核心思想だ。人の意志と機械の構造を融合させた結果、人類は一時的に人工知能軍を超え、殲滅へと追い詰めたと…そう記録されている」
「でもそれ、ちょっとおかしくないか?」
飛永が首をかしげる。
「だって……アンタらの時代で言うと四百年前に作られたんだろ? なんで今この時代にあるんだよ」
「……そこだ」
マリゲルは味噌汁を静かに啜り、わずかに瞳を細めた。
「アメリカ南西部の砂漠に飲まれた時、私はひとつの都市に行き着いた。古びた街並みに見えたが、同行していた二人の男は“近未来的だ”と評した」
箸を使い慣れた手つきで、マリゲルはサンマの身をほぐす。
その仕草には、どこか育ちの良さを感じさせる品があった。
「その都市で、一機のロボットに襲われた。撃退後、機体識別データを解析したところ……製造年は、私の時代より三百年前。つまり――時間の整合性が取れない」
マリゲルの言葉に、場の空気がわずかに張り詰める。
「えっと……今が二〇二六年で、マリゲルさんの居た時代が二九二六年。その三百年前に作られたってことは……六百年後に作られるはずのロボットが、過去に存在してたってことですか?」
思考の渦に巻き込まれた萌里が、額に汗を浮かべながら問う。
「その通りだ。おそらく――アナグラとユキトの交戦の際、時空構造に異常が生じた。時間軸そのものが、裂け、捻じれた可能性がある。……それが、私の仮説だ」
「じ、時間が……歪んだってことか?」
飛永が低く呟く。
「正確には、“一部の空間”が異なる時代へ転移した。各時代の断片が、時空の境界を越えて混在している――そう考えれば説明がつく」
「なんか……すごい話になってきたのぅ…」
哲郎が苦笑交じりに呟くが、その目の奥には、理解しきれない不安の色があった。
マリゲルは顎に指を添え、しばし沈黙した。
「だが、説明できない事象がまだある」
視線が飛永へと向く。
「君がアルゴスを発見した、あの謎の空間だ」
「ああ……あそこ」
飛永は、箸をうまく扱えずにサンマと格闘しているリナの手をそっと取って助けながら答えた。
「巨大な船。巨大なロボット群。そして――ガルガンダやアルゴスに酷似したロボットたち。あれも、時空の歪みによって“流れ着いた”のかもしれない」
「気になってたんだけどさ――アルゴスもその、アーマーフレームってやつなのか?」
飛永が箸を置き、マリゲルに問いかけた。マリゲルは顎に手を添え、淡く瞳を細める。
「サテライトシステムのコンソールがあったので、そうだとは思う。見る限りガルガンダとも酷似している。同じ設計思想から生まれた“別の進化系”のように…」
その言葉が落ちた瞬間、空気がわずかに沈んだ。
窓の外から差し込む朝日が湯気を透かし、味噌汁の白い霞がゆらりと揺れる。
その向こうに――誰も見たことのない“時間の歪み”がぼんやりと浮かぶようだった。
静寂。
そして――
「…………あーーー!!!」
萌里の絶叫が、朝の空気を切り裂いた。
「やばいやばいやばいっ! 遅刻!! もう始まってる!!」
テーブルをバンッと叩いて立ち上がる萌里。
スマホの画面を見た瞬間、顔が青ざめ、椅子を蹴るように玄関へ突進した。
「おじいちゃん、いってくるねー!! ほらユキト、早く!!」
「わかった」
靴をつっかけながら、焦る萌里の声と、相変わらずマイペースなユキトの返事が重なる。ガラリ、と引き戸が閉まる音がして――家の中は再び静寂を取り戻した。
「……何を急いでいたのだ?」
マリゲルが不思議そうに首を傾げ、箸を置いた。
「あの子の学校は今、“文化祭”の準備をやっておるのだ」
「ぶんかさい…?」
マリゲルが首をかしげる。
その様子を見て、飛永は何かを思い出すように、遠い目をしている。
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朝食を終えた後、マリゲルと飛永、そしてリナの三人は、萌里の家から少し離れた郊外の小高い丘――その奥に広がる森へと足を踏み入れていた。
木々のざわめきを抜けた先に、ひっそりと姿を現したのは、朽ちかけた鉄骨の建造物だった。
