追い詰められたシヴ
大森林から南西に三十キロの場所を、シヴは一人疾走していた。
その姿はいつもの獣人の姿ではなく、巨大な狼そのものだった。
獣人の中にはこのように姿を獣に変えることができる者がいる。
身体能力は大きく向上するが、しかし知能は低下する。感情のままに、本能のままに動き、理性を失い獣となり、最悪は人の姿に戻ることを忘れてしまう。
かくいうシヴもかつて、自分を見失い獣として過ごしたことがあった。
あの時は運よく自我を取り戻し、人の姿に戻れたが、次は戻れるかどうかわからないと族長である父に言われていた。
ただでさえそのような状況で、さらには全力疾走を行っている。
彼女の人としての意識は穴の開いたバケツの中に入っている水のように零れ落ちていく。
それでも彼女は、自我を保ち、走り続ける。
(忘れたらダメ、シブはシヴ。獣じゃない。誇り高き獣狼族、族長の娘。シヴはジン様――ジン・ニブルヘイムに名を捧げた。この名はシヴだけのものではない。シヴの名を捨てるのはジン様への忠義を捨てること)
彼女にいま行うことは、ダークエルフの謀反とそれに関する情報をジンに届けること。 そのためには自我を失うことは許されない。
そして、失われていく自我と同時に、シヴを苦しめているのが体内の薬だ。
食事に混ぜられている麻痺毒の薬がシヴを蝕み続けている。
そのせいで、普段の半分程しか速度が出ない。
後ろから馬が走る音がシヴの耳に届いた。
そして、背中に痛みが走った。
矢が刺さっていた。
レスハイム王国の騎兵が馬上から矢を射たのだ。
このままでは追い付かれる。
そう思ったシヴは、彼らを迎え撃つべく振り返る。
ここにいるレスハイム王国の兵を倒し、それが終わったら走る。
(走る――なんのために? ……ジン様のため! 忘れたらダメ! シヴはジン様の忠臣!)
シヴは大きく咆哮し、走ってくる馬を正面から前脚で薙ぎ払う。
二頭の馬をなぎ倒すも、その隙に自分の前足に槍が突き刺さる。
矢が刺さった時よりも遥かに大きな痛みがシヴを襲った。
「いまだ、やれ!」
次々にシヴの身体に槍が突き刺さり、真っ白な毛が鮮血の赤に染まっていく。
痛みに理性と意識を失いかけたシヴは、まるで死ぬ前に見る走馬灯の光景のように過去の記憶がフラッシュバックしていた。
シヴは族長の最初の子であるが、その母は族長の妾で立場が弱かった。
このままではシヴが殺されると思ったシヴの母は、彼女が安全に過ごせるように、知人にシヴを託した。その知人はシヴを連れて各地を転々と移動し、シヴが十三歳になったときにアルモラン王国までたどり着いた。
その時、彼女たちを乗せた馬車が魔物の群れに襲われた。
シヴは戦う術を持たず、ただひたすらに逃げた。
普通に走ったのでは追い付かれると、狼の姿になって。
この時のシヴはまだ力の制御ができず、狼といっても子犬と変わらない幼い姿にしかなれなかったが、人の姿で走るよりは遥かに速かった。
それでも、シヴは魔物に追いつかれた。
そこで死ぬのだと覚悟を決めたとき、一人の人間に助けられた。
それが――
「シヴゥゥゥゥっ!」
その声に、彼女の意識が、彼女の理性が一気に呼び戻される。
次の瞬間、シヴを襲っていたレスハイム王国の騎士たちの首が宙を舞い、血しぶきとともに倒れた。
その血しぶきの向こうに、シヴは彼の姿を見つける。
ジン・ニブルヘイムの姿を。
(また、助けてくれた――ジン様)
シヴはなんとか意識を保ち、自分の腕に刺さった槍を口に咥えて引っこ抜くと、元の人の姿に戻った。
途端に麻痺毒による作用と失われた血のせいで意識が遠のきそうになるが、こうしないと喋ることができない。
シヴはジンに伝える。
「……ジンさま、ダークエルフ、うらぎった。はんらんのしき、シンファイとハルナビス。なかま、つかまった。サエリアのあにたちもどくのめしたべてたおれてた」
「そうか、ありがとう。よく伝えてくれた。今すぐ医者のところに運ぶからな」
「……ジンさま、ほへーだん、みんな、たすけて」
「わかった」
シヴは伝えるべきことを彼に伝えると、安心し、ようやく意識を手放すことになる。
それでも、一秒でも長く、ジンのぬくもりを感じていたい。
そう願って。