9話:旅行
7月31日、気温37度。
近年の気候変動の影響で、日本列島はかつてないほどの猛暑に包まれていた。地域によっては40度を超えるところもあり、外に出ることさえためらわれるほどだ。今年も例に漏れず、容赦のない夏がやって来た――そんな予報が、すでに日常の一部になりつつある。
それでも朝だけは、わずかに気温が落ち着き、30度を下回る時間帯もある。活動するなら今のうち。
静まり返った街の中、萌里はひとり、駅前のバス停でスーツケースを傍らに立て、静かにバスを待っていた。まだ眠りから覚めきらない街並みの中に、彼女の姿だけがぽつんと浮かんでいる。
「ちょっと早く来すぎたかな……」
駅前のバス停。朝の光が白く街を照らす中、萌里はスマートフォンの時計を何度もチラチラと覗き込んでいた。
表面上は落ち着いて見えるが、胸の奥では小さく心臓が跳ねている。
昨夜は楽しみすぎて、結局ほとんど眠れなかった。
ベッドに入っても、明日の服をもう一度見直したり、スーツケースの中身を詰め直したり。結局、寝返りばかり打って夜が明けてしまった。
そのスーツケースには、二泊三日分の着替えやコスメ、折りたたみ傘、ポータブル充電器、パークで使う小さなショルダーバッグなどがきっちりと詰め込まれている。お気に入りのヘアアイロンも、祖父に「持って行きすぎ」と笑われながら無理やり入れた。
服装は、ダメージ刺繍入りのキャップに白い半袖シャツ、デニムパンツ。足元は、歩き疲れにくい白いサンダル。
まさに“遊ぶ気満々”の格好だ。
「……もうちょっと寝とけばよかったかな」
ため息まじりに呟きながら、萌里はスーツケースの取っ手を軽く握り直した。
その指先には、期待と眠気が入り混じる、微かな震えがあった。
「おーい!」
朝の空気を突き抜けるような元気な声に、萌里はハっと顔を上げた。
振り向くと、通りの向こうから手を大きく振りながら歩いてくる二人の姿――宇佐美みると、緒方仁菜。
先頭を歩くみるは、いつも通りの明るい笑顔だ。
部活でも愛用しているショルダーバッグを肩にかけ、黒のショートパンツに黄色のノースリーブシャツという軽装。足元は白のスニーカーで、どこか“探検隊”のような機動性重視スタイル。
髪を後ろで一つにまとめ、額にはうっすらと汗が光っている。朝日を浴びて、その元気さが一層まぶしかった。
その隣を少し控えめに歩く仁菜は、同じサイズのキャリーケースをコロコロと引きながら、落ち着いた雰囲気。
麦わら帽子を深めにかぶり、ピンクの半袖シャツに淡い色のロングスカート。両腕には日焼け防止のアームカバーをしていて、まるで夏休み旅行のパンフレットに出てきそうな格好だ。
足元はサンダルだが、ストラップ付きの実用的なものを選んでいるあたり、性格がよく出ている。
「やっぱりだ。萌里早すぎ〜!」
「楽しみすぎて寝れなかったんでしょ?」
みるのからかうような声に、萌里は少し頬を赤らめて笑った。
3人のスーツケースが並んだ瞬間、どこか現実味が増して、心の中のワクワクが一気に膨らんでいく。
「お、女子チーム勢ぞろいだなー!」
「待たせてすまない!」
背後から聞こえた声に、萌里たちは振り向いた。
駅前の通りを、朝日を背にして歩いてくる二人の男子。
どちらも旅行の荷物を抱えているが、雰囲気は対照的だ。
先に手を振ってきたのは霧崎。
いつも通りの快活な笑みを浮かべ、大きめのリュックを肩に背負っている。
タンクトップに半ズボン、足元は履き慣れた運動靴。日焼けした腕には部活でできた細かな擦り傷が残り、まさに“夏のスポーツ少年”という出で立ちだった。
その姿は見ているだけで汗と青春の匂いがするようで、みるが思わず吹き出す。
対して、その隣を歩く織田はきっちりとした装い。
彼のトレードマークであるメガネは健在。襟付きの白いポロシャツに、通気性の良さそうなストライプ柄のズボン。キャリーケースを片手で引きながら、日差しを避けるように少し眉をしかめている。
彼はクラスの学級委員長でもあり、落ち着いた所作や物腰からも責任感の強さがにじみ出ていた。
服装ひとつ取っても、霧崎とは正反対の“品のある大人っぽさ”を感じさせる。
「いよいよだなー!夏!旅行!テンション上がってきたぜ!」
「こらこら、まだ朝だぞ」
霧崎が両手を広げるように笑い、織田は苦笑いを浮かべる。
その光景に、萌里たちは顔を見合わせて笑った。
まだ朝の空気は少し涼しく、これから始まる旅の始まりを告げるように、バス停の屋根越しに光る青空がまぶしかった。
「……そういえば、ユキト君は結局、間に合わなかったみたいだね」
織田が辺りを見回しながら、少し残念そうに言う。
「まぁ、仕方ないよ。アイツはアイツで忙しいから」
萌里はそう言って笑ってみせたが、その笑顔はほんの少しぎこちなかった。
ユキトは今ごろ、修理の終わったガルガンダを兵庫まで受け取りに行っているはずだ。ここ数日のやり取りで、今日の旅行には到底間に合わないことは分かっていた。
それでも、どこかで「もしかしたら来てくれるかも」と期待していた自分がいる。バス停の屋根の向こう、青空を見上げながら、萌里はそっと息を吐いた。
「……まぁ、次の機会だね」
誰に聞かせるでもなくつぶやいたその声は、朝の蝉時雨にかき消されていった。
ふと、駅の出入口横にある大型モニターでは、砂煙の立ちこめる街を戦車が進み、断続的な銃声が響いていた。焼け焦げた建物の隙間を人々が駆け抜け、爆発音に混じって記者の震える声がニュースを読み上げている。
「物騒だよなぁ……」
霧崎がリュックを背負い直しながらつぶやく。
「最近、どこの国も落ち着かないみたいだね」
織田が腕を組んで、淡々と画面を見つめた。
萌里は二人の少し後ろで、画面の中の煙の向こうに目を凝す。
(アイツは、こういう世界で――ずっと戦ってんだろうな…)
胸の奥に小さな痛みが走る。
だが、すぐに首を振ってその考えを追い払った。
「え? 萌里、何か言った?」
「ふえ?! い、いやいや!なんでもないよ!」
慌てて笑顔を作りながら、スーツケースの取っ手を握り直す。
「それより、今日は旅行だし! 楽しもうよ!」
太陽が昇りきった駅前で、萌里の声が明るく響いた。
モニターの中の戦火とは対照的に、朝の光はまぶしいほどに穏やかだった。
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萌里たちの住む街から、今回の目的地である USJ までは、バスでおよそ二時間半の道のりだった。
出発地点の駅では、乗客は萌里たちを含めわずか数人。
だが、途中の経由地を通過するごとに家族連れやカップルが乗り込み、最後の停留所を出る頃には座席はすべて埋まっていた。
開園から二十年以上経つ老舗のアミューズメントパークだが、その人気はいまだ衰える気配を見せない。
最新アトラクションの広告が窓の外を流れ、バスの中は早くも浮き立つような空気に包まれていた。
「入場料、七千五百円だっけ? 学生にはちょっと痛いよなー」
霧崎が苦笑い混じりにぼやくと、織田が得意げに胸を張る。
「だが今日は、その問題はナシ! ――この“無料チケット”が!あるからな!!」
織田が配った封筒を受け取りながら、萌里たちは顔を見合わせて笑い合う。
財布にも優しく、気分はまさに“無敵”。
窓の外では、夏の青空がどこまでも広がっていた。
そんなバスの旅を満喫していると気が付けば高速は降り、車窓に映る景色が一気に変わった。
無機質なガードレールと照明柱が並ぶ灰色の世界から、色とりどりの看板と雑多な街並みが広がる。コンビニやたこ焼き屋、古びた喫茶店の看板が次々と通り過ぎる。
「おお、大阪っぽくなってきたな」
霧崎が窓の外を覗き込みながらつぶやく。
「なんか空気がにぎやかだよね」
萌里も、賑わう通りを行き交う人々の姿に目を細めた。店先には観光客らしい人々が並び、笑い声や音楽が遠くまで響いている。
やがてバスは大通りへと抜け、遠くに高層ビル群と観覧車が見えた。道幅が広がり、道路沿いの建物も徐々に新しく、近未来的なものへと変わっていく。地方都市ではあまり見かけないガラス張りのオフィスビルや、カラフルなホテルが並び始め、街全体がどこかテーマパークの導入部のような雰囲気を帯びていた。
「すご……都会って感じ」
「普段いビルの無い街に住んいると、こうやって旅行に着た時は新鮮だよな!」
織田が腕時計をちらりと見て、微笑を浮かべる。
さらに進むと、バスは大きな橋を渡り、視界の先に巨大な観覧車と金色のゲートが見えてきた。周囲には駐車場の列と、人でごった返す歩道。スーツケースを転がす家族連れや、ペアのTシャツを着たカップルたちが楽しげに歩いている。
やがて、車内の空気が少しずつ浮き立つ。誰からともなくスマホを取り出し、窓越しに写真を撮る音が重なった。
バスがゆっくりと停車し、アナウンスが響く。
――「まもなく、ユニーク・スーパージャパン前に到着いたします。お降りの際はお忘れ物の無いようご注意ください―」
「おー、もうじきだなぁ!」
霧崎が立ち上がり、荷物を肩にかける。
萌里は窓の外に見える巨大なゲートを見上げた。青空を背景に、USJのロゴが太陽を受けて輝いている。
萌里の胸の奥に、少しだけ高鳴りが走った。
バスがゆっくり停車すると、扉が開き、熱気が車内に流れ込んできた。外の気温は真夏の38度。アスファルトから立ち上る熱気に加え、観光客の歓声や足音が入り混じり、バスの中にも自然とざわめきが広がった。
「うわ、すごい人……!」
みるが窓を開けて顔を乗り出す。
バスを降りると、舗道には家族連れ、カップル、学生グループがひしめき合っている。
あちこちから笑い声や叫び声、BGMの音楽が入り混じり、まるで街全体が生きているかのように躍動していた。
金色のゲートの向こうには、巨大な観覧車が青空に映え、ジェットコースターのレールがぎらぎらと太陽を反射している。
「おわああー、やっぱテンション上がるなぁ!!」