壁は崩れ落ち、骨組みだけが辛うじて原形を保っている。天井の穴からは陽光が斜めに射し込み、漂う埃の粒子を金色に照らしていた。
その光の中に――三機の巨体が、まるで祈るように片膝をついて沈黙していた。
「……やはり、中の骨格フレームはガルガンダと似ているな」
マリゲルは静かに呟きながら、一歩、巨体へと近づく。
指先で装甲の継ぎ目をなぞると、金属の下に微かに残る熱が伝わってきた。
わずかに感じる残留エネルギー――完全な停止状態ではなく、アイドリングに近い。
その傍らで、飛永はリナを抱きかかえたまま、吊り下げられた搭乗用ワイヤーを掴んで上昇していく。
ハッチの天井付近まで上がると、ワイヤーを固定し、慎重にコックピットへと降り立った。
前方に鎮座する大型メインディスプレイは黒曜石のような光沢を放ち、まるで操縦者を待っていたかのように沈黙している。
飛永がシートに腰を下ろし、そっと指先をスクリーンに触れた。
「……ほう」
低く感嘆を漏らす声が外から聞こえる。
後を追ってワイヤーで上がってきたマリゲルが、屈みながらコックピット内へと身を滑り込ませる。彼の鋭い視線が、起動画面に走るコード群と光の流れを捉えた。
「……ガルガンダとは違うな」
次々に流れていく起動シーケンス。
マリゲルの眉間に皺が寄る。その様子を、リナが後部補助席から身を乗り出して不思議そうに見つめていた。
「少し触っていいか?」
「あぁ、好きにしてくれ」
飛永が頷くと、マリゲルは横から身を少し寄せ、ディスプレイへ手を伸ばした。指先が触れた瞬間、ホログラフィックパネルが淡く浮かび上がり、複数の情報ウィンドウが宙に展開される。
操作系はギルギガントと共通する構造を持っており、マリゲルの指は迷いなく項目を滑っていった。
やがて、アルゴスの機体情報と見られるデータページにたどり着く。
「……第三世代直列三機構エルトライム。動力名称か?」
マリゲルが小さく呟く。
その声は観察というより、まるで未知の言語を読み解く研究者のものだった。
「搭載操作デバイス…”シンクロシステム”……」
さらに指先を滑らせ、ページを切り替える。淡い光が彼の頬を照らし、新たな項目が展開された。
「――機体製造年号、E309」
「……聞いたことのない年号だな」
飛永が思わず眉をひそめる。
マリゲルはしばらく無言のまま、その数字を凝視していた。
「E309……連邦暦でも西暦でもない。この機体、記録上のどの時代にも属していないことになる……」
その声には、わずかに恐れと、抑えきれぬ興奮が混ざっていた。
すると、沈黙していた機体が、まるで呼応するように微かに低音を響かせる。
金属の躯体がわずかに震え、空気が振動する。
その音は、機械の咆哮というより、眠る巨獣の鼓動のようだった。
「アルゴスや同系統の機体が並んで安置されていた巨大な空間……巨大な船、そして巨大な人型兵器。いったい誰が、何のために…」
マリゲルは腕を組み、思索するように視線を落とす。
「仮説でしかないが……これもまた、別の時代から“飛ばされてきた”のかもしれん」
「……」
飛永は瞳を細めた。
「気味が悪かったさ。あの場所だけ外と違う。空気が重くて、時間の流れさえ狂ってる気がした……長居するような場所じゃない」
彼女の声には、抑えた恐怖と、理屈では割り切れない“拒絶感”が滲んでいた。
「もう一度行ければ色々分かるのだろうが……仕方ない」
「アタシはごめんだね」
皮肉交じりに笑いながら、飛永は降参といわんばかりに小さく両手を上げた。
「ん?」
マリゲルはページを切り替えながら、ふと目を止めた。
ディスプレイに浮かぶ新たな文字列に、目が釘付けになる。
「……型式番号05、”ゼウスフレーム”……?」
気になる単語に指を滑らせ、下のページへとスクロールする。次の瞬間、画面全体に複数の機体シルエットが展開された。
「これは…同型フレームを採用した機体群か?…全部で二十」
「どれも形が違うよな」
飛永が眉を上げる。
マリゲルはディスプレイに視線を落としながら説明を続けた。
