サエリアの故郷
ランタンの灯りが届かない夜の大森林の奥は、何もいないようで獣や鳥の気配が無数に蠢いている。
勇者になって変わったことの一つが、睡眠時間だろう。
地球にいた頃は最低六時間くらい寝ていないと翌日は寝不足になったものだが、勇者になってからは一日や二日は寝なくてもよくなった。さすがに三日目からは少し辛いが。
そして、一日一時間くらい寝たら十分活動できる。
森の静かであり、騒がしくもある気配を肌で感じながら、俺は次元収納から取り出した温かい緑茶を飲む。
渋いな。
だが、これがいい。
「話があるのなら横に座ったらどうだ?」
ランタンの灯りに照らされる湯気を見ながら、開いた扉から出てきた彼女に言った。
と、座る場所がないな。
椅子をもう一脚、そして小さいテーブルを取り出して横に置く。
「お休みのところよろしいのですか?」
「ちょうど話し相手が欲しいって思っていたんだ。ほら、お前の分の茶だ。本当はおはぎが合うんだが、全部アイナに食べられたからな。クッキーでいいか?」
湯呑みをもう一つ取り出し、急須で茶を注いでクッキーの入った皿を取り出す。
「いただきます……これは変わったお茶ですね。砂糖とミルクは入れないのですか?」
「ああ、そのまま飲むんだ。その分、菓子の甘味が引き立つ」
「……これは美味しいですね」
「だろ?」
俺は笑って言う。
もしかしたらイヤな顔をされるかと思ったが、受け入れてもらえてよかった。
レスハイム王国やニブルヘイム英雄国のお茶といえば砂糖やミルクをたっぷり入れるものだったし、アルモラン王国のお茶はスパイスがたっぷり入っているものだったからな。
「俺の故郷は田舎でな。学校の裏はこんな森で、たまにグラウンド――広場に猪が出たって騒ぎになるようなところだったんだ。だから少し懐かしくてな――って、悪い。ダークエルフの村を田舎扱いしてるわけじゃないんだ」
「いえ、田舎ですよ。森以外は何もなく、唯一の楽しみといえば月に一度訪れる行商人の品と話だけです。ずっと森を出て王都に行きたいと思っていました。ローリエは四大種族の代表のことを人質と言っていましたが、私にとってはこの森での生活の方が遥かに窮屈な暮らしでした」
サエリアは自嘲するように言った。
「でも、五年ぶりに帰ってみればとても居心地がよく不思議な感じです」
「それが故郷ってもんだ」
いいよな、帰れる故郷があるっていうのは。
「それで、説明を聞かないままここまで来てしまったが、祝芽祭っていうのは何をするんだ? というか世界樹ってのもどんなものか詳しくは知らないんだが」
「世界樹とは別名精霊樹とも呼ばれ、多くの精霊を集める力があります。世界樹に集まった微精霊は長い年月をかけて木の精霊へと昇華し、我々ダークエルフに恵みをもたらしてくれる――と言うのが一族の言い伝えです」
「言い伝え? 実際はそうじゃないのか?」
「この地に以前生えていた世界樹はもう千年以上前にその役割を終えて大地に還りました。そして、千年の歳月をかけてようやく芽が生えたのですが、微精霊に力を与えることのできる大樹に育つにはあと何千年もの時間が必要なのです」
何千年も先って、そりゃまた気の長い話だ。
エルフやダークエルフの寿命は人間よりも遥かに長いって聞くけれど、それでも八百年くらいだろ?
鬼族は人間族と寿命は変わらない。淫魔族は平均寿命が四十年って言っていた。精気をしっかり得ることができればもう少し長生きできると思うが、どちらにしても数千年生きることはできない。
そうなったら、俺たちの中で成長した世界樹をその目で拝むことができるのはアイナだけか。
「ジン様、我々ダークエルフが前魔王に、そして現在、陛下に忠誠を誓っているのは、全ては世界樹の安寧のためです」
「えらい率直に言うな」
「ですから、この地を戦争に巻き込むようなことはおやめください。どうか、この森を守ってください」
サエリアが深く頭を下げた。
必死なんだな。
彼女にとって、この森は故郷であり、そして帰る場所だ。
その場所を守ろうとしている。
それは、故郷に帰ることのできない俺にはできないことだ。
少し羨ましく思った。
「安心しろ。俺は結構この森のことを気に入ってるんだ。ダークエルフたちも裏切ったりしない限りは俺の国民だ。力を尽くして守ってやるよ」
俺はそう言って、皿の上のクッキーをつまんで食べた。
「さて、そろそろ寝るとするか。サエリアはまだ起きてるか?」
「いえ、私も休もうと思います。ジン様――ありがとうございます」
彼女は深く頭を下げた。
部屋に戻ると、アイナが俺のベッドを占領していた。
トイレに行ったあと、寝ぼけて俺の部屋に入ってきたのだろうか?
涎を垂らして嬉しそうに眠る彼女を見て、俺は笑みを浮かべ――
「てい」
「あいたっ!? 頭が痛いっ! え? ご主人様!? 夜這いですか!? 待ってください、今日の下着は色気がなく――それに、さっきトイレにいったので、まずはシャワーに――」
「寝言は自分の部屋で寝て言え!」
俺はアイナの首根っこをつかみ、部屋から追い出したのだった。