霧崎がスーツケースをガラガラと引きずりながら、目を輝かせて叫ぶ。
「や、やっときたぁああ…!」
「めっちゃ上がるね!」
「テンション、爆上がり」
既に見えているアトラクションの影に、キャリーケースを押す萌里、みると仁菜の足取りが自然と速くなる。背中が汗で少し湿るけれど、そんなのは気にならないくらい気分は高揚していた。
「入ったらまず何に乗る?」
「絶対、恐竜ジェットコースターでしょ!」
「クールダウンに、水系アトラクション、ざばーん」
「んー、初めて来たんだし、パレードとか見るのもありじゃね?」
言葉が走る度にテンションが上がっていく三人は、話しながらゲートに向かって歩を進める。
「おいおい!あんまり早く歩きすぎると迷子になるぞ!」
「へへっ、んなこといって織田も楽しみなんじゃねーの、かッ?」
「ぼ、ボクはそんな!」
「メガネの顔の下ニヤけてんぞ」
真面目キャラの織田も年相応の高校生、テンションが上がっていることを霧崎に見抜かれ少し赤面しつつ誤魔化しの態度をみせる。
周囲の熱気と歓声に押されるように、自然と笑顔が広がった。
真夏の日差しに照らされ、肌をじりじりと焼かれる感覚も、非日常への期待でむしろ心地よく感じられる。
「受付で渡したチケット、ちゃんと見せるんだぞ」
織田が小声で注意すると、皆うなずきながらゲートに向かう。
そしてついに、目の前のゲートをくぐる一同。
本来なら入場料7,500円が必要だが、萌里たちは織田からもらった無料券をスタッフに見せるだけで中に入れる。
パークの中に一歩踏み出すと、視界いっぱいに色とりどりのショップやアトラクション、制服姿のスタッフたちの元気な声が広がった。
バスの外で感じた熱気とは少し違う、わくわくが胸を満たす空間――ついに、夏のUSJが彼女たちを迎え入れた。
「はいっちゃった…え、マジで何からいく?!」
「絶叫系いってみたい!」
「絶叫系、絶叫系」
「いいな!でも、何があるんだ?何も調べてねーぞ」
「えーと…そうだな」
織田は先ほどゲートで受け取ったパンフレットを開き、萌里たちは取り囲むようにのぞき込む。
「この“ダイナミックダイナソーパーク”なんていいんじゃないか?絶叫系で、水しぶきも浴びられるらしいぞ」
「へぇ、約90度の角度からダイブするんだ…臨場感すごそう」
「ちょう――楽しそう!これ行きたい!」
「行きたい、行きたい!」
「面白そうだな!で、どこにあるんだ?」
テンションが上がりすぎたみるは腕をブンブン振り回し、仁菜はウサギのように小さくぴょんぴょん跳ね回る。
一方、霧崎は乗る気満々で辺りを見回し、お目当てのアトラクションを探している。
「この先の西側にあるようだな」
パンフレットを見ながら指さす織田に続き、皆は後ろをついて歩き出した。
「あっつ…もう汗だく」
「まだ開園直後なのに、すでに蒸し風呂だよねー!」
みるが手で額の汗をぬぐいながら、キャリーケースを引きずる。
「おいおい女子達!写真撮っとかないと、あとで後悔するぜ!」
霧崎がスマホを取り出して笑顔を向けると、萌里は少し恥ずかしそうに、みるは満面の笑みで、仁菜は控えめにピースをする。
「これってカッパは乗るときにもらえるのかな?」
「このまま、浴びたい」
「はは、仁菜は暑そうだもんね」
日焼け対策で肌の露出が少ない仁菜の足取りが、普段より軽く見える。
「水しぶき浴びられるなら最高じゃん!」
「ねぇ、90度ダイブってやばくない?顔面に風が直撃するやつだよ!」
みるが両手を振り上げ、思わず笑いが漏れる。
「霧崎は絶対ビビるぞー?」
「なに言ってんだ、俺はそんなのでビビるわけないだろ!」
霧崎が大げさに胸を張ると、みるは幼馴染らしい軽口で肩をつつく。
「ふーん、じゃあ落ちる瞬間みといてあげるよ!」
「はっ!じゃあオレもがっつり見てやるよ!」
「おいおい、今からそんなテンションで飛ばして大丈夫か?二日もあるんだぞ?」
パンフレットを覗きこむ織田が、少し呆れ顔で突っ込む。
「大丈夫だって!まかせとけよ!」
霧崎が笑顔で答えると、みるはにやりと笑い、「テンション、爆上がり」と小声でつぶやいた。
「あ、あの角曲がったらもうすぐだぞ」
織田が指差すと、目の前に大きな恐竜のオブジェと、水しぶきが舞うアトラクションの入り口が見えた。
「えっ、まって…うわあ!ちょー楽しそう!」
「めっちゃ面白そう!待ちきれないって!何分待ち?」
「入り口の表示だと、1時間待ちだな」
「全然いけるじゃん!」
横手の奥にある大きな水場に真上から垂直に突き刺さるように設置されたレールを、凄まじいスピードで降りてくるジェットコースター。盛大に跳ね上がる水しぶきを見て、萌里とみるは高揚し、霧崎は余裕の笑みを浮かべる。織田は冷静に時間を確認している。
「これって落ちる瞬間、自動で写真撮られるんだ!」
「やっぱこういう時は変顔でしょ!」
「おっ、変顔勝負か?!」
「アンタは常に変な顔でしょ!」
「んだとぉー!」
みるは肩越しに霧崎をからかいながら笑い、霧崎も幼馴染らしく負けじと応戦する。
入り口隣のモニターには、ジェットコースターで急降下する瞬間の写真が映し出される。萌里が驚く隣で、みると霧崎はいつものように言い合いながらも、互いのテンションを自然に高め合っていた。
「おいおい、騒ぐのもいいが。並んどいたほうがいいぞ」
笑い声と叫び声に押されるように、五人はさらに足取りを速め、アトラクションに吸い込まれるように進んでいった。
「えー、1時間待ちって長いかな…」
「気の合うメンバーが五人もいれば、話してるだけであっという間だよ」
みるが隣で笑い、列に並ぶと、確かに会話が途切れる暇もなく時間が過ぎていった。
スタッフに案内され、いよいよ順番が来る。荷物は乗る直前に預け、ジェットコースター出発と同時に、荷物は終点のゴール地点に向けてベルトコンベアで搬送される仕組みだ。安全バーをしっかりと下ろすと、ガゴン、と車両が動き出した。後ろからワクワクした声が聞こえてくる。
最初はゆっくりと進むジェットコースター。暗めの恐竜ゾーンに入り、岩肌や木々の間を縫うように進む。恐竜の模型が迫るたび、萌里は思わず身をのけぞらせ、みるは「わー!デカい!」と歓声を上げる。
仁菜も小さく手を握りしめながら、目を輝かせている。
「うわっ、近っ!」
「息止めるの忘れそう!」
霧崎が叫ぶと、幼馴染のみるが笑いながら肩を叩き返す。「さすがにここは本物じゃないけど、迫力はすごいね!」
恐竜ゾーンを抜けた瞬間、車両が一気に加速し始めた。風が顔にまともに当たり、髪や服が激しく揺れる。萌里は思わず叫び、目を見開く。みるも両手を振り上げ、絶叫しながら笑う。仁菜は少し固まったものの、次第に声を上げて楽しむようになった。
「ひゃあああ!」
「すげー!速い!」
「うおおおおおおおおおおお!顔面に風直撃だ!」
霧崎が叫ぶと、織田は少し冷静に顔をしかめつつも、手すりにしがみつきながら楽しそうに声を上げる。
前方のレールが急角度で落ちる瞬間、車両がふわっと浮く感覚があり、思わず全員が叫ぶ。萌里は体が浮く感覚にハッとし、みるは「キャー!」と笑いながら手を空に上げる。霧崎は「うおおお!」と叫び、横で仁菜も笑い声を上げる。織田だけは、冷静にカーブを抜ける感覚を確かめるように目を細めていた。
水しぶきが飛び散るポイントに差し掛かると、五人全員が一瞬濡れ、涼しさに歓声を上げる。熱く焼かれた肌にかかる水が気持ちよく、恐竜ゾーンの迫力と高速のスリルが絶妙に組み合わさる。
「わあ、もう一回乗りたい!」
「ちょっと待て、まだ終わってないぞ!」
みると霧崎は肩を叩き合い、テンションが上がる。
後ろの列からも叫び声が聞こえ、轟音と風の音が入り混じる中、五人はジェットコースターのスリルを全身で感じながら進んでいった。
「ぎゃあああ!」
「わあああ!」
「キャーッ!」
風とスピードで髪がバサバサと顔にかかる。萌里は目をぎゅっと閉じるものの、心の奥ではこのスリルを楽しんでいた。みるは両手を高く上げ、幼馴染の霧崎を見ては笑いをこらえられず肩を叩く。
「ほらほら、やっぱビビったでしょ?」
「な、なに言ってんだ、俺は余裕だって!」
叫び声と笑いが混ざる車両の中、仁菜も最初は固まっていたが、次第に笑い声を上げるようになり、五人の空気は完全に興奮で満たされていた。
水しぶきが飛ぶポイントに差し掛かると、全員が一瞬濡れ、爽快な涼しさに歓声を上げる。
「うわー、水かかるー!」
「気持ちいい!」
「ちょ、顔びしょびしょじゃん!」
霧崎が笑いながら手で水を払い、みるも「最高じゃん!」と叫ぶ。萌里は少し驚きつつも、汗と水しぶきで火照った肌が心地よく、思わず笑みがこぼれた。
レールが緩やかになり、ジェットコースターは減速。車両がゴールに近づくと、後ろから「まだ乗りたい!」という声が聞こえ、五人は息を整えつつも笑顔が消えない。
「ふー、やっと落ち着いた…」
「いやー、マジで楽しかった!」
みるは肩を揺らして笑い、霧崎も軽口を交えながら
「次は絶対、水系じゃなくてもいいから、また乗ろうぜ!」
と提案する。仁菜も頷き、満面の笑みを浮かべる。萌里は少し息を切らしつつ、
「まだまだ乗れるのたくさんあるから!」
と元気に声を弾ませた。
出口のモニターには、急降下の瞬間の写真が映し出される。みると霧崎は即座に顔を見合わせ、すぐさま口論を始めた。
「どうよ!オレ、全然ビビってねーだろ!」
「へー!その割には下る時、声出てたけど?」
「おめーこそ女みてぇーな声出してただろうがー!」
「あたしは女だっつーの!」
痴話喧嘩のような二人のやり取りは、本気なのか戯れなのか微妙なところだが、萌里にはどこか安心できる光景に見え、思わず呆れ笑いを浮かべる。
その隣で仁菜は、モニターに映る自分の顔を見ながら再現しようとしているのか、ほっぺを触りつつ一人で変顔を作っていた。萌里はふと、そのほっぺの柔らかさがまるで小さな饅頭のようであることに気づき、思わずつんつんと優しく触れる。織田は4人の様子を少し呆れた顔で見つつも、微笑みを隠せずモニターに目を落とした。