「中枢のフレーム形状こそ同一だが、搭載されるOSの特性によって外装も戦闘特化構造もまるで変わる。あらゆる戦況に適応する思想設計――つまり、可変的汎用兵装思想がアーマーフレームの特徴だ。なので見た目だけなら、まるで別物になる」
「じゃあ、このゼウスフレームってのも?」
「形状が近いから恐らく同系統とは思うが……機体がここまで似ているのは妙だ。一体……――ん?」
画面に並ぶ二十の機体を順に見ていたマリゲルの目が、ある一点で止まった。息が詰まるような沈黙。
それは意外な発見だった。
ここに表示されているのは聞いたことのない製造元号を持つ謎に包まれた機体群なのだが視線は、そこに釘付けになる。
「………」
ディスプレイの先頭に映し出されていた一機――その外観に、彼は見覚えがあった。
似ている、といった方が表現は近い。
同時に、冷たい汗が背を伝う。
「…………ガルガンダ」
マリゲルの低い声が、静まり返るコックピットに響く。
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一方その頃――。
青南水産高校、校庭にて。
今日から文化祭準備期間が再開し、校内は朝から活気に包まれていた。風に揺れる横断幕、机を運ぶ生徒たちの掛け声、スピーカーから流れる軽快な音楽。
青南水産高校の文化祭は、地元でも評判の一大イベントだ。二日間にわたって開催され、一般客の来場も許可されているため、毎年かなりの賑わいを見せる。
その人気の理由は、単に規模の大きさだけではない。
どのクラスの出し物も、まるでプロ顔負けの完成度を誇っており、模擬店、展示、演劇、音楽――どれを取っても手抜きがない。教師の指導というより、生徒たち自身の“伝統的な誇り”がそれを支えていた。代を重ねるごとに、自然とその熱量が引き継がれ、いまでは学校全体が一つの大きな舞台装置のように機能している。
そして――文化祭最大の目玉が、二日目のフィナーレを飾る「野外ライブ」だ。夕暮れから夜にかけてグラウンドに組まれる巨大な特設ステージには、プロの照明演出チームが入り、本格的な音響機材も導入される。
「高校の文化祭」とは思えないほどの規模で、地元メディアが取材に来ることも珍しくない。
「おい、スモーク機材こっちだ!電源ライン通すぞ!」
グラウンドでは既に音響班と装飾班が入り乱れ、設営の真っ最中だった。
体育館からは吹奏楽部の音合わせが聞こえ、教室棟の窓からはポスターや垂れ幕が吊るされていく。
その喧騒の中、ひときわ目立つのは――
校舎裏の一角で、ギターケースを背負った萌里とみるの姿だった。
「萌里、歌詞はできた?」
「う、うん。なんとかね…みんなとのバンド練習と並行してやるの、正直きつかった~。もう体が二つほしいって思ったよ~」
「よくやるよねー! で…ユキト君にはバレてないよね?」
「だ、大丈夫。気づいてないと思う」
萌里はスマホを取り出した。
画面には、夜な夜な書き込んだ歌詞の断片が並んでいる。
それは、クラス全体でやる文化祭バンドとは別の――彼女自身が秘密裏に立ち上げた“もうひとつの計画”だった。
ユキトに内緒で、感謝の気持ちを音楽にして伝えたい。
そんな気持ちから始まったこの企画は、遠足のあとすぐに動き出した。萌里の意気込みを聞いて、すぐにメンバーは集まった者の肝心の歌詞作りがうまく進まず、結局文化祭準備期間に突入してしまった。
……けれど、あの夜の会話がなければ、きっとまだ迷っていただろう。そう、彼――マリゲルとの、思いがけないやりとりがなければ。
萌里は記憶をたどるように、静かに目を閉じた———。
******************
それは、一昨日の夜のことだった。
家の中はすでに灯りが落ち、すっかり静まり返っていた。
廊下の木板が、萌里の足の下で小さく軋む。トイレへ向かう途中、ふと――縁側から微かな気配を感じた。
月明かりが庭を青白く照らし、その中心に銀色の影が立っている。
マリゲルだった。
青いタンクトップに、哲郎から借りた寝巻き用のズボン。英国の貴族のような風貌には似つかわしくない、妙にラフな格好で夜空を見上げていた。
月光に照らされたその姿は、まるで静寂そのものと同化しているようだった。
「……あっ」
思わず声が漏れた瞬間、自分で口を押さえた。
しかしマリゲルがこちらに気づき、ゆっくりと振り返る。
「……あぁ、君か」
「い、いやっ……その、ト、トイレ行こうと思って……!」
言い訳のように言葉がこぼれ、萌里はそわそわと視線を泳がせた。
昨日出会ったばかりで、まともに話したこともない。そんな相手と真夜中に二人きり――気まずさが空気を満たしていく。
(よりによって、なんで今なんだろ……)
しかも、初対面のときは裸を見せてきた変態である。
その記憶が脳裏をかすめ、頬がみるみる赤くなった。
「……えっと、その」
何か言葉を探そうとした瞬間、マリゲルが静かに口を開いた。
夜気を震わせるような低い声だった。
「――君は」
「へ?」
「ユキトとは、親しいのかい?」
予想外の問いに、萌里は一瞬だけ言葉を失った。
「し、親しい……のかな。守ってくれるっていうか、いつも一緒にいるっていうか……うーん、友達? みたいな?」
「ふむ」
マリゲルはゆるく頷き、薄く笑んだ。
その笑みはどこか達観したようで、冷たい月の光と重なって見える。
「ひとつ、訊いてもいいか?」
「な、なんですか?」
「……彼は、これまでに”笑った”か?」
「えっ?」
言葉の意味が理解できず、萌里は眉をひそめた。
「ど、どういう意味ですか?」
「言葉のままだ。ユキトは、笑ったことがあるか?」
沈黙が流れた。
萌里はこれまでの記憶をたどる。学校での何気ない時間、戦闘の後、仲間たちとの日常――どの場面を思い出しても、彼の笑顔はなかった。
「……そういえば、見たことないかも。いつも無表情だし、何考えてるのか分からないし…ほんと、よくわかんないやつです」
「だろうな」
マリゲルは小さく息を吐き、視線を空へ戻した。
その横顔に、月光が淡く影を落とす。
「彼は――”話さない”のではなく、”話せない”のだ」
「……え?」
萌里の心臓が跳ねる。
その声音には、確信にも似た哀しみが滲んでいた。
風鈴が夜風に揺れ、涼やかな音を鳴らす。マリゲルの銀髪が月光を弾き、夜の静寂に溶けた。
「……サテライトシステムの”代償”だ」
静かな一言が、闇に溶けていく。
萌里は息を詰めたまま、その言葉の重さを測ろうとする。
「代償……?」
「彼がなぜ、アーマーフレーム《ガルガンダ》を操れるのか。あの異常な反応速度、並外れた戦闘能力――理由のすべては、そこにある」
マリゲルの瞳は、夜空よりも深く澄んでいた。
人間という枠を超えた何かを見てきた者の目。そこに宿る光は、確かな哀悼だった。
「……君は、彼のことを知りたいか?」
萌里は思わず息を呑む。
胸の奥で、冷たいものがすっと流れた。月が雲に隠れ、庭に影が広がる。
「といっても、わたしも断片的な記録でしか知らないがね」
「……正直、知りたいとは思います。けど……他の人から聞くのは、なんか違う気もして。ユキトが話さないなら、それにも理由があるはずだし……話せないんだろうけど」
「……それも、そうだな」
マリゲルはふっと笑い、再び月を見上る。その横顔は静かで、どこか祈るようだった。
「だが、これだけは言える。彼は――壊れている」
萌里は言葉を失った。
マリゲルの声音には、単なる憐れみでも同情でもない――“敬意”があった。
夜の風が二人の間を抜け、風鈴が再び鳴る。
その音が、静かに、切なく夜空に溶けていく。
「――なら、誰が彼に手を差し伸べる?」
その言葉に、萌里はハッと息を呑んだ。心臓が一瞬止まったように感じた。
今まで彼に守られてばかりだった。
どんな危険な戦いでも、ユキトは迷わず前に出て、自分たちを守ってくれた。
けれど――そんな彼を、誰が守るのだろう。
その問いが胸に突き刺さり、言葉にならない思いが喉で詰まる。
「……ユキトは戦うことしか、守ることしか知らない」
マリゲルが静かに言葉を続けた。月光が彼の瞳に反射し、淡く銀の光を宿す。