「ねぇ、そうだ!せっかくだし、みんなで1枚撮らない?」
「いいね!撮ろう撮ろう!」
痴話喧嘩がひと段落したみるの提案に、萌里も大きく頷く。近くにいた女性スタッフにお願いすると、快く引き受けてくれたので、五人は出口から少し離れた広めの場所で並ぶ。
「せーの!」
スマホに向かって五人揃って変顔を作り、面白かったのかシャッターを押すスタッフは一瞬だけ噴き出す。ジェットコースターのスリルと、仲間との弾ける笑いが重なり、非日常感がさらに膨らむ。五人はすっかりUSJの世界に溶け込み、夏の冒険の始まりを全身で味わっていた。
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ジェットコースターで全身が熱と興奮に包まれたまま、5人はあと2個ほど別のアトラクションへと向かった。そして気が付けば時刻は昼。腹をすかせた5人は園内の飲食エリアへ歩を進めた。真夏の太陽は容赦なく照りつけ、地面からは照り返しの熱気が立ち上る。額や首筋に汗が伝い服が背中に少し張り付く感覚。しかし、全員のテンションはむしろ上昇していて、不快さは微塵も感じない。
「いやー、やっぱりちょっと小腹空くね!」
「うん、冷たいものも欲しいかも!」
みるが笑顔で叫び、霧崎も負けじと
「俺は絶対アイスだろ!チョコとバニラのミックスだな!」
と元気よく宣言する。
萌里はポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭い、爽やかに笑う。
「じゃあ、かき氷とかもありだね!いちごとかメロンとか…」
仁菜はアームカバーを少し下げながら
「フルーツサンド、冷たいジュース」
とりあえず並びながら、一同はパンフレットのページを見ながらそれぞれ食べたいものを選ぶ。
周囲は人でごった返しており、彼方此方から熱気と食欲をそそる香りで満ちている。揚げたてのフライドポテトの油の匂い、炭火で焼かれるソーセージの香ばしい香り、甘いジュースやかき氷のシロップの香り、そして遠くから聞こえる子どもたちの歓声――五人はその刺激に押されるように自然と笑顔が弾む。
「どれにするー?あ、このチキンナゲットセット美味しそう?」
「私はストロベリーかき氷で!」
「オレはソフトクリームとジュース両方だな!」
霧崎の豪快な宣言に、みるは肩を揺らして笑う。
「さすが霧崎、ここにきても食い気も全力じゃん!」
「腹が減っては戦は出来ぬってな!お前も絶対結構食べるだろ?」
などと話していると並んでいる列が思いのほか進み、順番が回ってきた。受付で注文を終えた五人がスタッフに案内され進むと、別のカウンターが現れ頼んだ商品が全て出来上がる並んでいた。驚きの速さに5人は驚愕しつつ、丁度5個椅子のある日陰のテーブルに座り、手にした食べ物や飲み物を見てさらにテンションが上がる。萌里はかき氷の真っ赤ないちごシロップを舌で感じながら
「ひゃー!冷たい!めっちゃ美味しい!」
「んーーー!甘い!」
みるは両手で大きなソフトクリームを持ち、思わず笑う。
「おいひい、おいひい」
仁菜はフルーツサンドを頬張り、フルーツの酸味と甘みが口いっぱいに広がるのを楽しんでいる。萌里はその様子を見て微笑みながら
「こうやってみんなで食べると、さらに美味しいね」
霧崎はソフトクリームを堪能するようにペロペロ舐めなる。
「くーっ、うめぇ!うめぇぜ!やっぱ夏はこうでねーとなぁ!」
「昼からもたくさん回るから食べとかないとねぇ!」
みるも大きく頷き、五人の気持ちは完全にUSJの世界に染まっていた。
そんな様子を織田は眺めつつ、微笑みを浮かべる。B組の学級委員長でありクラスのまとめ役である彼は、返事こそは元気がいいものの、メガネキャラで落ち着いた雰囲気、頭がいい、落ち着き払っているなどある種の保護者的な立ち位置といっても過言ではない。
「さて、次は何処に行こうかな」
周囲の喧騒、食べ物の香り、太陽の熱、そして仲間との笑い声――五人の心は弾み、夏のUSJ午後の部が始まる。
五人の青春の一コマとして刻まれる瞬間だった。
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楽しい時間というのは、いつだってあっという間に過ぎていく。
気がつけば、空はすっかり茜色から群青へと変わり、パークの中は夜の光で輝いていた。真夏の夜気はまだ30度を下回らず、肌にまとわりつくような蒸し暑さが残っている。
それでも、萌里たちは誰ひとり不快そうな顔をしない。
汗ばんだ背中や髪の張りつく感覚すら、今日一日の余韻の中では心地よく思えるほどだった。
目の前をゆっくりと進む夜のパレード。ライトアップされたフロートが眩しく、マスコットキャラクターたちが笑顔で手を振るたび、歓声が上がる。
萌里は夢中でスマホを構え、隣のみると顔を見合わせて笑った。
「やばい!かわいいい!ちょうやばい!」
「お!なんか手振ってんな!おーーーい!」
みるはテンションが上がりっぱなしな様子で、霧崎も思わず手を振り返す。
仁菜は身長が低いため、最初はぴょんぴょんジャンプして見てた。しかし、見かねた織田が仁菜の両脇を掴み、見える高さにまで持ち上げるなどの一幕もあった。
光と音楽、そして人々の笑い声が入り混じる中で、五人は心の底から“今”を楽しんでいた。
やがてパレードが終わり、名残惜しそうに出口へと向かう人の流れに混じって、萌里たちもゲートを出る。夜風が頬を撫で、昼間よりわずかに涼しい空気が火照った体に心地いい。
照明に照らされたUSJの看板が、まるで「また来てね」と言っているようだった。
そこから少し歩いた先、ライトアップされた巨大なホテルが目の前に姿を現した。
吹き抜けのロビーまで届くほどのガラス張りの外観が、夜の街の中でひときわ輝きを放っている。
反射するライトが水面のようにゆらめき、見る者を一瞬で非日常へと誘う光景だった。
「え……すっごい高そう……」
萌里が思わず足を止め、呆然とつぶやく。
エントランスの回転ドアからは、ほんのりと上品な香りの風がふわりと流れ出てきた。中を覗けば、シャンデリアが金色の光を放ち、大理石の床にはその輝きが波紋のように広がっている。
「マジでここ泊まるの?!」
「お姫様、気分」
みるは声を弾ませ、仁菜は鼻を鳴らしてフンスッと胸を張る。
霧崎は「靴脱いで入らなきゃダメなやつじゃね?」と冗談を言って笑いを誘い、織田は苦笑しながらも少し誇らしげに言った。
「本当ならここ、一泊六万円近くするらしいぞ」
「「「ろ、ろろろろ……ろくまん?!」」」
「ほわっ!?」
三人の間抜けな声が見事に重なり、仁菜は両ほっぺをむぎゅっと押して驚きの表情をつくる。
みるは「んじゃ今日だけはセレブ女子高生ってことで!」と満面の笑みを見せ、
萌里は「えぇ……信じらんない、ほんとに泊まっていいの?」と半分夢心地の声を出す。
回転ドアをくぐると、ふわりと冷たい風とほのかな柑橘の香りが流れ込んだ。吹き抜けのロビーはまるで宮殿。頭上に輝く巨大なシャンデリア、足元を覆うワインレッドの絨毯、磨き抜かれた大理石の床。
そのすべてが、昼間の喧騒とはまるで違う“夜の特別な世界”を作り上げていた。
「やば……写真撮りたい!」
「インスタ映えすぎでしょこれ!」
「落ち着け、落ち着け……目立つぞ」
「無理無理、テンション上がるでしょこれは!」
織田の言葉など誰も聞いちゃいない。
みると萌里はスマホを構えて、天井のシャンデリアを撮りながらキャッキャと笑い、霧崎までちゃっかりピースで写り込む。
呆れたように頭をかきながらも呆れ笑う織田は、フロントでチェックインを済ませ振り返って告げた。
「部屋は十五階。見晴らしは保証する」
「十五階!? そんな上?!」
「え、夜景見れるやつじゃん!」
五人はそのままエレベーターに乗り込む。
鏡張りの壁に、浮き立った笑顔が映る。
上昇とともに小さく耳がツンと鳴り、表示の数字が一つ、また一つと上がっていくたびに胸の鼓動が早くなる。
――ピン。
十五のランプが灯った瞬間、扉が静かに開いた。
途端に、廊下に流れ込む光に息をのむ。
そこには、壁一面を覆う大きなガラス窓があり、夜の大阪の街が一望できた。
観覧車がゆっくりと回り、USJのイルミネーションがまるで宝石箱のように瞬いている。
遠くには高速道路を流れる車の列が光の筋となり、海面には街の灯りが揺らめく。
誰も言葉を出せない。
ただその美しさに、全員がしばらく立ち尽くした。
「……やば。これは言葉失うって」
「ほんと、今日ここに泊まれるなんて信じられない」
「青春、って感じだな」
霧崎がぽつりとつぶやき、皆が小さく笑った。
その笑い声は、十五階の静かな廊下に優しく溶けていった。
「じゃ、またあとでねー!」
「あとで、あとで」
みると仁菜がそれぞれの部屋へ消えていき、萌里もカードキーを手に自分の部屋の前に立つ。
ピッという音とともに、ドアが開いた。
ふわりと漂う、清潔なリネンの香り。
部屋の中は、間接照明に照らされた柔らかな光で満たされていた。
壁も家具も白と木目で統一され、ベッドの上には厚手の白い布団が丁寧に整えられている。
「……広っ」
思わずつぶやいてしまう。
足元の絨毯はふかふかで、歩くたびに吸い込まれるような感触。
大きな窓まで進み、カーテンをそっと開ける。
――一面に広がる、夜の大阪。
観覧車が光の輪を描き、USJのシンボルが遠くで青く輝いている。街の明かりはまるで星空を反転させたようで、萌里はただ見とれてしまった。
(……うわぁ、すっご)
昼間の賑やかな声、絶叫、笑い、パレードの光。
全部が遠い夢のようで、でも確かに今の自分がその続きを生きている。
ふと、スマホが鳴り開くと今回旅行用に作ったグループチャットが盛り上がっている。
《みる》:部屋のバスルーム広すぎ!泳げる!