「彼はかつて、”救えなかった者たち”の記憶と後悔を念を背負っている。それがどれほどの重さか、我々には想像もつかない。だが――その重さを背負ったままでも、彼は歩き続けている」
「……そんな話、ユキトは…」
萌里の声はかすれていた。マリゲルは、ゆっくりと縁側の欄干に手を置いた。
指先がかすかに震えていた。
「――”サテライトシステム”。それは単なる操縦補助ではない。
人間の神経を直接、機体と接続する。精神領域と機械を重ね合わせる行為。その結果、人並外れた精神力・肉体・強大な手足のように機体を操作できる力をを得る代わりに……失うモノも多くある。記憶と感情の喪失も、その一つだ」
「……記憶と、感情が……」
萌里の胸が痛んだ。
それはつまり――笑えなくなる、ということ。
「扁桃体や海馬が機能不全を起こす。怒りも悲しみも、喜びさえも薄れ消える。残るのは、戦うという本能だけだ」
マリゲルは言葉を区切り、ゆっくりと視線を戻す。
萌里の目をまっすぐに見つめ、静かに言った。
「……だからこそ、誰かが”彼を支えてやらねばならない”。君のような存在が、な」
萌里は一瞬、息をするのも忘れた。
心臓が熱くなる。頬がじんわりと赤くなっていく。
「わ、わたしが……?」
「あぁ。君にはそれができそうな気がする。あの少年の傍にいられるのは戦闘の才能ではない。彼を思いやるこことができる人間だ」
萌里は俯いた。
月明かりが足元を照らし、縁側の影が揺れている。
胸の奥が、苦しくなる。
彼がどれほどの痛みを抱えて戦っているのか――その一端を知ってしまったから。
けれど同時に、決意のようなものが芽生えた。
今度は、自分が守りたい。彼を、人としての笑顔のある場所へ連れ戻したい。
マリゲルはそれを見透かしたように、穏やかに笑った。
「……その優しさが、いつか彼を救うかもしれない」
「わたしに、できますかね…」
「君次第だ」
静かなやり取りのあと、夜風がまた庭を撫でた。
風鈴の音が遠ざかり、雲間から月が姿を現す。
マリゲルの銀髪が光を受けて、まるで氷のように輝いた。
「――彼を、助けてやってくれ」
その声は、祈りにも似ていた。
唇をきゅっと噛みしめる萌里は小さく頷いた。
胸の奥で何かが静かに灯る。その光は、夜の闇よりも確かに暖かかったという。
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その後、アナグラが現れることもなく――
文化祭の準備は驚くほど順調に進み、気づけば開催日まで残り二日となっていた。
各クラスでは出し物の仕上げに向けてラストスパートをかけるためか、放課後も帰らずに学校に泊まり込みで作業をする生徒が急増している。完全に日が暮れた夜八時を過ぎても、校舎のほとんどの教室にはまだ灯りがともり、
笑い声と工具の音が入り混じる、にぎやかな夜だった。
「だいぶ仕上がってきたなー! 見てみろよ、この入り口の化け板、俺が作ったんだぜ?」
自慢げに胸を張る霧崎が、廊下に立てかけられた大きな板を指さす。板には手作りの骸骨やコウモリのシルエットがくり抜かれており、驚くほど本格的だ。
「ノコギリで切って、ヤスリで形整えてよ! マジで職人レベルだろ?」
「へぇー、アンタにしてはやるじゃん?」
腕を組んでフンと鼻を鳴らすみる。だが、その指先には絆創膏が何枚も貼られていた。
「……その言葉、説得力ゼロじゃん。さっきまで縫い針で自分刺してたじゃねーか」
「う、うるさい!これは演出用のケガよ、ケーガ!」
二人のやり取りを見ながら、織田がメガネをクイッと持ち上げる。
「ここまで作り込むと、後片付けが大変そうだな……だが、今年もクオリティが高い。例年通り見応えがあるぞ」
彼の言葉に、クラスメイトたちが笑いながら手を動かす。
廊下では塗料の匂いが漂い、ペンキの刷毛の音がリズムのように響いている。みんな疲れているはずなのに、不思議とその目はまだ生き生きとしていた。
「そういえば――仁菜は?」
「ん? あそこだな」
織田が指さす先を見たみるが、思わず吹き出した。