《仁菜》:冷蔵庫にお水、タダ、セレブ。
《霧崎》:うおおおおお!走り回れるぜ!
《織田》:壊すなよ。頼むから。
「……ふふっ」
思わず笑って、萌里も「この部屋、眺めやばい!」と返信を打つ。
スマホを置き、ベッドに身を沈める。
マットレスが体を包み込み、今まで感じたことのない柔らかさ。
天井を見上げると、微かに聞こえる空調の音だけが静かに響いていた。
(楽しかったなぁ……)
心の中でつぶやきながら、目を閉じる。
まぶたの裏には、ライトアップされたUSJのゲート、笑いながらはしゃぐ仲間たちの姿が浮かんでいた。
――この時間が、ずっと続けばいいのに。
そんな願いを胸の奥にしまい込み、萌里はふと体を起こした。
柔らかなシーツがさらりと肩から落ちる。
静まり返った部屋の中で、遠くの街の灯りだけが淡く瞬いていた。
「……」
一人になると、急に来るぽっかり穴が開いたような感覚。傍にはいつもアイツの姿があった。
無表情で何を考えているかわからないけど、いつも守ってくれるアイツ。
その存在の大きさを改めて実感すると、胸の奥にぽかりと空いた空間がじんわりと温かくも痛く感じられた。
「……連絡だけ」
白いカバーをつけたスマホを手に取り、萌里は履歴から電話番号をタップし、呼び出し音を聞きながら指先が少し震えるのに気付く。
画面の光が暗い部屋の中でぼんやりと映り、緊張と期待が混ざった心臓の高鳴りをさらに意識させる。
『―おかけになった電話は、電波の届かない場所にあるか電源が入っていないため、かかりません』
「…ん?充電忘れ…?」
音声メッセージを最後まで聞くことなく、萌里は通話を終了する。肩の力が抜けると同時に、ほんの少しだけ虚しさが胸をよぎる。
その数秒後、再び萌里のスマホに着信が入り、今度こそ間違いなく期待を込めて通話開始ボタンを押す。
耳に当てた瞬間、微かに汗ばんだ手が少し冷たく感じられた。
「もしもし!」
『えっ?!びっくりした、声でか~!』
「あ、みるか」
『ちょいちょい、なんだその反応はぁ?ってか、霧崎達が下で待ってるってさ!夜バイキング食べるっぽいけど、萌里いく?』
「あ、準備したらいく!」
『おっけーい!じゃあ伝えとくね、まってるよー!』
そういって通話は終了し、萌里は重いため息交じりに肩を落とす。期待していただけに相手が違ったのは仕方ないとして、胸の奥に残っていたワクワクの残滓が静かに消えていくような感覚だった。
部屋の窓から外を見ると、夜の大阪の街灯がぼんやりと揺れ、USJのイルミネーションが遠くで輝いている。
昼間の喧騒やバスの熱気を思い出すと、少しだけ非日常が遠くなる感覚に胸が締め付けられる。
だけど、それもほんの一瞬、心の奥底に温かい余韻として残った。
部屋の照明は柔らかく、窓の外に広がる大阪の夜景が薄い影を作り、深いワインレッドのカーペットと白い壁の落ち着いた空間と相まって、非日常の余韻を静かに漂わせていた。
「はぁ…」
萌里は窓際まで歩み寄る。
目の前には煌めく大阪湾の夜景。
観覧車の色とりどりの光、USJのイルミネーション、遠くに見える高層ビルの窓明かりが、一つひとつ小さな宝石のように瞬いている。
窓を開けると風も心地よく、夜の空気がわずかに冷たく感じる。
昼間の暑さや汗の感覚はすっかり遠く、心をそっと落ち着けてくれる。
「……認めた方が、いいのかな」
萌里は夜景に手をかざし、視線を夜景に泳がせながら小さくつぶやく。一緒に生活するうちに共にいることが当たり前となり、いつしか目で追うようになっていた。段々と自分の中で存在も大きくなり、だからこそ不在なことに異様な欠落感があるのかもしれない…と。
胸の奥でくすぶっていたぽっかり空いた穴の正体を、萌里は実感しつつあった。
「よいしょ…」
ベッドに腰を下ろし、スマホを手に取る。
チャット画面や写真アプリを眺めながら、今日一日の楽しかった思い出を思い返す。
絶叫ジェットコースターのスリル、仲間とのはしゃぎ笑い、USJの夜のイルミネーション――どれも鮮やかで、生き生きとしていた。
「…まぁ、来てよかった」
萌里は思わず微笑む。
そのままベッドに横たわると、体がふわりと沈み込み、緊張やドキドキも少しずつ解けていく。窓の外の夜景が目に映り、光の粒が夢の中に溶け込むようで、心地よい静寂が部屋を包み込む。
「っと、準備準備…」
そうつぶやきながら、萌里は再び体を起こす。
ユキトの声や仲間たちとの笑い声を思い浮かべると、胸の奥がじんわり温かくなる。夜の大阪の光と、USJの余韻、そして心の奥に残る小さなときめき――
萌里は今ある思いを抱きながら窓を閉め、部屋を出て1階にいるみんなの元へ向かうのであった。
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翌日、午前7時過ぎ。
USJ旅行2日目。萌里はふかふかの布団の中で目を覚まし、体を起こすものの、まだ眠気が残っているらしく顔はだるそうに垂れ下がっていた。重い溜息を吐きながら、ゆっくりとまぶたを開ける。視界に映ったのは、淡い朝日の差し込むホテルの白い天井。
「…あーそっか、今ユニバにいるんだっけ…」
はだけた寝巻用のタンクトップの肩ひもがずれているのをそっと直し、布団を離れる萌里。足元には柔らかい絨毯の感触が広がり、まだ少し冷たい朝の空気が足首に触れる。大きなあくびをひとつして、カーテンに手をかけると、窓の向こうには朝日に輝くUSJの園内と大阪の街並みが広がっていた。普段住んでいる街とは違い、道路を走る車の数は多く、視界の果てまで山ではなくビルが連なる景色が広がっている。
「そー言えば昨日かえってきてから皆でお菓子食べたのそのままにしてたなぁ…後で片付けておこ」
お菓子の袋などが散乱する化粧台を見つつ布団を整え、枕元のバッグからスリッパを取り出して足を通す。鏡の前に立ち寝癖でぼさぼさになった髪を手ぐしで整え、洗面所へ。洗面台の水で顔を洗い、ひんやりとした水が頬を伝う感触に少し目が覚める。歯磨きを済ませ、タオルで水滴を拭き取りながら、窓の外の景色をもう一度見やる。
「いい天気…」
昨晩入れておいたクローゼットから今日着る服を選ぶ。萌里は軽く動きやすいTシャツにデニムショートパンツ、足元は昨日のサンダルをそのまま使うことにした。鏡の前に戻り、高校生らしい軽めの化粧を始める。リップクリームを唇に塗り、少し色付きのリップで血色を整える。目元はマスカラやアイライナーで強調するほどではなく、まつ毛を軽く整え、自然な印象を残す程度。頬にうっすらとチークをのせると、自分の顔が少し明るく見え、笑顔が出やすくなる。
「よしっ」
動きやすさ重視の肩掛けリュックを肩にかけ、スマホや財布を入れながら、今日の予定を思い浮かべて小さく微笑む。身支度を終えると、カーテン越しに差し込む朝日が少しずつ強くなる中、萌里は深呼吸をひとつ。胸いっぱいに新しい一日の期待を吸い込み、準備を終えるとホテルの部屋を後にする。
エレベーターで1階に降りるとエントランスでは、既にみる達が集合していた。
「あ、きたきた。おはよー!」
「おはよー。遅くなってごめんごめん!」
「おれ達も今来たばっかりだから気にすんなよ!」
エントランス前に並んだガラスの自動ドアが開くと、天井のガラス窓から朝の光が差し込む。受付カウンター近くの大理石の柱付近では、みる達が既に集まっている。中でも寝ぼけ眼の仁菜が、髪をまるで爆発させたような状態で立っているのが目立った。
「……仁菜、それ、どうしたの」
「寝ぐせ、寝ぐせ」
「寝ぐせどころじゃないでしょ、それ!鳥の巣だよ!」
「ホテルの、弱い」
「アイロン忘れたって言ってたもんね!」
「仁菜って髪の毛多いし長いから、毎日大変そう」
「みないで、みないで」
仁菜が慌てて帽子をかぶると、みると萌里は笑いをこらえきれず吹き出す。そんな和やかなやり取りの中、織田は腕時計をちらりと見てから口を開いた。
「とりあえず行くか。今日の目的地は――天豪山大観覧車」
「わぁ、あの海のそばにあるやつ!昨日ホテルからも見えた!」
「そうそう!USJからもすぐだし、朝のうちに乗っちゃおう!って話してたんだよねー!」
5人はチェックアウトを済ませ、ホテルの前で軽く伸びをした。
朝の空気は潮の香りを含み、海沿いの街らしい清々しさが肌を包む。遠くには、朝日をいっぱいに浴びながら回転を始めた天保山の大観覧車が、白く光を反射させてそびえ立っていた。
「へぇ~……ここからでもデカいように見えるな」
「高さ百十二メートル。日本でもトップクラスらしいぞ」
「そんな高いとこ乗ったら、仁菜の髪の毛もっと広がるかもね」
「ない、ない」
仁菜が帽子を押さえてぷくっと頬をふくらませると、みるが堪えきれずに吹き出す。