お化けの衣装を頭からすっぽり被せられ、両手を万歳のまま動けなくなっている仁菜の姿があった。どうやら裾の長さを合わせるための“人形代わり”にされているらしい。
「もう少しで終わるから動かないでね、仁菜!」
「うで、ぷるぷる、ぷるぷる」
「あと少しで縫い終わるからね!」
「あう、あう」
「やっぱりうちのクラス、カオスだな……」
霧崎が苦笑をこぼすと、みるは肩をすくめた。
「でもさ、楽しいでしょ?」
夜風が開けっぱなしの窓から入り、カーテンを軽く揺らす。
外では、他クラスの笑い声や音楽のテスト音が交じり合い、暗い校舎全体がまるで夜祭りの街のような熱気に包まれていた。
その時だった。
「きゃーっ!!」「ちょ、誰アレ!?」「やば、モデル?!」
廊下の奥から、女子の黄色い悲鳴が連なって響いてくる。
ただならぬ雰囲気に、霧崎とみる、そして織田は顔を見合わせ、教室の扉を開けて廊下をのぞいた。
「あぁ、すまないが――“2年B組”というのはどこだろう?」
爽やかな低音の声が廊下を満たした。
群がる女子たちの間を、ゆっくりと歩いてくる男の姿があった。
背は高く、胸板が厚く、無駄のないスリムな体つき。
銀色の髪は光を受けてわずかに青を帯び、瞳は透き通るような碧。
カーキ色のロングコートをまとい、首からは「入構許可証」と記された札を下げている。右手には、縦に長い風呂敷を携えていた。
「うわ……すっげぇ。外国人か?」
「イケメン通り越して神話に出てきそうなんだけど!」
「やばい、こっち向かってる!」
ひそひそ声でざわつく廊下。霧崎たちは思わず身を固くした。
やがて男は目の前まで来ると、穏やかな笑みを浮かべて口を開いた。
「失礼。こちらに――“萌里タナベ”と“ユキト”はいるか?」
静かながらも通る声。
その発音は日本語として完璧だった。
「え、えっと!マ、マイネームイズ霧崎!ジャパニーズ!」
「バカ!日本語通じてるでしょ!!」
「あ、そっか!」
織田が額を押さえ、みるは半笑い。そんな中、恐る恐る織田が口を開いた。
「えっと……田辺さんとユキト君の、お知り合いですか?」
男は穏やかな微笑を崩さず、短く答えた。
「――ああ。親戚のようなものだ」
「えっ?!」
背後から弾かれたような声が響く。
振り向けば、両腕いっぱいに工具箱を抱えた萌里と、肩にベニヤ板を担いだユキトが廊下の角を曲がってくるところだった。
「マリゲルさん?! なんでこんなところに!」
萌里が目を丸くして声を上げる。
「君の祖父に頼まれて弁当を届けに来た。同じ“学びの部屋”の者たちの分も作ったと言っていたぞ」
「えっ……クラス全員分ってこと?! おじいちゃん、気合入りすぎだって…」
萌里は頬を押さえ、嬉しさと恥ずかしさが入り混じったような笑みを浮かべる。霧崎たちクラスメイトはぽかんと口を開け、ざわめきが広がった。
「マジ!?田辺さんちの手作り弁当!?」
「おじいちゃん料理人なの?最高じゃん!」
「うわー明日もがんばれそう!」
周囲にいるクラスメイト達が一気に盛り上がる中、ユキトが肩の板を下ろしながら口を開く。
「アンタが学校来るなんて、珍しいね」
「たまには、こういう“サービス”も悪くないだろう?」
マリゲルは冗談めかして口角を上げる。
「へぇー」
ユキトは興味なさそうに相槌を打つ。
「……これは、なにをしているところだ?」
マリゲルが首を傾げる。
「お化け屋敷ってやつを作ってるんだよ。人を驚かせるの」
「君も、驚かせるのか?」
「俺は小道具を動かす係。脅かし役は役は別」
「なるほどな」
マリゲルは顎に手を当て、ゆっくりと教室の様子を見回した。
天井と床は黒い布で覆われ、外光を遮断している。窓も黒い画用紙で目張りされ、内部は完全な闇。
ドアの入り口には手作りのおばけの板が掲げられ、その奥では赤い照明がぼんやりと垂れ幕を照らしていた。
まるで、別世界の入口のようだった。
「……そうか」
低く呟いたその声には、関心もあった。
「あ、あの! お弁当、私が受け取ります! ずっと持ってもらってるの悪いので!」
萌里が慌てて駆け寄り、マリゲルの手から風呂敷を受け取る。
「あぁ、頼む」
「いえいえ!」
その場で床に置き、慎重に包みを解く。
現れたのは、まるで正月用のような立派な十段重箱。
蓋を開けると――ふわりと漂う香りに、2年B組教室前の廊下の空気が一変した。
中には、色鮮やかな唐揚げ、半熟の目玉焼き、艶のあるおにぎり、甘く煮た小豆や卵焼きなどがぎっしりと詰められている。
「うわっ!」「やば、美味しそう!」と歓声が一斉に上がり、疲労で沈んでいた生徒たちの表情が一気に明るくなる。
その喧騒の中、マリゲルは一歩下がり、コートのポケットからスマホを取り出した。無言のまま、教室の飾り付けや生徒たちの笑顔を、淡々と写真に収めていく。
「……?」
それに気づいたユキトが、眉をわずかに寄せる。
「ここに来たもう一つの理由は”彼女”からの頼みでな」
マリゲルはスマホの画面を閉じ、静かに言う。
「……そうか」
ユキトは短く答えただけだった。
マリゲルの言う“彼女”が誰のことなのか――もう察していたからだ。
****************************************************
――同時刻。
青南水産高校・校門前。
夜気はやわらぎ、気温は二十度そこそこ。
昼間の熱がすっと引いたあとの空気は、どこか水面のように静かで、頬を撫でる風には、潮の匂いと秋の気配がまじっていた。
文化祭の準備でまだ灯る校舎の明かりが、
夜の街に浮かぶ宝石のように、規則正しく瞬いている。
その校門の前に、ふたつの影が立っていた。
ひとりは長身の女性。もうひとりは、その手を握る小さな少女。
「……ここ、なにー?」
幼い声が夜の静寂に溶けていく。
異国の少女は、不思議そうに見上げた。
この国で目にするすべてが、彼女にとっては未知の世界だった。
「――学校ってところよ」
やわらかく微笑んで答えるのは、飛永だった。
白のノースリーブニットに、薄く揺れるロングスカート。
足元では白いサンダルヒールが、街灯の光を受けて小さく煌めく。
深くかぶった帽子のつばの影から覗く瞳は、まだ灯りの残る校舎を静かに見つめている――まるで、そこに置き去りにした“過去”を見つけたかのように。
数か月前までは、ここで教師として在籍し、二年B組の生徒たちに勉強を教えていた。彼らも、彼女を――担任である彼女を心から慕ってくれていた。
けれど、いまはもう――彼女は「この世にいない」ことになっている。
学校前の海岸で繰り広げられたガルガンダとの戦闘。最後は搭乗していた機体の起爆装置に気づき、ガルガンダを巻き込まないように自ら離れ自爆する形で命を落とした—と思っていたが、今こうして生きている。
しかし――飛永真子は、死んだ人間。
「……楽しそう」
隣の少女が、羨ましそうに眺めている。
「……そうだよね」
飛永はかすかに笑みを浮かべた。
それは温度のない、どこか痛みを帯びた微笑。
校舎の窓から、誰かの笑い声が聞こえた。遅くまで残っている生徒たちだろう。
たぶん――あのクラスの子たちも、まだあの中にいる。
萌里、みる、仁菜……霧崎、織田…彼女の教え子たちの顔が、静かに脳裏に浮かぶ。
「叶わないよね…」
彼女の声は風に紛れて、夜の空気に消えた。
「……“いない人”だから」
少女が不思議そうに首をかしげる。飛永は、彼女の小さな手をぎゅっと握りしめた。
その手の温もりが、せめてもの現実をつなぎ止めてくれる。
街灯の光が、ゆっくりと彼女の横顔を照らす。その瞳には、光ではなく哀しみの反射があった。
――もし、あの子たちがこの門を出てきたら。
――もし、「先生」と呼ばれてしまったら。
その一瞬で、きっと彼女は…
「……行こっか」
飛永は校舎に背を向ける。
「入らないの?」
「うん……また今度ね」
そういって飛永は帰り際に、もう一度校舎を見上げる。
(そんな都合いい事、あるわけないよな…)
風が吹き抜ける。
夜の校門を、ふたりの影が静かに離れていく。
その背中を――
校舎の窓の灯が、まるで見送るように、やさしく瞬いていた。