そのままリュックから自撮り棒を取り出し、にこっと笑った。
「ほら、せっかくだから全員で撮ろ!」
「いいね~!」
「おっけー、じゃあ――3、2、1……はい、チーズ!」
シャッター音が響き、5人の笑顔が朝の光と潮風に焼き付けられる。背後では、巨大な観覧車が静かに回転し、まるで新しい一日の始まりを祝福するようだった。
写真を撮り終えた彼らは、ホテルのロータリーに止まっている天保山行きの直通バスへと駆け込む。ちょうど発車のベルが鳴るところで、ギリギリの乗り込みとなった。
「危ねーっ、もう出るとこだったな!」
「はぁ~、朝から全力ダッシュとか聞いてない!」
中は観光客でいっぱいで、座席はすでに埋まっていた。
それでも、窓の外に広がる青空と港の風景に、誰も不満を口にしない。
「10分くらいなら立ってても平気だね」
「そうそう!すぐじゃんすぐ!」
バスが静かに動き出した。
ディーゼルエンジンの低い唸りが車体を震わせ、陽射しが大きな窓ガラスを透かして座席の列を照らす。萌里の肩にも柔らかな光が落ち、髪の先を黄金色に染めた。
通りを抜け、バスはゆるやかに桜島の街を進んでいく。
左右には小さな倉庫や古びた事務所が並び、時おりフォークリフトが通りを横切る。舗装の継ぎ目をタイヤが踏むたび、一定のリズムで「トン、トン」と音が響いた。
やがて、視界がふっと開ける。
港湾地帯特有の広い空と、遠くまで伸びる直線道路。空は高く、秋の陽射しが白っぽくかすんでいる。海風が吹き抜け、バスの車体をわずかに揺らした。
「これ大阪湾?」
「位置的にはそうだな」
「ひろーっ!」
るみの質問に織田が答える。
車窓の外、右手には青く光る大阪湾が見えた。
岸壁の向こうではコンテナ船がゆっくりと離岸し、白い航跡を残していく。防波堤の上をカモメが滑るように飛び、クレーンのアームがゆるやかに動いている。
バスは港を背に、天豪山方面へと進路を取る。
倉庫群の間を抜けると、道沿いに新しい商業ビルや観光案内の看板が現れはじめる。
その合間に、まだ使われていない空き地がぽつんと広がり、雑草の間から秋の風に揺れるススキが見えた。
萌里は窓に額を寄せ、遠くの空を見上げる。
赤く塗られた巨大な鉄のアーチが、霞の向こうにぼんやりと姿を現した。
――天豪山大橋だ。
バスはその方向へ、ゆるやかにハンドルを切った。
陽光に照らされた赤い鉄骨が、網のように重なり合いながら彼女たちの視界を満たしていく。
天豪山大橋――大阪湾岸を跨ぐ巨大な橋梁だ。青空を背にして、そのアーチはまるで空へ吸い込まれていくかのようにそびえている。
潮風が強くなり、車体の側面を叩いた。
橋の上に入ると視界の両側には海が広がり、光を反射してきらきらと瞬いている。観光バスの中では、小さなざわめきとエンジン音だけが響いていた。
だが、ほどなくしてスピードが落ち始める。
運転手が前方に目をやり、ため息をつく。列が詰まり、やがてバスは完全に停止した。
「……止まった?」
「渋滞か?」
萌里がスマホを取り出し、交通情報アプリを開く。指先で画面を拡大すると、橋の中央付近に赤い警告マークが点滅していた。
「……あ、やっぱり。事故だってさ。ほら」
彼女が画面をみる達に向けると、そこには“車線を塞ぐ大型トラック転倒”の文字。
拡大された航空写真には、橋の中央で横倒しになった白いトラックが、まるで巨大な障壁のように道を塞いでいる様子が映っていた。
「うわ、やば!これ完全に通れないやつじゃん!」
「トラックが横倒か、どんな勢いで突っ込んだからこうなるんだ……?」
「事故、事故」
「まーしゃーねーよ!旅にハプニングはつきものだろ!」
緊張をやわらげようと、霧崎が冗談めかして笑う。けれど、誰もその場を大きくはしゃぐことはなかった。
窓の外では、橋の鉄骨の隙間から海面が覗いている。
風が強まり、潮の香りとともに、どこか鉄の匂いを含んだ空気が流れ込んできているような気がした、。
遠くでサイレンが鳴り、橋の向こうから小さくパトランプの光が瞬く。
――動かない車列。
静まり返ったバスの中、突然声を上げたのは乗客の一人だった。
「な、なんだよ……あれ……」
それは、不安に濁った声だった。
バスの後方から上がったその一言に、周囲の乗客たちが一斉に顔を向ける。誰の言葉でもない、けれど全員が同じものを見つめていた。
視線の先――天豪山大橋の彼方、霞む水平線の向こう。
太平洋から大阪湾へと続く入り口付近に、それはあった。
ビル群をも小さく見せるほど巨大な、黒く、異様に滑らかな球体。まるで影そのものが海上に浮かび上がったようだった。
「……なに、あれ……浮いてる?」
「船……じゃ、ないよな」
「UFO? 冗談だろ……」
ざわめきが波のように車内を駆け抜ける。
次の瞬間には、ほとんどの乗客がスマホを構え、窓を開け外へと身を乗り出していた。潮風が強く吹き込み、カーテンがばたばたと音を立てる。
眼下には陽光を反射して白く光る海面、そしてその上で不気味な静止を続ける黒い物体。海上の監視艇が遠巻きに集まり始めているのが見える。
車内のざわめきは次第に騒然と変わり、空気がぴんと張り詰める。
(黒い……まさか?)
嫌な予感が、稲妻のように脳裏を走った。
萌里の心臓が跳ね上がり、耳の奥で自分の鼓動が響く。
視界の中――遠くの海上で、黒い球体がかすかに震えた。
まるで呼吸をしているかのように、波打つ外殻がゆらりと動く。
(……動いた?)
萌里は反射的にスマホを取り出し、カメラモードに切り替える。
震える指でズームを最大まで上げ、レンズ越しに黒い影を捉える。
その中心――まるで心臓のように赤く光る石が埋め込まれていた。
(間違いない……アナグラ……!)
頭の奥が熱くなる。
胸の奥で、焦燥と恐怖が一気に膨れ上がる。
(こっちに来る……このままじゃ橋の上にいる人たちが)
ガラス越しに見える外の光景が歪んだ。
バスは渋滞の列に完全に埋もれ、車列は一ミリも動かない。
外ではクラクションの音が連鎖し、何人かの乗客が立ち上がって外を覗いている。みるたちも何が起こっているのか分からず、不安そうに顔を見合わせていた。
萌里は呼吸を整える暇もなく、スマホを操作した。
通話履歴を開き、ためらいなく“ユキト”の名前をタップする。
耳に当てたスマホからは――無機質なコール音。
「……お願い、出て……!」
背筋に冷たい汗が伝う。
呼び出し音が何度も、何度も鳴る。
まるで永遠に続くかのように。
周囲のざわめきが遠のいていく。
代わりに、外から聞こえる不気味な低音――
まるで大地そのものがうなっているような振動が、車体を微かに震わせた。
「……今の、何の音?」
隣にいたみるが青ざめた顔で呟く。
萌里は答えられなかった。
手の中のスマホが小刻みに震えている。
それが、恐怖で震える自分の指なのか、地面の揺れなのか分からない。
その時――
遠くの海面が盛り上がった。
黒い球体の下部から、何か巨大な脚のようなものが姿を現す。
波を巻き上げ海上を“歩いて”こちらに向かってくる。
その姿はまるで、巨大な亀のごとく。
「……っ、来る……! こっちに来てるって!」
誰かの悲鳴が上がる。
バスの中は一瞬で混乱に包まれ、子どもが泣き、大人が窓から無理やり外に出ようと押し合う。ドライバーが「落ち着いて!」と声を張り上げるが、誰も聞いちゃいない。
スマホのスピーカーから、最後のコール音が鳴り――
やがて、通話は自動的に切断された。
(……ユキト……!)
萌里の指が震えていた。
スマホを握る手に汗が滲み、唇を噛みしめる。
心臓の鼓動が、ひとつひとつ爆ぜるように胸の奥を叩いていた。
そのとき――黒い巨体が、ゆっくりと動いた。
大阪湾の海霧を裂きながら、巨大な頭部がゆらりと持ち上がる。
まるで“世界”そのものが目を覚ますように。
そして――
赤い光が、一斉に点った。
幾百もの光点が瞬時に走り、
黒い装甲の割れ目から血のような閃光が滲み出す。
大阪湾の水面に赤い帯が踊り、天豪山大橋の鉄骨が真紅に染まった。
湾岸一帯が――息を呑むほどの「異常な光景」に包まれる。
「な、何か……来るぞ!!」
乗客の一人が叫ぶ。声に釣られるように、皆が窓の外を振り向く。
そこには、灰色の影が空を切り裂きながら接近していた。
低く唸る轟音。
風圧で窓ガラスがビリビリと振動し、バスの車体がわずかに揺れる。天豪山大橋を跨ぐ風の音が、次第に唸り声のように変わっていく。
「……あれは……」
萌里の瞳が見開かれた。
空の彼方から迫るのは、軍用輸送機。
その腹部に、鎖で吊り下げられた“何か”――
全身を赤い布のようなものに包まれた、人型の影。
輸送機が橋の上空を通過する。
エンジン音が耳を劈き、周囲の空気を圧し潰す。黒い巨体の真上に達した瞬間、鉄鎖が切り離された。
キィン――ッ!!
鋭い金属音を残し、機体が重力に引かれる。
空気を裂いて落下するその“塊”は、途中で赤い布を脱ぎ捨てた。
布は羽のように散り、空の中をゆらゆらと落ちていく。
露になった姿――白い装甲、赤い胴体。
背に負うは、身の丈を超える巨大なコンボウ刀。両腕には赤布が巻かれ、その端が風に靡き、まるで血潮のように舞う。
着地の瞬間、空気が爆ぜた。
ドォン――ッ!!
衝撃波が橋の支柱を鳴らし、海面に波紋が走る。
黒い巨体の背に降り立ったその存在は、白と赤の閃光の中でゆっくりと起き上がった。
その顔――鬼神。
瞳孔のないモノアイに、口元だけが獣のように歪んでいる。
誰が見ても“人ではない”。
萌里の喉が震える。
涙で滲む視界の中で彼女はわずかな希望を抱き、その機体の名を呟いた。
「……ガルガンダ……」
湾岸に、静かな風が吹いた。
******************************************************
「……OS起動。リアクマイト正常稼働。オートバランサー、オールグリーン。管制制御システム――サテライト接続、完了」
ユキトの声が、コックピットに低く響く。
青白いインジケーターがパネルを照らし、メインディスプレイに無数の情報が流れ込む。
全方位モニターに広がる景色――
橋の上に取り残された車列、報道ヘリの群れ、海上を巡る監視艇。
足元には黒い巨体。
ユキトは操縦桿を握り直す。
金属の冷たさが手袋越しに伝わる。
「……まずは、こいつを止める」
短く息を吐き、背中にマウントされたコンボウ刀を右手で引き抜く。
装甲が軋み、機体が低く唸る。
ガルガンダの足下――
黒い巨体は、まるで巨大な亀のような形状だった。
湾を横断できるほどのサイズ。
進行方向の先にある天豪山大橋など、踏み潰して進むのも容易い。
ユキトは眉を寄せた。
「このままじゃ、橋ごと……」
その瞬間、地面が震えた。
ゴゥン――ッ!!
黒い装甲の背に、円形の亀裂が走る。
中央が沈み込み、黒煙を噴き上げながら割れる。
そこから、何かがせり上がってきた。
黒い装甲。筋肉を思わせる鋭い曲線。胸には、脈打つように光る赤い石。
両腕に分厚い拳の武装。
頭部には四本の角――まるで闘牛と悪魔を掛け合わせたような造形。
《ハッハッハ! オメェが噂の“白いやつ”か! やっと会えたぜェ!》
外部スピーカー越しに、野太く嗄れた声が響く。空気がビリビリと震えた。
どこか愉快げで、それでいて殺気を孕んだ声。
ユキトは冷静にパネルを操作し、外部通信を開く。
「……誰だ、お前」
《ハハハ! いいなその反応! そうだ、どうせ全世界が見てんだ!だったら名乗らねぇと失礼ってもんだろうが!!》
黒い機体が右腕を掲げる。
バキィッ――!!
装甲が割れ、内側から拳が肥大化していく。
まるで金属そのものが“怒り”で膨張しているようだ。
《――オレは、“判決者”のデカメロン!!この世界に裁きの判決を下す者だ!》
拳が完成した瞬間――周囲の空気が“爆ぜる”。
金属が悲鳴を上げるような甲高い音が空を裂き、橋の鉄骨がガタガタと軋みを上げる。
大阪湾の穏やかだった波が一瞬で牙を剝き、水面が渦を巻いた。陽光は乱反射し、海一帯が赤黒い閃光の揺らめきに包まれる。
吹き荒れる風が、白と黒の巨躯の間を裂く。
――ユキトとデカメロン。
白い機体と黒き鉄獣。
湾岸のど真ん中で、巨神同士の対峙の時が訪れた。
《まずは! こいつをくらっときなッ!!》
デカメロンの咆哮が空を震わせた瞬間、両腰の装甲が展開。内部から六連の推進ユニットが火を噴く。
ブースターの噴射炎が海面を焼き、爆発音が重なり合うように響いた。
一瞬で黒い巨体が消え――次の瞬間、目の前にいた。
「ッ――……!!」
巨大化した拳が空気を引き裂く。
音の壁を突き破る衝撃音とともに、拳の軌跡が白い蒸気を引きながら迫る。
金属同士が激突する前に、圧縮された空気の塊が炸裂。
爆風が橋を揺らし、湾岸のガラス窓を粉砕するほどの衝撃波が走った。
ゴンッ――!!
鈍い破裂音とともに、海面が大きくえぐれる。
巻き上がる水柱が二十メートルを越え、まるで海が息を呑んだかのように沈黙する。
その刹那。
ガルガンダが右腕を前に突き出す。
「この距離なら!」
圧縮エネルギーが閃光となって炸裂。
パイルの杭が突き出され、デカメロンの拳と正面から衝突。
二つの力が拮抗し、空気が弾け飛ぶ。
目に見えるほどの衝撃波が広がり、周囲の水面が放射状に波紋を描く。
数秒の押し合いの末、爆風が二体を弾き飛ばした。
ガルガンダは黒い巨体の場外に吹き飛ばされ後方に回転しながらも、両足のスラスターを噴かして体勢を立て直す。
足裏が橋の支柱に触れる寸前、ユキトがペダルを踏み込み海面すれすれで停止。
「……コイツも、力で押すタイプか」
《やるじゃねぇか! おもしれぇッ!!》
黒き機体の顔部センサーが妖しく赤く輝く。
その笑みのような光に呼応するかのように、背中の推進器が再点火――
次なる一撃の予兆に、大阪湾全体が低く唸り始めた。
「パワーだけじゃない、単純に速い」
《あったりめーだろ!オレをそこらの無能なアナグラと一緒に!するじゃねーよ!》
海面を裂くように吹き荒れる風の中、デカメロンが甲高い笑い声を上げた。その声はスピーカー越しでも爆音のように響き渡り、橋の残骸がわずかに震える。
《さぁ――やろうぜ、白いのォ!!》
黒い機体の両足が海面を蹴り、轟音とともに甲羅状の巨体の上へ飛び乗る。
着地の衝撃で鉄板がたわみ、波が弾けた。
すぐ後を追うように、白い閃光――ガルガンダが空を切り裂き、対峙するように黒い巨体の中央に降り立つ。
金属の甲羅の上、二体の巨人が相対する。
海風が砂嵐のように吹きすさび、遠くで警報と報道ヘリの羽音が交錯していた。
「…」
何かを考えているユキトは操縦桿を強く握り、右ペダルを踏み込む。ブースターが閃光を放ち、ガルガンダの機体が一瞬で加速した。
鋭い踏み込みとともにコンボウ刀を横薙ぎに――
デカメロンは咄嗟に両腕を交差して受け止める。
金属と金属がぶつかる、雷鳴のような衝撃音。
ギィイイインッ!!
衝撃波が黒い巨体全体を伝い、表面の装甲に蜘蛛の巣状の亀裂が走る。
湾岸の監視艇が慌てて距離を取り、波の壁が押し寄せた。
《ハッ、やるじゃねぇか……! だが――》
デカメロンの左拳が閃光とともに跳ね上がる。
ガルガンダの胴体にクリーンヒット。
鈍い音がユキトの鼓膜を叩き、シートごと身体が後方に叩きつけられる。
コックピット内の衝撃吸収クッションが悲鳴を上げた。
「ッ……チィ!」
ユキトは体勢を立て直すと、反動を利用して一気に機体を回転させる。
背中の推進器が青白い光を放ち、ガルガンダの脚部が鋭い回し蹴りを放った。
ズガァァン――ッ!!
蹴撃がデカメロンの胸部を直撃。
その巨体が一瞬浮き上がり、黒い甲羅の上を数メートル滑走して鉄板を抉る。
衝撃で装甲片が飛び散り、湾上に火花が散る。
《チッ……! 良い蹴りだな、えぇ!おい!》
デカメロンが拳を地面につき、ゆっくりと立ち上がる。
その瞳の赤光がさらに強く燃え上がる。
「本気出さないの?」
《言うじゃねぇか…行くぜ、白いのォ!》
黒い機体の背面装甲が展開。
内部から複数のエネルギー管が伸び、両腕と胸部を貫くように接続される。機体全体が赤黒く脈打ち、まるで生き物の鼓動のように鼓動していた。
一瞬、ユキトの視界がコックピットの接近警告アラームライトで赤に染まる。モニターの警告が点滅する中、彼はコンボウ刀を逆手に構え、静かに息を吸い込む。
「………」
風が止む。
海も、音も、何もかもが一瞬だけ凍りついた。
ガギィィンッ!!
金属が悲鳴を上げるような甲高い音が、黒い巨体の上に響き渡った。デカメロンの視界から、白い閃光――ガルガンダが掻き消える。
《……!?》
一瞬の隙。
センサーが捉えたのは左側――。
既にそこに、ガルガンダの姿があった。
姿勢をひねり、全身の慣性を利用してコンボウ刀を真横から薙ぎ込む。
刃の軌道が空気を裂き、金属の悲鳴のような音を響かせる。
その刃先は――デカメロンのコックピットブロックを正確に狙っていた。
《こいつは……!》
ガルガンダの今までより明らかに機体の反応が鋭くなっているのを感じていた。頭の中でサテライトシステムが限界まで演算を走らせ、反射と直感が一体化していく。
ユキトの視界の中で、世界の動きがスローモーションのように見えた。
デカメロンは咄嗟に腕を振り抜き、金属の拳でコンボウ刀をはじき落とす。だが――その瞬間にはもう、ガルガンダの姿が目前に迫っていた。
《なッ……!?》
距離ゼロ。
白い機体が体をねじ込み、食い込むように踏み込む。
左腕を突き出し、装甲の内側でパイルバンカーの油圧ピストンが唸りを上げた。
ズギィィィン――!!
発射音とともに、空気が爆ぜ、甲羅の上に金属片が飛び散る。
だがデカメロンも即座に反応した。
右腕を叩きつけるように突き出し、パイルバンカーを弾き返す。
衝撃が拮抗する。
二体の巨体がぶつかり合うその一点で、装甲が軋み、火花が散り、波が巻き上がる。
大阪湾の水面が震え、黒い巨体の背中に亀裂が走る。
《クッ……お前、動きがさっきまでと違うじゃねぇか!》
「…そうでもないよ」
ユキトの声が低く響く。
その言葉の直後、ガルガンダの背部スラスターが一斉に点火。
機体が海風を裂き、右足を軸に回転――再び距離を詰めた。
《クハハ……面白ぇ! なら次は――これだァッ!!》
デカメロンの拳が再び変形を始める。
内部で装甲がずれ、鉄骨のようなパーツが伸び、拳が戦艦砲塔のように巨大化していく。
機体全体のエネルギーが右腕へ集中し、空気が赤黒く揺らいだ。
対するガルガンダ、ユキトは一瞬、操縦桿を強く握り締める。
(腕に一発貰えればもっていかれる)
警告音が鳴り響く中、二体の巨人は再び真正面から激突の構えを取った。
金属が唸り、エネルギーが脈動する。
そして次の瞬間、黒い巨体の上で、嵐のような第二の衝突する。
《くらいやがれええええええええッ!!》
黒い機体の拳が、瞬間、光の輪に包まれた。
拳の周囲に幾重ものエネルギーリングが発生し、空気が焼けるような音を立てる。拳を振りかぶった瞬間、リングが弾け、超圧縮された衝撃波が空間を歪ませた。
海面が波打ち、黒い巨体の甲羅が悲鳴のような金属音を上げる。
「……」
ユキトの視界に、赤い警告ラインがいくつも走る。
次の瞬間、フットペダルを**全開で踏み込み、**背中のブースターを最大噴射。機体の重心が一気に後方へと沈み込み、白い残光を引いて加速――
黒い拳が鼻先を掠めた。
ほんの紙一重。
爆風がガルガンダの装甲をかすめ、外装の一部が剥がれ火花を散らす。
だがユキトは振り返らない。
既に次の動きを、頭の中で完全に描き切っていた。
「パワーも速度もあるけど――動きは単純だな」
更に淡々とした声で呟く。
「大技を決めに来るときは、必ず反対側の懐ががら空きになる」
ブースターの反動を利用して一気に旋回。
その勢いのまま、ガルガンダはデカメロンの左側面に潜り込む。
距離、わずかゼロ。
モニターに相手の装甲表面の細かな亀裂まで映る。
「……」
ガルガンダが頭部を押し込み、金属の額で頭突きを叩き込む。
ガギィン!という甲高い音が響き、デカメロンの頭部がのけ反る。
その一瞬の隙。ユキトは左手を前に突き出した。
「これで!」
ピストンが轟音と共に駆動、油圧の咆哮がコックピットに響く。
ガルガンダの左腕内部で金属製の杭が炸裂。
拳を貫いて突き出た杭が、デカメロンの右腕の関節部を粉砕する。
ドシュッッ!!
鈍い爆裂音が響き、黒い機体の腕が千切れ飛ぶ。
黒煙と共に関節部から火花が噴き上がった。
《ぐッ……ァァァァァッ!!》
怒号がスピーカーを震わせる。
デカメロンの巨体がよろめき、後方に大きくのけぞった。
だが、それでも止まらない。
腕を失ったまま、残された左腕を振り上げ、黒い機体は再び突進を仕掛けてくる。眼光の赤が怒りに燃え、空気を切り裂くような雄叫びをあげた。
《オレがッ……! このままやられてたまるかァァァッ!!》
「しつこいんだよ」
ユキトの目が鋭く細まり、ガルガンダが即座に反応。
右足のスラスターを噴かし、地面を蹴る勢いで膝を跳ね上げ――
黒い機体のコックピット部分に渾身の膝蹴りを叩き込む!
ズガァァァァン!!
凄まじい衝撃で、黒い機体の胸部装甲が陥没する。衝撃波が甲羅全体を震わせ、海面が渦を巻いた。
《ぐおおぉぉぉおッ!?》
呻き声を上げるデカメロンに、ユキトは追撃を仕掛けた。
ガルガンダが背中のブースターを点火、再度跳躍。
コンボウ刀を両手で握り締め、真上から叩き潰すように振り下ろす。
「これで――終わりだッ!!」
刃が空を裂き、閃光が一直線に黒い巨体を貫く。
だが――。
《まだだァァァァァァ!!》
腰部スラスターが爆発的に点火。
デカメロンが装甲を削りながら後方へ急後退、ギリギリでコンボウ刀の軌道から逃れる。
刃が甲羅を抉り、火花と金属片が散り、甲羅の一部が崩落する。
着地と同時に、ユキトは歯を食いしばった。
膝のサスペンションが悲鳴を上げ、ガルガンダの装甲に火花が散る。
ブースターを切る瞬間、海風が機体を揺らす。
「……チッ、デカいわりに動くな」
モニター越しに映る黒い機体――デカメロンは、なおも立っていた。右腕は肘から先を失い、装甲の継ぎ目から黒煙を上げている。
それでも巨体は倒れず、湾岸の空気を震わせるように笑った。
《ククッ……最高だぜ、白いのォ》
低く唸るような声が通信を通して響く。
残った左腕をだらりと揺らしながら、デカメロンは一歩、後退した。
その動きは挑発にも見え、撤退にも見えた。
《その機体の名は、なんだ!》
ユキトは一瞬だけ呼吸を整え、短く答える。
「……ガルガンダ」
《ほう、いい名前だ。じゃあオメェは? パイロットの名は!》
「ここでは言えない」
デカメロンが笑う。
その笑いは、まるで人間そのものだった。
《だろうなァ。これだけギャラリーが見てる前じゃ、顔を晒すようなもんだ》
一拍の沈黙。
そして――声が低くなる。
《今日は挨拶代わりさ!もっと戦いてぇが……こんくらいで、しまいにしようぜ――置き土産はしてくがな!》
直後、黒い機体の全身を取り巻くように、透明なリングが次々と浮かび上がった。
空気が弾け、電磁波のノイズが通信を荒らす。
「……」
ガルガンダのセンサーが上空を捕捉する。そこには薄雲の向こうに浮かぶ巨大な艦――黒い戦艦が、大阪湾の空を覆うように静止していた。
その艦底から伸びる光のリングが、デカメロンを包み込む。リングが収束し、黒い機体は音もなく姿を消す。ユキトは操縦桿を握り締めたまま、空を睨む。
「…逃げられたか」
黒い機体が去った空には、ただ熱だけが残っていた。
ブースターの航続距離では到底追いつけない。
センサーがノイズ混じりに警告音を鳴らすが、ユキトは一瞥もくれずに切り捨てる。
戦場を離脱する敵の軌跡を、追う必要はない。
静寂が戻る。
風が冷たくなり、湾岸に焦げた鉄とオゾンの匂いが漂う。黒い油が海面を覆い、波が砕けた装甲片を運んでいく。
ユキトは無言で操縦桿を握り直し、ガルガンダを前進させた。
モニターに映るのは、沈みかけた黒い巨体――戦闘中、ゆっくりと運河を進んでいたが黒い機体が離れたのが関係するのか、今や天豪山大橋の手前で停止している。
半ば沈みかけたその姿は、巨大な骸のようだった。
「……」
声はない。
ただ呼吸の音と、駆動系の低い唸りだけが響く。
ユキトの瞳は冷たく光り、モニターの中心を正確に見据えていた。
コンボウ刀を肩に担ぎ、ガルガンダはゆっくりと黒い巨体の表面を踏みしめて進む。
甲板のような外殻には、焦げた塗装とひび割れが走り、機体の動きに合わせて軋んだ音を上げる。
頭部――そこに、微弱ながらも赤い石の反応が残っていた。
ユキトは右手でサブモニターを切り替え、エネルギー反応を拡大。分析結果を待つまでもなく、それがアナグラのコアであると判断する。
「これで」
淡々と呟き、操縦桿を押し込む。機体が低く身を沈め、パイルブースターが赤熱を帯びる。
空気が振動し、静寂がわずかに歪む。
コンボウ刀を逆手に構え、刃を突き立てるように振り下ろした。
ガギンッ――。
鋼鉄を砕く音が海面に反響する。
一瞬の遅れを置いて、赤い光が破裂するように弾け、閃光が走った。ガルガンダの装甲を照らした赤が、ゆっくりと薄れ、やがて完全に消える。
エネルギー反応、ゼロ。センサーが沈黙する。
ユキトは短く息を吐いた。それは安堵でも感情でもない。
「……」
赤い石を失ったアナグラの巨体は、音もなく崩壊を始めていた。まるで戦いの終焉を静かに告げるように。
表面が黒くひび割れ、そこから砂のような粒子が風に舞い上がっていく。まるで炭化した巨岩が空気に溶けていくように、少しずつ、確実に形を失っていった。
しかし、質量が質量だ。
完全に消えるまでには時間がかかる。
断続的に立ち上る黒煙と微細な塵の群れが、湾岸の空を覆う。
その光景を、ユキトはただ無言で見つめていた。
視線は冷たく、表情は動かない。
破壊も、勝利も、彼にとってはただの「作業の終端」――それ以上でも以下でもなかった。
おそらく、この映像は報道ヘリのレンズを通し、今ごろ衛星回線を経由して世界中へ配信されている。ネットなどでは騒ぎになり、明日には“再び現れた巨人”としてニュースが埋め尽くされるだろう。
だが――ユキトには、そんなことはどうでもよかった。
彼にとって重要なのは、アナグラの殲滅と排除。
素性を隠しているのも、余計な干渉を避けるための合理的判断にすぎない。誰に見られようと構わない。見られたところで、何も変わらない。
「……」
ユキトは操作パネルをタップし、損傷箇所の確認を進めながら、ふとモニターの一角に目をやる。
そこには――天豪山大橋の映像。
アナグラの巨体が進んでいた方向、わずかに離れた場所に、橋の上に車列が見える。渋滞で停滞したまま動けない様子だ。
その中に、鮮やかなブルーのバスが視界に入った。
「……あ」
一瞬、ユキトの目が何かを捉える。
カメラのズームを操作するでもなく、ただ光学センサーの倍率を微調整する。
バスの窓越しに――人影。
遠すぎて顔は判別できないがバスの車内、乗車する乗組員の中に長い金髪の少女がこちらを見ているのが、何となく見えた。それはユキトにとって見覚えのある人物、
萌里だったのはいうまでもない。
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天豪山大橋での騒動から数時間後。
一時は交通事故と混乱と渋滞で身動きの取れなかった橋上も、現在では完全に交通が再開され、車列は何事もなかったかのように流れている。
白い機体と黒い機体、そして運河を進行していた黒い巨体――あの異様な光景は、多くの目撃者によって記録され、瞬く間にネット上へ拡散された。
だが幸いにも、人的被害は報告されていない。警察と自衛隊による調査が運河一帯で続いているものの、公式な規制や封鎖は行われず、現場には静けさが戻りつつあった。
ただ一つ、確かなのは――。
あの白い機体の名が「ガルガンダ」であるという事実が、すでに世界中に知れ渡ったことだ。
SNSやニュースではその名が取り上げられ、映像解析や声紋分析まで行われているが、パイロットの正体は依然として不明のまま。
「声からして若い男性」――そんな曖昧な推測だけが独り歩きし、世間の憶測は熱を帯びていく。
これはきっと連日続くだろう。
真実を知る者は、まだ誰もいない。
いや、ここに一人いる。
「……萌里?」
「ふえっ!」
名前を呼ばれ、現実に引き戻された萌里は、思わず間の抜けた声を上げた。
「どうしたの?ぼーっとして」
「あ、あぁ、なんでもないなんでもない!えっと……何の話してたっけ?」
考えごとに沈んでいたせいで、目の前で繰り広げられていた会話をすっかり聞き逃していた萌里は、バツが悪そうに笑いながら尋ね返す。
「もう旅行も終わりだねーって話してたの!」
「あー、そっか!そうだよね! 楽しい時間ってほんとあっという間だね!」
「ほんと、気づいたら夕方だもん」
「全部は回りきれなかったけど、どれも楽しかったな!」
「うむ。ボクも、いい思い出になった」
賑やかに笑い合う5人の姿があるのは、USJの園内。
あの天豪山大橋での騒動のあと、一行は観覧車でひと息ついたのち、再びここに戻り、まだ体験していなかったアトラクションを思う存分楽しんでいた。
気がつけば、空はすっかり夏の茜色に染まり、園内の建物の影がゆっくりと伸びていく。
喧騒と笑い声が混じる夕暮れの中、萌里はそっと空を見上げ、胸の奥に残る小さなざわめきを押し隠すように、小さく口角が上がる。
「そういえばさ、明日のバスって何時だっけ?」
「えーと……確か、12時出発だったな」
「おっ、じゃあそれまでお土産買ってけるじゃん! オレ、かーちゃんにカチューシャ買ってこいって言われてんだよ!」
「アンタがつけるの?!」
織田がスマホアプリでバスの時刻表を確認する横で、るみが思わず素で突っ込み、鼻で笑いながら霧崎を見やる。
「んなわけねーだろ! つけるのは、とーちゃんだよ!」
一拍の沈黙。
霧崎のあまりに堂々とした返答に、全員の思考が一瞬止まった。
(……え、そっち?)
誰も口には出さなかったが、全員の頭の中に同じツッコミがこだました。
その直後、どこか一点をじっと見つめていた仁菜が、萌里の服の裾をくいくいと引っ張った。
「ん? どうしたの?」
「あそこ……あそこ」
指さされた方向に目を向けた萌里は、瞬きを忘れる。
人の波の向こう――少し離れた場所のアイス売り場。その前に、見慣れた背中が立っていた。
「え……」
見間違えるはずがない。
ぼさぼさの黒髪、何を考えているかわからない無表情な童顔。
夏でも相変わらず黒のピッタリした半袖シャツに黒のバギーパンツ、そして黒いブーツ。
店員からアイスを受け取りながら、何かを静かにやり取りしている。どうやらアイスを買っているようだ。
「なに見てるの? ……えっ、ちょっと! あれって!」
萌里の硬直した視線に気づいたみるも、同じ方向を見て息を呑む。その反応に気づいた織田と霧崎も目を向け、次の瞬間、全員の足が自然と動いていた。
「ユキト!」
「ユキト君だ!」
「ユキトじゃねぇか!」
「やぁ、ユキト君!」
「ユキト、ユキト!」
次々に名前を呼ぶ声が重なる。
通行人たちのざわめきの中で、ひときわ静かに立つユキトは、ゆっくりと視線を向けた。
その顔に、表情の変化はほとんどない。
ただ、小さくうなずき、手にしたアイスを一口――ぺろりと舐めた。
「ユキト……!」
萌里の声が、夏のざわめきに溶けていく。
ゆっくりと、彼は顔を上げた。黒髪がわずかに揺れ、無表情のままその視線がこちらをとらえる。
「これ、美味しいよ」
まるで何事もなかったかのように、ユキトはそう言った。
穏やかでも、明るくもない。淡々とした、いつもの声。
けれど、その一言だけで――萌里の胸の奥が、一瞬で熱くなった。
「やっぱりユキトじゃん!」
「うわっ、久しぶり!」
「え、マジで!? 偶然すぎるだろ!」
「運命、運命!」
一気に騒ぎ出すみるたち。
まるで火薬に火をつけたみたいに声が弾け、周囲の観光客が振り返るほどの盛り上がり。
そんな喧噪の中で、ユキトだけが静かだった。
手に持ったアイスを一口。
白い冷気が唇をかすめ、舌に甘さが広がっても――眉ひとつ動かさない。
「皆、ここで何してるの?」
変わらぬ無表情のまま、ユキトは淡々と尋ねる。
その声を聞いた瞬間、霧崎が満面の笑みで肩をバンッと叩いた。
「旅行だよ旅行! 織田のおやじさんからタダ券もらってさ、皆で来たんだ! ユキトの分もあったのにー!」
「そうだったんだ」
「え、ちょ、ユキト君、なんでここに? 一人?」
「お腹空いたから、食べるもの探してた」
「……それでアイス?」
「お金、あんまり持ってない」
るみと霧崎の問いを、ユキトは波のように受け流す。
短く、感情の起伏もなく。
それでいて、どこか会話のリズムだけは絶妙に外さない。
――無口で、無表情で、何を考えているのかわからない。
だけど萌里は、知っている。
真っ白な巨体――《ガルガンダ》を操って戦っていたのが、他ならぬ彼だということを。
その光景を思い出すだけで、胸の奥に温かい何かが広がる。
恐怖も、心配も、全部を包み込むような――安心感。
けれど今は、何も言えなかった。
みるたちの質問攻めが止まらず、場の空気が騒がしすぎる。
それでも、ちらりとユキトの横顔を盗み見た瞬間――
風に揺れる前髪の隙間から、ほんの一瞬だけ。
その瞳の奥に、かすかな光が宿って見えた気がした。
(……あぁ、そっか)
萌里は胸の奥で小さく呟き、溢れそうになる感情を必死に押し込めた。そして、確かに――認めざる得ない何かが自身の気持ちの中にあったことを萌里は密かに捉えている。
ある程度の話を終えたあと、一行はゆるやかな坂道を抜け、パレード会場の広場へと向かっていた。
人のざわめきと太鼓のリズムが遠くから聞こえてくる中、萌里は一行の最後尾で、隣を歩くユキトの肩ををちょんと叩く。
周囲に聞かれないよう、小声で耳もとに顔を寄せた。
「そういえば――ガルガンダはどうしたの?」
「慎太郎のおっさんに回収してもらった。今ごろ船に戻って、そのまま持ってってくれるらしい」
「そっか……。あの灰色の飛行機に吊られてたもんね」
「うん。あれ、米軍のやつなんだって。これから遠くで敵が出ても、運ぶ時は貸してくれることになった」
「――え?」
一瞬、萌里の足が止まる。
耳が勝手に「聞き間違いだ」と自己防衛を始めたが、数秒後に意味が脳に届いた。
「え、えぇっ?!ど、どど、どういうことぉ?!いま何て言ったのユキト?!米軍が貸してくれるって、え、あの米軍?!アメリカの?!軍隊の?!」
目を丸くしてオウム返しのように叫ぶ萌里。
「こっちに来る前に、米軍の“大佐”って人と話してきたんだよ。慎太郎のおっさんの知り合いらしい」
「だ、だいさ……って偉いの?っていうかなんで慎太郎のおじさんが米軍の知り合い持ってるの?!そんなキャラだったっけ?!」
「俺もよくわかんない。でも、“あの灰色の飛行機なら、必要な時は使っていい”って条件もらった」
「じょ、条件ってそんな軽くもらえるもんなの?!?!てかあの飛行機、明らかに軍用機だったよね?!ロゴついてたよね?!」
「うん、星マークのやつ」
「そんなサラッと言わないで!?!?」
パニック寸前の萌里を横目に、ユキトは肩をすくめる。
まるで「アイス買ってくれるって言われた」くらいのテンションだ。
「で、昨日夜に電話しても出なかったのは、それで?」
「寝てた」
「寝てたんかいっ!!」
思わずツッコミが炸裂し、萌里の声がパレードの音楽にかき消される。
ドラムのリズム、ブラスバンドの陽気なメロディ、夜風に混じる甘い屋台の匂い――。
笑いながら歩く友人たちの後ろで、二人の影が並んで伸びていく。
「……ま、ユキトらしいけどね」
萌里は苦笑しながら、そっと空を見上げた。
群青に染まる空に、ひときわ明るい一番星が瞬いている。戦いの日々があっても、こうして笑える時間がある。
その小さな奇跡が、今はただ、心地よかった。
まだまだ、夏はこれからだ。




